少女時代、タカラジェンヌを夢見て、先月95歳で亡くなった高松市の牧田英子さんに、宝塚音楽学校の入学願書が届いた。英子さんが危篤状態になった際、家族が「夢だった宝塚受験をかなえてあげたい」と同校に電話したことがきっかけだった。他界の3日後、同校から英子さんあての願書が送られてきた。「生まれ変わったら宝塚のスターになってね」。家族は遺影の前に願書を大切に飾っている。【出水奈美】
英子さんは大阪市で育ち、祖母や兄と宝塚観劇に出かけるのが大好きだった。「宝塚を受験する」と決心したが、しつけの厳しい祖母に「観劇するのと孫が受験するのは違う」と猛反対され泣く泣くあきらめたという。やがて戦時色が濃くなり、空襲に遭い福井へ疎開。その後、結婚して、病弱だった長男光蔵さん(73)の療養のため高松に移り住んだ。
タカラヅカへのあこがれは長く封印していたが、80歳を過ぎて入退院を繰り返すようになるころから、光蔵さんの妻よし江さん(67)に歌劇の思い出話をひんぱんにするようになる。華やかな舞台、ロビーの赤じゅうたん。「観劇後、私もこの舞台に立つんやと思いながら帰ったものだ」と何度も振り返った。
ある時には、よし江さんが英子さんの入院先から帰宅直後に呼ばれ、慌ててベッドに戻ると「やっぱり、反対されても宝塚を受験したかった」と長年の思いを一気に語り出したこともあったという。
医師から「あと数日の命」と告げられた8月初旬、13年半もの間介護にあたったよし江さんは「最後に何かしてあげたい」と思い立ち、宝塚音楽学校に電話をかけた。「入学願書があれば送っていただけないでしょうか」
英子さんは同11日、息を引き取った。葬儀も終えた後、同校から英子さんあての封筒が。開封すると、「お電話ありがとうございます。どうぞお受け取りください」というメモと一緒に「参考」の赤い印が押された今年度の入学願書一式、文化祭パンフレットや90年記念誌が入っていた。
母を亡くした時は涙をこらえた光蔵さんも、この封筒を見て「これほどの真心はない」と涙をこぼした。よし江さんも「さすが世界の宝塚。美しい舞台と真心が完全に一致している」と感激に浸る。
今西正子・宝塚音楽学校副校長は「私自身、宝塚歌劇団OGとしてタカラヅカは生きる活力になると自負していますが、そこまでずっと愛し続けてくださって本当にうれしく思いました。英子さんの夢は果たせられなかったけど、夢と希望を持って天国で受験してくださると思います」と話している。
毎日新聞 2010年9月19日 11時21分(最終更新 9月19日 15時24分)