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若者の悲鳴が、毎週のように投書欄に載る。「就職が決まらない。この言葉が明けても暮れても心の中に住みついて離れない」「内定が取れないと、学内でも負け組扱い。就職するために大学に入ったんじゃない[記事全文]
ふつうに地域に住み、ふつうの暮らしをしている市民。そんな私たちの仲間が持つ力を、ニュースを通して感じ取った人も多いのではないか。元俳優の押尾学被告に対する裁判員裁判で、[記事全文]
若者の悲鳴が、毎週のように投書欄に載る。「就職が決まらない。この言葉が明けても暮れても心の中に住みついて離れない」「内定が取れないと、学内でも負け組扱い。就職するために大学に入ったんじゃない」
大学生の就職活動は、3年生の秋が来る前から本格化している。既にいくつかのインターンシップを終え、これから企業のセミナーや説明会シーズンだ。冬はエントリーシートをせっせと埋め、春をまたいで面接を繰り返す。
就活という長距離レースに、大学教育は大きく侵食されている。
企業は採用を絞り込み、勝ち組争いは激烈になる一方だ。今春の大卒者のうち、進学も就職もしなかった人は8万7千人、前年の28%増だ。卒業時の就職の機会を逃すと、正社員へのハードルはぐんと高くなる。プレッシャーがまた、学生をあおり立てる。
数が勝負と応募を続け、人物や即戦力といったあいまいな基準で落とされる。何十通もの断りのメールは自己否定を繰り返されるに等しい。
過剰な選び合いのなか、若さという希少資源がすりつぶされてゆく。
菅政権は先月、「新卒者雇用・特命チーム」を立ち上げた。大卒後3年以内の若者を企業が採用すれば奨励金を出し、未就職者へのセーフティーネットも拡充する、という。
仕事に就けない若者の支援に取り組み始めたことは歓迎したい。だが対策は、なお「痛み止め」にとどまる。問題は、ゆがんだ就活市場をどう抜本的に作りかえてゆくか、である。
まず、企業は新卒者を一括で採用する方式へのこだわりを捨てるべきだ。
右肩上がりの時代に、終身雇用や年功序列とともに定着したのが、新卒一括採用だった。だが、そのモデルは崩れつつある。
柔軟な採用・雇用が多くの企業に根づき、既卒市場が活性化すれば、優秀で、幅広い人材の活用につながる。それは企業にもプラスになる。政府はより強力な誘導策をとれないか。
大学も変わらねばならない。
約4割の学生が、将来の職業に関連し「授業経験は役だっていない」と答えた調査がある。学びを通じて視野や能力を獲得し、携わりたい仕事への考えを深め、社会に出る準備をする。そうした場に大学はなっているか。意識を持てないままの若者を、就活という圧力鍋に放り込んではいないか。
教養の伝統に加え、単なる就職対策講座でないキャリア教育を大学の中でどう位置づけるか、考えよう。
今の就活は、安全ネットもなしに、若者に空中ブランコを飛び移らせているように見える。それを改め、学校教育から職業社会へと、きちんと橋渡しできるようにする。大学人と経済人が話し合い、知恵を絞ってほしい。
ふつうに地域に住み、ふつうの暮らしをしている市民。そんな私たちの仲間が持つ力を、ニュースを通して感じ取った人も多いのではないか。
元俳優の押尾学被告に対する裁判員裁判で、判決が言い渡された。
一緒に薬物を服用し、具合が悪くなった女性を放置して死なせた。それが起訴内容だったが、判決は「直ちに通報しても確実に助かったとまでは証明されていない」と述べ、「死なせた」という部分を除いて有罪を認定した。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が働いたことが、判決理由から読み取れる。
被告が芸能人とあって、事件発生直後からおびただしい量の報道があった。裁判員の心証形成や量刑の判断に影響が出るのではないか。そうした観点からも法廷は注目された。
だが、判決後に会見した裁判員らの話は、懸念を吹き飛ばすものだった。
「審理に入って情報はリセットされた」「法廷に提出された証拠だけで判断できた」「押尾という人物でなく、彼の行為に対する刑罰を考えた」
事件報道のあり方は裁判員法の制定のころから論点の一つになっていた。日本新聞協会などは、法律で規制することに反対する一方、取材・報道ルールを見直した。法曹界も、あくまでも証拠に基づいて結論を出すよう裁判員を導くことが自分たちの重大な使命であると確認し、審理の進め方や立証活動の改善に取り組んだ。
いまの報道に反省すべき点がないとは言わない。だがこうした議論と実践、そして何より、責任感をもって事件に向き合った裁判員が、この日の判決を導き出したといえよう。
市民の力を信じる――。
ごく当たり前の話なのに、それを軽んずる姿勢が、社会的立場の高い人の言動に垣間見えることがある。
裁判員と同じく一般の市民がかかわる検察審査会制度について、小沢一郎氏が「素人がいいとか悪いとかいう仕組みがいいのか」と述べたのは記憶に新しい。ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は新聞のコラムで「“市民目線”と持ち上げられてはいるが、しょせん素人の集団」と書いた。
もちろん市民の判断がいつも正しいとは限らない。個々の疑問や批判はあっていい。だが市民への信頼を抜きにして、私たちの社会も制度も、そして民主主義も成り立たない。
素人と専門家が役割の違いを自覚しつつ、互いに尊重し協働することによって新しい司法を築く。裁判員制度はそうした理念に基づいて始まった。
今後も曲折はあるだろうが、めざす方向に間違いはない。騒がしい空気のなかで始まり、裁判員らの冷静な発言で締めくくられた元俳優の公判は、そのことを確認させるものとなった。