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小園安名大佐

昭和二十(1945)年八月十五日の正午、ラジオ放送が流れました。
堪ヘ難キヲ堪ヘ
忍ヒ難キヲ忍ヒ
以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
玉音放送です。
この放送のあと、海軍厚木基地では、三〇二航空隊の司令、小園安名大佐が、隊員に総員集合を命じ、訓示を行います。
三〇二航空隊というのは、本土防衛を任務とし、撃墜戦果は120機。
そのうち、B−29をなんと80余機も撃墜している我が国最強と言ってよい航空隊です。
小園司令は全員の顔を見渡し、次のように訓辞します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
降伏の勅命は、真の勅命ではない。
ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。
日本政府はポツダム宣言を受諾した。
ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。
よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。
ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る。
今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。
ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。
小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。
しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。
自分は必勝を信じて最後まで戦う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「帰郷せんとする者、離れてよしっ!」
誰一人、その場を立ち去る隊員はいなかったそうです。
この小園司令の「敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。
日本の軍隊は解体したものと認める。ここにわれわれは部隊の独立を宣言し、徹底抗戦の火蓋を切る」は、いいですね。
翌、8月16日、小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信し、陸軍や国民に向けて檄文のビラを用意します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国民諸子に告ぐ。
神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。
いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在なり。
必勝国体を護持せん。勤皇護国。
皇軍なくして皇国の護持なし。
国民諸君、皇軍厳として此処にあり。
重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。
之真の忠なり。之必勝なり。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このビラは、零戦(首都圏)、月光(関東・東北)、彩雲(中部)、銀河(北海道・中国・四国)によって各地に撒布されます。
同日、厚木の小園司令のもとには、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられたけれど、小園司令はこれを拒絶する。
そこで米内は、横須賀鎮守府三航艦司令長官である寺岡謹平海軍中将に小園の説得を命じます。
寺岡中将は、厚木基地に向かう。
中将と小園司令は、30分ほど会見したそうです。
結論からいえば、会見は「決裂」です。
しかし、状況からすれば、むしろ寺岡中将は、小園の思いが痛いほどわかったのではないか。
8月17日になると、問題はさらに深刻になります。
米国から、マッカーサーが8月30日に厚木基地に降り立つと連絡があったのです。
その厚木基地には、小園司令らが徹底抗戦を主張して、まだ立て籠っています。
武装も解かず、いまだ戦時体制のままです。
上層部の狼狽はその極に達します。
やむをえず海軍上層部は、陛下にこれを上奏し、陛下から直々に軍人あての「隠忍自重の勅語」を発していただきます。
同時に米内海相は、横須賀鎮守府に厚木基地の断固とした強硬鎮圧を命じます。
しかし横須賀基地の寺岡司令が猛反対し実行はされなかった。
心情的には小園司令と思いは同じなのです。
皇国の存続を図らんとし、そのために断固戦い抜こうとして、ついおとといまで、必死になって戦ってきたのです。
多くの仲間を、部下を失ってきたのです。
ここで、おめおめと行き恥をさらすくらいなら、断固戦い抜く。
その気持ちは痛いほどわかります。
しかし、日本は、広島・長崎に原爆まで落とされているのです。
すでに防衛線も突破され、日本中の都市は空襲で焼け野原になっています。
このうえさらに日本の大都市部に、次々と原爆を投下されたらどうなるか。
だから陛下のご英断が下され、日本はポツタム宣言を受諾したのです。
日本という国家が、終戦という選択をしたのです。
いちぶの軍人が、これに逆らうことは許されるべきことではない。
と、ここまでは、おそらく反日左翼の方々にも理解できようかと思います。
しかしいま、同じようなことが普天間基地問題で起こっています。
基地反対を唱える町長さんや、いちぶのプロ市民の意見だけで、移設を決めようとしている。
しかし、国対国の関係は、国の内部における地方自治体の選挙結果に関係なく優先されるものです。
沖縄米軍基地は、日本の安全保障のカナメなのです。
それがあるから、支那はおいそれと日本に手を出せないのです。
軍隊があるから戦争が起こるという考え方は間違っています。
警察があるから暴力団がいるのではないのです。
軍隊がなくなれば戦争がなくなるという考え方は、
警察がなくなれば暴力団がこの世から無くなる、というのと同じです。
そんなことあり得ないのです。
警察官が拳銃を持っているのは、人を撃って殺すためではない。
犯罪を抑止するためです。
軍隊も同じです。
国家が軍事力を持つのは、国民の平穏な生活と安全を護るためです。
話が脱線しました。
8月18日になると、小園司令は突然、40度もの高熱を出してしまいます。
南方戦線在任中に感染したマラリアが再発したのです。
しかし高熱を発していても帝国軍人です。
床に伏せることなく、8月の猛暑の中を、軍服を着たまま、床にも伏せずに満々とした闘志を揺るがせない。
8月20日になると、海軍兵学校で小園の一期後輩でもある高松宮宣仁親王海軍大佐、 第三航艦参謀長・山澄忠三郎大佐らが厚木基地にやってきます。
そして、小園以下、厚木基地に立て篭もる兵士たちに対し「陛下の御心」を伝え、抗戦態勢終結を説得した。
それでも、三〇二航空隊は、誰も説得に応じない。
しかし、8月21日になると、さしもの豪傑小園司令も、高熱のために意識が混濁を始めます。
このままでは司令の命が危ない。
山澄大佐らは、小園司令をひとまず航空隊軍医長の少佐に命じ、小園に鎮静剤を打ちます。
普通、40度を超える熱を出し、鎮静剤まで打たれたら、人間、大人しくなるものです。
ところが、小園司令の気迫は衰えない。
軍刀を抜いて、暴れ始めます。
やむなく付近にいた全員で取り押さえ、革手錠をはめて、野比海軍病院(現独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容する。
厚木基地では、三〇二空の隊員たちが、それでも納得できないと、零戦・彗星・彩雲など32機に分乗し、基地から脱出します。
このうち、零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は、陸軍児玉飛行場へ降り立つ。
残る一機は、消息不明とされています。
おそらく、単機、敵艦船を求めて太平洋をさまよい、ひとり散られたのではないか。
三〇二空の飛行兵たちが飛び立ち、小園司令もいなくなった厚木基地は、8月22日には、軍の命令によって、残る士官全員が、強制退去となります。
そして8月23日、厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいり、飛行場の片付けと整頓にはいる。
8月26日、米軍先遣隊の輸送機13機が厚木に着陸。
8月30日、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立ちます。
以上が、終戦直後の厚木事件の顛末です。
小園司令は、そのまま病院の精神科に放り込まれます。
病院内での、小園司令に対する処置は、酷く苛烈なものでだったそうです。
なお闘志をあきらめない小園に、後ろ手を十字に組ませて、手錠をかけた。
同じ手錠でも、これは最重要危険人物に対するもっとも峻烈な方法だったそうです。
さらに食事も与えられない。
与えても、口にしない。
一滴の水すら飲まない。
小園司令は、喉の渇きを潤すのに、床を転げて自分の小便をすすったといます。
10月15〜16日、巣鴨拘置所で厚木航空隊騒擾事件の横須賀鎮守府臨時軍法会議のため、小園は、巣鴨に移送となります。
つい二ヵ月前までは、鎮守府参謀として執務した、懐かしい司令部の建物です。
その建物が、今おのれの裁きの庭になろうとは、小園の目には、そんな感慨めいた光が宿っていたといいます。
このとき巣鴨に到着した小園に、「小園参謀!」と声をかけた者がいます。
遠巻きに小園を取り囲んだ輪の中からです。
それは若い、情報係の山梨少尉でした。
山梨少尉は、8月11日の朝、日本がポツダム宣言を受諾したとの海外放送を、最後に小園に伝えた男です。
山梨の方を見た小園の口元に、かすかな微笑みが浮かび上がりかけた。
しかし、それもほんの一瞬のことだったそうです。
小園司令は、看守にさかれて、建物の中に姿を消した。
山梨少尉は、「あの参謀長が・・・」と絶句し、涙がとまらなかったそうです。
小園司令は、かって横須賀鎮守府の名参謀として知略をふるい、戸塚長官や幕僚たちまで震え上がらせた猛将です。
若い士官たちは、小園を心から尊敬していた。
その小園大佐が、囚人服をまとい、後ろ手に手錠をはめられ、見る影もなくやせ衰えて、MPにせかされていた。
あまりにも変わり果てた、 猛将の姿に、山梨は、青年らしい怒りと同時に、その理不尽な姿に、悲憤の涙にくれた。
小園司令に対する裁判は、その日のうちに結審をむかえ、罪状が確定します。
「党与抗命罪」。
失官・無期禁固刑の判決です。
小園は、昭和二八(1953)年に出所します。
そして、生まれ故郷の鹿児島県加世田(かせだ)市に帰る。
昭和三五(1960)年十一月四日、寂びしく五七年の生涯を閉じます。
小園安名大佐は、明治三十五(1902)年のお生まれです。
旧制川辺中学校を経て、海軍兵学校卒業し、空母龍驤の飛行隊長や、第十二航空隊(以下、十二空)の飛行隊長を歴任しています。
昭和十三(1938)年四月二十九日、漢口で蒋介石軍の戦闘機と大規模な空中戦が行われます。
友軍は九六式艦上戦闘機30機に対し、敵戦闘機は90機。
当時は、ドッグ・ファイトの時代です。
この戦闘で、自ら出撃し、陣頭指揮を執った小園は、敵戦闘機の半数以上を撃墜し、しかも自軍は、ほぼ無傷(被撃墜2機)という大戦果を挙げています。
昭和十六(1941)年十月、大東亜戦争開戦の二か月前に、小園は、台湾に新設された台南航空隊副長(飛行長兼任)に任命されます。
ここで小園は、士官・下士官兵を厳密に区別する日本海軍としては異例の、「完全な実力本位の教育体制」をひき、部下の徹底した訓練を実施しています。
台南空は、第一一航空艦隊に所属しています。
いま思えば、まさにツワモノ揃いです。
司令長官 塚原四二三中将
参謀長 大西瀧次郎少将
司令 斉藤正久大佐
飛行長 新郷英城大尉
零戦の搭乗員には、坂井三郎、笹井醇一、宮崎儀太郎、西澤広義、太田俊夫らの精鋭がそろっています。
当時、国内最強どころか、まさに世界最強の航空隊搭乗員を擁しています。
そして12月8日、大東亜戦争開戦。
大東亜戦争開戦といえば、真珠湾攻撃ばかりが強調されますが、実は同時にフィリピン攻略戦も、同時に行われています。
フィリピンは、当時日本だった台湾の目と鼻の先にあります。
そしてそこは米国の極東における根拠地であり軍・政・経の中枢です。
そのフィリピン駐屯の米軍の最大の脅威は、米空軍です。
とくに、B17爆撃機は、我が軍にとって最大の脅威です。
これを叩けば我が軍は制空権を得ることができ、これにより制海権も生まれ、上陸作戦の実施も可能となる。
すべては、初動段階で、どれだけのB−17を叩けるかにかかっていたのです。
しかし、我が軍の航空母艦はハワイ作戦に充当している。
ならば、基地航空部隊による航空撃滅戦を実施し制空権獲得後正攻法にて上陸作戦を開始する他ない。
小園が隊長を務める第一一航空は、戦爆連合90機の大編隊で、フィリピンのクラークフィールドとイバの両基地上空に殺到します。
敵も必死です。
いまでいうスクランブルで、次々と迎撃の戦闘機が舞いあがるけれど、猛訓練を積んだ我が軍は、このときの第一波攻撃で、敵機にたいし、撃墜炎上100機の大戦果をあげています。
そして以降約1週間、第十一航空艦隊と第五飛行集団で米空軍の掃討作戦を実施し、米空軍を、せん滅してしまう。
これによって、日本軍は、悠々とフィリピン上陸を果たします。
そしてこのとき、味方の将兵をほったからして、さっさと逃げてしまったのが、マッカーサーだった。
ちなみに、この作戦において、米国は終戦のあとまで、日本が空母でフィリピンに接近し、そこから飛び立った零戦によって行われたものと信じていたそうです。
しかし、実はこの作戦の成功は、日本の零戦の航続距離の賜物でした。
それにしても、この頃の台南空の強さといったら、まさに世界最強です。
台南空は、一七年四月、ラバウルに転進します。
小園は、ここで大型爆撃機B-17による空襲の威力を 痛感させられます。
とにかく飛行高度が高いのです。
しかも夜間に上空に飛来し、そのままの高度で爆弾を投下して去ってゆく。
戦闘機でB−17を撃墜しようとすれば、敵の前方から垂直ダイヴで何度も反復攻撃をくり返すという 離れ業が必要です。
敵の前方上空に出て、垂直降下しながら銃撃するのです。
これを行うには、相当の練度を要求される。
それも昼間の話であって、夜間となればさらに制約が加わります。
つまり、夜間襲来するB−17に、零戦でまともに迎撃することは不可能に近かった。
しかも、B−17は、日本のラバウル航空基地に毎日飛来します。
一方、日本のラバウル基地はというと、戦闘機搭乗員のほとんどがニューギニア戦線に進出している。
おかげで戦闘機はあっても、操縦する戦闘機搭乗員が足らない。
それでもB−17が飛来すれば、残された少数の搭乗員で立ち向かう。
絶対的な戦力不足。そんな状況にあった。
そこへ台南空の小園らが着任します。
状況からすれば、ふつうなら、上層部にパイロットの増員を督促する。
しかし小園小園副長は、まったく逆の発想をします。
まず、自隊の偵察機のパイロットに、現地で戦闘機の操縦訓練を施した。
同時に、偵察機に空対空爆弾として知られる三号爆弾(当時の最新兵器)を搭載した。
偵察機は、高高度への飛行が可能です。
B−17に航空高度でひけをとらない。
空対空爆弾を搭載した偵察機を、B−17の高度まで飛翔させ、敵を撃墜する。
結果は効果てきめんです。
たった三機が「3号爆弾」を搭載しただけで、一ヶ月のうちにBー17をなんと15機も撃墜してしまう。
恐れをなした敵は、その後しばらくブインまでは飛来したけれど、ついにラバウルには来なくなってしまった。
さらに小園は、高度が足らない戦闘機にも「斜め銃」を搭載することを建言します。
戦闘機の機首近くに、斜め前方を向いた機銃を取りつけるのです。
そして地上から急上して、B-17の腹部にもぐり込んで、敵を下から叩く。
この斜め銃は、とくに夜間の敵機来襲にてきめんな効果を発揮します。
敵爆撃機は、地上から探照灯に照射されている。
こちらからは腹が見えている。
一方で敵からは、探照灯の光がまぶしくて、こちらの戦闘機が見えない。
ちなみにこの「斜め銃」は、中央(本土)でほとんど相手にされませんでした。
案が採用されたのは、サイパンが陥落して、B-29による本土空襲が本格化し、小園が本土防衛のために厚木基地に赴任となってからです。
しかもわずかに三機。
陸上偵察機として使用され、戰闘機としては、もう見捨てられたような状態にあった飛行機に、ようやく斜め銃を取り付けた。
これが、のちに夜間戰闘機・月光と呼ばれるようになる一三試双発陸上戦闘機、後の二式陸上偵察機です。
この「斜め銃」は、まさに大当たりし、本土上空に侵入した超大型爆撃機B-29を下から、次々と撃墜した。
あまりに上手に撃墜するので、陸軍の屠龍の一部や、零戦、雷電にも装着され、果敢な成果をあげるけれど、ときすでに遅し。
すでに石油の輸入もなく、物資が不足し、飛行機の生産そのものが停滞していたことで、集団で密集して爆撃に飛来するB−29に対し、イナゴの大軍のように押し寄せるB−29に対し、虫取り網で挑むような状況にしかならなかった。
しかし、航空高度で、友軍の迎撃機の倍近い高さで飛来するB−29が、80機以上撃墜されたのは、ほんのわずかながら製造された斜め銃搭載機の存在と、小園司令を心から信頼する熟練のパイロットの腕があったことは、歴史の真実として記憶すべきことに思います。
ラバウルに話を戻します。
昭和の撃墜王坂井三郎氏の著作に、次のような事柄が書かれています。
当時、ラバウルは最前線基地です。
最前線であるということは、それだけ危険が多いということ。
さらに徐々に制海権を失いつつある日本は、ラバウルに十分な補給物資届けることが困難になっています。
当然ながら、将官はともかく、一般の兵士たちの食生活は最悪なものになります。
そこで「これでは気力・体力を消耗してしまい、空戦に差し障りが出る」と考えた坂井一等飛行兵曹(当時)が、悪いことと知りつつ時々士官用の食材を盗み出して部下に分け与えていたのだそうです。
これを海軍用語で「銀バイ」と言ったそうです。
ところがある日、補給物資を管理する士官に「銀バイ」が見つかってしまった。
兵士たちの事情を無視して怒りまくるその士官に、坂井一飛曹がついに腹を据えかねて、銃を発砲してしまったのだそうです。
もちろん威嚇射撃です。
しかし、上官への発砲は反乱罪です。即銃殺に相当する。
その日の夜、坂井一飛曹は完全武装した衛兵によって副長室に連行されます。
坂井は、小園の前で、下士官兵の劣悪な生活環境を怒鳴るようにして訴えます。
小園副長は、坂井の話をずっと黙って聞いています。
最後に坂井が「私は銃殺でしょうか」と息巻いた。
黙っていた小園副長は、その瞬間、裂ぱくの気迫で、坂井に、
「何で最初から俺に言いに来ないかっ!」と大音声で一喝した。
そのあまりの迫力に、それまで息巻いていたさしもの坂井すら、びっくりした。
「宿舎に戻れっ!」という小園副長に、坂井はどきまきしてしまった。
翌日から、下士官兵の食事が突然、改善されます。
食事の内容が、貧しく物資がない中でも、最大限配慮されたものに変わった。
そして小園司令は、事件の全てを握りつぶし、腹におさめてくれたそうです。
昭和十七(1942)年十月、小園ら台南空は人材と機材の消耗が激しく、再編成のため内地 に引き上げる事になります。
ガダルカナル島をめぐる攻防で、笹井醇一中尉 、宮崎飛曹長、本田二飛曹ら主だった面々が戦死し、坂井一飛曹も重症を負って内地に送られていたのです。
ラバウルを去った台南空は、同年十一月、内地の第二五一航空隊と改名される。
そして同十二月、斉藤大佐にかわって、小園副長がが司令に任命されます。
小園新司令のもと、二五一空は、昭和十八(1943)年四月、ふたたびラバウルに進出、その四ヶ月後、二五一空司令の任を解かれて日本に帰還した小園司令は、首都周辺に存在する海軍施設の防空を任務とする第三〇二航空隊司令に任命されます。
本土空襲がはじまる中、日本海軍が首都圏防空のために選んだのが、歴戦のツワモノである小園司令だったのです。
ソロモンや中部太平洋を巡る激戦によって、この頃の海軍は、戦闘機搭乗員を多数失っています。
三〇二空も、一般大学生を採用した予備士官や爆撃機等の他機種から転科した戦闘機搭乗員が大勢を占めています。
小園司令は、海軍兵学校を卒業した、戦闘機搭乗員出身です。
普通、こういう人は、兵学校出や戦闘機乗りばかりをかわいがる。
ところが、小園司令は、一切の差別なく、予備士官や転科した搭乗員を積極的に隊員にとし、台南やラバウルと同様、出身や階級に捉われず、完全に実力本位の統率を行います。
おかげで、部隊の士気は猛烈に高かった。
厚木の司令となった頃の小園司令は、なんと東條英機総理暗殺計画に参加しています。
これは、高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐が首謀したもので、首相暗殺後、実行者の台湾逃亡を、小園が担当しています。
しかし、直前にサイパンが陥落し、この責任をとって東条内閣が総辞職したため、この計画は実行されなかった。
戦争後期、マリアナ諸島が米軍に占領され、そこを基地としてB−29が関東・東海地方を中心に日本本土爆撃を遂行するようになります。
小園司令指揮下で首都方面で海軍最大の戦力を有する三〇二空は、B−29と激戦を繰り広げ、B−29を最も多く撃墜した部隊と称される大戦果を挙げている。
それにしても、最前線で日々敵と死闘をくり返している小園にとって、お偉いさんたちのノホホンぶりは、日ごろから腹に据えかねるものだったようです。
小園が「斜め銃」装備の有用性を必死になって説いてまわったときも、あまりに上層部の反応が鈍い。
小園からみれば、
「こいつらは戰争を始めておいて、一体勝つもりがあるのか」という憤りすらある。
後日、厚木基地で叛乱を起こした小園司令の憤激の根底にあったのは、キンタマをぶらさげた人間が、正しいと思う喧嘩を始めておいて、簡単に降参できるもんか、という意地だけでなく、ふぬけたお偉いさんに対する不審の念がわだかまっていたということもまた、事実のようです。
小園司令は、思っていることを腹にためておくことができない性格の人として知られます。
二度目の司令としてラバウルにあるときも、歯に衣着せない意見具申を艦隊司令部に何度も出し、ついにはお偉いさんをおちょくったような短歌をつくって 部下に配布するにおよんだりしていて、わずか四カ月で、上級司令部の感情を害してとばされている。
しかし、戦いというものは、常に現場が第一であるべきものです。
戦争は会議室で行われているのではない。
戦場の最前線で行われているのです。
ねずきちが、かつてサラリーマンをしていた頃、部下に上にある小園司令と顔つきも気性もそっくりな男がいました。
頑固一徹。
たとえ相手が上席者であっても、常に歯に衣をきせず、真正面から大声を張り上げた。
そういう生一本で純粋な男たちこそ、ほんとうに大切にしなければならない。
彼は、ボクにとって一番の部下だったし、社を辞めたいまも最大の親友です。
日本という国が破壊されようとしている昨今、国を思い、最前線で熱い気持ちをもって戦っている無名の志士たちがいます。
国政や県政、あるいは市政を担う方々は、彼らの行動を、単に過激だとか批判非難し、距離を置くのではなく、彼らの真剣な思い、真摯な思いを、真正面から受け止めてほしい。
ねずきちは、そう思います。
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東京大空襲
で、結果辞めましたけど。
正しい事は正しい、と言える人、人や国、会社の事でもキチンと考えれる人、発言できる人が冷や飯を食う事の無い社会にしていきたいものです。
宮崎・口蹄疫についての寄付金を募る動画です。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10640430
宮崎県の農家に、民主党やマスコミの実態について広める方法は無いでしょうか?
正しい情報の拡散が今の日本に必要な事だと考えています。
自分の住んでる地域なら自分でポスティングできるのですが・・
口蹄疫のチラシはこのサイトからダウンロードできます。
http://chirasihokanko.makibisi.net/
こういう国家が、長期間存続しえた事は史上無いそうですからいつまでも続くとは思えません。
いずれは自らの足で立ち上がり歩かねばなりません。
この数十年、この国は東西冷戦という状況の中で運命という腕に覆われて過保護に過ごしてきた。
人も同じ。保育器のなかで育てられれば免疫力が落ちる。
今の日本は、このままで行けば免疫力のない青白いひょろひょろの国家になりかねない。
防衛力という外面的な部分のみならず、もっと大事な精神の弱体化という根本的な部分が正されなければ、後孫に残せる安住の地はないのではと危惧いたします。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-date-20100507.html
財源未確保の「子ども手当」法案は実施すべきでしょうか? 今後
の参考のため、みなさまの率直なご意見をお伺い出来ればと思い
立ち、二択設問で恐縮ながら、「子ども手当は本当に実施すべき? 」
とのアンケートを先稿であらためて作成し、みなさまのご協力を仰ぎ
つつ、ご意見を伺うことにしています。
これを御覧の方は友達やその友達に知らせてください
真・my日本を立ち上げた理由
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10565626
【動画ニュース掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
宮崎県が危機的状況です。影響のある管理人様のブログで取り上げていただけたら、大変有り難いです。
牛、豚を59000頭処分する異常事態となっています。
動かない民主党、マスコミに対し怒りがこみ上げます。
民主党の小沢一郎幹事長(67)が7日、宮崎県の東国原英夫知事
(52)と県庁内で会談し、今夏の参院選での選挙協力を要請する。
猛威をふるう反日売国政党民主党の正体朝鮮進駐軍(支那朝鮮軍)
が日本人社会の破壊者
・与党は県と自民党から申し入れた対策案を拒否、その後会合自体
も拒絶
・舟山康江農林水産大臣政務官「宮崎県の対応に問題があった」
・赤松農相【対応を官僚に投げてしまうと「政治主導」じゃなくて「官
僚主導」になってしまうので、対応をさせない
・輿石参院会長「民主党に票を入れなければそれなりの対応をする」
これを御覧の方は友達やその友達に知らせてください
真・my日本を立ち上げた理由
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10565626
【経済・政治の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj.cgi
”・輿石参院会長「民主党に票を入れなければそれなりの対応をする」 ”
これ、マジですか?あきらかに脅迫ではアリマセンカ。
ひとの苦しみに付け込んでのこの発言は許せませんね。
日本が好きなだけなんだよ
【宮崎・口蹄疫】 感染、さらに拡大。
計30カ所超に…殺処分の対象は4万頭超える
2010年5月7日 時事ドットコム
現在までの民主党の対応
宮崎・口蹄疫について詳しいですよ
どうやら、日本マスゴミは、感染拡大を助長しようと
している可能性が出てきている。しかし、各国共に、
このウイルス感染については非常に神経質に成っ
ている。というのも、
・感染力が極めて強い
・効果的な治療法がない
・感染防御のためには殺処分が必要である
なお口蹄疫の潜伏期は7〜21日である。
現在の殺処分頭数は「4万5000頭」過去100年間で
最多である。
多方面からの情報収集で日本人社会を混乱に落と
し込むための作戦であり、反日売国マスコミによる
頑固な情報隠蔽と売国政党民主党鳩山政権が
連携した放置作戦と判断できる。
【マスコミ隠蔽の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
「塾」のバナー設置して頂きありがとうございます。
中山塾長を中心にした今後の「塾」に期待したいですね?
宜しくお願いします。
http://blog.goo.ne.jp/mizumajyoukou/e/cb476d71e23b5cdfc18a85dca974bf7e?fm=rss
水間条項より一部転載〜〜
皆さん、5月末までに「重国籍法案」の審議入りが決定できなければ、今通常国会で成立することはありません。しかし、参議院選挙で民主党と公明党で、過半数になれば成立することになります。
それを阻止するには、「重国籍(二重三重国籍)法案」の危険性を、参議院選挙の「争点」にすることも視野に入れて、国会議員に「重国籍法案」の危険性を要請することが大事になります。
それに必要な国会議員は、各政党の国会対策委員長、選挙対策委員長、幹事長、そして衆参法務委員会の理事と委員全員と、上記した「請願紹介議員全員」に、手紙かFAXで真摯に要請することが有効になります。
■憲法に次いでの重要法案が、国会議員の中で関心を寄せていた議員は、昨年の総選挙で殆ど落選してしまいました。
『重国籍法(二重三重国籍法)』が国会で可決したら、「外国人参政権付与法案」を与えたことと、同様以上に危険なのですが、まだ、危険性が国民に認知されていません。
覚醒されているインターネットユーザーの皆様方には、まず国会議員と地方議員に、徹底的な周知を淡々と行って戴けることを願っております。
〜〜〜転載終わり
下記しーたろうさんのブログに議員さんのリストがEXCELで纏められていますので、簡単に
メールを送れます。
http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-176.html
宜しくお願いします。
周知、ご苦労様です。私も”日本が好きなだけなんだよ”は愛読しております。
今の、政情を見ますと、一年前からすれば天地の差。こんな日本に誰がした!、、と叫びたいところですが、実は隠れたものが顕在化したものなのでしょう。
私たちの住む、この日本はすでに砂上の楼閣であったということでしょう。
これが、本来の日本を取り戻す教訓であったといえるような未来を信じたいものです。
>それに必要な国会議員は、各政党の国会対策委員長、選挙対策委員長、幹事長、そして衆参法務委員会の理事と委員全員と、上記した「請願紹介議員全員」に、手紙かFAXで真摯に要請することが有効になります。
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本来なら、議員の方から、民主党が企む危険な法案を愚民共(議員はそう見ている形跡がある)に知らせ、議員自ら反対の声を挙げるものだが、逆ですね。
滑稽だが、市井の我々が必死に動いている。議員相手と街に出ての周知活動を根気良く続けますよ。
兵庫県弁護士会
http://www.youtube.com/user/tachiagarenippon#p/u/0/7ZcwIvOL6hw
東京ミッドタウン・街頭演説会1 / たちあがれ日本(園田氏)
東京ミッドタウン・街頭演説会2 / たちあがれ日本(中川氏)
東京ミッドタウン・街頭演説会3 / たちあがれ日本(与謝野氏)
東京ミッドタウン・街頭演説会4 / たちあがれ日本(平沼氏)
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真・my日本を立ち上げた理由
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