ダイヤモンドダストの煌めきが、"彼"の目に遠く映る。
最高峰と呼ばれるに相応しい高さを秘めた山の頂は、生々しい傷跡で埋め尽くされていた。
炎が燻り、電撃が弾け、水が留まり、草が乱れ、岩が抉れ――――その惨状とも言うべき風景の中心に、二人の人間が立っている。
一人は無表情に、もはや戦う力を持たないポケモンを収めた赤いボールを、握り締めて。
一人は満身創痍で、傍らに傷つきボロボロとなりながら懸命に立ち続けるメガニウムを置いて。
ポケモンバトル、だった。
大凡今まで彼が見たことも、聞いたことも無いほど壮絶で、華麗で、ひた向きな。
バトルビデオで観賞したポケモンリーグ歴代チャンピオン戦でさえ、このバトルには遠く及ばない。
頂点。
白銀の煌めきに埋め尽くされたこの山の頂上で向き合う二人は、まさに頂点だった。
赤い帽子を被った少年が、ぐいと帽子を目深に被り直す。
黒髪を短く切って長さを揃え、整った顔に浮かぶ感情は薄く、その中で爛と輝く赤い瞳が印象的だった。
Red
初代ポケモン図鑑を完成に導き、世界中のポケモン研究の礎を築いた、まさに原点とも言うべき少年。
「おめでとう」
風が吹きやんだ無音の空間に、静かに声が響く。
「良い勝負だった」
その言葉に、"彼"の幼馴染の少女は僅かに頷いただけだった。
さぞ嬉しいだろうな、と彼女の内心を想像する。
彼女が今回だけでなく、何度もRedに挑み、今まで負け続けていたのを"彼"は知っていた。
敗北に涙を流す彼女も"彼"の記憶にはあって、それを思うと勝利はより大きく感じられる。
ちら、と表情を窺い、"彼"は首をかしげた。
勝者だというのに、彼女の表情は硬く険しい。
"彼"は、そこで初めて、漂う妙な雰囲気を感じ取った。
それは、ただのポケモンバトルで無かったからこその違和感でもあった。
「ポケモンリーグなら、勝者は殿堂入りとして刻まれる。それで終わる。だけど、ここはそうじゃない」
正々堂々と行われたポケモンバトルは、勝者と敗者を決めて終了する。
敗者は勝者に、さらに上を目指して頑張れよと拍手を送る。
勝者はその言葉を受けて、新たに生まれた目標を目指す。
その最終点がポケモンリーグで……更に上が、この頂上だ。
だが、ここより後、上はもう存在しない。
今までRedが立っていた頂点に、"彼"の幼馴染が立っただけ。
シロガネ山の頂上のように、もう上を見上げてもそこには何もない。
ならば、目標を失った勝者に残されるのは、何だ―――?
「ここに残るのは、最強のポケモントレーナーだけだ」
Redの声は、もはやぞっとするような冷たさを秘めているように感じられた。
「長かった。ここに最初に来てから二年の間、数多くのトレーナーと戦った」
誰もが知っていたのだろう。
シロガネ山の頂上には、トレーナーとして全てを極めた頂点が存在すると。
原点にして頂点。
今のトレーナーが目指す全ての道は、もはや彼が歩んだ過去の道でしかない。
「その戦ったトレーナーの全員が、どうしようもなく弱かった」
戦いを幾度くぐり抜け、頂点である事を証明し続け、Redには何が残されたか。
「呪いだ。最強であるという呪縛だけが、ここに残り続け、俺を縛り付けた。そして今から、君を縛り続ける」
そう、呪いだ。
「はい」
だと言うのに、彼女はしっかりと頷いていた。
受け入れるように。
今や最強となったトレーナーは、パートナーであるメガニウムを従えて毅然とした立ち姿を誇っている。
そうして、"彼"は絶望する。
何時も隣に居たと、そう自負していた。
小さい頃から―――今でも子供だが、それよりも更に小さい時から―――誰よりも、彼女に詳しいと思っていたのに。
今の彼女は"彼"の知る様に気弱でもなければ、優しい笑みを浮かべてもいなかった。
トレーナー。
ポケモンを育成し、戦い、勝ちを得る者。
その頂点として相応しい風格さえ、彼女は持っていた。
もはや、"彼"の手の届く様な所に居る彼女ではなかった。
「ヒビキくん」
びくん、と体が反射的に大きく震える。
まるで伝説のポケモンとでも直に相対した様な、震えだった。
そうして一人、自らをあざけるように小さく笑う。
何を勘違いしているんだと、不意に自分が愚かに思えたのだ。
目の前の彼女は、伝説のポケモンなんてとうに超えた存在だ!
「わたしは、帰らない」
「何を言って――――!!」
「ここに残る」
"彼"の言葉を遮ったその宣言は、拒絶と同義だった。
「最強を、証明し続ける」
それは、彼女の戦う者としての本能に近かった。
誰よりも強くありたい。
呪い云々よりももっと強い彼女のその願望が、ここに彼女を縛り付ける。
「ヒビキくん」
モンスターボールを構えた彼女が、獰猛に笑った。
もはやその目に、倒したRedの姿は映っていない。
新たな挑戦者を、ただ迎えるだけ。
「 さあ たたかおうよ それとも しっぽを まいて にげかえる?」
「―――――」
ぴぴぴぴぴ、とポケギアから聞こえるアラーム音でヒビキは目を覚ました。
体に纏わりつくような倦怠感が、ぼんやりとした思考に重く圧し掛かっている。
懐かしい夢を見たせいだろうか。
十九歳に成長した自分の体が見慣れないような、そんな違和感をふと感じたことに小さく笑う。
アサギシティにある、各地を旅するポケモントレーナー向けの、少し高価なホテルにある一室。
ヒビキの現在の拠点だった。
そこそこ広い面積に、プラズマテレビと、小さな冷蔵庫、ベッド、ポケモン転送システム付きのパソコン。
良い部屋だった。
ベッドに備え付けられた時計を見ると、時刻は午後七時。
夕食の時間だ。
愛用のメッセンジャーバックを肩にかけ、三つのボールが収められたボールホルダーを腰に巻く。
三つのボールの内一つの開閉スイッチを押すと、中から水色のポケモンが飛び出してきた。
「きゅー」
水色の柔らかそうな身体に、ふにゃりと途中で曲がった耳、くねくねした尻尾と、その先についた空気袋。
怪我しているのを見つけて治療した事が切っ掛けで手持ちにした、♀のマリルリ。
元は戦う事を嫌うマリルだったが、数年前に進化した――否。
ヒビキの勝手で戦わせ、経験を積ませ、進化させた。
だと言うのに、マリルリは変わらぬ信頼と愛情を、ヒビキへ寄せていた。
「行こうか」
足に抱きついてくるマリルリを促して、出口へ向かう。
望まぬ戦いをさせても慕ってくれるマリルリ、望まぬ戦いをしている自分。
そして、記憶の底でくすんだまま放置されている、過去の記憶。
その全てがヒビキには、重い。
「……連れ戻すんだ、必ず」
八年。
それだけの歳月をかけても、糸口さえつかめない目標を忘れないよう、口に出して呟く。
まるで自分の心を自分で痛めつける様な、そんな気分だった。
だが、心を痛めつけた分だけ思いを馳せる事が出来る。
暴風にさらされたあの山の頂上、今日も戦う少女の事を痛みの分だけ思い描けるのだ。
―――――コトネ
思ったその名は、ほんの少しの懐かしさと痛みを与えてくれた。
完結(あるいは続く)