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(前略)
これで、日帝時代を通して、朝鮮で生産された米穀が、民族別にどう配分されるのかを計算できるようになった。まず複雑な計算を単純化するために、1910年の米穀生産量(13,349,805石)を100としておこう。すなわち、ここでいう数値の「1」というのは、米穀133,498石を表す。従って、1941年の生産量は、1910年生産量より52.3%多い20,332,676石で、152.3になる。
収穫米が民族別にどのように分配されるのかを計算してみると、その結果は<表7>の通りである。
<表7>
日帝初期と末期を比較してみると、朝鮮で米穀生産量は52.3%増加した。土地生産性を考慮した面積を基準にした時、1910年に日本人が所有する田は全体の9.0%で、朝鮮人が所有するものは91.0%であった。この二つの年度の間に、朝鮮人が所有する田の割合は91.0%から46.0%へ45.0%減り、日本人が所有する田の割合は9.0%から54.0%に45.0%増えた。収穫された米穀がひとまずすべて地主に分配されると考えると(<表7>の「地主の取分は同じ期間に9.0から82.2へと73.2%増加する。
ところで日本人所有田の9割は朝鮮人小作農が耕作するが、そこでは生産された米穀のうち、55%だけが日本人地主が受け取り、残り45%は朝鮮人小作農が受け取ることとなる。つまり、日本人所有田で生産されたものに0.9と0.45をかけた値、すなわり1910年には3.65、1944年には33.31を朝鮮人地主取分として付加し、日本人地主から引けば、民族別取分が計算できる。上の表の「民族別分配」項目を見ると、1910年と1941年の間に、米穀生産は52.3増加したが、そのうち8.7は朝鮮人に配分され、43.6は日本人に配分される。
朝鮮人の米穀受取分は、1910年94.6(すなわり94.6×133,498=12,634,923石)から1941年103.4(すなわり103.4×133.498=13,779,161石)へ、8.7(すなわり8.7×133.498=1,164,238石)増加した。この点からみれば、農業開発の利得の一部が朝鮮人に配分されたことが確認できる。しかし、農業開発によって得られる増産量の83.3%(43.6/52.3,5,817,710石)は全体農業人口の0.3%に過ぎない、ごく少数の日本人に帰属する。そして、その過程で朝鮮人地主の取分はむしろ減ったが、日本人所有地で小作する朝鮮人小作農の取分が1910年の3.65から1941年の33.31へと大きく増加したため、朝鮮人取分が増加した。言わば、朝鮮人は生産手段である土地の所有から次第に排除されることで、生産手段の所有から発生する収入部分は縮小し、労働によって得られる収入の部分は増加したのである。
一方1910年と1941年の間に朝鮮の農業人口も変わった。まず民族別一戸当たり収入を見ると、朝鮮人の場合5.41石から4.60石へ0.81石(15.0%)減少したが、日本人の場合104.60石から204.51石へと99.91石(95.5%)増加した。農業人口の変化まで考慮すれば、民族別農家一戸当たり収入の格差は1910年の62.5倍から1941年の209.4倍に拡大し、民族別農業人口一人当り収入の格差は1910年の86.3倍から1941年の252.5倍に拡大した。
(中略)
1941年の農業人口一人当り農業収入は、朝鮮人が103縁、日本人が9,909円である。日本人の農業収入は朝鮮人の96倍にもなる。一方、1940年『朝鮮国勢調査報告』の「産業(大分類)別人口」表では、農業従事者数が朝鮮人6,670,360人、日本人14,878人、合計6,685,238人(日本人以外の外国人を除く)となっている。全体農業人口において日本人農業人口が占める割合は、朝鮮総督府『統計年報』の場合は0.20%で、『朝鮮国勢調査報告』では0.22%で、ほぼ等しい。国勢調査の農業人口資料を使用し「一人当り農業収入民族別格差」を求めると、85倍とやや低くなる。
<図8>
朝鮮人農家の一戸当たり平均耕地面積は1.00-1.57町歩の間だったが、日本人のそれは17.65-70.78町歩の間で、両者の間に大きな格差がある。この格差は時期別に異なった。(中略)もちろんここで言う農業収入とは、各種公課金や管理費用、その他農業に関する諸費用が控除されていないため、農業所得ではない。また、当選人農家と日本人農家の費用構造も同一でないため、この96倍という数字がそのまま農業所得でこの程度の格差があるということを意味するものでもない。しかし、農業収入でこのように顕著な格差が発生していれば、農業所得でも極端な格差があることは明白である。
<表10>から民族別農業収入の割合を計算すると、日本人農業人口は朝鮮全体の農業人口の15.9%を占めていた。極端な所有構造の不平等に由来する極端な所得不平等が存在していたわけである。まさにこれが植民地朝鮮農業の本質的側面であり、また日本人中心の農業開発の必然的帰結だったのである。このような極端な民族別所有と所得の不平等を論外にして、植民地農業の開発的側面のみを強調する主張は、植民地朝鮮農業の現象形態対する分析はできるかもしれないが、その本質に対する分析とはなりえない。
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ここから後は工業開発に触れており、ここでも凄まじい植民地経済の実態が暴露されているが、ここでは省略。農業開発のみに限定しておく。なお、<表7>の1910年と1941年を比較すると
朝鮮人農家の戸数は2,333,814戸から3,000,099戸に(約1・3倍)
日本人農家の戸数は2,132戸から6,775戸に増加している。(約3・2倍)
朝鮮人の農業人口は10,418,880人から17,077,223人に(約1・6倍)
日本人の農業人口は6,892人から31,921人に増加している。(約4・6倍)
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