投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助お絵描き
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ | 画像 ]

投稿募集! スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

全3113件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 57  58  59  60  61  62  63  64  65  66  |  《前のページ |  次のページ》 

アホ

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)17時02分32秒
  数字が読めないのはお前だ。
だからこちらの提示した数字を理解できない。
「自分が理解できないのではなく、相手が理解できない」と思い込む。気の毒な頭だな。

まだ「消費量」に拘っているのかね。結局私の問題に答えられなかったよなあ。
はぐらかしてすり替えただけ。例えば・・・

(5)元々米食ではなかったなら「初めから」米の消費は少なかったはずだが「減少」していったのである

これに対するお前の答えは「人口が増えたから」。
これじゃ「初めから少なかったはず」への答えになってないとわからんのか?
つまり「朝鮮人の主食は初めから米食だった」ことを覆す証拠をお前はいまだに出していないのだ。

もっと教えてやろう。
どこの国でも地域でも、農民はまず「主食」を生産するものだ。
だから日本も朝鮮農民を使って米を増産させた。そしてそれ以上に輸出した。
そこで農民のためにこんどは「パンを食わせろ」という指示を出す。
これは朝鮮農民に「代用食を食わせろ」と言っているのと同じだ。

またお前は「朝鮮人の人口が増えた」事「だけ」を米の摂取量低下の理由にあげる。
しかしそれでは「日本も人口が増えたのに(戦争激化までは)摂取量は増えている事実を説明できない。
朝鮮人と日本人。同じく人口は増えた。一方はたらふく食えて他方は米の摂取が減少していった。
これを統一的に解釈する最も簡単な説明がある。
簡単なことだ。それは日本の行政が朝鮮人を強制してそうさせたということだ。
そしてこの強制という事実は、他の多くの資料からも明白なのにお前はそれを認めようとしない。
お前の頭は極めて恣意的で「思想が事実を否定している」という妄想右翼の典型。始めに結論ありき。

>データーには調査方法と統計方法があります。それが明示されてないものは怪しいんです。

朝鮮半島の支配・運営についての最良の資料は他ならぬ日本の出先機関である朝鮮総督府の資料だ。
これは現場報告や官僚による調査をへて資料として作成され日本政府にも当時の国会にも報告されており
現在も最良の資料としてイデオロギーの如何をとわず広く利用されている。私はそこから提出した。
そこから導き出された数字をお前は信用せず、右翼が都合良くでっちあげた「研究資料」なるものを「信頼」する。
しかも再三再四「具体的数字資料を出せ」と言ったにもかかわらず、それを出せなかった。
それどころか、宇垣朝鮮総督が朝鮮農民の生活が悲惨であることを認め、「外国から小麦を輸入せよ」
「パンを与えよ」と言っている事実さえ否定する。
もはや日本の行政が朝鮮人を苦しめてきた事実は、いくらお前の脳みそ「だけ」が現実を遮断して否定しても
客観的事実として否定することはできないのだ。あ呆がここで妄想をたれるのは自由だが
妄想は所詮妄想。「数字、数字」といいながら、その数字を一番理解できていないあ呆wwwwwwwww
 

まっぺんさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)16時12分24秒
  軽薄だって、数字がわからないよりよいですよ。

まっぺんさんはデーターが読めないでしょ。
だから、哲理(理屈)だけが重要だと思っちゃったわけでしょ。

私は数学もできるので、データーはきちんとその意味を考えるんです。
一人当たりの○○消費量…どういう数式で出したのかを考えるわけです。
一人当たりなら必ず総人口を使うだろうとか。

数学ってそういうことなんです。関数なんですから、この数値が出される
には、二つの条件があるはずだとか、条件を違えればこうなる。ならなければ
この式は間違っているとか。

少なくともその吟味をしなければデーターなんて当てにはしません。
データーには調査方法と統計方法があります。それが明示されてないものは怪しい
んです。

このデーターは○○さんのところに書いてあったから、なんてことで信用はしません。


一番疑わしいのは国定とよばれるものです。(中国、韓国、北朝鮮の歴史教科書ですよ。)
ある結論を意識づけるための情報操作がいっぱいでイデオロギーってこういうことだよな。
と思わざるを得ませんよ。
 

猫君それ拡大主義じゃんか?

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)16時04分21秒
  はずれ猿ならはずれ猿でいいけれど、俺は間違ってないなんて大声出す必要はない。

共同体の中だけで済めば別に困らないよ。

ただそれが幸せだというわけじゃない。いいかい。どちらがより幸福じゃなくて、
どちらもちがった種類の不幸せがあるにすぎないよ。

100人島の101番目はどうなるのか?
みんなで合意したからそれはいいことになるのか?
(ねえ。ロールズ先生。これきちんと原則に当てはまってますよ。
 くじ引きなら格差はないですからね。くじを引けない立場の人間
 は引かなくていいんですしね。これも正義ですか?)

共同体間で生きる必要なんてないんだよ。
必要がないのにそうする人間がいるだけなんだ。
昔は商人だった。どこからか行ったこともないところのものと話をもってくる。
彼は正しい人だったろうか?
いや、ただの商人だ。それだけの話。

まだ気づいてないかもしれないけど、ヘーゲルがまとめた弁証法を近代の必然性=
国民国家の必然性を証明する方法だぜ。マルクスはそれを逆さにつかって、その近代
が別のものに変わらなければならないのを証明してみせただけ。(しかも、間違っている)
そういった意味で残念かもしれないが弁証法=よりよい進化=発展史観には組しない。
人間は変わらないというテーゼに軍配を上げるし、それでよいと思っている。
変わりたいものだけが変わろうとするのさね。
しかもそれは善じゃない。善じゃないんだぜ。


労働の価格が労働の価値と一致しないなんて当たり前のことだ。(そうなんですよ。マルク
スさん。)
前者は市場の状況によって決定され、契約を通じて実践される。
後者は共同体内の認識と承認によって感謝という形で認められる。
後者の労働は一種の贈与と考えた方が理屈にはあっている。
プレゼントに値札がついていてもその価値はプライスレスだろ。

その辺の感情をうまく利用して正当化したにすぎないよ。猫君。


世の中を上と下に切るのは無理がある。だから、左翼は批判しておく。
(大人を批判しても、結局は大人になるしかない。むしろ、大人にならないとしたら
迷惑な存在になっていく。もっとダメな大人になるだけだよ。馬鹿みたいな話だけどね。)
 

いいねえ!夏祭り

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)15時44分14秒
  この酷暑の夏、たまには浴衣とゲタで歩いてみたいもんですが
東京ではなかなかねー・・・。お盆には。

※人口差の議論はすでに出てますよ。
北欧諸国は最大で日本の5分の1程度。あとはかなり小さいです。
が、それなりに例えば東京都一個をどう運営していくか、として考えてみてもいいかも知れません。
もちろん一国と一都市では法体系などいろいろ制約が違うと思いますが。

※東京都政を比較するのも面白いかも知れませんね。
典型的なのが、美濃部革新都政と鈴木財テク都政。
 

「北欧モデル」提唱者はお祭りでお休みとのことで

 投稿者:通行人  投稿日:2010年 7月24日(土)15時05分39秒
  まあ待ちますが、やはり誰でも「北欧モデル」で疑問に感じるのは、日本とは人口や経済規模が違いすぎる、という点。
「北欧」でうまく行っていても、日本でそのまま出来るわけはない、というのが素人でもまず感じるところですが、その辺の議論は出ているのでしょうか?
 

夏祭り

 投稿者:ケンジ  投稿日:2010年 7月24日(土)14時26分11秒
  毎年だよ。 でもこれがないと夏が来たっていう実感がいまいちなのは不思議だねえ。

 去年もその前も今から、係りになってる出店にでかけなきゃ、と掲示板に書いたが、
これも恒例になってしまった。

 さあて、準備に行くか。 夕方に始まる前から、生ビールは半分近くなくなってしまう。
皆半分出来上がりながら、炭火を起こす、、。

 じゃボチボチ行って来るかな。ww
 

さあて、また週明けくらいからおっぱじめるかな(^^

 投稿者:ケンジ  投稿日:2010年 7月24日(土)13時57分53秒
   なに、今日はまたまた地区の夏祭りだ。
ちょっと準備が大変だった。 役を引き受けている関係で、暑いのに、焼きそばだ、
焼き鳥だ、と、こなさなきゃならない。

 生ビールも出す。
 というか、生ビールは売ってるのか自家消費してるのか分からなくなる。ww
  ま、いつものことだ。
 いや、もちろん、係りの者とて只じゃなく、ちゃんと一杯いくらで金を払うがね。

 だって、暑いのに炭火を起こし、、、生ビールでも飲まなきゃやってられんよ。
 

サンデルはつんでる

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 7月24日(土)13時12分32秒
  速読って、お前根本的言語運用能力が欠如しといて、トホホ

共同体でともに生きることではなく、
共同体「間」でどうともに生きるかだけが意味ある。


所詮、モノローグに洋ナシ





逐一、突っ込みどころがるんだけど

ツンデル猿教授
>正義についても意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。

そんなこと当たり前田のクラッカー

この野郎、カントなんて分かってない。どこぞのシッタカと同じ。
統整的理念を構成要素とに貶めて叩く猿。

そもそも弁証法的に運動すること自体が理論の核心
「合意」はどこかにある真理などではなく、これから構成し続けること。

そんな簡単なことさえ読めない阿呆。
読めないではなく、文字通りのこと。


猿ってる奴は雑魚ってる奴がお似合いだ。
 

人に説教垂れる前に

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)13時01分38秒
  少しは自分を見つめたらどうだ?
あまりにも空しい自分では直視するのがツライか?
さもありなんwww
 

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)12時59分12秒
  読みもせず「むやみやたらと」お手軽ネットコピペするだけ
なんの「ひっかかり」もなくするすると「文面通り」垂れ流している御仁では
何を言っても軽薄すぎて、説得力ないなぁwww
 

まっぺんさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)12時50分1秒
   血肉になんかしない方が賢いんですよ。

 血も肉もことばじゃないですからね。血肉にするように読むこと=教典化じゃないです
か。

 たくさん読んだ方がよい。むやみやたらと読んだ方がよい。わからなくても読んだ方が
 よい。

 その中で初めて、「ひっかかり」が出来てくるんですよ。そうじゃないと文面通りしか
 読めない注入脳ができてしまうでしょ。
 

速読でなく「即読」だな

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)12時21分39秒
  じっくり読み込んで自分の血肉にできない…「しかし見栄を張りたい」w

表面をなぞってコピペをたれ流し、次々に忘れていく。後には何にも残らないwww
 

>ああ、私、速読ができるんです。はい。

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 7月24日(土)12時00分10秒
  ぷ。  

>北欧マンセーなんて言ってませんよ

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 7月24日(土)10時43分59秒
  「北欧マンセー」と言っているのはプルトニウム猫だが?w>「あ」

 同一人物が自作自演しているのを暴露してしまったかな?w

>プルトニウム猫

「あ」も多弁症なのかもしれないけれども、オマエもだろ?w

「北欧マンセーでなんら問題ない」への批判の反論はどうなった?w

 オマエの左翼への批判が有効ではないことは「北欧マンセーでなんら問題ない」発言で明らかになったなw。
 

というか真面目に勉強するなら

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)10時40分17秒
  http://www.honza.jp/senya/1/matsuoka_seigow/1363
フェルナン・ブローデル
物質文明・経済・資本主義(全6冊)
15〜18世紀
は必読。(ロールズなんて読んで分かった気になるよりもはるかに深く広い。)

それから、資本主義の批判をマルクスがしたけれど、この資本主義はアングロサクソン
主義の資本主義だ。資本主義には実はもっといろんな形があったということに気づきたい
ならこれ。
http://www.honza.jp/senya/1366
渡部亮
アングロサクソン・モデルの本質

 日本は本当に日本式をやり直すチャンスはもうないのか?ないのなら、ありとあらゆる
 試みをできるようにすべきだ。

地方を見捨てるという抗議には実は中央>地方の構図が隠れている。中央を見捨てるような
つもりにならなければ意味がない。お金だけで考えてはいけない。土建をしてはいけない。
仮もので十分である。
 

伊達さんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)10時34分5秒
   北欧マンセーなんて言ってませんよ。

 北欧式が好きな人はそうできるように政治の仕組みを変えるべきだ。
 そのようなコミュニティが一つの法人(自治体)として存在しうるようにすべきだ。
 といっているのです。


 で、北欧式の郡に住めるのは高収入で社会的モラルも高く、町内会には完全出席する
 ような人たちなんですよ。

 はっきりいえば、まっぺんさんや伊達さんやケンジさんたちじゃないんです。
 その郡はフリーライダーをとことん嫌うでしょうし、北欧式が可能だということは
 何かを余剰生産自力で可能だということなので、余計、そうなるでしょう。

(思い出すのは村上龍の小説ですが希望の国のエクソダス)

 そのような可能性をすべて無視して<国>単位で政治を。
 階級単位で革命を語る人々を私は信用しません。
 

オレオレくん

 投稿者:招き猫  投稿日:2010年 7月24日(土)10時33分31秒
  お前の相手は「あ」で十分w


最初からお呼びでないのに、なんで出たがる?

ここは、お前の拡声器に集まってるんじゃあねえんだけど。
 

虚空に吠えとるのも

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 7月24日(土)10時19分37秒
  オマエw。>プルトニウム猫

 何故なら何の説得性もない、有効な反論、批判などいっこもない書き込みを延々と繰り返しているのだからなw。

 言葉が全て虚空間へ向かって放たれて、実体には何ら届かないw。

 まぁプルトニウム猫といえども猫だから、吠えるのではなく、ニャアニャア鳴くのだろうがw。

「無知の証明」は、「あ」ばかりではなくて、プルトニウム猫にも「北欧マンセーで何ら問題ない」と言い放った時点で出ているぞw。
 

ロールズの弱点はだからこそ時間だよ。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 7月24日(土)10時18分27秒
  その後が大事なんじゃないかな猫君。

論理的に考える良心的な人たちでさえ、よき生の問題、道徳性や宗教の問題について互いに意見が合わないことに気づくだろう。その点においてロールズは正しいと思われる。

 彼は、多元的社会には、意見の相違があるという事実を語っているだけではない。よき生と道徳的、宗教的、問題の間には絶えず相異があることも示唆している。

 しかしそれが真実だとすると、正義については同じことが言えないというさらなる主張は正しいといえるのだろうか。

 私たちは実際のところ多元的社会において、正義についても合意しないのではないか。

 そして少なくともそれらの意見の相異の幾つかは、道理に適った当然の不一致なのではないか。リバタリアンの正義論を指示する人もいれば、もっと平等主義的な正義論を好む人もいる。

 自由放任主義的なリバタリアンの正義論からより平等主義なものまで、私達の社会には多元的な考え方がある。、

 私たちが、正義や言論の自由の意味、宗教的自由の性質について、議論しているときに生じる。道徳的論法や意見の相違の間に何か原理上の違いはあるのだろうか。

 最高裁判所の判の指名をめぐる議論について考えてみよう。正義と権利についての意見の相異ばかりだ。

 道理に適った考え方が多元的に存在するという事実に、正義と権利の場合と道徳性と宗教の場合とでは、違いがあるだろうか。原理上、違いがあるとは思えない。

 どちらの場合も、もし意見が合わなければ、われわれはこの講義を通じてやってきたように対話の相手と意見を交えることになる。そして個々の事例から生じた議論を検討し、自分たちを一つの方向に導いてくれる理由を発展させようとする。

 他者の理由を聞き、時には自分の見解を見直すように説得される。
 自分の見解を補強し強化するように挑まれることももある。

 しかし、正義に関する道徳的な議論は、こうして進むのであり私には、よき生についての問題も同様であるようにも思われる。

 さて、さらなる懸念。リベラルな懸念が残っている。
 私たちが、道徳性と宗教について意見が異なるのであれば、正義についても意見が異なるのは当然だと考えるようになったらどうだろうか。

 どうしたら意見の合わない同胞市民を尊重することを認める社会にた、どり着くことができるだろうか。

 それは、私たちがどのような尊重の観念を受け入れるかによると思う。リベラルな観念では、同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重することは、いわば、それらを政治的目的のためにあえて無視することである。

 そういった道徳的、宗教的な信念を脇においたまま、それらには触れずに、自分たちの政治的な議論を進めることである。

 しかしそれは民主的な生活に欠かせない相互尊重を議論に欠かせない唯一の方法でもなければ、おそらく最も妥当なやり方でもない。

 私たちが、同胞市民の道徳的、宗教的信念を尊重する方法は他にもある。それを無視するのではなく、それらに係わり、関心を向け、時には挑み、競い、時には耳を傾け、学ぶことだ。

 道徳的、宗教的に配慮し、関与する政治が、いかなる場合にも合意につながるという保証はない。

 それが他者の道徳的、宗教的信念を深く理解することにつながるという保証もない。

 宗教的、道徳的な教義をより深く学ぶことで、結局さらに好きでなくなることも常にありえる。

 しかし私には、他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切で相応しい理念のように思える。

 私達の道徳的、宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会のさまざまな善をより深く理解できるようになると思える。

 講義の最初にこの場所に集まった時、私は政治哲学を称賛するとともにその危険性について話した。

 つまり政治哲学がいかに私たちを慣れ親しんだものから遠ざけ、私たちの安定した前提を不安定なものにするか、という話だ。

 私は、一度慣れ親しんだものが見慣れないものに変わると、それは二度と同じものになることはないと君たちに警告しようとした。

 君たちが多少は、この不安を経験してくれていればいいと思う。なぜならこの不安は、批判的な考え方や政治的な介入、そしておそらく道徳生活さえも活気づけるものだからだ。

 私たちの議論は、ある意味では終わりに辿り着いたが、別の意味では続いている。私たちは、当初、なぜ永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのかと尋ねた。

 その理由は、私たちは日々これらの質問に対する答えを生きているからだ。

 私達の公共的な生活、私的な生活の中で、ときには答えなどないと思えても、
哲学は、避けることができないものだ。

 私たちはカントの思想から始めた。

 懐疑主義は人間の理性の休息所であり、そこは独善的なさ迷いを熟慮できるところだ。しかし永久に止まる場所ではない。

 単に懐疑主義や自己満足に従っても、理性の不安を克服することは、決してできない。

 カントはそう書いた。

 この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかを見ることだった。われわれが少なくともそれを実行し、その不安がこの先何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、われわれは共に大きなことを成し遂げたということだ。

ありがとう。


 サンデルは共同体主義者らしく<共に生きること>に希望を見出しているわけだが、

 ロールズが永久に続く対話による個々人の正義が高まることを期待したのは理解するがね。じゃあ<合意>は誰だどこでどうやって行われるっていうんだろう。

 形式論理的にロールズが見出した、正義足りうる原則すらも合意たりえないのではないか?
 

多弁症ってw

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 7月24日(土)10時13分6秒
  思い切り自分のことじゃね?w>プルトニウム猫w

 オマエの方こそ、もう少し黙っていた方がいいじゃね?w

 先に書いたように自称「レトリック」ばかりでレトリックがデフレを起こしているぜw。

 結論とか真意とかがくっきり浮かび上がるのではなく、文章全体が冗舌で韜晦なだけだw。

 それから私も左翼の誤りや問題点をいろいろ知ってはいるが(cf 四トロ同窓会二次会で書いているように)、左翼がプルトニウム猫の言うとおりにしていたら(cf 「北欧マンセーでなんら問題ない」w)、もっと支持を失うのは必至だねw。
 

以上は、新着順1196番目から1215番目までの記事です。 57  58  59  60  61  62  63  64  65  66  |  《前のページ |  次のページ》 
/156