どえらいことをやるとすれば、何人かその可能性を持つと、私なりに考えていた挑戦者の一人に栃ノ心がいる。相撲は鋭い上に尖角と評したい持ち味を持っている。
だが、どうやら遊ばれてしまったとの印象が強く残る結びの一番であった。尖角なものを思わせる栃ノ心に対して、白鵬には相手をゆったりと包みこむと思える手前の奥の深さがある。それが時に一変して、狙ったところに一気に斬(き)り込む刃物のような変化を見せるので、さぞかし白鵬は戦いにくい相手だろうと思うのだ。栃ノ心との一番も、さあ戦端が切って落とされたとなるまでは、横綱が横綱らしく相手を投げ捨てるまでは、現在はそうなるまでの準備段階だと、見ている側にわかるのだから、嫌みな味の対戦だった。
下衆の勘繰りになってしまうかもしれないが、白鵬の頭の中にあったのは、栃ノ心との一番ではなく、六日目の琴奨菊との対戦だったのではなかろうか。この一番を無事に迎えて、双葉山につぐ対千代の富士の一番に歩を進め、双葉山の連勝記録の背後にピタリとつけたい。そんなところから、あの静から動に一気に変わった攻撃が出てきたのではなかろうか。
把瑠都が一気に突いて出る速攻を見せた。相手の豊真将は序盤戦一勝もできなかったのだから、安んじて攻めに出られるというものだろう。しかし、この大関の最大の欠点は、勝負の結果に未練を示さないところだろう。世間でいわれるように、大柄の人間は少々なことに拘泥しないということかもしれない。だが、それは結構だが、事と次第によるのではなかろうか。
この大関が新しい攻撃を繰り返すたびに、今の半分で良いから、もっと磨きをかけて、あれがこの大関の恐るべき武器になるのにと、見ている方はかなりいらいらさせられる。まず、この体から繰り出す突っぱりを仕立て上げれば、天下を制する可能性を秘めているだろう。
しかし、もともと能力のある人だから、時折、失敗の形に終わっても、人に増して威力があるといえるだろう。要は簡単にあきらめてしまわないことで、ことごとくもう少ししつこく、執拗(しつよう)な攻撃を売りものにすることだ。大型は動けない欠点がある。だが把瑠都にはその欠点はどうやらないようだ。問題は大型に珍しい足に十分に能力を発揮させたいことなのだ。 (作家)
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