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[18733] オナニーは青年を浪費する【反恋愛小説】
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:002b310d
Date: 2010/05/27 11:35
 俺の小学校の時の渾名は《ブタ村》だった――右手が恋人、生まれてこの方モテたことのないメタボ体型の冴えない大学生・田村と、ボクっ娘で実は百合属性持ち、駆け出しのグラビアアイドル・実友あぐりの二人は性別の垣根を越えた親友同士。だがある日、いつものようにキャンパスでくすぶっていた田村に、彼が夢に思い描く理想通りの美女で資産家の令嬢・古閑愛が、何の因果か声をかけてくるという一大珍事が勃発して……。
 童貞をこじらせてしまった、赤子のように清らかな肉体と法界悋気に毒された精神を持つ全ての妖精候補諸氏に捧げる、反恋愛小説。



          ***登場人物***

【田村】(CV桜井敏治)
 本編の語り手。東海地方の地方都市から上京してきた某有名私大経済学部三年生。彼女いない歴=年齢の隠れオタクで、二次元への道をひた走っている。

【実友あぐり】(CV阿澄佳奈)
 田村の中学以来の親友で、グラビアアイドルの卵。実はレズビアン。

【古閑愛】(CV高垣彩陽)
 田村と同じ大学の経済学部三年生。一部上場の製薬会社《コガ製薬工業》創業者一族の令嬢。



※CV設定は作者の完全な趣味というかお遊び以外の何物でもなく、決して読者様にまで強要するものではないことをお断り申し上げておきます。



[18733] Ⅰ――君の性春は輝いているか
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:002b310d
Date: 2010/09/16 11:30
 親譲りのフェイスで子供の頃から損ばかりしている。

 寸鉄人を刺す――という言葉の通り、分別の付かないガキのネーミングセンスというヤツは単純明快な分、ルール無用の残虐ファイト的な直截(ちょくさい)さで、人の心の奥底を抉(えぐ)るものがある。
 小学校での俺の二つ名は本名の田村(たむら)をもじった《ブタ村》という、シンプルイズワーストなものだった。もしタイムマシンであの頃に戻れるのなら、クラス内での扱いに心が折れて登校拒否児へとジョブチェンジすることもなく、無遅刻無欠席で六年間登校し続けた当時の己の忍耐力に対して、満腔(まんこう)の敬意と共に表彰状を進呈してやりたいと思っている。
 六年生の時の長野の林間学校――燃え盛るキャンプファイヤーを囲んでクラスの皆が楽しげにフォークダンスを踊り、月並みだがかけがえのない幼年時代の思い出を心のアルバムに刻み込んでいる最中、俺だけは「先生、お腹が痛いです」と仮病を使って埃臭い寮へと早々に引っ込むと、外から流れてくるオクラホマ・ミキサーの陽気な調べに胸を潰されながら、頭まですっぽりと布団を被った。切ないことこの上なかったが、クラスの女子に嫌々手を繋がれるよりは精神的にいくらかマシだった。
 中学校に入ると――第二次性徴を迎えた俺は人並みに恋に落ち、同じクラスの意中の子を校舎裏に呼び出すと、自分の持てる勇気を総動員して、昨日の晩から百遍くらい脳内リハーサルを繰り返していた告白の言葉を口にしたが、当然「お友達でいましょう」という定番の断り文句を頂戴した。
 後日、その娘(こ)が放課後の教室で友人に、「あんなのと友達だなんてマジ勘弁、豚のくせに図々しいったらありゃしね~よ」と、侮蔑を露わにした表情で明けすけに話している現場に偶然通りがかってしまい、涙目で帰宅した俺は夜の日課を行う際に、妄想の中でそいつをボロ雑巾のようにズタボロに汚してやった。しかし、日課が終了して賢者タイムに移行した途端、自己嫌悪の念がタイダルウェイブのように押し寄せてきて、悶々としながら一睡もせずに朝を迎えた挙げ句、翌日の体育の跳び箱の授業で転倒して救急車で搬送され、左側頭部に四針も縫う羽目になってしまった。この傷は今も季節の変わり目になるとズキズキうずくので、いささか弱っている。
 高校では――もう思い出したくもないので、これ以上は勘弁して欲しい。
 当たって砕けろ。俺もかつてはその教えに従って何回も玉砕を繰り返したものだったが、ある時ふと思った。――俺の行動って、旧日本軍の戦術的に何ら意味ない《特攻》とどう違うんだ? と。
 それから、バンザイアタック的に三次元に恋をするのは一切止めにした。途端に悟りが開けた。これまでの悲惨な前半生はこうして悟りを開くための前振りに過ぎなかったんじゃないかと思えるくらい、心に余裕が持てるようになった。今じゃ脳内で多くの可愛い嫁たちと、嬉し恥ずかしな新婚生活を毎晩送っている。二次元万歳。二次元最高。二次元に栄光あれ――。



「――呑むかい、これはボクの奢り」
 こいつ以外とじゃ絶対に行かないような、キモさを煮しめた風体の俺とは相容れない業界系のきらびやかな人種で賑わう、渋谷・百軒店(ひゃっけんだな)商店街の中ほどにある、オサレな佇まいのバー。
 ユーロスペースで一緒に寺山修司の『書を捨てよ町に出よう』を観た後に入ったその店のカウンター席で、それまで大きな天然石のぶら下がったイヤリングをいじりながら、聞くともなしに俺の話を聞いていた実友(さねとも)あぐりが、俺の大演説もいよいよ佳境に入ろうというところで水を差した。
「ちぇっ」
「ちぇっ、じゃないよ」
 あぐりは露骨に嘆息する。
「キミはだいぶアルコール回っててぜ~んぜん気付かなかったぽいけど、さっきまで隣の席にいたカップルが一分ほど前にテーブル席に避難してったよ。女の子の方、めっちゃボクのタイプだったのにさ」
「ざまあ」
「キミは何でそゆこと言うかなぁ……」
 今度は呆れ顔をされた。
「いや、カップルは人類共通の敵ですから。ストップバカップル」
「最低野郎だね、キミ」
 形のいい唇を軽く歪めて辛辣(しんらつ)な台詞を吐くあぐりだったが、言葉とは裏腹に俺を責める様子は毛ほども見せない。莫逆(ばくぎゃく)の友の貴重さを改めて実感する。
「まぁ、これでも呑んで少しクールダウンしたまへ」
 あぐりが俺の前に少し気取った手つきで差し出したのは、水面にライムの薄切りが揺蕩(たゆた)う、オレンジ系の甘い香りがするカクテルだった。
「何だよ、これ」
「キミのルサンチマンたっぷりの熱っ苦しい演説を嫌々聞いてるうちに不意に思い出したから、ちょいとオーダーしてみたのさ」
 瞳の奥を悪戯っぽく光らせたあぐりは、カウンターの向こうで一心にグラスを磨いている、七三分けの髪とちょび髭を綺麗に撫で付けた店のマスターらしき男性に向けて手をひらひら振ると、
「すいませ~ん、このカクテルの名前彼に教えてやって下さい」
 マスターはにこりともせず、腹の底から響いてくるような重低音で言葉少なに教えてくれた。
「《カミカゼ》でございます」
 ……俺に喧嘩売ってんですか、あ~た。
「その眉間の皺は引っ込めてさ、まあいいから早く呑んでみたまへ」
 こいつ妙に急かしやがるな、と訝(いぶか)りながらもグラスに口を付け……ぐあっ。胸郭が一気に燃え上がるような感覚。盛大にむせてしまった。
「……何だよこれ」
 俺が涙目で尋ねると、あぐりは――このカクテルはね、第二次大戦中にアメリカでウンタラカンタラ――と、こちらが訊いてもいない蘊蓄(うんちく)をひとくさり垂れた上で、
「本来ウォッカベースなんだけどね、マスターにお願いしてスピリタスで作ってもらったさ」
 と、世にも恐ろしいことを平然とのたまった。
「あぐり、テメエ……」
 俺の腸内を善玉菌ごと殺菌でもする気ですか。





          ***

 俺は高校卒業後、一年浪人した末に某有名私大に合格。東海地方の草深い田舎から上京して三年が経ち、大バビロンもかくやという首都圏での堕落しきった生活に、いい塩梅で身も心も馴染んできたところである。
 周りの学生は幼稚舎からのエスカレーター組が大半を占めており、俺みたいな外部からの人間は肩身が狭いことこの上ない。浪人生時代、母親からは「あそこは金持ちが行く大学だから別のところにしたら」と、再三に渡り忠告されてはいた。俺は、それは所謂《ステレオタイプ》というヤツで実際はそんなことはないだろう――程度にタカをくくっていたのだが、現に入学してみると母親の言は俺個人に限っては見事に的を射ていたのである。
 俺はこの世に生を受けて初めて、母親を心の底から尊敬した。小学生の時「もっとましな顔に産んでくれりゃよかったんだ」とか酷いこと言って、本当にごめんなさい。
 こんな俺も去年――二回生の時に一度だけ、一緒にドイツ語を取っている高城(たかぎ)という男から合コンなるもののお誘いを受けたことがあった。
 裏原だかセクハラだかのスカしたファッションに身を固め、講義が始まる前の雑談ではいつも己が入り浸っているクラブでのナンパ成功談を周囲に吹聴していたそいつとは、普段は別に近しくしている訳でもなかったから、高城が俺に声を掛けてきたのは単なる人数合わせ――否、男女の惚れた腫れたに関する一切を寄せ付けない、冬場の学校のプールのように淀みきった非モテのオーラを常時全身にまとっているこの俺にせめてもの施しを与えることで、自分は何て慈悲深い人間なんだろう、というささやかな自己満足に浸りたかっただけなのかも知れない。
 そして、合コン当日――セッティング場所である菊名駅前の居酒屋で、俺と俺以外の全メンバーの間には果たしてマジノライン以上に強固な絶対障壁が展開されていた。
 最新の携帯だのファッション雑誌に載っていた流行りのブランドだの高校時代の甘酸っぱい恋バナだの、テーブル上を行き交うきらびやかな会話の数々を、別次元での出来事のように遠い気持ちで聞きながら、俺は生中のジョッキを黙々と傾け、かつ皆が食べ残した料理を胃の中に収めていた。
 腹が膨れたところで「バイトが入ってるから」と適当に言い訳して退散することにしたが、俺が帰り支度をしているのに気を留める奴は誰一人としていなかった。以後、合コンなるものに誘われることは絶えて幾久しい。
 ――さて、そんな母親以外の異性とは没交渉な俺ではあるが、百パーセントそういう訳でもない。
 今しもカウンター席で酒を酌み交しているあぐりとは、水魚の交わりと言っても過言ではないくらいの仲だ。まぁ、《仲》といっても世間一般的な通念である男女のそれとは全く異なる、同性同士で培われる友情と何ら変わりないものだが。



「……長いよな」
 これまたあぐりが頼んだ、コンクラーベとかいう珍妙な名前のノンアルコールカクテルで灼(や)けた喉を鎮めながら、俺はポツリと呟く。
「ん、長いって?」
 一昔前の少女漫画のように存在感のある睫毛(まつげ)をこちらに向ける、あぐり。
「いや、俺とお前の腐れ縁さ」
 中学の時からだから、かれこれ十年になんなんとするだろうか。
「あぁ、そういう意味」
 得心がいったあぐりは大きく頷くと、白いプレートに盛られて運ばれてきたシーザーサラダを平らげ始めた。相変わらずの健啖(けんたん)ぶりだ。
「ん~、んまいっ」
「おいおい、身体が売り物なのにそんなにバクバク食って大丈夫かよ。チーズとクルトン乗ってるから結構カロリー高めだろ、それって。もし無駄な脂肪が付いてプロポーションが崩れでもしたら、お前の数少ないファンが身も世もなく嘆き哀しむんじゃないのか」
 俺は親切ごかしにそう言いつつフォークを伸ばそうとしたが、そんな俺の思惑をとうに見透かしていたあぐりは、皿をサッと手前に引き寄せた。
「ふふん、クルトンはあげないよ」
「……ちっ」
 俺がクルトンのカリカリした食感が大好きなのを承知しているのだ。さすがに腐れ縁は伊達ではない。
「それにボクはいくら食べても全然太らない体質だからいいんだよ~だ。キミこそ少しはダイエットに励んで、世の女性を振り向かせる努力をした方がいいんじゃないかい」
 ニヤリと八重歯を覗かせて、あぐりが反撃に転じてきた。
「まっ、デブが痩せても女にモテるわきゃないんだけど」
「……随分と酷い言いようだな、おい」
 とはいえ否定出来ないのが悔しい。もし、体重に反比例してモテ度が上昇するという法則があるならば、俺も全身全霊を挙げてダイエットするにやぶさかではないのだが――って、いかんいかんっ。まるで三次元にまだまだ未練があるような言い方じゃないか。
「まっ、本気で痩せるつもりならダイエットの達人であるこのボクが、いつでも相談に乗ってあげるけどさ――それはともかくこないだメールした、漫画雑誌の表面を飾ったボクのグラビア、ちゃんと見てくれたよね?」
 ザクッと軽快な音を立てて、白いドレッシングの絡んだレタスにフォークを刺しながら、あぐりが上目遣いで訊いてきた。
 彼女は高校卒業後、上京してアパレル業界で働いていたところを中堅どころの芸能プロダクションにスカウトされ、現在は駆け出しのグラビアアイドルをやっているのだ。
「ああ、あのクソつまらん連載しかなくて廃刊フラグ立ってるやつな。去年の夏クールで連載が一本アニメ化したけど、一話目から盛大に作画崩壊しててシナリオはグダグダの近来まれに見る酷い作品だった」
 俺は自分でも意識しないうちに乱暴な言い方をしていた。実際は最終回までちゃんと観てそれなりに楽しめもしたのだが、なぜそんな言い方になったのかは自分でもちと量りかねた。
「そんな調子で、ボクはよく判んないけどネットのアンチスレとかいうのにも顔真っ赤にして書き込んでんでしょ。暗いね~、これだからオタクは嫌なんだ」
「言ってろ」
 俺はフンと鼻を鳴らして、
「それより、わざわざお前のグラビアを確認するためだけに六百五十円もの大金をドブに捨ててやったんだ。少しは感謝の意を表してもらいたいもんだな」
「恩着せがましい言い方が引っかかるけど、一応サンキュ。そうそうっ、あれサイパンで撮ってきたんだよ。一泊二日で全然ゆっくり出来なかったけど、海の色がそれこそ限りなく透明に近いブルーって感じでさ。砂浜もわあって声を上げちゃうくらい綺麗だったんだ。いや~、《白砂青松》ってのはこういうのを言うんだろうね」
 サイパンのビーチに松はないだろ――と、ベタなツッコみを入れる気も起きなかったので、
「ふ~ん」
 極めておざなりな相づちを打つにとどめた。どうせサイパンなんざ、俺には一生縁もゆかりもない場所だろうし。
「どう、ヌいた?」
 ダイレクトな質問だな、おい。
「もしそうだとしても、俺がイエスと答えられると思うか」
 そもそも、俺は顔見知りの人間を何の躊躇(ためら)いもなくオナペットに出来るほどタフな人間ではない。
「そんなのはお前のファンをやってる奇特な連中にでも訊け――てゆ~か、お前は野郎にいくらモテても嬉しくも何ともないだろうに」
「そりゃ、個人的にはそうなんだけどさ……」
 あぐりは煮え切らない口調でごちるようにそう言うと、カウンターに視線を落として何やらじっと考えていたが、やがて吹っ切れたように顔を上げて、
「でも、サイン会とか握手会ではいっつも元気をもらってる、仕事的にはボクのすっごい大事なお客様だよ」
 俺に、というよりは自分に向けた言葉のように俺には感じられた。
「お前でもそこら辺は割り切れるもんなんだな」
「まぁね、仕事だもん割り切らなきゃ」
 ふと、あぐりの瞳に陰りが生じたが、俺はそれに気付かないふりをして突き出しのバターピーナッツを口に放り込んだ。



 あぐりは同性愛者である。
 本人からカミングアウトされたのは高校の時だった。今はすっかり克服したみたいだが、出会った頃は超が付くほどの男性恐怖症で、クラスの男子に近付かれるだけで小動物のように脅えていたのを覚えている。そうなった原因については、俺はよく知らないし知ろうとも思わない。カミングアウトされた夜に「昔、よく遊んでくれた近所のお兄さんに――」という話を断片的に聞いただけだ。
 そんな筋金入りの男嫌いだった彼女と俺が、一体どういう魔法をかけられてかくも近しい関係になったのか――縁は異なもの味なもの、とはよく言ったもので、その契機はほんの些細な、そして現在に至るまで解かれていない多少の誤解を含んだものだった。





          ***

 あれは中一の時。
 テレビの天気予報が入梅を報じて数日経った、ある日の放課後――風紀委員会のミーティングが終わった俺が忘れ物を取りに教室に戻ると、あまりガラのよろしくない数人の男子が、他人の席の机の上に傍若無人に腰掛けて雑談に興じていた。
 話の内容は一言で言うと、クラスの女子の品定めだった。誰が可愛くて誰がブスか――机の中をまさぐりながらそれを聞いているうちに、俺は耳朶(じだ)を強い酸に侵されたような感覚がした。
 が、その感覚は口汚い言葉でブスの烙印を押された女子への同情に端を発する義憤などでは決してなかった。それは、もっと卑近な私憤――ただ単に、己自身が陰でさんざん《ブタ村》呼ばわりされてきた苦い記憶がフラッシュバックした代物に過ぎなかった。
 俺はわざとガタンと音を立てて自分の机の椅子を元に戻し、芝居じみた乱暴な足取りで教室を後にした。そして入口を出てすぐ、それまで中の様子を窺っていたあぐりと鉢合わせたのだ。
「あ……」
 俺は間の抜けた声を上げていた。
 同じクラスの彼女とはそれまで一回も言葉を交わしたことはなかった。入学式の後のホームルームで行われた自己紹介で、彼女を初めて知った時の第一印象は《可愛いけど取っ付きにくそうな子だな》というもので、彼女は周囲の男子に対して完全に心を閉ざしているように見受けられた。
 実際、入学してしばらく経った日の休み時間――クラスの女子と一緒に談笑しながら昼食を摂っていたあぐりが机から箸を落とし、それを現場に通りかかった俺が拾ってやったことがあったのだが、彼女は俺が差し出した箸をまるでストリートチルドレンが店先の商品をかっぱらうような手付きで、一言も礼を言わずに受け取ったのである。
 あまりのことにすっかり毒気を抜かれてしまい、無視された怒りよりも純粋な驚きの感情が沸々と沸き上がってきたのを覚えている。
 それ以来、彼女のことが何となく気になる存在になっていたのだが、過日の箸の一件があるだけに、こうして面と向かうと気まずいことおびただしい。が、今日の彼女は俺を路傍の石ころのように無視することもなく、切れ長の双眸(そうぼう)を俺の呆けた顔に結んできた。
 一体何なんだ? 俺の頭の中を疑問が駆け巡り、胸が万力で締め付けられたように苦しくなる。
「じゃ、じゃあ」
 すっかりしどろもどろ状態の俺が逃げるように立ち去ろうとすると、
「待って」
 と、強い調子で呼び止められた。
「田村君……だよね、一緒に帰ろっ」
「は?」
 まるで異国の響きを聞いた風で、俺の脳が言葉の意味を理解するまで優に五、六秒はかかった。
「田村君、家は?」
 問われるままに町名を言う。
「ふ~ん。ボクん家(ち)その先の団地だから、ほとんど帰り道一緒だね」
「い、いや実友さん、教室に用があるんじゃ――」
「いいのっ」
 彼女はなぜか怒りを露にした顔で吐き捨てると、昇校口の方にくるりと身を翻した。頭の中には雑多な疑問が混線してはいたものの、別段断る理由もないし美人に誘われて正直悪い気はしなかったので、俺は黙って後を付いていった。
 黄昏(たそがれ)時、夕陽を受けてオレンジに光る校門を出る。
 生まれて初めての、女の子と一緒の下校タイム。小学校時代、同級生の女子からの扱いはせいぜい排水溝の下のカマドウマと同レベルがデフォルトだった俺にとっては、この世のどこかに存在する神様なる超自然の存在に全財産を捧げてもいいくらいの嘉(よみ)すべき瞬間なのだろうが、今までお互いろくすっぽ会話したこともない相手なので気づまりで仕方ない。
 何か場の盛り上がる話をしなきゃ、話をしなきゃ――強迫観念めいた考えが頭の中で激しく火花を散らしながらぐるぐる回転しているが、肝心の言葉は舌がもつれて上手く出て来ない。そもそも、女子にどんな話題を振れば盛り上がるのかが皆目判らない。
 中学から五百メートルほど離れた県道に差しかかり、二人で押し黙って信号待ちをしている間には、内心後悔ではち切れんばかりになっていた。
 ああっ、この場から急いでエスケープしたい。いっそのこと「用事あるから」とでも言ってダッシュで逃げ去ろうか――そこまで思いつめた時、
「ごめん、田村君」
 ようやっと息苦しい沈黙が破れた。
「……こないだ箸拾ってくれた時」
 彼女は臆病な小動物のように落ち着かない感じで、そう言ってきた。
「あ、ああ」
「悪いなあ悪いなあと思っても、あの時は何も言えなくて。ボク、男の人がすっごい苦手なんだ。近くに寄られるだけで吐き気がして、全身の血がさっと凍り付いちゃうんだ」
 血が凍り付く、とは随分と穏やかならざる表現である。
「あ、ああ」
 俺は酷く戸惑いを覚えつつ、最前と同じ相づちを壊れたレコーダーみたいに繰り返すしかなかった。
「びっくりだよね、急に声かけちゃってさ」
 そりゃまあ。青になった信号を渡りながら頷く。
「でも、嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
 俺は思わずオウム返しに訊いていた。そんなことを言われても、俺には全くもって思い当たる節がないのだが……?
「さっき、うちのクラスの女の子の品定めしてた連中に怒ってたでしょ」
「……う、うん」
 曖昧に応じる。
「ボクも美化委員会終わって教室戻ろうとしたら、あいつらが話してるのを聞いちゃってさ。あぁ、世の中の男ってやっぱこんな目でしか女の子を見てないんだなと思って腹が立った……てゆ~か、凄く哀しくなっちゃったんだ」
 そう語る彼女の口ぶりは、内心から噴き出してくる負の感情をことさらに押し殺したものだった。横目で彼女の様子を窺うと、顔色は紙のように白くなっていて、頬の辺りが強張っていた。視線をやや下の方に移すと、ぎゅっと握り締められた両の手が心なしか震えている。
「でもさ、キミはそんなあいつらにボクみたく腹を立ててくれたじゃん。すごい嬉しくって……だから、思い切って声掛けてみたんだ」
「あ、ああ」
 それで急に一緒に帰ろうと誘われたのか――ようやく彼女の言動に合点がいくと同時に、俺は激しく当惑した。
 ――違うんだよ実枝さん。君は勘違いしてるようだけど、俺は小学校の時の嫌な記憶が蘇ったから不快になっただけで、そういったフェミニズム的な意味で腹を立てた訳じゃ全然ないんだよね――。
 本来ならはっきりこう告げるべきだったのかも知れない。が、そうすると彼女との縁が途切れてしまいそうな気がして、結局は言い出せなかった。
 エクスキューズめいた言い方だが、先方の勘違いに乗じて彼女をモノにしようと狙っていた訳ではない。そんな振る舞いが平然と出来るほど神経の太い人間ではないし、そもそも俺の好みのタイプは楚々とした、長い黒髪が似合うおしとなかな女性なので、マニッシュな雰囲気の彼女はいくら顔立ちが良かろうと俺のストライクゾーンにはちっとも入ってこない。
 気さくに話せる友達を作るせっかくの機会を失いたくなかった――ただ、それだけのことだ。
「俺も実友さんに声掛けてもらって嬉しいよ」
 俺は口に出してはこう言うにとどめた。まあ、嘘ではないし。
「今のクラス、小学校で仲のいい奴がいないから」
 本当は小学校でも仲のいい奴なんていなかったが。
「ボクも一番仲良かった娘(こ)が中学校で別の私立行っちゃってさ、ちょっと寂しかったんだ。でも、これからキミといい友達になれそうな気がする」
 よろしく、と彼女は八重歯を見せて破顔一笑する。
「ああ、こちらこそよろしく」
 胸の奥がじんわり温まっていくのを感じながら、俺も笑顔で応じた。



 これが、俺たち二人の青臭い出会いだった。
 よくつるむようになった俺たちは周りからカップル扱いされ、噂を耳にした俺たちは「んな訳ね~だろ」と互いに笑い合った。
 高校も示し合わせて同じ公立に進学した。放課後はしばしば学校の最寄駅近くのファーストフード店で閉店時間ギリギリまでくっちゃべり、俺の恋の相談にも親身に付き合ってもらった。頂戴したあまたのアドバイスが活かされたことは皆無だったが。
 中学で出会ってから今に至るまで、俺とあぐりはそういう風に時間を共有してきたのだ。





          ***

 無形文化財に指定してやってもいいくらいの芸術的な仕草で、マスターがカクテルをリズミカルにシェイクする様を見やりながら、
「――そういえば最近どうよ、まだ例のスタイリストと付き合ってんのか?」
 俺は訊いた。
「ううん、昨日別れた」
 あぐりはモスコミュールを一気にあおった。
「彼女バイだって以前電話で言ったじゃん。こないだ怪しいな~って思って携帯のメールこっそりチェックしたら出てきたですよ、例の元彼とのラブラブなやり取りの数々が」
「あちゃ~。切れたとか言いながらやっぱ続いてたんだな、ズルズルと」
「うん。ボクと行った円山(まるやま)町のホテルに翌日も元彼と行ってたのには、さすがに怒りを通り越して呆れちゃったよ。で、プチ修羅場を一時間ほど挟んだ末にバイバイという訳ですよ」
 あぐりは苦笑いを浮かべて、まるで身体中の空気を抜くように長いため息をした。
「そりゃ別れるわな……お前の話聞いてていっつも思うけどさ、やっぱ業界系ってシモに関しては相当ルーズなんだな」
「うん、ボクはそういうの嫌いだけど」
 軽くかぶりを振って気持ちを切り替えたあぐりは、俺の鼻先にピンと人差指を立てて、
「そういうキミは……って聞くまでもないか」
「ちょ、お前なぁ」
 一応聞いてくれ、礼儀上。
「ああ、そうですよ。俺は相も変わらずこの光って唸る右手が十年来の恋人ですよ。毎晩独りで轟き叫んでますよ。あ~、オナニーって楽しいなあっ」
 俺は半ばヤケクソ気味に声を張り上げた。
「いや……そんな逆ギレ風味で言われても反応に困るんだけど」
「まあ、考えてもみろ。世の中には避妊を怠った上に男としての責任も取らないクズ野郎が星の数ほどいるけど、オナニーは自分一人でやることだから誰も傷付けないし、前に雑誌か何かで読んだんだが――オナニーをする人はしない人に比べて前立腺ガンに罹る確率がグンと減るらしいぞ。女性に優しくて健康にもいいだなんて、最高じゃないか。オナニー万歳!」
「そんな、唾飛ばして熱弁されても……悪いけど、キミの言葉はいっくら理論武装しようと負け犬の遠吠えにしか聞こえないよ。それに、いつだったか深夜ラジオで伊集院光か誰かが言ってたけどさ、オナニーはどんなに極めても絶対にセックスには進化しないってさ」
「……至言だな、それ」
 ヘコんだ俺が肩を落とした時、背後を通り過ぎる二つの靴音がした。
 振り返ると、三十分ほど前に俺の隣からテーブル席に避難していった件のカップルがレジで会計を済ませようとしているところだった。
 男の方が万札を二枚出して従業員から釣りをもらい、両手をスーツのポケットに突っ込みながら出口に向かうと、女の方は男の左腕を両手でしがみついて自分の胸元にぎゅっと引き寄せ、鼻にかかった甘ったるい声で語尾をやたら上げて「次はどこ行く~?」と言い、男は「じゃあ、坂の上の方行こうぜ」と応(こた)えてドアを開け、密着した二人の姿はカランカランとベルの鳴る音と共に闇の中に溶けていった。
「ホテル街方面だな」
 俺が呟くと、あぐりはドアの向こうにやたら熱を含んだ視線を向けて、
「……ベッドインの光景を想像すると何だか興奮してきちゃったよ、女の子の方ボクのストライクゾーンに入りまくりなんだよね~」
 今にも舌舐(な)めずりせんばかりの勢いである。
「つくづく思うよ、お前ってホント女の皮をかぶったオヤジだよな」
「ふん、二十歳過ぎて童貞の奴に言われたくないね」
「うっせ~、変態百合女」
 ――とまあ、以上のような心温まる会話を夜中の一時くらいまでダラダラと続けてバーを出た俺たちは、明かりが消えてすっかり静まり返った東急百貨店を横切ってセンター街に入り、始電が動くまでカラオケボックスで時間を潰すと、
「じゃ、まったね~。ボクのグラビアでヌいてぐっすり寝るといいよ」
 向こうはタクシーで事務所が借りている南青山の高級マンションまで、
「ふざけろよ。てゆ~か、次はもうちょい肩肘(かたひじ)張らず気楽に呑める店チョイスしろよな」
 俺は東急東横線で武蔵小杉のボロアパートまで、それぞれ帰宅した。



 男やもめに適度にウジの湧いた、陽あたり不良な六畳一間。卓袱台(ちゃぶだい)の上、飲み終わったペットボトルがニューヨークの摩天楼よろしく林立する中に、あぐりが表紙を飾っている件の雑誌があった。
 魅惑の常夏ボディ――安っぽいにもほどがある惹句が添えられたグラビアの中のあぐりは、白地に黄の水玉模様の水着姿だった。白い砂浜と青い海をバックに中腰でカメラの方に水をかけるようなポーズを取って、さほど豊かでもない胸の谷間を精一杯強調していた。
 その吸い込まれるような笑顔にしばらく視線を落としていた俺は、おもむろに雑誌をひっくり返した。裏表紙はこの手の雑誌の常で、持っているだけで幸運を呼び込むという《何とかストーン》の広告だった。生まれてこの方モテなかった僕に石の力で素敵な彼女がっ――というヤラセ以外の何物でもない利用者の声が、ふと目に付く。
「んな訳ね~だろ」
 声に出してそう毒突き、微妙に湿気った万年床に寝っ転がった。
 秘蔵のコレクションの中の一本をDVDプレイヤーに挿入して、三十分ほどかけて堪能した後、使用済みのティッシュを枕元のゴミ箱に放り込み、携帯のアラームを三時に合わせてから眠りに就く。
 六時からまた駅前の居酒屋でバイトだ。



[18733] Ⅱ――それは舞い散るティッシュのように
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:3678f195
Date: 2010/05/23 05:59
 あぐりと渋谷で呑んだ翌週の月曜。
 成績的には地平すれすれの超低空飛行ながらも、どうにかこうにか平穏無事に三年生を迎えることが出来た俺は、選択で取った《都市経済論》初回の講義を受けるべく、感覚的にも物理的にもヘビーな己の身体を陸(おか)の上のゾウアザラシよろしく引きずって、講義のある第三校舎に向かっていた。
 眠い、非常に眠い。
 こんなにもうららかな陽気の日に、なぜわざわざ未来の社畜、資本主義の犬を量産するだけのクソ面白くもない講義を受けなくてはならないのか――何とも忌々しい思いが込み上げてくる。まぁ、睡眠不足の原因は先週の金曜に秋葉原で予約特典込みでゲットした新作のエロゲーを夜っぴてプレイしていたからで、完全に自業自得以外の何物でもないのだが。そして、他者のせいに出来ないところが更に忌々しい。
 第三校舎の前に延びた桜並木に差しかかると、ピンクの花弁を散らした木々は八割方が若草色へと移ろっていた。
 ふと、木漏れ日を受けて銀色に光るビール缶が手前の木の根元に転がっているのが視界に入り、新入生諸君にとっては薔薇色のキャンパスライフへの扉を開く前奏曲となったであろう――俺自身は演奏前の音合わせの時点で「お前舞台立たなくていいから」と降板させられた――様々なサークルが開いた新歓コンパの小憎らしい賑わいを、否が応でも俺に想起させた。
 嘘か真か知らないが、人がお花見をするのは桜の花に人の精神を高揚させる成分が含まれているから、という説があるのをものの本で読んだ記憶がある。が、そのトンデモな説は俺には当てはまらない。俺は桜の開花シーズンになると決まって、暗雲が垂れ込めたように気持ちがどよんと沈むのだ――。



 話は変わるが、俺は女性の横顔がたまらなく好きだ。フェティシズムすら感じているといっても過言ではない。
 顎のラインはいささかも弛(たる)むことなくすっきりと、鼻梁は高すぎず低すぎず滑らかかつ均一に通り、こめかみの辺りには数本の髪がはらりと切なげに落ち、絶妙な塩梅でうなじが艶めかしく覗いている――これが俺の考えるあらまほしき横顔である。
 中学三年の時、そんな理想的な横顔を有する女の子が隣の席になったことがあった。既に彼氏持ちと聞いていたので告白こそしなかったが、ダルな授業の合間、俺は一服の清涼剤を味わうように彼女のパーフェクトな横顔を堪能した。
 そして、卒業式の日――式次第が終わって教室に戻り、クラスメイトが互いに卒業アルバムの余白に寄せ書きしているのを、まるで透明のサナトリウムに隔離された結核持ちのような気分で見ていると、それまで言葉を交わしたこともなかった隣の彼女が「田村君、寄せ書き書いてもいいかな?」と話しかけてきたのだった。
 最初は信じられないという思い、次いで歓喜の思いで胸の内が満たされていくのを感じながら俺が何度も頷くと、彼女は満面の笑みを湛(たた)えてアルバムに赤マジックで何やら書き込むと、「恥ずかしいから家帰ってから読んで」と言い残して、教室の入口近くで待っている友達グループの方に駆けて行った。
 俺はこの上なく大事な宝物を抱えているような心境で帰路に就いたが、国道を突っ切って俺の家が面している川べりの土手――その年は記録的な暖冬だったらしく、早咲きの桜が道の両側に咲き誇っていた――まで差しかかったところで、ギリシア神話のパンドラよろしく遂に辛抱堪らなくなってアルバムを開いた。そう、開いてしまった。
 瞬時、アルバムの中から絶望が飛び出してきた。

 ――授業中いつもジロジロ見やがってキモいんだよ、ストーカー野郎!

 アルバムにはそう殴り書きされていた。
 心臓が急速冷凍されたような感じがした。俺は日本語を超越した奇声を発しながらアルバムを思いっきり河原に放り投げると、涙がこぼれ落ちないように全速力で帰宅した。家に着くと式に来て先に戻っていた母親が何やら話しかけてきたが、それを無視して階段を駆け上がって自室に逃げ込むとベッドに身を投げ出し、拳を叩き付けてひたすらに涙と声が枯れるまで泣いた。



 彼女に刻み込まれた呪いは今に至るまで俺の中でひっそりと、だが確固として息づいている。だから、俺は桜の花を見るとどうしようもなく憂鬱な気分になるのだ――。





          ***

 二階の教室に入り、後ろから三列目の隅の席に腰を下ろす。
 去年は概論を受け持っていたので顔は見知っている初老の教授を待ちながら、話し相手もいないので無為にテキストをめくっていると、
「……あのっ」
 遠慮がちな女性の声がした。反射的に顔を上げてしまったが――俺には関係ないよなとすぐに思い返し、唇の端を軽く持ち上げて苦笑しながら視線をテキストに戻すと、
「あ、あのっ」
 また同じ声がした。
 女性の美しい声を形容するのに《玉を転がすような》というクラシカルな表現があるが、今聞こえてきた声はまさしくその形容に相応しい、内なる気品を感じさせる明澄な響きだった。ああ、昨日やったエロゲーのメインヒロインの声にどことなく似ているなあ。きっと、寝不足で疲れきった俺の脳内だけに聞こえる幻聴に違いない。帰ったらさっさと寝よう……。
「田村君だよね」
 幻聴幻聴……って、あれ? 再度顔を上げると、目の前で萌黄色のワンピースを着た細身の女の子が微笑んでいた。
 胸元まで伸ばした明るい栗色の髪はふんわりした巻き髪で、滑らかな肌は透き通るように白く、必要最小限の化粧で最大の効果を上げていた。一番印象なのは黒真珠のような輝きを放つ円らな瞳で、あぐりの切れ長の目とは対照的だった。
 有り体に言うともろに俺の好みのタイプだった。夢じゃないだろうか。
「隣いいかな」
「う、うん」
 心臓がアップテンポでビートを刻みだすのを感じながら頷くと、その女の子は綺麗な所作で席に就いた。女性特有のバニラみたいに蠱惑(こわく)的な身体の香りが、俺の鼻先を優しく刺激する。
「お久しぶりです。私、古閑愛(こがめぐみ)ですけど……覚えてます?」
 女の子は探るような目をこちらに向けた。
「……いえ、どこかで会いましたっけ?」
 俺が正直に申告すると、古閑さんの口元に微苦笑が浮かんだ。
「ショックだなぁ、高城(たかぎ)君がセッティングした一年前の合コンで一緒の席だったんだけど」
 高城? 俺の脳味噌はたっぷり十秒ほど時間をかけて、それが俺を一回だけ合コンに誘ったナンパ野郎の名前だという情報を読み出したが、目の前の彼女――古閑さんに関しては少しも思い出せないままだった。
「ごめん、全然記憶にない」
「う~ん、あの時田村君と会話したの二言三言だから無理もないかしら」
「じゃあ――」
 ――何で今更俺なんかに声をかけたんだ? そう言いさして、慌てて向こうに気取られないように語尾を濁した。
 いかんいかんっ、そんな言い方は古閑さんに喧嘩売ってるみたいじゃないか。異性からは路傍の石扱いが当然の俺に、理想が服を着て歩いているような美女が向こうから声をかけてくるなんて盲亀浮木(もうきふぼく)レベルの奇跡、この先地球が何億回回ってもあり得ない。
 俺は乱れがちな呼吸を整えつつ、自分に言い聞かせる。このチャンスをフイにしたらきっと一生後悔し続けるぞ。フラグ立ては慎重に慎重に……。
「――ト、見せてもらえるかな」
「え、えっ、何を?」
 しまった、すっかり自分の世界に入ってしまっていた。
「テキスト。今日バッグに入れるの忘れちゃって」
「あ、あぁテキストね」
 うわ、思いきりキョドッてしまった。変なヤツと思われてないだろうか。
「助かった~、田村君の他に知ってる人全然いなくてさ」
「あ、そうだったんだ」
 ……俺、ひょっとして体よく利用されてるだけですか?
 嫌な考えが頭をよぎった時、いきなり机の上に置かれた古閑さんのバックから今流行りのJ‐POP(何ともスカした嫌な言い方だが便宜上こう呼ぶ)の着メロが流れだし、教室内に安い愛を振りまいた。
「いけない、バイブにするの忘れてた」
《バイブ》という単語に俺の胸はいささかのときめきを覚えたのだが――それはさておき、古閑さんは照れ笑いを浮かべながらバックから銀色に光る携帯を取り出し、ボタンを長押ししてマナーモードにした。
 まるでロレックスの時計のような、やけに高級感を誇示する光沢を放つ携帯で、表面には《ヴェル何とか》とロゴが入っていた。五文字だからボーダフォンではないな……とにかく聞いたことがないメーカーだった。
 古閑さんが携帯をバックに再びしまうと同時に講義室のドアが威勢よく開いて、
「いや~、初回から遅れて申し訳ない。中央線がずっとストップしててね、しまいには線路の上を歩かされたよ」
 波打つ天然パーマの胡麻塩頭を掻き掻き姿を現した教授に、別に来なくてもよかったのに心の裡で応えて、俺はのろのろと正面に向き直ってルーズリーフを開いた。
 講義の間、俺はずっとうわの空だった。教壇の上では教授が振り子よろしくせかせかと左右を往復しながら、高めの声でガルブレイスがどうとかリチャード・フロリダがどうとか熱弁を振るっていたのだが。
 教授に当てられなかったのは幸いという他ない。もしそうなったら、自分がダメ学生であるという事実を衆目に晒(さら)さざるを得なくなっていたことだろう。
 そして、隣の古閑さんはそれこそ白魚のように繊細な手に握ったシャープペンを動かしてこまめにノートを取り、テキストに真剣な眼差しで向き合い、教授の話を一言も聞き漏らすまいという勢いで聴いている。しまいまでノートが真っさらなままな俺とはえらい差だ。
 そのよく整った横顔に、俺の五感は吸い込まれるように集約されていった。





          ***

 皆目身にならなかった都市経済論が終わった後の昼休み――俺はキャンパス内の鬱蒼たる木立に囲繞されたカフェテラスで、古閑さんとテーブルを挟んで向かい合っていた。
 信じられないことだが、古閑さんの方から「田村君、カフェテラス行こっか」と積極的に誘ってきたのだ。あまりに都合が良すぎる展開。俺の脳内では高揚感と警戒心が絶妙の割合で撹拌され、軽い混乱状態に陥っていた。もしかしたら、俺を取り巻くこの全宇宙自体が実は壮大なドッキリなのではないか――そんなSFチックな誇大妄想すら浮かんできたが、バカバカしいとすぐに思い返す。
 本来なら古閑さんに頬をギュッとつねってもらいたいし、健全な男子として嗜む程度にはMっ気を有している自分としてはむしろ望むところなのだが、それを申し出ると即《アブナいヒト》認定されるのは明々白々なので、丸いテーブルに隠れた自分の右膝をそっとつねってみる。
 ……うん、やっぱ痛い。
「俺、カフェテラスなんて初めて来たよ」
 俺は落ち着きない子供のように辺りをきょろきょろ見渡した。
 カフェテラスは白を基調とした六角形の建物で、太陽光を多く取り入れられるようフランス窓を多用した設計になっている。俺たちの隣のテーブルには男女織り交ぜた五、六人のグループが陣取り、いかにも良家のボンボン然とした一座の中心人物とおぼしき茶髪の男が、新しく買い換えたボルボの乗り心地について滔々(とうとう)と弁じていたが、どうせ買ったのは親の金だろう。ブルジョアジーは死ねばいい、と切に思った。
 それにしても……尻が絶えず椅子から数ミリ浮いてるような心持ちがして、落ち着かないことこの上ない。それは、昼休みの俺の居場所は専らロウワークラスのむさ苦しい男子学生がわらわらと集結する学食であり、アッパークラスの鼻持ちならない連中が幅を利かすこのオサレ空間など、今の今まで生涯訪れる予定がなかったからである。
 それにしてもここは想像以上にストレスがたまる場所だ。いっそのこと、テーブルの下に爆弾でも仕掛けて帰ってやろうかしらん――ふと、古閑さんの視線に気付く。その清らかな瞳は、俺の中に渦巻いているどす黒い感情まで見透かしているような気がした。
 ギョッとした俺は深く息をして邪念を振り払い、
「古閑さんはよく来るの?」
 取り敢えず無難な会話を試みることにした。
「うん、私はお昼は大概ここかな。売店でパンと飲み物買って」
「お昼はパンなの?」
「うん、私ん家(ち)朝食はいつもご飯なのよ。お父さんが朝は米じゃないと力が出ないって言うから。でも、私はパン大好きだからお昼はいっつもパンに」
「ふうん」
 ということは、古閑さんは毎朝規則正しく起きて家族みんなで囲んだ朝食をきちんと食べてから大学に来ている――ということになる。昼夜逆転しがちで不健康、バイオリズム乱れまくりな俺とは比べるのもおこがましい。きっと厚生労働省辺りから表彰されてもいい理想的な生活習慣が、彼女には幼少の頃から実装されているのだろう。
「偉いなあ、古閑さんは。俺なんか宵っ張りの朝寝坊だからさ、朝飯なんて抜いてギリギリまで惰眠を貪ってるよ」
 自嘲的な物言いをして俺が笑うと、古閑さんも小首を傾げてくすりと笑う。一つ一つの何気ない動作がいちいち可愛らしい。
「今日も実は寝不足でさ、講義の内容も右から左だった」
「あらら、じゃあ後で私のノートコピーしてあげよっか。あの先生の試験って難しいじゃない」
 はい、去年概論の単位落としました……って、えっ。
 思いがけない申し出に俺の胸は一際大きく脈打ち、古閑さんとの関係が会話をし始めたばかりにもかかわらず、単なる顔見知りから親しい友人へと深化したように思えた。もしかして、友人の先のステージを期待してもいいのだろうか?
「そんな夜遅くまでいつも何してるの?」
 いきなり冷や水を浴びせられ、俺は「うっ」と言葉につまった。
「……え~と、テレビ観たりパソコンしたりかな」
 俺は国会で答弁する官僚もかくやという曖昧な表現で返答した。まさかに「深夜アニメ観たりエロゲーやってま~す、それとオナニー」なんて、あぐりの奴以外にカミングアウト出来る訳もない。
「古閑さんは家で何してるの?」
「だいたい本読みながらCD聴いてるかな。最近はクラシックの室内楽曲系がマイブームでよく聴いてるの。超メジャーで恥ずかしいんだけどブラームスが好き」
「はあ」
 俺は気の抜けた相づちを打った。アニソン系しか聴かない俺にとっては、ブラームスの室内楽曲とやらを超メジャーと言われても、フェルマーの最終定理の解を聞かされるのと同じくらいピンとこなかった。
「ブラームスって『ハンガリー舞曲』の?」
「よく知ってるね、田村君」
 古閑さんの顔がぱっと明るくなったが、済みません……実はその曲しか知りません。
 そして、なぜ俺が『ハンガリー舞曲』がパッと出てきたかというと――小学校高学年の時の芸術鑑賞教室でクラシックを聴かされた時、うとうとしていた俺はちょうど『ハンガリー舞曲第5番』を演奏中に豚のようないびきをかいてしまい、それから半月ばかり周囲の連中に《ハンガリーブー曲》とからかわれた黒歴史があるからに他ならなかった。
 その後、話題は自然とクラシックの方に流れていった。といっても話し手は専ら古閑さんで、俺はタイミングタイミングに昭和こいる師匠ばりに適当な相づちを入れるだけだったが。
 昼休みが終わり、古閑さんは図書館に用があるからと席を立った。
「じゃまたね、田村君」
 彼女が去り際に皓い歯をこぼして残していった、艶やかな笑顔――それは俺の心の真ん中を見事に射抜いた。俺はすっかり熱に浮かされた体で、口を半開きにして古閑さんの後ろ姿を見送っていた。
 そして、その笑顔は講義が終わってレンタル屋に寄ってから帰宅し、エロゲーのルートを二つほどクリアして感動覚めやらぬうちにシナリオの感想をネット掲示板に書き込み、レンタルした女子校生ものをたっぷり堪能して果ててから眠りに就くまで、俺の脳内でサブリミナルのように間歇(かんけつ)的に再生され続けていた。
 それは久しく忘れていた――いや、忘れようと努力していた感情の再来だった。





          ***

 週末。暇なんで買い物に付き合え――と、あぐりにまたぞろ渋谷まで呼び出された。
 東急ハンズで落ち合って、あぐりが立派なケース付きのバーテンダーセットやらカクテルグラスやらを買った(当然荷物は俺が持たされた)後に入った喫茶店で、俺が先日の一件を宝くじが当たったようなテンションで話すと、あぐりはしばらく子細ありげな表情をテーブルの上のカプチーノに落としていたが、つと面を上げて、
「――で、キミはいくらで宝石を売りつけられたんだい?」
「テメエ、グーで殴んぞ」
 デート商法じゃねえよ。
「あ、違った。じゃあ怪しい宗教関係の勧誘かな。お願いだから、いきなり古代マヤ文明は人類滅亡を予言していたとか言い出したりしないでよね。ボク、怪力乱神をマジ語りする人とは付き合いたくないんで」
「全体重で押し潰すぞ、コラ」
「ま、冗談はともかく……キミが美人さんに声をかけられるなんて異常事態、こりゃ裏に何かあるなって勘繰りたくなるのが人情ってもんでしょ」
 ……に、人情かい。俺は下唇を突き出して無言の異議申し立てをしたが、あぐりは苦笑いを浮かべながらかぶりを振って、
「いいかい。冷静に考えてもみなよ、キミのどこに女性を惹き付ける要素があるってんだい」
「それは……自分で言って虚しくならんこともないが、世の中には太った男性がタイプって女性も皆無ではないだろうよ」
「いや~、いくらデブ専でも性格の悪いデブは願い下げだと思うよ」
「……いい加減お前を名誉毀損で訴えてもいいよな、俺」
 が、あぐりの言うことにも一理ある。古閑さんがデブ専だという希望的観測はこの際抜きにしてつらつら考えるに、デブで不細工という自分の身体的欠陥、社交性と協調性はおざなり程度という社会的欠陥を補ってなお余りある自分の美点というのは、我ながら情けないことだが数えるほどしか見当たらないし、その美点自体――アニメや洋画吹替でエンドクレジットが流れる前に大半の声優を当てられる、ハウス・オブ・ザ・デッドをノーコンティニューでクリア出来る、西又葵の描いたキャラクターを目だけ見て判別出来る――と、自分の来し方行く末に内省的な思いを致さざるを得ないものばかり、しかも世の一般的な女子的にはどれもマイナスポイントでしかない。
 実は、古閑さんは実家の教育方針が鬼のように厳しくて自分の本性を露わにすることが出来ない隠れオタクで、俺に同族の臭いを嗅ぎ取って接近してきた――という可能性も考えたが、すぐに放棄した。そんな話はライトノベルの中だけの絵空事に過ぎない。
 俺の心が、みるみるうちに不安の叢雲(むらくも)に覆われていった。
「あんまり脅かすなよ、あぐり。何か本当に騙されてるような気分になってくるじゃないか」
「あははっ、ちょっと薬が効き過ぎたみたいだね」
 あぐりは大口を開けて心から愉快そうに笑った。
「いや~、ボクの方は失恋したてホヤホヤだってのにキミがあんまり浮ついた調子で惚気てくれるから、少し憎たらしくなっちゃってさ」
 そうだった、確かにその辺の心細かな気配りが俺には足りなかったかも知れない。
「……済まん」
 素直に頭を下げる。
「いや、いいんだよ。実際のところそんな気にしてないし」
 あぐりは面映ゆそうな様子で手をブンブンと振って、この話はおしまいにしようとジェスチャーで示した。
「ただ、その古閑さんって女の子が詐欺とか宗教の勧誘とかが目的で近付いてきたんじゃないことだけはボクが保障してあげてもいいよ」
 いやに断定的な口調である。
「その自信はどこから来るんだ?」
「――キミも経済学部生の端くれなら《コガ製薬工業》ぐらいは知ってるよね」
 あぐりはいきなり話の矛先を変えた。何だか、自分だけが持っている情報をちくちくと小出しにして楽しんでいるような態度だった。
「そりゃ一部上場の老舗企業だから当然知ってるが……まさか」
 俺はハッとした。
「そのまさか、彼女はそこの創業者一族の御令嬢だよ」
 苗字が一緒なだけでどうして言い切れる――俺は抗弁しかけたが、あぐりはそれを手で制してニヤリと八重歯を小悪魔的に閃かせて、
「タネを明かすとね――実は一昨日、コガ製薬工業さんが新発売する健康ドリンクのキャンペーンガールにめでたく選ばれまして、マネージャーさんと一緒に日本橋の本社ビルまで打ち合わせに行ってきたんだけどさ、そこに取締役営業本部長の古閑さんってお偉いさんも同席してたんだよ。で、打ち合わせが終わってしばらく雑談タイムになったんだけど、古閑さんってのが話し上手の面白いおじさんでさ、お互いの持ってる携帯の話でかなり盛り上がったんだよ」
「ああ」
 やきもきしながら相づちを打つ。
「でさ、携帯会社最大手のノキアが今年の春に日本で出した《ヴァーチュ》って一台ウン百万の高級携帯があるじゃん。それを最近大学生の娘に買ってあげたって古閑さんが話してたんだよ。それでキミの話を聞いてるうちにピンときた、という訳さ」
「そういうことだったのか」
 ようやく俺は合点がいった。どうやら思った以上に世間は狭いものらしい……てゆ~か、あの携帯そんなに高価なものだったのか。俺のバイト代何年分だよ、おい。
「……ということは、ひょっとすると逆玉も夢じゃないということか」
 俺は生唾を呑み込みながらそう呟いて、額にじくじくと浮き出た脂を掌で拭った。
「捕らぬ狸の皮算用、という言葉のいい見本だね」
 あぐりは完全に呆れ顔だった。
「まっ、夢見るのはキミの勝手だから好きなだけ見たらいいけど……でも、舞い上がってるところに下から足を引っ張るようでごめんだけど、キミの為人(ひととなり)を誰よりも知ってる友人としてこれだけは忠告させてもらうよ。よしんば神様の気まぐれでキミと古閑さんが運命の赤い糸で結ばれたとしても、きっとキミは古閑さんの背中にくっ付いてる色んな重圧に結局は圧し潰されちゃって、絶対幸せになれない気がする」
 バカな、と一笑しようとした俺の頬が不意にピクンと引き攣った。というのも、彼女の言葉からはトロイの滅亡を予言したカッサンドラを彷彿とさせる重みと不吉さが、妙な現実味を伴って感じられたからだった。
 そして、あぐりがなぜ俺にこんなネガティブなことを言うのか――その理由を量りかねた。いや、本当のところ一つだけ思い当たる理由がなくもなかったのだが、それを口に出すのはたとえ多摩川がポロロッカ状態になったとしても絶対に出来なかった。あぐりとは今のままの関係をずっと保っていきたいのだから。
 俺は黙々とコーヒーを胃に流し込み、あぐりもそうすることで辛うじて気を紛らわしているという風な仕種で、白い小皿の上のレアチーズケーキをフォークで崩している。俺たちのテーブルの上には、肌を燻されるようなヒリヒリした沈黙がわだかまっていた。今まで意識していなかった周囲の喧騒がいやに大きく、やけに耳障りに響いた。
「――そうだっ、これからゲーセン行こうよ。ボク、すっごい取ってほしい綾波のフィギュアがあるんだよね」
 ついに堪えかねたのか、あぐりはわざとらしい明るい口ぶりで提案してきた。
「しょうがねえな、久々にこの黄金の右腕を振るう時が来たか」
 俺もわざとおどけた調子でそう応えてやると、右腕を結んで開いてしながら椅子を引いて立ち上がる。そして、続いて椅子から腰を浮かしかけたあぐりを見返って、
「封建時代じゃあるまいし、今時身分の差なんて大した恋の障害にはならないさ。日本国憲法だって保障してくれてるしな。お前の大好きな映画の『タイタニック』だって要はそういう話だろ、違うか?」
 精いっぱい大見得を切ったつもりだった。が、
「……最後、ディカプリオ死んじゃうけどね」
「…………」
 ボソッと漏らしたあぐりの言葉を、俺は聞こえないふりをした。



 センター街の行きつけのゲームセンターで水着姿の綾波レイのフィギュアを数体取ってやった後、チェーン店の大衆居酒屋でエヴァ劇場版の話を主な肴にぐだぐだと呑み、十時過ぎに半蔵門線の改札前であぐりと別れた。
 すっかり酔っ払っていたあぐりは、カラオケでは十八番の『残酷な天使のテーゼ』を高歌放吟しながら千鳥足で改札をくぐると、だしぬけにくるっと俺の方を振り返って指差し、神話になれっ、と地下道に響き渡るような大声で叫んでホームへの階段を下りていった。相変わらず酔わせるとますます面白い奴だが、毎度のようにこちらまでとばっちりを食うのは正直勘弁してほしい。擦れ違う人々の奇異の視線が痛かったので、俺は足早に地上に出て東横線に乗った。
 武蔵小杉のアパートに帰宅するとすぐにデスクトップを立ち上げ、Wikipediaの《コガ製薬工業》の項目を開いてみた。

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【コガ製薬工業】
コガ製薬工業株式会社(こがせいやくこうぎょう 英:Koga Pharmeceutical Co.,Ltd)は、東京都中央区日本橋一丁目に本社を置く日本の製薬会社。

会社概要

江戸時代宝暦年間、肥後国八代(やつしろ)郡から大坂道修(どしょう)町に出てきた兵助が薬種仲買人の下で奉公した後に独立して薬種商「肥後屋」を開業したのが始まりで、三代目から古閑姓を称する。1915年(大正5年)には「古閑製薬商会」を設立して法人化すると同時に、現在の東京日本橋に本社を移転する。日本国内の医薬品業界における売上高は第3位、世界の医薬品業界における売上高は第25位である。
2008年(平成20年)3月期決算の連結売上高は9000億超、連結従業員数は約12,000人。医療用医薬品の売上が全体の9割を占め、糖尿病治療剤、免疫抑制剤等を主力商品としている――。

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 盛大にため息をつき、思わずデスクの上に突っ伏してしまった。
 ……あぐりの言う通り、確かに古閑さんは平々凡々な貧乏学生の俺にとっては重過ぎる存在なのかも知れない。が、高嶺の花と諦めることなんて俺には出来ない。据え膳食わぬは男の恥、この言葉だけが今の俺にとっての心の支えだった。
 そうさ、俺は神話になってやるんだ。



[18733] Ⅲ――文化会館まで何マイル?
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:3678f195
Date: 2010/05/27 23:03
 都市経済論の講義二回目。
 教室で講義が始まるのを待つ俺は、昨夕(ゆうべ)あぐりと痛飲したのを引きずっていて微妙にグロッキー状態だった。
「……う~、まだ頭痛ぇ」
 スポーツバッグから出したペットボトルのお茶をぐいと飲み干し、頭を軽くシェイクしてこめかみの辺りを霞のようにぼんやり覆っているアルコールの名残を払う。本来ならダメ学生の本領を発揮してこの場から速やかに戦術的撤退し、アパートで布団を引っ被ってバイトが始まるまで体力を温存しているところだが、この講義だけは撃ちして止まん、不退転の覚悟で臨まなくてはならない明確な理由があった。
「――おはよう、田村君」
 そう、何を隠そう古閑さんである。
 今日の装いは白の提灯袖のブラウスに焦茶色の二枚重ねのプリーツスカートという相変わらず清楚なもので、スカートの裾の先からは輝くように白い足首が理想的な曲線を描いていた。パラソルを片手に避暑地の草原にでも佇んでいたら、そのままで印象派の一枚の絵になりそうな雰囲気である。
 彼女はごく自然な挙措で、俺の隣の席に腰を下ろす。うっわ、距離近いぞ。
「お、おはよう」
 スマートに挨拶したつもりが思いっ切り噛んでしまった。
「はいこれ、先週のノートのコピー」
 古閑さんは、パステルブルーの可愛らしいクリップに留めたA4用紙を三枚俺の前に差し出した。
「わざわざありがとう、助かったよ……三十円でいいかな?」
 俺はジーンズのポケットから財布を出してコピー代を払おうとしたが、
「そのくらいいいよ、テキスト見せてくれた礼ってことで」
 と、嫣然(えんぜん)と笑って受け取ろうとはしない。まあ、《歩く身代金》を地でいくような数百万の高級携帯を持っている彼女のことだから、三十円なんて端金はサハラ砂漠の中の一粒の砂程度の重みしかないのだろうが、女性に奢ってもらうのを諒としないだけのプライドはこの俺だって持ち合わせている。あぐりには何回もコーヒー代くらいは奢ってもらってるが、それとこれとは別の話である。
 俺は無理に古閑さんの手に十円玉三枚を置いた。指先がふと、少しひんやりした古閑さんの掌に触れる。
「っ……」
 古閑さんは喉の奥で微かな声を上げた。そしてしばらく、掌の上の小さい青銅の塊を未知の物質のようにじっと見ていたが、つと俺の方に視線を戻して薄くルージュを引いた口元に微苦笑を浮かべた。
 その表情には若干の含羞(がんしゅう)が交じっているように、俺には思われてならなかった――いや、単なる希望的観測かも知れないが。



 昼休みのカフェテラスで、俺はあぐりから昨日聞いたことを古閑さんに話した。
「――うん、そのあぐりさんが会ったのは間違いなく私の父よ」
 古閑さんは頷いた。少し投げやりな態度に思えたのは、俺の気のせいだろうか?
「それにしてもそういうお友達がいるなんて凄いのね、田村君」
「いや、あいつが凄いだけであって俺なんてただの一般ピープルだし……それを言ったら古閑さんの方が全然そうじゃないか」
「私だって……」
 全面的に肯定するのはさすがに倨傲な感じがして、さりとて無理に否定するのも謙遜が過ぎて嫌らしい感じがするからだろうか――古閑さんは曖昧な態度で、そして周囲から無駄な反感を買わない社交術の一つとしてそんな態度の自然な取り方をとうに心得ている、といった風に語尾を濁した。
 実家の話をされるのはあまり好きじゃないようだ、と看取した俺は、
「そのあぐりってのがまた、顔に似合わず破天荒というか無茶苦茶な奴でさ」
 と、意図的に話を変えることにした。
「去年の十月だったかな――今は閉館した新宿歌舞伎町のコマ劇場で一緒に舞台観てから近くの鳥料理屋で呑んだんだけどさ、あいつすっかり酔っ払っちゃってコマの前でいきなり歌いながら踊り出してさ。周りに人は大勢集まってくるわ、あいつは調子乗って服脱ごうとするわで大変だった。警察沙汰にならなくてホントよかったよ」
 俺は言った――観た舞台が水樹奈々座長公演『水樹奈々 大いに唄う』なのと、あぐりが歌ったのが『DISCOTHEQUE』なのは、当然伏せた上で。
 最初は野次馬に交じってニヤニヤしながら見ていたのだが、突如えいっと上着を勢いよく脱ぎ捨てた辺りから、さすがにこれ以上放置プレイはヤバいと感じ、危うく黒のブラジャーのフロントホックに手がかかる寸前に止めに入ると右手であいつの腕をつかみ、左手であいつの荷物を持って脱兎の如くその場から離脱したのである。歌舞伎町のメインストリートを真っ青な顔で全力疾走するデブと、上半身ブラだけで水樹奈々を歌う美女――通行人の目にはさだめし奇矯な光景に映ったことだろう。
「今となっては笑い話なんだけど、あの時はマジで冷や汗ものだったよ」
「ユニークな人なのね、そのあぐりさんって」
 古閑さんはクスクスと小鳥のように微笑んだ。
「うん、俺なんか始終振り回されっぱなしさ。あいつは他にもまだまだ面白いというか俺にとっては傍迷惑な話がいっぱいあってさ――」
 その後、会話のキャッチボールが存外上手くいっていることに気をよくした俺は、取って置きの《あぐり伝説》をいくつか話した。古閑さんは笑って聞いていた。
 チャイムが鳴って昼休みが終わり、二人してカフェテラスを出たところで、
「――そうだ、突然で悪いんだけど今度の金曜日の夜って時間ある?」
 古閑さんが言った。
「うん」
 俺は即座に頷いた、本当はバイトが入っているが。
「実は文化会館でハンガリーから来日した弦楽カルテットの演奏会があるんだけど、一緒に行く予定だった母が急遽外せない用事が出来て招待券一枚余っちゃったんだ。だから、よかったら代わりに一緒にどうかなと思って」
「い、行かせて頂きまふっ」
 ……興奮のあまり噛んでしまった。
 ひょっとしてこれは、俗に言う《デートのお誘い》というヤツではないだろうか。心臓が急激にブレイクダンスを踊りだし、身体中を巡る血が沸騰するのを俺は自覚していた。バイト先には悪いが、親戚が死んだと言い訳しよう。
「じゃあ、開演が七時だから上野駅の公園口に六時半に待ち合わせでいいかしら。念のため携帯のメアドと番号交換したいんだけど、赤外線通信出来るよね?」
「う、うん」
 ……落ち着け、落ち着け俺っ。俺はアル中よろしく震える手で携帯を操作して赤外線通信モードにして、古閑さんの高級携帯に近付けた。ああ、ようやく俺の携帯の電話帳に母親とあぐり以外の女性のデータが入る日が来たのか。俺が望外の幸せを心の奥で噛み締めていると、
「ねえ田村君、このメアドの《nanoha》って何の意味?」
 と、至って天真爛漫な様子で古閑さんが尋ねてきた。
「……好きなアーティストの名前なんだ、インディーズだけど」
 俺は大嘘をついて、額の冷や汗を手で拭いた。





          ***

《――ほとほと呆れたね。キミ、クラシックなんて全然興味ないだろ》
 電話の向こうで、あぐりは露骨にため息をついた。
「黙れ小僧、俺はこれからクラシック好きに生まれ変わるんだよ」
 演奏会のプログラムは、ドホナーニとバルトークの室内楽曲だと古閑さんは言っていた。当然どちらも知らないのでググったところ、何でも二人ともハンガリーの生んだ偉大な作曲家らしい。
《ふん。大学の図書館で慌ててクラシックのCD借りてきた程度の付け焼き刃で、果たしてどこまで古閑さんを騙しおおせるもんかね》
 ……お前はエスパーか。
《いやいや、キミの行動パターン考えればそんなのエスパーじゃなくても一目瞭然ですから》
「そんなに俺は判りやすい男かよ」
《いえす、おふこ~す。今のキミはさかり付きたての中二男子以外の何者でもないね》
「うるさい、俺は失われた青春を今取り返してるところなんだよっ」
 俺はつい声を荒らげてしまった。
「そりゃお前はいいさ、顔がいいからレズ相手でもとっかえひっかえ出来るからな。高校生の時だって俺には恋人なんか薬にしたくてもなかったのに、お前ときたら入学して早速同じ学校で一学年上の恋人を作ったんだしな」
 確か、その先輩とあぐりは二年生の夏休みに別れたはずだった。
 何十号目かの台風が東海地方を直撃した夜、俺は「自棄酒に付き合え」とあぐりの住んでいる団地に呼び出された。あぐりは小さい頃に両親が離婚して母方に引き取られた母子家庭、お母さんは市立病院に看護師として務めていてその日は夜勤だったので、部屋の中は俺とあぐりの二人きりだった。
 車軸を流すような豪雨が窓ガラスに激しく叩き付けられるのをBGMに、俺たちは互いに愚痴を言い合いながらしたたかに呑んだ。
《……ボク、酔ってる》
 不意に、真顔に戻ったあぐりがぽつんと言った。
《んなこと知っとるわい》
《酔ってるからカミングアウトするね、ボクは同性愛者……レズビアンだよ。付き合ってた一個上の先輩ってのも実は女の子》
 ふ~っ、とゴム鞠の空気を抜くように長い長い吐息をつくと右膝を立てて、糸の切れた操り人形のようにガクンとうなだれるあぐり。
《……判ってたよ、俺は》
 俺はそれだけ言って、ぐいっとチューハイの缶をあおったのだった。
 もしかしたら俺はこの時、蛮勇を奮ってそれまでの《親友》という一線を踏み越えて、何が何でもあぐりを口説くべきだったのかも知れないし、向こうも翌朝、――ああいうシチュエーションでは、嘘でもいいから口説くのが女の子に対する礼儀ってもんだよ。だからキミは駄目なんだなあ――と、冗談交じりに苦笑していた。



 ――駄目、か。
 確かに今まではそうだったかも知れない。でも、俺は自分の殻を打ち破りたい。古閑さんをモノにして人並みの恋愛というヤツをこの手に掴み取りたいのだ。
「とにかく、俺が誰に恋しようが今更お前にとやかく言われる筋合いはないだろ」
 俺は無意識のうちに、内心からせり上がってくる焦りというか苛立ちを電話の向こうに叩き付けていた。
《…………》
 あぐりの押し黙ったリアクションと掌にじっとりにじんだ汗で、自分が存外興奮していたことに気付いた俺は、後悔の念が胸中に浸透していくのを感じながら、
「……済まん、言い過ぎた」
 電話の向こうに詫びる。
《ううん、ボクこそごめん。そうだよね、キミは恋人が必要なんだよね……》
 そう応えるあぐりは、どことなく寂しそうな声音だった。
 そこはかとなく気まずくなった俺たちは、おざなりな「おやすみ」の言葉を交わすとどちらからともなく通話をオフにした。ごろんと万年床に転がって枕元のCDコンポを付けると、図書館から借りてきたバルトークのピアノ曲が流れる。難解なメロディーとリズムで、相変わらずちっとも面白くなかった。





          ***

 金曜日。
 大学の講義は昼過ぎに終わったので秋葉原で暇を潰してから、六時十五分頃に上野駅の公園口に着いた。改札前の道路を挟んですぐ向かい側には、文化会館がその偉容を上野の森を背景にして夜の帳の中に浮かび上がらせている。
 到着した旨をメールすると《今御徒町です》と返信があり、更に数分後、
「お待たせ~、田村君」
 淡い水色のカクテルドレスに身を包んだ古閑さんが、ひらひらと手を振ってこちらに足早にやって来た。普段より一層大人びて見えるのは化粧のせいだろうか。
「待った?」
「いや、全然」
 おおっ、夢にまで見たテンプレ通りの初デートのやり取り。俺は思わず心の中でガッツポーズをしたが――刹那、古閑さんの瞳が当惑を帯びているのに気付いた。
 はて、と首をひねってすぐ原因に思い当たる。原因はきっと、くたびれたジーンズに縞のポロシャツという俺のラフな格好だ。ギャグ漫画じゃあるまいし、まさかに初デートでタキシードでもあるまいと思って気合いを入れ過ぎない格好で来たのだが――もしかしてクラシックの演奏会って、会社の面接ばりにスーツにネクタイで来なきゃいけないのか?
「こ、この格好じゃ変かな?」
「ううん、そんなことないと思う」
 室内楽曲っていうのは本来、貴族たちがサロンに集まって思い思いにくつろぎながら聴くための気軽な音楽だから、ラフな格好で全然構わないと思うよ――古閑さんは優しくフォローしてくれたのだが、いざ演奏会が行われる小ホール前のロビーに来てみると、平均年齢六十代くらいだろうか、いかにも上流階級でございという装いをした年配の男女ばかりが屯っていて、俺の心は早くもマジでくじける五秒前だった。まさしく、『王子と乞食』ならぬ王女と乞食状態。
「――やあ、愛ちゃん。君も来てたか」
 俺の後ろから、ロビー中に響くような張りのあるバリトンの声がした。
 見ると、俺の親父の愛用しているドブネズミ色のスーツが軽く一万着は買えそうなくらい上等な仕立ての紺の三つ揃えに臙脂色のネクタイを締めた、還暦前後とおぼしき恰幅のいい男性が、辺りを払うような威圧感と共に近付いてきた。
「本屋敷(もとやしき)先生、今晩は」
 先生? 男性の胸元を見ると、そこには言わずと知れた議員バッジが光っている。俺のポロシャツがみるみる脇汗を吸っていくのが判った。
「帝国ホテル以来だね、今日はお母様は来ておられないようだが?」
「ええ、急に用事が出来たので」
「そりゃ残念だなあ。国内でドホナーニの、それも弦楽四重奏が生で聴ける数少ない貴重な機会だってのに――ところで、こちらの男性は?」
 本屋敷とかいう議員先生は、美しい花園に迷い込んだ汚い野良犬を見るような無遠慮な視線を俺に向けた。
「私と同じ大学の友達で田村君です、母の代わりに私がお誘いしたの」
「ど、どうも」
 古閑さんに紹介された俺がぎこちなく頭を下げると、議員先生は俺のような若造に下げる頭などなあるものかよ、といった風に「ん」と傲岸を絵に描いた態度で胸を反らした。
「ふん、この若さでクラシックの――しかもクラシック愛好家でも敬遠することが多い室内楽曲を聴くなんて、なかなかいい趣味しとるじゃないか。こういう文化的な若者がいれば我が国の未来も安泰というものだ、わはははっ」
 議員先生は豪快な笑いをヤニ臭い口中から弾けさせたが、その贅肉で落ち窪んだ目だけは全然笑っておらず、そこはかとなく陰険な光を湛えていた。
「ところで、君はクラシックでは何が好きかね?」
 議員先生が俺に訊いてきた。
「……はあ、ブラームスの『ハンガリー舞曲第5番』なんかが」
「随分素人臭いのが好きなんだなあ」
 あからさまにバカにした口調である。大きなお世話だ、てゆ~か、初対面の人間からどうしてかくも理不尽に蔑まれなきゃならんのだ。
 温厚な俺もさすがに気色ばみかけたその時、ロビー中央の柱の周りにいた年配の婦人の一団が議員先生を呼んだ。短い会話のやり取りから察するに後援会の人たちらしい。
「じゃ、ひとまず失敬。家の方々によろしく」
 議員先生は微妙に媚びるような口調で古閑さんにそう言って、呼ばれた一団の方に踵を返していった。ロビーのきらめきの中に小さくなっていくその背中に、今度の選挙でこのジジイどうか落選しますように――と、ありったけの念を送っていると、
「……ごめんなさい」
 古閑さんが耳元でささやいてきた。
「母の従兄で与党の代議士なの、私も昔っから苦手で」
「ううん、俺は別に気にしてない」
 俺は内心とは逆のことを言って、古閑さんの気まずさを払拭してやった。
「やっぱ政治家ってのは、選挙活動でペコペコしてる時以外は威張りくさってるもんだって判ったのは、実に貴重な体験だったかも知れない。今度の総選挙では、俺は謹んで野党に投票させてもらうことにするよ」
 俺の皮肉に、古閑さんは困ったような笑みを浮かべていた。



 演奏会はアンコールも含めて九時ちょっと過ぎには終演した。受付でもらったパンフレットには二楽曲ともプロでも苦戦するくらいの難度だと書かれていたし、実際ハイレベルな演奏だということは素人耳にも漠然と判ったが、楽しい一時だったかと問われれば首を横に振るしかない。早い話、豚に真珠以外の何物でもなかった。
 古閑さんもそんな俺の様子を薄々察したのか、他の観客が口々に饒舌気味な感想を言い合いながら小ホールから吐き出される中、一言も感想を口にしなかった。
「愛ちゃん」
 ロビーに出たところで声がかかる。件の議員先生だ。
「そういえば、こないだの帝国ホテルでの見合いの件――考えてくれとるかね」
 見合い? 耳慣れない単語に、俺の脳内が軽く混乱しかける。
「先方が愛ちゃんをいたく気に入ってくれてね。このまま二人ゴールインしてくれれば私も仲人として鼻が高いし、お母様への申し訳も立つってもんだ。愛ちゃんはまだ学生だが、取り敢えず籍だけ入れとっくて手もある」
 古閑さんは俺の顔色をチラッと窺うと、曖昧な表情で議員先生に向き直って、
「はあ……」
 吐息交じりに応えた。
「ま、あんな前途有為な青年と結ばれる機会などそうそうない。愛ちゃん自身の将来のためにも是非とも前向きに検討してほしいものだね」
 議員先生は、人に命令するのに慣れた人間特有の押し付けがましい態度でそうまくし立てると、古閑さんには「じゃあ」とにこやかに手を振り、俺には見下すような視線をくれると、後援会の一団と連れ立って人混みに紛れていった。
 虚ろな顔で棒立ちになっている古閑さんはすっかり一個の彫像と化していて、横顔は大理石のように白くなっている。俺は彼女にかける言葉を見いだせなかった。さんざめくロビーの中で俺たちの周りだけが特殊な力場に覆われ、流れる時が凍り付いてしまったかのようだった。
 つと、ポケットに突っ込んでいた携帯が震える。取り出して液晶表示を確認すると、あぐりからのメールだった。
《デート楽しんでる? これから初体験のキミに忠告。AVでよくあるみたいに顔にかけちゃダメ、ゼッタイ(>_<) 女の子ドン引きするから! じゃあ童貞喪失ガンバレ( ^o^)ノ》
 俺は液晶表示にアンビバレントな視線を落とし、携帯を再びしまった。



[18733] Ⅳ――STAND ALONE COMPLEX
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:3678f195
Date: 2010/09/13 17:07
 文化会館を出ると、ひんやりとした夜気が快かった。
「古閑さん、門限とか大丈夫?」
 俺はじっとりと汗が染みたポロシャツの胸元をあおぎながらそう尋ね、公園口の街灯に真っ白く照らされた、幻想的なまでに美しい彼女の横顔を見つめる。
「うん、今日は遅くなるって言ってあるから終電までなら平気」 
「家はどこ?」
「小田急の成城の駅から少し歩いたところ」
 ……住んでいる場所までパーペキなお嬢様である。そのうち《古閑家メイド隊》とかが現れても、もう俺は驚かないだろう。携帯で乗換案内を調べてみたところ、日付が変わる頃にお互い上野を発てば一時くらいには古閑さんは成城学園前に、俺は武蔵小杉にそれぞれ着くようだった。
 シンデレラ即ち俺の魔法が解けるまでは、あとニ時間ほどの余裕がある。
「突然だけどカレーは好きかい」
 俺は言った。
「うん、大好き」
「上野と御徒町の中間くらいの、アメ横の反対側のガード下に遅くまでやってる喫茶店知ってるからさ、よかったらそこで食べてこうよ。俺、昼に学食のうどん食ったきりだから腹減っちゃってさ」
「喫茶店なんだ、カレー屋さんじゃなくて?」
 柳眉を《ハ》の字にして、世にも不思議そうな顔をする古閑さん。
「それが変てこな店でさ、《純喫茶》とか謳ってるくせにコーヒーは並なんだけど、カレーだけは絶品っていう」
「本末転倒なんだね、あははっ」
 古閑さんは花のように笑った。



 JRの線路沿いの坂を下りていき、酔客が行き交うアメヤ横丁に入って二、三百メートル歩いたところで高架線をくぐり、右に折れて数軒行ったところが件の店である。
 道すがら、半年近く行ってないからもし潰れてたら面目丸潰れだよな、という一抹の不安な思いを抱えていたのだが、いざ現地に到着すると――打ちっぱなしのコンクリートの壁のところどころに黒々とした油っぽい染みがロールシャッハテストのように浮かび上がっている、高級料亭とは違ったベクトルで一見さんお断り的なその汚らしい店構えの窓には果たしてオレンジ色の灯りが、船乗りの安全を保証する灯台のごとく煌々と灯っており、俺は心の底から安堵した。
 入口のドアを開けると、悩める哲学者のような仏頂面をした店のマスターが「らっしゃい」と、何か悪いものでも拾い食いしたんですか、と思わず尋ねたくなるほどテンションの低い声で迎えてくれる。う~ん、最後に来た時のまんまだ。
 場末の古道具屋を思わせる狭っ苦しくて雑然とした店内は、半分くらいの席が埋まっていた。駅から少し離れた立地でこの時間帯にこれだけ客が入っているということは、まだまだ店が潰れる気遣いはないとみてよさそうだった。
 案内を待たずに、薄暗い隅のテーブル席に向かう。古閑さんは、さながら微行中に貧民窟に迷い込んでしまったプリンセスみたいに気後れした、いかにも居住まいが悪そうな感じで俺の向かいにおずおずと腰を下ろした。うら若き女性――ましてや古閑さんのような、街角のラーメン屋にも独りで入れなさそうな箱入り娘が足を踏み入れるにはハードルが高すぎる場所だけに、無理からぬことだろう。
 中国人留学生か何かだろうか、化粧っ気の薄い若い女の子のウェイトレスが、お冷やの注がれたグラスを手にしてボーカロイドのような片言で注文を取りに来た。
「え~と、カレーセットライス大盛」
 俺がメニューも見ずに頼むと、それまですがるような目で俺を見ていた古閑さんが、
「……じゃ、私もそれの普通で」
 ウェイトレスはぺこんと一礼すると、急ブレーキをかけた電車のように甲高い声で「セット、並一チョウ! 大一チョウ!」と叫んで厨房の方に引っ込んでいった。
「何だか、凄いお店だね」
 長い黒髪を左手で押さえながら身を乗り出した古閑さんは、忌憚のない感想を俺の耳元に囁いた。
「でしょ、俺も最初連れてかれた時は驚いたよ」
「連れてかれた?」
 古閑さんがオウム返しに訊いてきた。
「うん、二年前にあぐりと一緒に美術館行った帰りに。何でも知り合いのカメラマンから教えてもらったんだって。撮影スタジオが近くにあるみたいだから、あいつ今もちょくちょくここで食ってるんじゃないかな」
「何というかすっごいアクティブな人ね、あぐりさんって。私なんかとても真似出来ないな」
 古閑さんは妙なところで感心する。いやいや、全然真似しなくていいですから。
「あんなのはオンリーワンで充分さ。ただでさえいっつもあいつに振り回されてるんだから、二人もいたら到底こっちの身が持たないよ」
 出会った当初の、男性が半径一メートル以内に近付くだけで拒否反応を露わにしていた筋金入りの男性恐怖症っぷりを知る俺としては、よくぞ社交性を損なわない程度に幼児期のトラウマの発現を抑えているものだと、感心しきりではあるが。
「随分な言いぐさね、パパ経由であぐりさんに伝えとこうかしら」
 と、悪戯めいた笑みをこぼす古閑さん。
「勘弁してよ、あいつの耳に入ったらまた何されるか判ったもんじゃない」
「ふふっ……でも、そういう関係ってちょっと羨ましいな」
 古閑さんは急にしんみりした口調になった。
「えっ?」
 言葉の意味がすぐには呑み込めなかった。
「田村君とあぐりさんの関係。話を聞いてるだけで、性別の垣根を越えたすっごい強い絆でお互い結ばれてるんだなってのが、こっちにも伝わってくるから」
「ああ、そういうことか……いや、うちらの場合、単に中学以来の腐れ縁がずるずる続いてるだけであって、そんな古閑さんが言うほど大げさなもんじゃないよ」
「――そんなことない」
 いきなり、古閑さんが今までになく強い語気で否定したので、俺はかなり驚いた。そして彼女自身も、思わず発した自分の言葉に戸惑っている風な顔をしていた。
 お互い話の接ぎ穂が見つからず、いささか気まずい沈黙がテーブルの上を覆い始めたその時、
「オ待タセシマシタ。セット並一ツ、大一ツアル」
 絶妙のタイミングでチャイニーズウェイトレスが食事を運んできてくれた――てゆ~か本当に実在したんかい、リアルで語尾に「アル」を付ける中国人。





          ***

「美味しいっ」
 カレーを一匙口にした古閑さんは、弾むような声と共に目を丸くした。
「ね、絶品でしょ」
「お世辞抜きでこんな美味しいカレー食べたの初めて……でも、確かにコーヒーは普通ね」
 先ほどより声を潜めて、古閑さん。
「でしょ」
 俺はニヤリと笑って、インスタントよりは多少ましな味のコーヒーを啜った。お互い皿の上のカレーを八割くらい胃に収めたところで、
「――さっきはごめんなさい、つい強い言い方しちゃって」
 古閑さんがぼそっと口を開いた。
 こういう時、異性との嬉し恥ずかしな交流を重ねてスキルを積み上げた、所謂《リア充》と称される人種ならきっと、即座に爽やかな笑みを浮かべて「いや、全然気にしてないよ」とソフィスティケートされた物言いを口にすることが出来るのだろう。しかし、それとは真逆の生き方を余儀なくされてきたこの俺は、誠に不甲斐ないことではあるが「ああ、いや」などと曖昧な受け答えをしつつ、彼女の次の言葉を待つ他なかった。
「でも、言わずにはいられなかったの。田村君は自分がどんなにかけがえのない友達に恵まれているか、イマイチ実感してないみたいだったから」
 花弁のような唇の合間から、ふう、と小さい吐息を漏らした古閑さんは、ややあって暗澹たる視線をテーブルの上に落とす。
 あたかも晴天の中にぽっかりと浮かんだ暗雲のような、周囲から完全に浮き上がった異様さを放つ瞳。なぜだか俺はそれに酷く見覚えがある気がしたが――海馬の奥底から蘇りかけたその記憶は、明確に形づくられる前に泡のように弾け、隔靴掻痒の思いだけを残して消え失せてしまった。
「……私ね、親友って存在に憧れてるの。渇望してる、と言い換えてもいいかも知れない。私にはないものだから」
 コーヒーカップの持ち手を持て余したようにいじりながら、古閑さんはことさらに自嘲めいた表情を作った。意外過ぎる発言だった。俺なんかと違って顔よし性格よし家柄よしと三拍子揃った古閑さんに、心許せる友人がいないなんて。
「私と親しくなろうとする人たちって、実際は私じゃなくて私が背負っているものの方が好きなのよ。田村君が来た一年前の合コンの時だって――田村君が帰った後の二次会はカラオケボックス行ったんだけど、幹事の高城君が私の隣に座って手を握ろうとしてきたり、私の方を見ながらラブソングを歌ったり、下心見え見えで迫ってきてホントうんざりだった。そんな感じで、私に全然その気がなくても男の人たちが言い寄ってくるから、女の子たちともあんまり仲がしっくりいかなくて」
「…………」
 俺は無言で頷いた。俺には想像すら付かない悩みなので共感は出来なかったが、何となく理解は出来る。言われてみれば、古閑さんはあまりに綺麗すぎて同性を身じろがせる独特のオーラをまとっているようにも思える。
「だから私、小学校から高校までずっと同級生の女の子たちに嫌がらせされてきた。下駄箱の靴をどこかに隠されたり、教科書をカッターで切り裂かれたり……一番こたえたのは高校生の時、誰とでも寝る淫乱女だって中傷を学校中に広められたことかな」
「酷い」
 俺は思わずうめいた。俺自身がかつて受けた陰湿ないじめの数々が脳裏にフラッシュバックし、軽いめまいと吐き気を覚える。
「で、中傷が広まった時にかばってくれた一学年上の男の先輩がいたの。嬉しくなった私は先輩に告白してしばらくお付き合いしてたんだけど……その先輩も結局は《コガ製薬工業》の娘としての私が好きなだけだってことが判っちゃって、たった半月で別れちゃった」
 古閑さんは捨て鉢な口ぶりでそう言うと、
「時々思うわ、自分は何でもっと普通の家に生まれなかったんだろうって」
 自らの言葉の重みで疲れたような感じで頬杖を突き、唇の端に自嘲気味な笑みを浮かべた。
「――そ、そういうこと言っちゃダメだよ、古閑さんっ」
 俺はつかえつかえながらも、強い語調でたしなめた。
「く、口幅ったい言い方かも知れないけどさ、人間って生まれる環境を自分で選ぶことは出来ないじゃん。けど、生まれ落ちたのがたとえどんなに最悪な環境だったとしても、その中でより良い方向を目指して生きていくことは、きっと誰でも出来ることだと思うんだ……って、これはあぐりが高校生の頃に俺に言った言葉の受け売りなんだけどね」
 高二の時、何度目かの失恋をした俺は駅前のファーストフード店にあぐりを呼び付け、ハンバーガーのやけ食いをしながら思う限りの愚痴を並べ立てていたのだが、もっと両親がいい顔に生んでくれりゃこんなことにはならなかった――と口にした瞬間、それまで微温的な視線を俺に送っていたあぐりの顔付きがいきなり真剣味を帯び、厳しい口調でかくのごとく言われたのだった。
 今になって思うと、あの時のあぐりのいささか過敏気味な反応は、彼女自身があまり恵まれた家庭環境で育っていないことに由来しているのだろう。あぐりの両親は彼女が物心付く前に離婚しており、あぐりは家族を捨てて別の女の元に走ってしまった父親の顔を、写真でしか覚えていないのだ。
「それにさ、そういう言い方したら古閑さんを生んでくれた御両親が哀しむと思う」
 この言葉は俺のオリジナルである。まあ、あぐりが俺に言いたかったこともとどのつまりはこれに尽きるとは思うが。
「……そうよね」
 ハッと息を呑んだ古閑さんは、しばらく微妙に焦点の合わない瞳を俺の頭上辺りに向けていたが、やがて自分自身に言い聞かせるように二、三度頷いた。
「そうよね。うん、あぐりさんの言う通りよね。私ったらどうしようもないのに下らないこと言っちゃって、本当恥ずかしい」
 古閑さんは「ごめんね」と、今度は屈託のない笑みを俺に向けた。
 最高の笑顔だった。
 その眩しさにハッと息を呑んだのを潮に、俺の脈がみるみるうちにたぎっていく。目の前で優しく微笑んでいる彼女を抱きたい、というストレートな思いが俺の心内から奔流となってあふれ出てきた。
 






          ***

 結果からいうと、俺は古閑さんをモノにすることが――換言すれば童貞を喪失することがとうとう出来なかった。想像の中の俺は古閑さんをとっくに手近のラブホテルに連れ込んでいるのだが、現実世界の俺はというと、己の中でスタンバっている獣性をどうにかこうにか宥め透かし、彼女と微妙な間合いを取りながら上野駅に戻っているだけだった。
 そう、俺はたまらなく怖かった――自分が童貞であるという事実が露呈されるのが。そして、古閑さんが処女かどうか判明してしまうのが。
 誤解しないでほしいのだが、俺は「処女以外の女性など無価値だ」と傲岸かつ狭量にも断じる、ネットスラングでいうところの所謂《処女厨》などではない。ことさらにフェミニストぶる訳ではないが、古閑さんが過去にどんな男性たちといかなる遍歴を重ねていようと、それは彼女自身の歩んできた人生そのものだから、俺にそれを否定する権利など一ミクロンもない。第一、古閑さんのように魅力的な女性が恋愛社会ピラミッドの最底辺でうごめいている俺なんかと親しくしているだけで一種の奇跡なのに、それ以上を望むのは己の分をわきまえないにもほどがあるではないか。
 俺が危惧するのは――古閑さんがもし経験済みの場合、俺が童貞だと知ったら「この歳まで未経験だなんてキモい」と内心見下すのではないか、ということだ。彼女はそんなことで他人を笑い物にする人間ではないと九分九厘思いつつも、俺の心の裏側には残り一厘の可能性が、まるで濡れたシャツみたいに気持ち悪く貼り付いている。
 童貞なんて濡れたシャツのようなものだ、気に入らなきゃ脱げばいい――そんなことを、今は休刊した青少年向け情報誌で人生相談コーナーを担当していた某ハードボイルド作家が書いていた気がする。俺の抱えている煩悶も、彼にかかればきっと「ソープに行け、小僧ども」の一言で片付けられるだろう。実際問題、ソープに行くのが一番いいのかも知れないし、かつては勇気を出して堀之内辺りで大人の階段を昇ろうとしたこともあった。が、それは自分が恋愛社会で落ちこぼれた負け組であることを完全に認めるような気がして、結局ナニも出来ずじまいだった。
 要はちっぽけな自尊心にディフェンスされたのである。このクソの役にも立たない自尊心さえ取り払えれば、何ら臆することなくソープに通うことが出来、法界悋気の渦に絡め捕られて悶々とする度合もいくらか減少するかも知れないが、それと引き換えに、俺は自らを形成する大事なアイデンティティの一部を永久に失ってしまうような気もする。濡れたシャツも着慣れればそれなりに愛着が湧いてくる、ということだろう。
「――君、田村君」
 古閑さんに呼び止められ、俺は慌てて我に返る。
「どうしたの、怖い顔だったよ」
「ご、ごめん……何でもないよ」
 俺がオリジナリティのかけらもない常套句で応えたその時、羽振りのよさそうなロマンスグレーの男性と二十代後半のOL風の女性という、どうみても不倫です本当にありがとうございました的なカップルが身を寄せ合って、目の前のラブホテル――というよりは連れ込み宿という表現がより的を射ているであろう、品のないネオンが明滅している小汚い建物に入っていった。
 俺と古閑さんは視線を重ね、すぐに気まずくなって下を向いた。



 上野駅で古閑さんと別れて銀座線に乗り、とっくに味のなくなったガムを口から出して包む紙がないので仕方なくかみ続けているような感じで、内なる煩悩の残り火をうじうじと持て余しながら帰路に就いた。
 終点の渋谷で東横線に乗り換えようと階段を下りている(何で地下鉄のくせに高架ホームなんだろうか)と、階段の踊り場の壁に「トキめく国、にいがた」と書かれた新潟県の観光ポスターが貼られているのが目に留まった。
 新潟の糸魚川(いといがわ)には母方の実家があるのだが、祖父も祖母も共に他界しているので今は疎遠になっており、今年の冬に営まれた祖父の十三回忌は母だけが帰省している。
 そういえば、俺が最後に新潟に足を踏み入れたのは祖父の葬儀の時だった。あれは小学四年の冬休み――雪下ろし中に屋根から滑り落ちるという不慮の事故で祖父が亡くなり、一家三人正月返上で帰省を余儀なくされたのだった。
 高速道路で実家に向かう道中、助手席の母は突然降りかかった不幸を受け止めきれず茫然自失の体に陥っており、そんな母を慰める言葉を見いだせない不器用な父は、分厚い唇をむっつり結んで黙々とハンドルを握り、豪雪地帯に入ってからはフロントグラスに叩き付ける粉雪に向かって間歇的に悪態を付いていた。
 陰々滅々たる雰囲気に包まれたまま、車は日本アルプスを越えて富山に出た。北陸自動車道に入ると同時に陽が傾き始め、富山と新潟の県境の親不知(おやしらず)を行き過ぎる頃にはすっかり真っ暗になっていた。この時、荒れ狂う冬の日本海を生まれて初めて目の当たりにした俺は、物心付いた時から当たり前の風景として存在していた地元の遠州灘とはあまりにかけ離れた、ある種の凄惨さすら伴ったその風景に少なからず衝撃を受けてしまい、それからしばらくは夢で日本海にうなされたことがあったのだが――。

 その時、俺はようやく気付いた――あの時の冬の日本海の荒涼たる風景と、件の《純喫茶》で古閑さんが垣間見せた異様に暗い瞳とが、自分の中で一種の心象風景としてぴったり重なり合っていることに。



[18733] Ⅴ――魔法使い予備軍の夜(中盤まで)
Name: 中ぴ連会長◆5d0bb12a ID:3678f195
Date: 2010/09/16 18:21
「――もしもし、俺だよ俺。ちょっと車で事故っちゃってさあ、何とか示談になったんだけど相手の車の修理費に三百万即金で払わないといけないから、今から言う口座にちょっと振り込んでくれないかな。頼むよ、金は必ず後で返すからさ」
《……はぁ》
「何ですか、そのため息は」
《キミの口にするジョークはいつもボクの心胆を氷点下まで寒からしめるけど、今日のは特段だな――という意味を込めてのため息さ。昔、小学校の図書室に置いてあった学習漫画で読んだ、南極点を目指したスコット探検隊の最期を彷彿とさせるよ》
「無駄に詳細な比喩で俺をけなしてんじゃね~よ……って、もしかして寝てたか。だったら済まん」
《うん、絶賛睡眠中だった。汚れを知らない天使のような寝顔でね」
「よく言うぜ、目隠しプレイ大好きで恋人に強要する天使がどこにいるよ」
《話はそれだけかい。じゃあ切るよ、グッナイ――》
「――わあっ、切るな切るなっ」
《人にものを頼むのに命令形かい?》
「どうか電話を切らないで下さい、お願いします」
《で、キミの用ってのはおおかた今日の――ああ、もう昨日だっけか、古閑さんとのデートの件でボクに相談したいことがある、ってとこでしょ》
「ああ」
《で、結局のところボクのメールでのアドバイスは役に立ったのかな?》
「……いや、お互い何ごともなく終電で帰りました」
《だろうね、だったらこんな時間にボクに電話なんかしてこないだろうし》
「実は今、何つ~かすっげえモヤモヤしててさ」
《モヤモヤ? ムラムラじゃなくて》
「違げ~よ、そういう性的な意味じゃなくてだな……とにかく、古閑さんとデートした中で色々思うところがあって、それが俺の中でぐちゃぐちゃにこんがらがってさ、全然心の整理が出来てない状態なんだ。だから、お前に話を聞いてほしくてさ」
《ふうん、取り敢えず今のキミが相当テンパってるのは判ったよ。明日の夜遅くでよければ時間作ってあげる。十時に浜松町で仕事終わるから、それからなら》
「済まん、恩に着る」



 翌日の夜、俺はポータブルラジオを聴きながら浜松町駅で電車を降りた。
 アルコール臭を撒き散らしながら陸続とホームに向かう、慌ただしい勤め人の流れに逆らって改札を抜け、駅の北口のオフィス街に出ると、あぐりが現在どこかのフロアで仕事をしているであろう、FMラジオ局の本社ビルが見えた。そういえば今、俺が聴いているこの番組もこの建物の中のどこかで生放送中なんだよな――そう考えると妙におかしいようなくすぐったいような気分になる。だからどうした、という話だが。
 ビルの各フロアは――二十四時間休みのない職場だから当然のだが、無機質な真っ白い照明が明々(あかあか)としていて、ビル全体を灰色の闇の中からぼうっと浮き上がらせていた。
 今日は大学では古閑さんとは会わなかった。少し寂しかったが、こちらの心の整理が全然付いていない今の状態ではその方がベターだったに違いない。
 俺は心の中で昨日の夜からずっと、この上なく不快にわだかまっている感情から少しでも逃避しようと、ことさらに意識してイヤホンから流れる電波に耳を澄ませる。
 ラジオでは女性パーソナリティーが自分の乳輪のサイズはシングルCDと同じだと発言、相方の男性パーソナリティーが爆笑していた。自分も思わず噴き出してしまったが、ふと楽しい夢を見ているさなかを起こされた風に我に返り、こんな風にしか現実逃避しか出来ない自分に言い知れぬ虚しさを覚えた。そして、覚えたところでどうしようもないのが更に虚しい。

 こないだの帝国ホテルでの見合いの件――前向きに考えてくれとるかね?

 これで何度目だろう。昨日文化会館でエンカウントした本屋敷とかいう議員先生の言葉が、ずきんという疼きを伴って脳裏で再生される。こないだの、ということは近い過去に古閑さんは《誰か》と既にお見合いをしたということだろう。
 政略結婚、いくら察しの悪い俺でもそのくらいは容易に想像が付く。国会議員が仲人を務めるほどの縁談だから、古閑さんが引き合わされた相手は――自分でこう言うのも気が引けるが、一流大学に在学中ということくらいしかセールスポイントのない俺なんか比較にならないくらい毛並みのいい男性に違いない。
 道路に出来る水たまりの油膜のように、嫌な予感が俺の中に浮かび上がってきた。古閑さんが俺に対して妙に積極的な態度を取っているのは、見合いの件と何か繋がりがあるのではないか……。
「寒っ」
 不意に巻き起こった一陣のビル風が、俺の横っ面を激しくスパンクした。急に肌寒くなってきた。上着を羽織ってくればよかったと思ったが、後悔しても始まらない。ビルの一階に入っているローソンに避難し、その旨をあぐりにメールして雑誌棚のエロ本をしばらく観賞していると、いきなり延髄に重い衝撃が走った。
「――うわああああああっ」
 不覚にも漫画のような悲鳴を上げてしまった。近くでかったるそうに床清掃をしていた店員が不審そうな目でこちらを見てくる。
「だ~れだっ?」
 誰だもクソもない、こんなことをする奴はあぐりくらいのものだ。
「あぐりっ、てめっ脅かすんじゃね~よ」
 振り向きざまに抗議すると、映画の『ロリータ』みたいな赤縁のサングラスをかけたあぐりの顔に、軽い狼狽の色が差した。
「シッ、声がデカいよ」
「何だよ派手なグラサンなんかかけて、芸能人にでもなった気か」
 はあっ、と聞こえよがしなため息を吐き出すあぐり。
「……こりゃ重症だね」
 失敬な奴である。
「じゃあ近くのファミレスにでも入ろっか、もちろんキミのおごりでね」
 俺の都合で夜遅くに時間を割いてくれるのだから、それくらいは当然だろう。読みかけのエロ本を棚に戻そうとすると、あぐりの生温かい視線を感じた。
「何だよ」
「ほらさっさと行くよっ、その粗末なモノ早くしまって」
 脱いでね~よ。


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