親友YH氏の、『頬白親父の一筆啓上』より
谷 大二司教メッセージへの批判

2006年01月07日
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/50145269.html
神のものは神に?

一方、われらの教会でも
「新年の司教メッセージ『神にものは神に』2006年1月1日 さいたま教区長 谷 大二」
が出されました。
http://www.saitama-daichan.net/shikyoo8.htm

そこでは、「新しい年を迎え、この共同体が神のことばを中心にさらに成長していけるようにと願い、私は次の3つの福音書の言葉を取り上げ、新年のメッセージといたします。」として、
「私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)
「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)
「神のものは神に」(マタイ22:21)
の3つの福音書のことばが取り上げられています。

ここで、3つ目の「神のものは神に」について感想を述べます。
メッセージは次のように書かれています。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という聖書のことばから、「教会は政治のことに口を出さない」と誤解する人がいます。」

「誤解する人」。教会自身がこのような考えを信徒に指導してきました。教会の教えに従っている人がまさに「誤解する人」なのです。

「もっとも、こういう問題が論じられるには歴史的背景がある。キリスト教会は、ほぼ二千年の間、この一七節のイエスの言葉を、政治的な事柄と宗教的事柄の対立を示唆するものと解釈し、宗教に関わる者が、政治に関わってはならないというふうに信徒を教育してきたからである。政治的な事柄は世俗的で次元の低い事柄であり、それに対して宗教は精神的・内面的で崇高な事柄であるとの二分法に基づき、「汚らわしい政治に手を染めるな」と訓戒しつつ、現実的には政治権力に追従し、それを補完する機能を果たしてきたのである。そういう姿勢は、現実の政治的権威を「神によって立てられ、神に由来するもの」とし、政治権力は本質的に「善を行わせるために権力を持ち行使する」という捉え方をしたパウロ(『ローマ』一三章を参照)に依拠するものであるが、そういう視点からこの一七節のイエスの言葉が解釈されてきたのである。そういう二千年にわたる教会権力者らの解釈は、イエスの姿勢とは全く相容れないものである。」
(高尾利数『イエスとは誰か』NHKブックス pp.247-248)

「この言葉は、「政教分離」の原則を示したものだなどとあげつらわれるが、マルコ福音書の文脈ではこのような意味はない。「政教分離」の「解釈」は、福音書の文脈から都合のよい「聖句」を切り離して勝手な解釈をするとどのようなことが可能なのかを示す端的な例となっている。」
(加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』大修館書店 p.229)

このイエスのことばから『政教分離』の原則を導き出すことは誤りであるとして、では、聖書は何を伝えたかったのでしょうか?

「すでにこれまでの研究において、ありとあらゆる解釈が出尽くした観がある。その内の代表的なものだけをいくつか紹介しよう。
(1)「カエサルのもの」、すなわち物質的なもの、あるいは政治的領域と、「神のもの」すなわち精神的なもの、あるいは宗教的領域を二分したとする解釈(E・ルナン)
(2)「神の国」の実現の時までに限って、ローマへの納税を認めたとするいわゆる「終末論的」解釈M・ヘンゲル他)。
(3)カエサルと政治的なものを神格化することを拒否した上で、ローマへの納税義務を原理的に容認したとする解釈(E・シュタウファー、弓削達他)。
(4)「しかし」と取り、後半に強調点があると見て、ローマへの納税を実質的に拒否する回答とする解釈(土井正興)。
(5)「そして」と取って、「カエサルのもの」はローマの人頭税、「神のもの」はエルサレム神殿への神殿税、あるいは神殿に納めるべき一切のものを指すとする解釈(田川建三、荒井献)。
(中略)この場合も、最も無理のない説明が一番真理に近いとすれば、(5)の解釈が最も妥当だと私には思われる。田川はイエスの最後の回答を「皇帝のものならば皇帝に返せばいいだろう。神のものは神にというので、諸君は神殿税をとりたてているのだから」と敷衍している(略)。つまり、イエスは実質的に自分自身の本音を語らなかったということである。そして、まさしくこれが、やはりエルサレム上京後、いわゆる「神殿冒涜」事件(マルコ一一15-19)に引き続いて行われたと思われる「権威問答」(マルコ一一27-33)についてすでに確かめたイエスの回答拒否の態度と軌を一にしているのである(略)。」
(大貫隆『イエスという経験』岩波書店 pp.187-189)

「ではガリラヤの住民は誰から支配されていたか。(略)公的には、エルサレム神殿とユダヤ教律法体系が支配の力をつくる。ガリラヤ人はエルサレム神殿によって経済的にしぼりあげられていた。人頭税とは呼ばれなかったが、事実上人頭税と同じ趣旨のものとして存在していたのが神殿税である。(略)この神殿税に実質的かつ象徴的に現れているように、宗教的権力の社会支配は民衆に対する巨大な圧力であった。さらには神殿税よりもよほど大量に神殿に吸い上げられていたのは、神殿に対する献納物である。全収穫物の十分の一は献納されたし、その他さまざまな機会にさまざまな名目でユダヤ人はさまざまなものを神殿に献納せねばならなかった。これらの献納物はもし字義通りに行われたのすれば、神殿税など比較にならないほど大量の収入を神殿にもたらしたはずである。(略)
このように民衆に対する巨大な経済的搾取機構として神殿が存在しているのに、それをあげつらわないでおいて、どうしてローマ帝国の税金だけを問題にしうるのか。イエスはローマ帝国に直接税金を払わぬ位置にいたが、エルサレム神殿にはさまざまな仕方で搾取されていた。
そういうところで、伝統主義的なパリサイ派の一人から、ローマ帝国に税金を払うべきか否か、なんぞとたずねられて、イエスはこいつ何を言っているのか、と思っただろう。そこで、彼は、一つの痛烈な皮肉をあびせる。
「あんた達が税金を支払うのに使う貨幣を持って来てみろ」
そこで、誰かがローマのデナリ貨幣を取り出す。第二代皇帝ティベリウスの像がほってある代物だ。そして、当時の人間ならば、周知の如く、これは異邦人の「偶像」がほってあるから、神殿への「献金」には用いられない。そのためには、神殿境内で両替して、古い貨幣に代えなければならない。
「あれ、これはローマ皇帝のものじゃないか。皇帝のものならば皇帝にお返し申しあげればいいだろう。−神様のものは神様にお返し申しあげさせられているんだから」(マルコ一二・一三−一七)
この痛快なせりふを、キリスト教徒は、二千年にわたって、政治と宗教の分離の意味に解釈してきた。政治のことは政治家にまかせ、良き信徒は信仰にはげみなさい、と。冗談じゃない、としか言えない。およそそういうことではないのだ。「神のもの」という語は、決してここでは敬虔な神信仰を意味するわけではない。これは税金問題なのだ。「カイサルのもの」が帝国の税金ならば、「神のもの」は神殿税をはじめとして神殿に吸収される一切のものを意味する。イエスはローマ支配を批判しつつ、自分達の宗教社会支配の勢力を温存させているエルサレムの宗教貴族や、民族主義者の律法学者に我慢がならなかったのだ。彼は、決して、反ローマ抵抗家の運動が「此世的」な運動だからというので、それを批判して、人々の眼を永遠の彼岸へと向けさせようとした、というのではない。そうではなく、民族主義者の語る「神の支配」が、王の権力や宗教貴族の圧力となって民衆を支配するものであることに、批判の刃を向けたのだ。
宗教的社会支配に圧しつぶされて来た人間の呪詛がここでは語られている。そしてイエスのこれらの皮肉、逆説は、皮肉でとどまるわけにはいかなかった。切られた口火は消えることがない。彼はユダヤ人社会の支配体制全体を敵に回すことになる。」
(田川建三『イエスという男』三一書房 pp.113-115)

そう、これはあくまでも「税金問題」なのです。そして、税金をとおして、宗教貴族達も批判している。だから、「彼ら(=パリサイ人たちの弟子&ヘロデ党の者たち)はこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」(マタイ22.22)のです。一方、「一七節の言葉は、『トマス』にも『エガートン福音書』(二世紀の初めに遡りうるもの)と呼ばれる未知の福音書の断片にも含まれているもので、圧倒的多数の学者たちによって、イエスの真正の言葉と認められているものである。『五つの福音書』のなかでは『マルコ』におけるイエスの唯一の真正な言葉(赤色)とされているもので、まさにイエスの代表的な言葉であると言えよう。イエスの言葉を聞いた者たちの心に最も忘れ難いものの最たるものとして記憶されたものであろう。」(『イエスとは誰か』p.243)
もし、この一七節の言葉が「日本国憲法の第9条は改正してはならない」というような、今では共産党や社民党などのイデオロギー政党のみが主張するような内容を意味するのであれば、パリサイ派の弟子たちは驚かなかったであろうし、それを聞いた人達の心にも響くことはなかったのではないでしょうか。

ここで、明らかになったのは「さいたま教区長 谷大二」は、再度、信徒たちを誤謬の世界に招き入れようとしているということです。カトリックの名を用いた政治的活動には多くの信徒が迷惑しています。「さいたま市 谷大二(団体役員)」で良いではないですか……。

 

2006年01月10日
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/50185304.html
神のものは神に?2

先に「神のものは神に?」と題し、『さいたま教区長 谷大二』司教が出したメッセージへの感想を述べたところです。
今回はその続き。というか補足。

「私は、新約聖書のここのテキストの「原義」とはそれぞれの文書が書かれた時に、著者が最初の読者に伝達しようとした『意味』であると考えます。そしてこの「意図された意味」を究明することが、聖書解釈の到達すべき目標であると考えます。」(笠原義久『新約聖書入門』新教出版社 p.154)

「この言葉(カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい)は、「政教分離」の原則を示したものだなどとあげつらわれるが、マルコ福音書の文脈ではこのような意味はない。「政教分離」の「解釈」は、福音書の文脈から都合のよい「聖句」を切り離して勝手な解釈をするとどのようなことが可能なのかを示す端的な例となっている。」
(加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』大修館書店 p.229 ただし、「( )」は頬白親父の追加。)

当該メッセージは、当に「勝手な解釈」であり、我々信徒を再度誤謬の世界へ陥れようとしている。

日本国憲法は、戦勝国が敗戦国日本に、しかも占領中に押しつけたものである。脇腹に短刀を突きつけて認めさせられた掟であっても、掟は掟、後生大事に守り抜かなれけばないないなどとは、イエズスの行動からは全く導き出せないことではないだろうか。

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