親友YH氏の、『頬白親父の一筆啓上』より 2006年01月07日 一方、われらの教会でも
そこでは、「新しい年を迎え、この共同体が神のことばを中心にさらに成長していけるようにと願い、私は次の3つの福音書の言葉を取り上げ、新年のメッセージといたします。」として、
ここで、3つ目の「神のものは神に」について感想を述べます。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という聖書のことばから、「教会は政治のことに口を出さない」と誤解する人がいます。」 「誤解する人」。教会自身がこのような考えを信徒に指導してきました。教会の教えに従っている人がまさに「誤解する人」なのです。
「もっとも、こういう問題が論じられるには歴史的背景がある。キリスト教会は、ほぼ二千年の間、この一七節のイエスの言葉を、政治的な事柄と宗教的事柄の対立を示唆するものと解釈し、宗教に関わる者が、政治に関わってはならないというふうに信徒を教育してきたからである。政治的な事柄は世俗的で次元の低い事柄であり、それに対して宗教は精神的・内面的で崇高な事柄であるとの二分法に基づき、「汚らわしい政治に手を染めるな」と訓戒しつつ、現実的には政治権力に追従し、それを補完する機能を果たしてきたのである。そういう姿勢は、現実の政治的権威を「神によって立てられ、神に由来するもの」とし、政治権力は本質的に「善を行わせるために権力を持ち行使する」という捉え方をしたパウロ(『ローマ』一三章を参照)に依拠するものであるが、そういう視点からこの一七節のイエスの言葉が解釈されてきたのである。そういう二千年にわたる教会権力者らの解釈は、イエスの姿勢とは全く相容れないものである。」
「この言葉は、「政教分離」の原則を示したものだなどとあげつらわれるが、マルコ福音書の文脈ではこのような意味はない。「政教分離」の「解釈」は、福音書の文脈から都合のよい「聖句」を切り離して勝手な解釈をするとどのようなことが可能なのかを示す端的な例となっている。」 このイエスのことばから『政教分離』の原則を導き出すことは誤りであるとして、では、聖書は何を伝えたかったのでしょうか?
「すでにこれまでの研究において、ありとあらゆる解釈が出尽くした観がある。その内の代表的なものだけをいくつか紹介しよう。
「ではガリラヤの住民は誰から支配されていたか。(略)公的には、エルサレム神殿とユダヤ教律法体系が支配の力をつくる。ガリラヤ人はエルサレム神殿によって経済的にしぼりあげられていた。人頭税とは呼ばれなかったが、事実上人頭税と同じ趣旨のものとして存在していたのが神殿税である。(略)この神殿税に実質的かつ象徴的に現れているように、宗教的権力の社会支配は民衆に対する巨大な圧力であった。さらには神殿税よりもよほど大量に神殿に吸い上げられていたのは、神殿に対する献納物である。全収穫物の十分の一は献納されたし、その他さまざまな機会にさまざまな名目でユダヤ人はさまざまなものを神殿に献納せねばならなかった。これらの献納物はもし字義通りに行われたのすれば、神殿税など比較にならないほど大量の収入を神殿にもたらしたはずである。(略)
そう、これはあくまでも「税金問題」なのです。そして、税金をとおして、宗教貴族達も批判している。だから、「彼ら(=パリサイ人たちの弟子&ヘロデ党の者たち)はこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」(マタイ22.22)のです。一方、「一七節の言葉は、『トマス』にも『エガートン福音書』(二世紀の初めに遡りうるもの)と呼ばれる未知の福音書の断片にも含まれているもので、圧倒的多数の学者たちによって、イエスの真正の言葉と認められているものである。『五つの福音書』のなかでは『マルコ』におけるイエスの唯一の真正な言葉(赤色)とされているもので、まさにイエスの代表的な言葉であると言えよう。イエスの言葉を聞いた者たちの心に最も忘れ難いものの最たるものとして記憶されたものであろう。」(『イエスとは誰か』p.243) ここで、明らかになったのは「さいたま教区長 谷大二」は、再度、信徒たちを誤謬の世界に招き入れようとしているということです。カトリックの名を用いた政治的活動には多くの信徒が迷惑しています。「さいたま市 谷大二(団体役員)」で良いではないですか……。
2006年01月10日
先に「神のものは神に?」と題し、『さいたま教区長 谷大二』司教が出したメッセージへの感想を述べたところです。 「私は、新約聖書のここのテキストの「原義」とはそれぞれの文書が書かれた時に、著者が最初の読者に伝達しようとした『意味』であると考えます。そしてこの「意図された意味」を究明することが、聖書解釈の到達すべき目標であると考えます。」(笠原義久『新約聖書入門』新教出版社 p.154)
「この言葉(カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい)は、「政教分離」の原則を示したものだなどとあげつらわれるが、マルコ福音書の文脈ではこのような意味はない。「政教分離」の「解釈」は、福音書の文脈から都合のよい「聖句」を切り離して勝手な解釈をするとどのようなことが可能なのかを示す端的な例となっている。」 当該メッセージは、当に「勝手な解釈」であり、我々信徒を再度誤謬の世界へ陥れようとしている。 日本国憲法は、戦勝国が敗戦国日本に、しかも占領中に押しつけたものである。脇腹に短刀を突きつけて認めさせられた掟であっても、掟は掟、後生大事に守り抜かなれけばないないなどとは、イエズスの行動からは全く導き出せないことではないだろうか。 |