菅直人首相が16日に新たな民主党幹事長に起用した岡田克也氏の政治家としての歩みは、小沢一郎前幹事長との関係を抜きに語れない。当初は小沢氏を「政治の世界での父」と呼ぶ関係だったが、97年の新進党解党を機に明確にたもとを分かった。03年の民主党と旧自由党との合併後もその立場を維持し、党内の非小沢系勢力の中心的存在であり続けた。そのことが「脱小沢」を狙った今回の幹事長起用につながった。【田中成之、野口武則】
「新進党と書いた有権者への裏切りだ」
97年12月27日に解党を決めた新進党の両院議員総会で、岡田氏は解党を主導した小沢党首(当時)を面と向かって批判した。小沢氏が自民党幹事長だった90年の衆院選で初当選して竹下派(当時)に入り、93年に一緒に自民党を離党して新生党を結党するなど、共に行動してきた小沢氏との決別の瞬間だった。
その後、03年の民主党と旧自由党の合併で、再び同じ政党に。04年5月の代表就任後は、岡田氏の党運営を批判する小沢グループと、無役となった小沢氏(後に副代表に就任)の処遇に悩まされた。
菅首相とは02年の代表選で戦った後に幹事長として仕え、「岡田君はよく支えてくれた」との評価を得たことが今回の起用につながった。
「政治とカネ」に一貫してこだわり、企業・団体献金禁止の急先鋒(せんぽう)。持論にこだわることから「原理主義者」とあだ名される。若手議員との会合も割り勘にし、贈り物は受け取らずに生の伊勢エビも返送したエピソードから堅物イメージだが、04年7月の参院選では「まっすぐに ひたむきに」とのキャッチフレーズで逆手に取った。小泉純一郎首相(当時)の「人生いろいろ」発言も引き出し、自民党を1議席上回る50議席で勝利したが、翌年の郵政選挙で惨敗して辞任した。
表舞台への復帰は昨年5月。小沢氏辞任後の代表選で鳩山由紀夫前首相に敗れたが幹事長に起用され、昨年9月の政権交代に伴って外相となった。
外相としては、日米の外交密約の調査や、核軍縮・不拡散を積極推進した。米軍普天間飛行場の移設問題では昨年10月に「嘉手納基地への統合案」を打ち上げて米側の不信を買ったが、名護市辺野古への移設案に転じ、5月の日米共同声明を主導。ただ、5月の日中外相会談では中国に核兵器削減を求めて激怒させるなど、外交でも原理主義を貫く姿勢には賛否両論がある。
毎日新聞 2010年9月16日 22時11分(最終更新 9月17日 0時43分)