伊達藩の米は、江戸に出荷されて広く流通し、藩の財政も他藩と比べると比較的良好な状態にあったといわれています。
おかげで、伊達藩では、江戸時代を通じて、ほとんど百姓一揆がおきていない。
一揆というのは、現代社会でいうなら集団的武力闘争です。
太平の世の中で、こういう行為は、やはり許されるものではない。
こうした一揆が、伊達藩では、江戸時代を通じてほとんど発生していないというのは、いかに伊達藩の知行が優れていたかということです。
その伊達藩が江戸時代に経験した唯一の、そして藩の土台骨を動かすほどの大一揆が、寛政9(1797)年の「仙北諸郡一揆」です。
事の発端は「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」にあります。
天明の大飢饉は、江戸時代中期にあたる天明2(1782)年から天明8(1788)年にかけて発生したものです。
江戸四大飢饉のひとつであり、日本の近世史上最大の飢饉です。
きっかけは、火山の爆発です。
天明3(1782)年3月12日に青森県弘前市にある岩木山が爆発しました。
次いで、同じ年の7月6日には、長野県軽井沢の浅間山が大噴火したのです。
噴火により、北日本を中心に大規模な火山灰が降ります。
さらに噴煙は日射量を低下させる。
これによって東日本を中心に大規模かつ深刻な冷害が発生し、農作物に壊滅的な被害をもたらします。
翌年、米は、大凶作になります。
たまたま時は、老中田沼意次の治世です。
この人は、江戸時代にはめずらしく、積極的な財政出動によって重商主義をとり、江戸の貨幣経済化を一気に推し進めた人です。
貨幣経済の振興は、二次産業、三次産業といった都市部での町人経済を活性化する一方、利益の薄い一次産業に従事する農村部の貧困化を招きます。
そういうところに、大凶作が襲ったわけです。
米相場は青天井で高騰するけれど、農村部の生活は、まったく改善されない。
そこへ折からの凶作です。
前もって買い付けがなされている米は、できあがると前もって決められた量を商人たちにもっていかれてしまう。
手元には生活するための米すら残らない。
当時の様子について、杉田玄白の著書「後見草」には、東北地方の農村を中心に、全国で約2万人が餓死したとの記載があります。
ところが、江戸封建体制というのは、これがややこしい。
この数字は、諸藩が、藩政失政のによる改易などの咎(とが)を恐れて、被害の深刻さを表沙汰にした、いわば、隠した数字です。
実態はもっと深刻で、たとえば弘前藩では、餓死者が8万〜13万人も出たとも伝えられ、逃散した者も含めると、このとき藩の人口の半数近くがいなくなっています。
食べるものがなくて栄養失調になった農民に、さらに追い打ちをかけるように疫病が襲います。
一方、農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、窃盗、強盗を働いた。
天明7(1787)年には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がっています。
飢饉に物価高に疫病の流行に治安の悪化。
安永9(1780)年から天明6(1786)年の間に、全国的には92万人余りの人口減をまねいたといいます。
どれだけたいへんな事態だったか。
ここまでくると、さしもの伊達藩も、米に頼る藩財政が行き詰ります。
農民たちも、どうにも生活ができなくなる。
寛政9(1797)年4月、追い詰められた伊達藩田村領13ヵ村の農民たち1300名余りが結集します。「仙北諸郡一揆」です。
彼らは、十八カ条におよぶ「峠村惣御百姓共口上書(とうげむらそうおひゃくしょうどもこうじょうしょ)」を掲げ、同年4月23日と、5月17日の二回にわたり、一関方面に押しかけます。
鎮圧に赴いた伊達藩奉行は、口上書を受取とると、峠村(とうげむら)の総訴人代表の組頭千葉惣左エ門(35歳)と、蛭沢の組頭藤十郎(42歳)を逮捕し、一揆の解散を命じます。
翌、寛政10(1798)年の冬、百姓一揆の統頭人として、千葉惣左エ門は落首の御仕置となり、藤十郎は女川沖の江ノ島に遠島を申しつけられた。
それまで太平を守ってきた伊達藩で一揆を企てたのです。
いかなる理由があれ、死罪、遠島は、当然のお裁きといえます。
藩法によれば、一揆は、首謀者が死罪となるだけでなく、首謀者の家族、親類縁者も同罪です。
惣左エ門は、親子三代が一つ屋根の下で暮らす旧家です。
一揆を起こした自分が咎めを受けるのは仕方がないけれど、家族の命が犠牲になることは、とてもとても心配で気がかりだったことと思います。
この事件は、伊達藩公も関与し、最終的な判決が決められます。
そして、伊達藩の裁きは、首謀者の惣左エ門、ただひとりを死罪。親類縁者にお咎めはなしとした。
家族が無事だった。
判決を聞いた惣左エ門は、あまりの温情判決に、涙を浮かべたといいます。
さらにこのとき、お奉行が千葉惣左エ門に直接、語りかけた。
これも前代未聞のことです。
そのときのお奉行の言葉。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
惣左エ門。
其方の命を無駄にはせぬぞ。
訴状の事しかと報いるによって、
心おきなく旅立てよ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これを聞いた惣左エ門と藤十郎は、
「有り難き御裁き。心残り無く参られます」
と、涙にむせびます。
温かい裁きもさりながら、藩政改革に努め、農民たちの願い、農民たちのための政治を約束してくれた。
犠牲者は、惣左エ門ただ一人です。
思い残すことはない。
藤十郎は遠島だけれど、いつの日にか、再び故郷の土を踏めるかもしれない。
惣左エ門は、藤十郎が死罪を免れた事を心から喜びます。
年上の藤十郎は「済まぬ」と、惣左エ門の手を握って離さなかった。
裁きの日から二日後、藩から、「種籾の給付が裁可され、何とかみんなの作付けが間に合いそうだ」という話が、牢内の惣左エ門にもたらされます。
よかった。これでみんなが救われる。
5月10日、刑場に曳かれた惣左エ門は、斬首の刑に処せられ、莞爾として旅立ちます。
冒頭の写真のお地蔵さんは、惣左エ門を「義民」としてたたえ、その霊にたいする供養と感謝の意味を込めて当時の人たちが建立したものです。
このお地蔵さん、建立されたころは、首がなかった。
なので、いつの頃からか「首切り地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
そして昭和4(1929)年、頭部がつくられて、現在の姿になる。
地元の人々は、建立から200年以上経った今でも、お地蔵様となった千葉惣左エ門をねんごろにご供養しています。
このお地蔵さんは、千葉惣左エ門の生家近くの県道藤沢線沿いの割山の頂上付近においでになります。
↓クリックを↓
青葉城
ごめんなさい、この場をお借りする無礼をお許し下さい。
「日本人よ、立ち上がれ!
大和魂とは国難を前に燃焼・爆発する民族精神である
<尖閣諸島は我が国領土!シナ在住日本人の生命・財産・安全を守れ>
日時:平成22年9月18日(土) 12:00開始
場所:渋谷ハチ公前
主催:主権回復を目指す会 政経調査会」