2009年01月
派遣や請負のような形で、企業の内部に契約労働者がいるのは、新しい現象ではない。むしろ資本主義の初期には、親方が職工を契約で雇って職場を点々とする内部請負制が主流だった。これは周知の事実なので、私の昔の本の記述を丸ごと引用しておく。
19 世紀中葉のアメリカでは,工場の中で一定のまとまった工程を請負人(contractor) と呼ばれる熟練工が管理し,その配下の職工を使って生産を行う「内部請負制」と呼ばれるシステムがとられていた.これはギルドの影響を残すイギリスの制度が輸入されたもので,請負人自身は被雇用者であったが,資本家と請負価格などについての契約を結んで職場を管理し,その配下にある職工たちを歩合給でやとって作業を行なった.[...]日本でも,第一次大戦ごろまでは「親方」あるいは「頭」と呼ばれる職長が職場を管理する「間接的管理体制」が造船業などの重工業に広く見られた.垂直統合された企業に常用労働者として雇用される形態は、歴史的には請負制より新しい。
親方は入札によってもっとも低い価格を提示したものが仕事を請け負い,やとわれる職工たちの多くも「渡り」と呼ばれる自由労働者であり,工業化初期の日本においては熟練工に対する需要は大きかったから,彼らは高い賃金を求めて各地の工場を渡り歩いたのである.たとえば1918 年の統計では,工場労働者の76.6%が勤続期間3 年未満であり,10年以上の長期勤続者はわずか3.7%と推定され,当時の労働市場はむしろ新古典派経済学の想定するような流動性の高い「完全」な市場に近かったと考えられる.(pp.15-6)
日本では資本蓄積が十分でなかったこともあって大企業のほとんどは官営企業であり,重工業のにない手は軍工廠や財閥系企業など一部に限られていた.こうした部門では日露戦争以後,軍需が急速にのびたため,設備の拡張によって職工の不足と賃金の急騰が生じるとともに労働者の地位の向上にともなって1906-7 年にかけて各地の造船所で大規模な争議が起き,深刻な経営問題となりつつあった.したがって「終身雇用は日本の文化や伝統に根ざしたものだ」という御手洗富士夫氏の主張は、論理的にも歴史的にも根拠がない。長期雇用は、垂直統合という20世紀に固有の企業統治システムの副産物にすぎない。グローバルな水平分業の拡大によって、「日本的雇用慣行」はITゼネコンの競争劣位の最大の原因となりつつある。新卒のとき、たまたま入った会社に一生とじこめられることは、労働者にとっても幸福ではない。彼らが自由に企業を移動することを支援する制度が必要である。
これに対応するために日本の経営者も内部請負制の間接的管理体制から経営者による直接的管理体制に移行しはじめた.1910 年代から各地の造船所に共済組合や生活扶助施設があいついで設けられ,労働者の拠出や企業の補助によって医療や年金などの給付を行うしくみが作られはじめた.そのねらいは,賃金だけでなく,こうした付加給付(fringe benefit) や福祉施設の充実によって熟練工を企業内に「囲いこむ」ことにあった.(p.28)
雇用問題は身近で切実なので、アクセスもコメントも多い。経済誌の記者はみんな「池田さんの話は経営者の意見と同じだが、彼らは絶対に公の場で『解雇規制を撤廃しろ』とはいわない」という。そういうことを公言したのは城繁幸氏と辻広雅文氏と私ぐらいだろうが、辻広氏のコラムにも猛烈な抗議があったという。
解雇規制が労働市場を硬直化させて格差を生んでいることは、OECDもいうように経済学の常識だが、それを変えることが政治的に困難なのも常識だ。これは日本だけではなく、フランスのようにわずかな規制緩和でも暴動が起きてしまう。人々は「雇用コストが下がれば雇用が増える」という論理ではなく「労働者をクビにするのはかわいそうだ」という感情で動くからだ。
正社員と非正規社員の格差も、世界的にみられる現象である。これは原理的には、効率賃金仮説で説明できる。経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)に情報の非対称性があるとき、労働者が怠けるのを防ぐために、中核的な労働者には限界生産性より高いレントを与え、怠けたら解雇されて、外部労働市場では限界生産性に見合う低い賃金しかもらえないようにすると、労働者は自発的に会社に忠誠をつくす。日本の年功賃金が効率賃金の一種だというのは、よく知られた事実である。
大企業とその下請けの中小企業の二重構造も、こうしたレントによる階層構造として理解できる。正社員が「終身雇用」だというのも神話で、労働人口の8割を占める中小企業には雇用保障はなく、その賃金は大企業のほぼ半分だ。こうした中小企業の労働者や非正規労働者の時給は生産性に見合っているが、大企業のホワイトカラーや管理職の年功賃金はまったく生産性に見合っていない。それは長期的なレントによって彼らを囲い込むメカニズムなので、その機能を無視して「成果主義」にすると、大混乱になる。
したがって今のように雇用規制が強まる前から二重構造はあったし、雇用規制を撤廃しても残るだろう。問題は、こうした企業の合理性を超えて法的な保護が強まっていることだ。最近のタイガー魔法瓶事件では、「派遣切り」も雇用契約の打ち切りとみなされ、企業が和解金を支払った。司法にこういう「事後の正義」のバイアスがあるのはやむをえない。彼らの仕事は、事後の紛争処理なのだから。本来は立法や行政が事前のインセンティブへの悪影響とのバランスをとらなければならないのだが、大臣が「製造業の派遣を禁止する」などという厚労省にはそれは望めない。
非正規労働者の身分差別を生んでいるのは、このように合理的な効率賃金を超えて正社員を過剰に保護する解雇規制である。規制を撤廃して解雇のリスクがなくなれば、企業はコアの労働者は長期雇用し、それ以外の労働者は高コストの派遣ではなく雇用関係でやとうようになるだろう。それによって、むしろ「すべり台社会」は阻止できると思う。
解雇規制が労働市場を硬直化させて格差を生んでいることは、OECDもいうように経済学の常識だが、それを変えることが政治的に困難なのも常識だ。これは日本だけではなく、フランスのようにわずかな規制緩和でも暴動が起きてしまう。人々は「雇用コストが下がれば雇用が増える」という論理ではなく「労働者をクビにするのはかわいそうだ」という感情で動くからだ。
正社員と非正規社員の格差も、世界的にみられる現象である。これは原理的には、効率賃金仮説で説明できる。経営者(プリンシパル)と労働者(エージェント)に情報の非対称性があるとき、労働者が怠けるのを防ぐために、中核的な労働者には限界生産性より高いレントを与え、怠けたら解雇されて、外部労働市場では限界生産性に見合う低い賃金しかもらえないようにすると、労働者は自発的に会社に忠誠をつくす。日本の年功賃金が効率賃金の一種だというのは、よく知られた事実である。
大企業とその下請けの中小企業の二重構造も、こうしたレントによる階層構造として理解できる。正社員が「終身雇用」だというのも神話で、労働人口の8割を占める中小企業には雇用保障はなく、その賃金は大企業のほぼ半分だ。こうした中小企業の労働者や非正規労働者の時給は生産性に見合っているが、大企業のホワイトカラーや管理職の年功賃金はまったく生産性に見合っていない。それは長期的なレントによって彼らを囲い込むメカニズムなので、その機能を無視して「成果主義」にすると、大混乱になる。
したがって今のように雇用規制が強まる前から二重構造はあったし、雇用規制を撤廃しても残るだろう。問題は、こうした企業の合理性を超えて法的な保護が強まっていることだ。最近のタイガー魔法瓶事件では、「派遣切り」も雇用契約の打ち切りとみなされ、企業が和解金を支払った。司法にこういう「事後の正義」のバイアスがあるのはやむをえない。彼らの仕事は、事後の紛争処理なのだから。本来は立法や行政が事前のインセンティブへの悪影響とのバランスをとらなければならないのだが、大臣が「製造業の派遣を禁止する」などという厚労省にはそれは望めない。
非正規労働者の身分差別を生んでいるのは、このように合理的な効率賃金を超えて正社員を過剰に保護する解雇規制である。規制を撤廃して解雇のリスクがなくなれば、企業はコアの労働者は長期雇用し、それ以外の労働者は高コストの派遣ではなく雇用関係でやとうようになるだろう。それによって、むしろ「すべり台社会」は阻止できると思う。
私の学生のころのマクロ経済学の教科書は、短期の理論しか書いてなかったが、最近の教科書はマンキューのように長期の成長理論から入り、その長期トレンドからの乖離として短期的な景気変動を扱うものが増えてきた。大学院の教科書は、20年前のBlanchard-Fischer以来、そういう構成になっている。最近は中級の教科書でも、JonesのようにIS-LMをやめて潜在成長率の概念をコアにするものが出てきた。
日本の経済政策を考える上でも、現状が潜在成長率に近いのか、それともそこから(上方あるいは下方に)乖離しているのか判断することが出発点である。ただし厳密に潜在成長率を推定することは容易ではないので、内閣府のGDP速報値をもとに、ざっくり推定してみた(専門家には怒られると思うが)。

図のように昨年10-12月期の実質GDPを1995年からのトレンドを直線で描くと、年率約1.5%。内閣府などの推定する潜在成長率に近い。現状はそこからの下方への乖離というより、潜在成長率への復帰と考えたほうがいいのではないか。むしろ2007年までの景気回復が円安・低金利による上方への乖離で、最近のマイナス成長はこのグラフからみると、まだ下方修正する可能性がある。したがって今年のGDPを「ゼロ成長」とする内閣府の予測は楽観的だ。
だから日米の置かれた状況は違う。アメリカの場合は、明らかに金融システムの崩壊で潜在成長率からの大幅な下方への乖離が生じているので、異常な財政政策も選択肢としてはありうるが、日本では上方に乖離していた成長率が潜在水準に復帰しているので、財政・金融による短期的な「景気対策」は必要でも有効でもない。必要なのは、1990年ごろを境に実質1%強に低下した潜在成長率を引き上げるための規制改革だ。
潜在成長率を決める要因はいろいろあるが、日本の場合ボトルネックになっているのは非効率的な労働市場だから、解雇規制を撤廃して非生産的な部門からの労働移動を支援する改革が重要だ。いま必要なのは「階級闘争」ではなく、正社員と非正規労働者の身分差別の撤廃である。それは派遣を救済するだけではなく、労働生産性を高めて潜在成長率を引き上げるために必要なのである。
日本の経済政策を考える上でも、現状が潜在成長率に近いのか、それともそこから(上方あるいは下方に)乖離しているのか判断することが出発点である。ただし厳密に潜在成長率を推定することは容易ではないので、内閣府のGDP速報値をもとに、ざっくり推定してみた(専門家には怒られると思うが)。
図のように昨年10-12月期の実質GDPを1995年からのトレンドを直線で描くと、年率約1.5%。内閣府などの推定する潜在成長率に近い。現状はそこからの下方への乖離というより、潜在成長率への復帰と考えたほうがいいのではないか。むしろ2007年までの景気回復が円安・低金利による上方への乖離で、最近のマイナス成長はこのグラフからみると、まだ下方修正する可能性がある。したがって今年のGDPを「ゼロ成長」とする内閣府の予測は楽観的だ。
だから日米の置かれた状況は違う。アメリカの場合は、明らかに金融システムの崩壊で潜在成長率からの大幅な下方への乖離が生じているので、異常な財政政策も選択肢としてはありうるが、日本では上方に乖離していた成長率が潜在水準に復帰しているので、財政・金融による短期的な「景気対策」は必要でも有効でもない。必要なのは、1990年ごろを境に実質1%強に低下した潜在成長率を引き上げるための規制改革だ。
潜在成長率を決める要因はいろいろあるが、日本の場合ボトルネックになっているのは非効率的な労働市場だから、解雇規制を撤廃して非生産的な部門からの労働移動を支援する改革が重要だ。いま必要なのは「階級闘争」ではなく、正社員と非正規労働者の身分差別の撤廃である。それは派遣を救済するだけではなく、労働生産性を高めて潜在成長率を引き上げるために必要なのである。
鳩山総務相が「かんぽの宿」のオリックスへの一括譲渡に介入して、奇怪な言動を続けている。これについて、珍しく朝日と産経の社説が一致して批判した。両方とも論旨はほとんど同じで、産経はこう書く:
この背景には、小泉改革の協力者だった宮内義彦氏を傷つけようとする郵政民営化反対勢力の山口俊一首相補佐官の動きがある(鳩山氏も認めている)。最低なのが、それに悪乗りして宮内氏の参考人招致を求める民主党だ。枝野幸男氏は「オリックスが応札したこと自体理解不能だ」といっったそうだが、一般競争入札というのはだれでも応札できる制度である。それを制限したら、談合の温床になる。自民党の抵抗勢力や国民新党と結託して小泉改革を白紙に戻すのが民主党の選挙戦術だとすれば、救いがたいというしかない。
[鳩山氏は]「国民が『出来レース』と受け止める可能性がある」としている。(1)なぜ不況時に売却するのか(2)一括譲渡とした理由(3)譲渡額約109億円の妥当性-という点にも疑問を投げかけている。だが、譲渡は27社が応募し、2度の競争入札の結果で決まった。これまでのところ、手続きに落ち度は認められない。譲渡先の経営者の経歴や過去の発言だけで、所管大臣が入札結果に口出しするのは許認可権の乱用ではないか。その通りである。鳩山氏は、競争入札というものを理解していないのではないか。「こんな値段では安すぎる」というが、本来の価格がもっと高いのなら、オリックスより高い価格で他社が落札したはずだ。「地元資本に落札させる」というが、その会社がオリックスより高い価格を出せるはずがない(出せるなら落札している)。低い価格で落札したら、それこそ不正入札だ。
この背景には、小泉改革の協力者だった宮内義彦氏を傷つけようとする郵政民営化反対勢力の山口俊一首相補佐官の動きがある(鳩山氏も認めている)。最低なのが、それに悪乗りして宮内氏の参考人招致を求める民主党だ。枝野幸男氏は「オリックスが応札したこと自体理解不能だ」といっったそうだが、一般競争入札というのはだれでも応札できる制度である。それを制限したら、談合の温床になる。自民党の抵抗勢力や国民新党と結託して小泉改革を白紙に戻すのが民主党の選挙戦術だとすれば、救いがたいというしかない。
私の出演したCSの番組がYouTubeで流されて、15日の記事にコメントがたくさんついている。司会者が私の話を理解しないで変な突っ込みを入れ、コメンテーターが「日本的経営」にこだわるため話が脱線してしまったので、少し補足しておこう。
今のような状況になると、必ず「企業は景気のいいときもうかったのだから、内部留保を取り崩して雇用を守れ」という話が出てくる。こういう精神論は、企業が労働者のセーフティ・ネットになっていた日本的福祉システムを前提にしているが、そんな構造はとっくに崩壊しているのだ。日本的経営の典型と思われているトヨタも、すでに海外生産が国内生産を上回った。
こういう状況で製造業の派遣を禁止したら、派遣労働者は間違いなく失業者になる。不況で労働需要が急減しているので、企業が正社員を新たに雇用することは考えられない。人手が足りなければ、海外にアウトソースするだろう。円高も進んでいるので、今後も雇用規制が強まることが予想されれば、海外生産にシフトする。つまり派遣規制の強化は「空洞化」を促進するのだ。
拙著でも書いたように、日本企業の年功序列型の賃金プロファイルは、高度成長期までは一定の合理性があった。それは若いとき会社に貯金し、年をとってから貯金を取り崩す構造によって、社員の企業特殊的(firm-specific)な人的資本への投資を促進し、かつ彼らがその技能を「食い逃げ」しないように囲い込む暗黙の契約だったからである。
このように「10年は泥のように働け」という丁稚奉公の構造は、日本が途上国で需要がつねに右上がりである段階では合理的だった。賃金などのコスト優位があるうちは、輸出によって経済全体の拡大が続くので、「ジェネラリスト」や「多能工」を育て、社内の衰退部門から成長部門に配置転換することによって、日本企業は需要の変化に対応してきた。これは労働組合が職能別に細分化されて配置転換できない欧米の労使関係より、日本的労使関係のすぐれていた点だ。
しかし賃金が上がってコスト優位が失われると潜在成長率が低下し、こうしたローテーションによって雇用を守ることはできなくなる。特に製造業では、アジア諸国との競争によって規模が絶対的に収縮しているので、賃金コストを削減することは避けられない。こういうとき企業が手をつけるのは、暗黙の契約を破棄して賃金プロファイルを平準化し、貯金を払い戻すのをやめることだ。「能力主義」賃金というのは、その婉曲話法である。
しかし「ノンワーキング・リッチ」や天下りは、若いときの貯金を取り崩す段階なので、全体のキャリアパスを変えないでそこだけ壊すと、若い社員は貯金をやめて効率のいい会社に転職し、若い官僚は「脱藩」してしまう。これによって貯金が維持できなくなる・・・という悪循環が生じて、90年代に終身雇用・年功序列構造は崩壊した。この流れが逆転することは考えられない。
会社が年金や社宅まで丸抱えで世話する日本的福祉システムは、企業がグローバル化した現在では、もう維持できないのだ。ところが派遣村の人々が求めるのは、「派遣を社宅に入れろ」。こういう古い発想では、今はマスコミにちやほやされるかもしれないが、そのうち彼らも雇用問題には飽きるので、忘れられるだろう。
企業に依存した福祉システムが崩壊し、「すべり台社会」になったという湯浅誠氏の問題提起は正しいのだが、その流れを止めることはできないし、社宅や生活保護を求めても本質的な解決にはならない。解雇規制を撤廃して労働市場の柔軟性を高めるとともに、再教育システムや雇用データベースの整備などによって労働者が動きやすくするしか道はないだろう。
今のような状況になると、必ず「企業は景気のいいときもうかったのだから、内部留保を取り崩して雇用を守れ」という話が出てくる。こういう精神論は、企業が労働者のセーフティ・ネットになっていた日本的福祉システムを前提にしているが、そんな構造はとっくに崩壊しているのだ。日本的経営の典型と思われているトヨタも、すでに海外生産が国内生産を上回った。
こういう状況で製造業の派遣を禁止したら、派遣労働者は間違いなく失業者になる。不況で労働需要が急減しているので、企業が正社員を新たに雇用することは考えられない。人手が足りなければ、海外にアウトソースするだろう。円高も進んでいるので、今後も雇用規制が強まることが予想されれば、海外生産にシフトする。つまり派遣規制の強化は「空洞化」を促進するのだ。
拙著でも書いたように、日本企業の年功序列型の賃金プロファイルは、高度成長期までは一定の合理性があった。それは若いとき会社に貯金し、年をとってから貯金を取り崩す構造によって、社員の企業特殊的(firm-specific)な人的資本への投資を促進し、かつ彼らがその技能を「食い逃げ」しないように囲い込む暗黙の契約だったからである。
このように「10年は泥のように働け」という丁稚奉公の構造は、日本が途上国で需要がつねに右上がりである段階では合理的だった。賃金などのコスト優位があるうちは、輸出によって経済全体の拡大が続くので、「ジェネラリスト」や「多能工」を育て、社内の衰退部門から成長部門に配置転換することによって、日本企業は需要の変化に対応してきた。これは労働組合が職能別に細分化されて配置転換できない欧米の労使関係より、日本的労使関係のすぐれていた点だ。
しかし賃金が上がってコスト優位が失われると潜在成長率が低下し、こうしたローテーションによって雇用を守ることはできなくなる。特に製造業では、アジア諸国との競争によって規模が絶対的に収縮しているので、賃金コストを削減することは避けられない。こういうとき企業が手をつけるのは、暗黙の契約を破棄して賃金プロファイルを平準化し、貯金を払い戻すのをやめることだ。「能力主義」賃金というのは、その婉曲話法である。
しかし「ノンワーキング・リッチ」や天下りは、若いときの貯金を取り崩す段階なので、全体のキャリアパスを変えないでそこだけ壊すと、若い社員は貯金をやめて効率のいい会社に転職し、若い官僚は「脱藩」してしまう。これによって貯金が維持できなくなる・・・という悪循環が生じて、90年代に終身雇用・年功序列構造は崩壊した。この流れが逆転することは考えられない。
会社が年金や社宅まで丸抱えで世話する日本的福祉システムは、企業がグローバル化した現在では、もう維持できないのだ。ところが派遣村の人々が求めるのは、「派遣を社宅に入れろ」。こういう古い発想では、今はマスコミにちやほやされるかもしれないが、そのうち彼らも雇用問題には飽きるので、忘れられるだろう。
企業に依存した福祉システムが崩壊し、「すべり台社会」になったという湯浅誠氏の問題提起は正しいのだが、その流れを止めることはできないし、社宅や生活保護を求めても本質的な解決にはならない。解雇規制を撤廃して労働市場の柔軟性を高めるとともに、再教育システムや雇用データベースの整備などによって労働者が動きやすくするしか道はないだろう。
Ben Bernanke and his colleagues are trying everything they can think of to unfreeze the credit markets.[...] But at best, all this activity only serves to limit the damage. There's no realistic prospect that the Fed can pull the economy out of its nose dive. So it's up to you.ゼロ金利にも「量的緩和」にも市場が反応しない以上、FRBにできることはもうない(インフレ目標には言及もしていない)。したがって、オバマが(財政政策で)アメリカを救うしかない。
Can you do anything like that today? Yes, you can. [...] And the truth is that you will, in a way, be engaging in temporary nationalization.シティ・グループやバンク・オブ・アメリカへの巨額の資本注入は、これで最後かどうか疑わしい。Economistも、国有化は有力なオプションだと論じている。幸か不幸か、日本の経験はまた生かされるかもしれない。いろいろ問題はあったが、一時国有化は「外科療法」としては有効だったというのが、日本の教訓だ。むしろもっと早くやるべきだった。
「大蔵省がアメリカと組んでハゲタカにもうけさせた」などという人がいたが、『セイビング・ザ・サン』にも書かれているように、当初、大蔵省が長銀の引き取りを依頼した邦銀は、すべて断ったのだ。問題となった瑕疵担保条項も、困った大蔵省が「バーゲンセール」にするためにつけたものだ。リップルウッドのほうが「こんな条項をつけて大丈夫なのか?」と心配したぐらいだ。不幸なことが避けられないなら、早いほうがいい――というのが日本の悲しい教訓である。
彼は結果としての均衡ではなく、そこにいたる過程を重視した。一般均衡においては価格と限界費用は一致して利潤は消失するが、資本主義は利潤を追求するために不均衡を作り出す過程である。市場のコアにあるのは「効率的な資源配分」ではなく、不完全な知識しかない人々の不合理な行動をコーディネートするメカニズムである。
この理論は、Kirznerによって「起業家精神」の理論として継承され、現在でもイノベーションの経済分析として数少ない業績のひとつである。新古典派の単純で一面的な人間像に比べれば、ミーゼスの考察のほうが社会科学の他の分野の研究者にもずっと理解されやすいだろう。
しかしミーゼスは、主流にはならなかった。ハイエクとともに社会主義を批判した彼の業績は歴史に残ったが、ミーゼスの経済理論は定性的に記述され、実証的なデータもない(彼は実証分析を拒否した)ため、アカデミズムのゲームの規則になじまなかったのだ。ただ、行動経済学にはヒントになるかもしれない。行動経済学にはマクロ理論がないとよくいわれるが、本書は人間の目的意識的な行動がマクロ経済的にどういうインプリケーションをもつかを考察しているからだ。「社会主義は機能しない」というのは、その重要な結論だった。
デジタル・コンテンツの流通促進はますます重要な政策課題になりつつあります。情報通信政策フォーラム(ICPF)では、2008年度第4回・第5回セミナーと連続してこの課題を取り上げてきました。
この課題については財界の関心も高く、日本経済団体連合会でも知的財産委員会著作権部会で検討が進められています。そこで今回のセミナーでは、著作権部会の部会長を務めておられる和田洋一氏に「著作権制度の複線化(仮)」と題して講演していただくことにしました。多数の皆様のご参加をお待ちします。
日時:1月30日(金)18:30~20:00
場所:東洋大学白山校舎 6号館3階 6311教室
東京都文京区白山5-28-20(地図)
プログラム
18:30 問題提起:林 紘一郎(ICPF理事長)
18:40 講演:和田洋一氏(株式会社スクウェア・エニックス社長)
19:20 討論:モデレータ:山田 肇(ICPF副理事長)
参加費:無料
申し込み:infor@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい。
なお、当日は名刺をご持参ください。
この課題については財界の関心も高く、日本経済団体連合会でも知的財産委員会著作権部会で検討が進められています。そこで今回のセミナーでは、著作権部会の部会長を務めておられる和田洋一氏に「著作権制度の複線化(仮)」と題して講演していただくことにしました。多数の皆様のご参加をお待ちします。
日時:1月30日(金)18:30~20:00
場所:東洋大学白山校舎 6号館3階 6311教室
東京都文京区白山5-28-20(地図)
プログラム
18:30 問題提起:林 紘一郎(ICPF理事長)
18:40 講演:和田洋一氏(株式会社スクウェア・エニックス社長)
19:20 討論:モデレータ:山田 肇(ICPF副理事長)
参加費:無料
申し込み:infor@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい。
なお、当日は名刺をご持参ください。
派遣村をめぐる論争は、ますます過熱しているが、その争点が「失業は自己責任か」という点に集中しているのは困ったものだ。これは湯浅誠氏が強調する点だが、問題の的をはずしている。有効求人倍率0.76という状態では、どんなに努力しても4人に1人は職につけない。つまりマクロ的な経済現象としての失業は、労働の超過供給という市場のゆがみの結果であり、労働者の責任でも企業の責任でもない。
失業をもたらした最大の原因はもちろん不況だが、長期的な自然失業率を高めているのは正社員の過剰保護である。だから「ノンワーキング・リッチ」に責任があるのではなく、OECDも指摘するように、彼らを飼い殺しにするしかない労働法制と解雇を事実上禁止する判例に問題があるのだ。
民主党のように選挙めあてで派遣規制の強化を求める政治家の卑しさはいうまでもないが、厄介なのは派遣村の名誉村長、宇都宮健児氏のように善意で運動している人々が多いことだ。彼に代表される近視眼的な法律家の正義が、価格の機能を阻害し、官製不況をもたらしていることを彼らは理解できない。「貧しい債務者を助ける」という宇都宮氏の建て前は美しいが、上限金利の引き下げで数百万人が金融市場から締め出された。同じように、日雇い派遣の禁止によって数十万人が職を失うだろう。
実は、霞ヶ関にも「善意の官僚」は多い。産経新聞によれば、広島労働局の落合淳一局長が製造業への労働者派遣の解禁を「止められず申し訳なかった。市場原理主義が前面に出ていたあの時期に、誰かが職を辞してでも止められなかったことを謝りたい」とのべたそうだ。厚労省のような三流官庁では、公務員試験以上のレベルの経済学を知らないので、派遣村のような情緒的なキャンペーンに弱い。仕事の遅い彼らが、派遣村に対して異例に迅速な対応をとったのは、「いらない役所」の代表とされている旧労働省が存在意義をアピールできる数少ないチャンスだからである。
現在の悲惨な雇用状況をもたらした最大の責任は、規制によって労組の既得権を守る厚労省にある。だから厚労省や連合に救いを求める派遣村の人々は、敵を見誤っている。昨年を「ここ数年の偽りの好況が終わり、真実の不況に至る一年であった」と総括し、派遣労働者を犠牲にして春闘でベースアップを求める連合のエゴイズムを批判する赤木智弘氏のほうが、はるかに鋭く問題の本質を見ている。低金利と円安によってつくられた「上げ底」の景気回復が終わり、これから日本経済の実力どおりのマイナス成長が始まるのだ。
失業をもたらした最大の原因はもちろん不況だが、長期的な自然失業率を高めているのは正社員の過剰保護である。だから「ノンワーキング・リッチ」に責任があるのではなく、OECDも指摘するように、彼らを飼い殺しにするしかない労働法制と解雇を事実上禁止する判例に問題があるのだ。
民主党のように選挙めあてで派遣規制の強化を求める政治家の卑しさはいうまでもないが、厄介なのは派遣村の名誉村長、宇都宮健児氏のように善意で運動している人々が多いことだ。彼に代表される近視眼的な法律家の正義が、価格の機能を阻害し、官製不況をもたらしていることを彼らは理解できない。「貧しい債務者を助ける」という宇都宮氏の建て前は美しいが、上限金利の引き下げで数百万人が金融市場から締め出された。同じように、日雇い派遣の禁止によって数十万人が職を失うだろう。
実は、霞ヶ関にも「善意の官僚」は多い。産経新聞によれば、広島労働局の落合淳一局長が製造業への労働者派遣の解禁を「止められず申し訳なかった。市場原理主義が前面に出ていたあの時期に、誰かが職を辞してでも止められなかったことを謝りたい」とのべたそうだ。厚労省のような三流官庁では、公務員試験以上のレベルの経済学を知らないので、派遣村のような情緒的なキャンペーンに弱い。仕事の遅い彼らが、派遣村に対して異例に迅速な対応をとったのは、「いらない役所」の代表とされている旧労働省が存在意義をアピールできる数少ないチャンスだからである。
現在の悲惨な雇用状況をもたらした最大の責任は、規制によって労組の既得権を守る厚労省にある。だから厚労省や連合に救いを求める派遣村の人々は、敵を見誤っている。昨年を「ここ数年の偽りの好況が終わり、真実の不況に至る一年であった」と総括し、派遣労働者を犠牲にして春闘でベースアップを求める連合のエゴイズムを批判する赤木智弘氏のほうが、はるかに鋭く問題の本質を見ている。低金利と円安によってつくられた「上げ底」の景気回復が終わり、これから日本経済の実力どおりのマイナス成長が始まるのだ。
定額給付金を盛り込んだ第2次補正予算案が、やっと衆議院を通過した。評判は最悪だが、実はこういう税の還付は欧米ではそれほど珍しい方式ではない。アメリカでは昨年、総額1520億ドルの所得税還付を、小切手(または口座振込み)で行なった。オバマ次期大統領も、同様の方式で税還付を行なうことを約束している。
しかし日本の世論調査では、給付金に対する否定的な評価が圧倒的だ。それは首相の発言が二転三転したことや、2011年に消費税を引き上げることが決まっているという理由も大きいだろうが、最大の要因は1990年代の公共事業が何の役にも立たずに財政赤字だけがふくらみ、「バラマキはこりごりだ」という教訓を、国民(特にメディア)が学んだことだろう。
かつては不況になると「積極財政」を求める社説が日経新聞に出て、財政政策が"too little, too late"だなどといわれたものだ。それが小泉内閣でぶち壊され、その後もほとんど聞かれなくなった。これは欧米でいうと、1970年代にケインズ政策が失敗してインフレと財政赤字が拡大し、英米でサッチャー・レーガン政権が出てきたときの変化に近い。やはり世の中を動かすのは経済学ではなく、痛い目にあった経験なのだろう。
こういう変化を受けて、経済学でも80年代から「新しい古典派」と呼ばれるリバタリアンが主流になった。その最大の特徴は、ケインズ的な裁量的介入の効果を否定することだ。これはマクロの実証データでは必ずしも検証されないが、金融市場で将来のリスクを織り込んで現在価値が形成されていると、景気対策でキャッシュフローの平準化を行なうことには大して意味がない。
こうした政治的な変化と学問的な変化があいまって、80年代にはケインズ政策は死んでいたのだが、日本では「合理的期待は水際で止める」と宣言した学界のボスがいて、新しい古典派の研究者はほとんど育たなかった。おかげで世界的にはケインズ理論が死滅した90年代になって、100兆円近いバラマキが行なわれた。この20年のずれは大きく、日本では昔の教科書を使って「需要不足」をいいつのるケインズの亡霊がまだ生き残っている。
しかし国民は、どマクロ経済学者より賢くなり、総需要管理政策で成長率を上げることはできないという事実を学習したようにみえる。また通貨供給が資金需要を絶対的に上回るゼロ金利状態でいくら量的緩和をしても、貨幣乗数が下がって相殺されるだけだということを日銀も学習し、その教訓は世界の中央銀行に共有されている。
その意味では、短期的な安定化政策がほとんど無視され、成長戦略に重点が置かれる最近のマクロ経済学に、日本の国民の意識も少し追いついてきたのかもしれない。官僚も、少なくとも財務省は「有効需要創出を主目的とした財政出動は行わない」という方向に転換している。問題は政治家だ。麻生首相は論外として、小沢一郎氏はよくも悪くも「政局主義者」なので、民主党が単独過半数をとれば『日本改造計画』のころのリバタリアン路線に君子豹変することを期待しているのだが・・・
しかし日本の世論調査では、給付金に対する否定的な評価が圧倒的だ。それは首相の発言が二転三転したことや、2011年に消費税を引き上げることが決まっているという理由も大きいだろうが、最大の要因は1990年代の公共事業が何の役にも立たずに財政赤字だけがふくらみ、「バラマキはこりごりだ」という教訓を、国民(特にメディア)が学んだことだろう。
かつては不況になると「積極財政」を求める社説が日経新聞に出て、財政政策が"too little, too late"だなどといわれたものだ。それが小泉内閣でぶち壊され、その後もほとんど聞かれなくなった。これは欧米でいうと、1970年代にケインズ政策が失敗してインフレと財政赤字が拡大し、英米でサッチャー・レーガン政権が出てきたときの変化に近い。やはり世の中を動かすのは経済学ではなく、痛い目にあった経験なのだろう。
こういう変化を受けて、経済学でも80年代から「新しい古典派」と呼ばれるリバタリアンが主流になった。その最大の特徴は、ケインズ的な裁量的介入の効果を否定することだ。これはマクロの実証データでは必ずしも検証されないが、金融市場で将来のリスクを織り込んで現在価値が形成されていると、景気対策でキャッシュフローの平準化を行なうことには大して意味がない。
こうした政治的な変化と学問的な変化があいまって、80年代にはケインズ政策は死んでいたのだが、日本では「合理的期待は水際で止める」と宣言した学界のボスがいて、新しい古典派の研究者はほとんど育たなかった。おかげで世界的にはケインズ理論が死滅した90年代になって、100兆円近いバラマキが行なわれた。この20年のずれは大きく、日本では昔の教科書を使って「需要不足」をいいつのるケインズの亡霊がまだ生き残っている。
しかし国民は、どマクロ経済学者より賢くなり、総需要管理政策で成長率を上げることはできないという事実を学習したようにみえる。また通貨供給が資金需要を絶対的に上回るゼロ金利状態でいくら量的緩和をしても、貨幣乗数が下がって相殺されるだけだということを日銀も学習し、その教訓は世界の中央銀行に共有されている。
その意味では、短期的な安定化政策がほとんど無視され、成長戦略に重点が置かれる最近のマクロ経済学に、日本の国民の意識も少し追いついてきたのかもしれない。官僚も、少なくとも財務省は「有効需要創出を主目的とした財政出動は行わない」という方向に転換している。問題は政治家だ。麻生首相は論外として、小沢一郎氏はよくも悪くも「政局主義者」なので、民主党が単独過半数をとれば『日本改造計画』のころのリバタリアン路線に君子豹変することを期待しているのだが・・・
本書のテーマとするsocial capitalは、ベッカーの人的資本が個人を単位としているのに対して、社会的なネットワークが資本としての価値をもつと考える理論である。その典型が日本の企業だ。トヨタがあれだけ高い効率を実現できるのは、従業員が思考様式や行動様式を共有し、命令しなくても自発的に協力するシステムができているからだ。終身雇用は、そうした社会的資本を蓄積する手段だった。
大企業の周辺には下請けネットワークがあり、彼らが雇用のバッファの役割を果たしていた。大企業と中小企業の賃金格差が2倍近い「二重構造」は戦後ずっとあるもので、その背後にはさらに低所得の農村というバッファがあった。しかし1970年代以降、農村の「失業予備軍」が底をつき、1990年代の長期不況で下請けが切られて系列ネットワークが崩壊したため、バッファが派遣労働者という形で露出してきたのである。
だから湯浅誠氏のいう「溜め」を再建することは重要なのだが、それは非常にむずかしい問題で、厚労省に生活保護を求めても実現しない。社会的資本の古典として知られるパトナムもいうように、近代社会が原子的な個人に分解される傾向は不可逆なのかもしれない。それによって日本社会の同質性が失われることは、イノベーションの源泉になる一方で、製造業の高い効率を支えてきた信頼ネットワークの「資本価値」を低下させるだろう。
ただ本書も示唆するように、サイバースペースで新たな人的ネットワークが形成される可能性もある。アメリカでは、今やEメールよりSNSが主要な通信手段となりつつある。それは地域コミュニティや企業コミュニティのような親密なつながりを欠く稀薄なネットワークだが、逆にそこからオフラインのグループができる例も多い。コミュニケーションを求める欲求は食欲や性欲と同じぐらい根源的なので、一日中ケータイで通信している若者を見ていると、日本でも「サイバーコミュニティ」が実現するかもしれないという気がする。
本書の内容は、農協が農民をいかに食い物にしてきたかを歴史的にたどり、著者の農業改革案を説明するものだ。印象的なのは、農協が戦時統制団体である「農業会」を衣替えしたものだということだ。他の戦時統制団体は解体されたが、農業会は食糧難のなかで米の供出を確保するという緊急業務のため、看板をかけかえただけで生き残った。ここでも「戦時体制」はまだ生きているわけだ。
農水省の政策は「農業政策」ではなく「農協政策」だとよくいわれるが、戦前から受け継いだ政治的・経済的な権力を集中し、農業を独占的に支配する農協は、農家を搾取して日本の農業を壊滅させた元凶である。その最大の権力基盤は、農協を通じて配布される農業補助金だ。著者はこの構造を変えるため、補助金を廃止して市場を開放し、農産物価格を下げる代わりに、中核農家に所得補償する政策を提案する。
これは多くの経済学者の提案している政策だが、著者がその根拠として「食料安全保障」をあげるのはいただけない。彼は「国際経済学では生産要素は企業間・産業間を自由に移動できるという前提に立っている」というが、経済学にそんな前提はない。土地が固定されていても、それを使って生産した最終財の市場があれば、貿易を通して要素価格が均等化され、資源の効率的な配分が可能になるのだ。
食糧安保の根拠を、中国などの値上げに求めているのもおかしい。中国が値上げしたロシアから買えばいいし、米が値上がりしたら麦でカロリーは補給できる。全世界で数年にわたってすべての穀物の価格が数十倍になって、GDP世界2位の日本が食糧輸入でカロリーをまかなえなくなるような事態は、世界大戦が起こらない限りありえない。食糧安保が「保険」だというなら、そのリスクを定量的に評価すべきだ。農産物価格の上昇へのヘッジなら、輸入元の多様化のほうがはるかに効率的である。
所得補償は民主党も提案しているが、これは著者の提案とは似て非なるバラマキ政策だ。農協を解体して日本の農業を建てなおすことは、疲弊した地方を活性化する上で重要な政策だが、この点でも自民・民主のどちらにも期待はもてない。
小倉さんがまだ納得できないようなので、少し解説しておこう。彼はこう書く:

要するに雇用者報酬とか労働分配率なんて景気の派生的な指標で、そこから「階級闘争」の情勢を読み取ることはできないのだ。小倉式に表現すれば、1990年から2002年までは労働者は「階級間闘争に勝利した」のだろうか。労働分配率を上げようと思ったら、不況にするのが手っ取り早い。たぶんこれからそうなるだろう。
こういう階級闘争史観は、「派遣村」の人々にも根強くある。たとえば湯浅誠氏は「労働分配率の低下」を問題にして、企業は配当や「内部留保」を賃金に回せと主張する。これは共産党が50年ぐらい言い続けている話だが、そんなことをしたら、ただでさえROEの低い日本企業には誰も投資しなくなり、日本経済は沈没するだろう。雇用を生み出しているのは、株主の投資なのだ。
2000年から2007年にかけて、増加労働者が受け取る配当(給与等)の総計は約6兆円減少したのに対し、この期間株主が受け取る配当の総計は約9兆円[増加]しています。すなわち、企業活動による生産量の増加分を労働者に配当せずに経営者と株主とで分け合ったのみならず、労働者への配当分を一部奪い取って経営者と株主とで分け合ってしまったのがこの7年ということになります。すなわち、「ワーキング・プア」は、世代間闘争に敗れたが故に貧しくなったのではなく、階級間闘争に敗れたが故に貧しくなったのです。う~ん、階級闘争ね。小倉さんは私より下の世代なんだけど、かなり特殊な教育を受けたのかな。「6兆円減少した」などといかにも大きいように表現しているが、雇用者報酬は7年間で271兆円が265兆円に3%減っただけで、景気変動の誤差の範囲内だ。それにMutterway氏も指摘するように、給与は「配当」ではない。給与は好不況にかかわらず支払われるが、配当は利益が上がれば増え、赤字になったらゼロになる。労働分配率はその逆に、利益が増えると下がり、業績不振のときは上がる。だから日本の労働分配率は図のように1990年から2002年までの不況期に10%上昇し、その後の景気回復で5%ほど下がった。
こういう階級闘争史観は、「派遣村」の人々にも根強くある。たとえば湯浅誠氏は「労働分配率の低下」を問題にして、企業は配当や「内部留保」を賃金に回せと主張する。これは共産党が50年ぐらい言い続けている話だが、そんなことをしたら、ただでさえROEの低い日本企業には誰も投資しなくなり、日本経済は沈没するだろう。雇用を生み出しているのは、株主の投資なのだ。
最近、労使双方から「ワークシェアリング」の話が出ている。こういう雇用カルテルは不況になると出てくる定番ネタで、10年前にも出てきたが、実施されたことは一度もない。これは「賃下げ」の婉曲話法にすぎないからだ。こういう動きを見ていると、不況のときの出来事の展開には定型的なパターンがある。
時間的には必ずしも正確に対応していないが、同じような段階をへて危機が深化してゆくことがわかる。今は初期の需要ショックの影響が、雇用に出てきた3の現象的段階だ。ここで「雇用対策」がとられるのも定型的事実だが、雇用不安というのは不況の結果にすぎないので、それをいくらいじっても問題は解決しない。次の段階では場当たり的なバラマキが行なわれるが、これまでの経験ではほとんど効果がない・・・ということがわかってくると、人々の不満が政治に向かい、90年代には政権交代が起こり、2000年代にも小泉内閣によって擬似政権交代が起こった。
次の段階では、金融システムに影響が及ぶだろう。90年代には、不良債権処理を大蔵省が先送りして世界最長の不況を作り出したが、2000年代には「竹中プラン」などで曲がりなりにも最終処理が進められた。その前例からみると、今回も不況が長期化すると金融システム不安が再燃する可能性がある。これについては、今は金融危機を処理する制度が整備されているので、90年代のような混乱状態にはならないだろう。しかし金融システムの正常化は手段にすぎない。根本的な問題は、産業構造を転換して生産性を上げることだ。
過去の経験からみると、最大の不安要因は政治である。90年代には細川政権が10ヶ月で崩壊し、自社さの変則的な政権のもとで不良債権処理が行なわれたため、思い切った意思決定ができず、ずるずると処理が遅れた。これを最終処理したのは小泉政権と竹中平蔵氏の功績だが、その実態はゼロ金利や量的緩和によるゾンビ企業への所得移転で、古い産業構造は温存されたまま現在に至っている。
民主党政権が、このむずかしい問題を処理できるかどうかは楽観できない。彼らのポピュリズム的バイアスから考えると、バラマキ的な救済によって90年代のようなコースをたどる可能性も強い。何より重要なのは、90年代に低下した成長率(実質1%)がこの20年近くほとんど変わっていないことだ。生産性を上げて長期停滞から脱却するには、安定した政権によって霞ヶ関の抵抗を抑えて、思い切った(短期的には不人気な)改革を行なう必要がある。小沢一郎氏に、それができるだろうか。
開始時期 | 1990 | 1998 | 2008 |
1.バブル崩壊 | 株価暴落 | 信用不安 | サブプライム危機 |
2.需要ショック | 不動産・建設 | 銀行・証券 | 輸出産業 |
3.雇用不安 | リストラ | ワークシェアリング | 派遣 |
4.バラマキ | 公共事業 | 量的緩和 | 定額給付金 |
5.政変 | 非自民・自社さ | 小泉政権 | 民主党政権? |
6.金融危機 | 不良債権 | 資本注入 | ? |
時間的には必ずしも正確に対応していないが、同じような段階をへて危機が深化してゆくことがわかる。今は初期の需要ショックの影響が、雇用に出てきた3の現象的段階だ。ここで「雇用対策」がとられるのも定型的事実だが、雇用不安というのは不況の結果にすぎないので、それをいくらいじっても問題は解決しない。次の段階では場当たり的なバラマキが行なわれるが、これまでの経験ではほとんど効果がない・・・ということがわかってくると、人々の不満が政治に向かい、90年代には政権交代が起こり、2000年代にも小泉内閣によって擬似政権交代が起こった。
次の段階では、金融システムに影響が及ぶだろう。90年代には、不良債権処理を大蔵省が先送りして世界最長の不況を作り出したが、2000年代には「竹中プラン」などで曲がりなりにも最終処理が進められた。その前例からみると、今回も不況が長期化すると金融システム不安が再燃する可能性がある。これについては、今は金融危機を処理する制度が整備されているので、90年代のような混乱状態にはならないだろう。しかし金融システムの正常化は手段にすぎない。根本的な問題は、産業構造を転換して生産性を上げることだ。
過去の経験からみると、最大の不安要因は政治である。90年代には細川政権が10ヶ月で崩壊し、自社さの変則的な政権のもとで不良債権処理が行なわれたため、思い切った意思決定ができず、ずるずると処理が遅れた。これを最終処理したのは小泉政権と竹中平蔵氏の功績だが、その実態はゼロ金利や量的緩和によるゾンビ企業への所得移転で、古い産業構造は温存されたまま現在に至っている。
民主党政権が、このむずかしい問題を処理できるかどうかは楽観できない。彼らのポピュリズム的バイアスから考えると、バラマキ的な救済によって90年代のようなコースをたどる可能性も強い。何より重要なのは、90年代に低下した成長率(実質1%)がこの20年近くほとんど変わっていないことだ。生産性を上げて長期停滞から脱却するには、安定した政権によって霞ヶ関の抵抗を抑えて、思い切った(短期的には不人気な)改革を行なう必要がある。小沢一郎氏に、それができるだろうか。
Mankiw's Blogより:
アメリカの貨幣乗数が急速に低下し、ついに1を下回った。これはM1の増加がマネタリーベースの増加を下回るという珍現象だ。FRBが通貨供給を激増させたが、資金需要は収縮しているからだ。通貨さえジャブジャブに供給すればインフレになると思っている経済学者もいるが、いくら供給を増やしても需要を増やすことはできない。

アメリカの貨幣乗数が急速に低下し、ついに1を下回った。これはM1の増加がマネタリーベースの増加を下回るという珍現象だ。FRBが通貨供給を激増させたが、資金需要は収縮しているからだ。通貨さえジャブジャブに供給すればインフレになると思っている経済学者もいるが、いくら供給を増やしても需要を増やすことはできない。
本書をいま読むと、当時なぜそれほど悪評高かったのか、理解に苦しむだろう。「社会主義は破綻する」とか「財産権が自由な社会の基礎だ」といった、当たり前のことばかり書かれているからだ。しかし本書が出版されたころ、日本では軍国主義が猛威を振るい、欧米でも社会主義が未来の経済システムとみなされ、ケインズの「修正資本主義」が賞賛されていたことを忘れてはならない。当時ハイエクは、たった一人でこうした計画主義と闘ったのだ。
彼が勝利を収めたのは、ほとんど半世紀後だったが、残念ながら日本では彼の思想はまだ陳腐化していない。菅直人氏や厚労省のようなパターナリズムが大衆的な支持を得る状況は、軍国主義のころから大して進歩していない。当時も、貧しい農村を救おうという主観的な善意によって決起した青年将校が、結果的にはあの悲劇をまねいたのである。
ハイエクが本書で繰り返し強調するのは、個人に理解しえない力が社会を動かしているということだ。「派遣村」を支援する人々が善意でやっていることは疑いないが、彼らの求めるように派遣労働を禁止したらどうなるかは別の問題だ。逆に主観的には「強欲資本主義」であっても、その強いインセンティブを適切なルールによって制御すれば、生産性が上がって労働者の待遇を改善する場合もある。それが「見えざる手」の意味である。
しかし、このように主観的な意図と違う客観的な結果が生じることは、啓蒙主義以来の合理主義の伝統においては、あってはならない。そのもっとも影響力の強い思想が、マルクスの「必然の国」と「自由の国」という歴史観だ。彼によれば、人々の意図とは違う資本主義の「必然」が人々を支配するのは、人的関係が物的関係として「錯視」されるブルジョア社会の病であり、「自由人のアソシエーション」によってこれを転倒すれば、人は自分の運命の支配者になり、人類の「前史」は終わる。
この理想は美しいが、社会を動かす法則が透明でコントロール可能だという誤った前提にもとづいている。昔から科学者や法律家にマルクス主義者が多いのは、偶然ではない。彼らの世界では、意図と結果は1対1に対応しているからである。しかし社会主義の失敗が証明したように、社会という複雑なシステムを計画的にコントロールすることは、不可能で有害なのだ。本書はそれを理解している人には退屈だが、民主党の議員は全員、本書を読んだほうがいいだろう(小沢代表は読んだはずだ)。
きのうの記事に対しては、いろんな人から「民主党は算数もできないのか」といったコメントがついたが、もちろん算数ができないはずはない。民主党の名誉のためにいうと、政策を発表する前には政調会で議論し、専門家も呼んで議論する(私も何度か呼ばれた)。官僚出身者や弁護士も多いので、政調会ではかなり専門的な議論が行なわれる。問題は、それを政策としてまとめるとき、選挙向けのバイアスが入ることである。
このバイアスは、必ずしも非合理的とはいえない。なぜなら、有権者も同じバイアスをもっているからだ。Caplanが行動経済学的な実験の結果として報告するように、アメリカの有権者には次のようなバイアスがある:
「派遣を禁止したら、かわいそうな派遣はいなくなる」という短期的な結果は誰でも予想できるが、それによって雇用コストが上がって失業が増えるという長期的な結果を理解するには(高校程度の)経済学の知識が必要だ。このように人々の善意が、その逆の意図せざる結果をもたらすというのがアダム・スミスの発見だが、これは直感に反するので、生活の中で自然に身につけることはできない知識である。どこの国でも市場や経済学者がきらわれるのは、人々の自然な部族感情に反するからだ。
さらにGrossman-Helpmanも指摘するように、有権者は他人の決定にただ乗りすることが合理的だから、政治に影響を与えることができるのは、少数であっても固い集票基盤をもつロビイストである。労働者の18%にすぎない労働組合は、いまや農協のようなものだが、このような衰退する組織ほど政治的ロビー活動によって延命しようとするインセンティブが強い。
だから小沢氏や菅氏が労組に迎合するのは、合理的なバイアスである。しかし労組を支持しているのはリストラを恐れる中高年社員だけで、若い組合員には見離されている。派遣規制のような労組べったりの政策を出すことによって、無党派層が民主党に失望するコストのほうが大きいかもしれない(少なくとも私は民主党には絶対に投票しない)。かつて特定郵便局長会という少数の既得権を守ろうとした郵政族が小泉首相に敗れたように、少数の固い基盤を守る小沢氏の選挙戦術は、もう時代おくれなのだ。
このバイアスは、必ずしも非合理的とはいえない。なぜなら、有権者も同じバイアスをもっているからだ。Caplanが行動経済学的な実験の結果として報告するように、アメリカの有権者には次のようなバイアスがある:
- 反市場バイアス:市場メカニズムをきらう
- 反外国バイアス:輸入品をきらう
- 雇用バイアス:雇用の削減をきらう
- 悲観バイアス:経済状態を実際より悪く評価する
「派遣を禁止したら、かわいそうな派遣はいなくなる」という短期的な結果は誰でも予想できるが、それによって雇用コストが上がって失業が増えるという長期的な結果を理解するには(高校程度の)経済学の知識が必要だ。このように人々の善意が、その逆の意図せざる結果をもたらすというのがアダム・スミスの発見だが、これは直感に反するので、生活の中で自然に身につけることはできない知識である。どこの国でも市場や経済学者がきらわれるのは、人々の自然な部族感情に反するからだ。
さらにGrossman-Helpmanも指摘するように、有権者は他人の決定にただ乗りすることが合理的だから、政治に影響を与えることができるのは、少数であっても固い集票基盤をもつロビイストである。労働者の18%にすぎない労働組合は、いまや農協のようなものだが、このような衰退する組織ほど政治的ロビー活動によって延命しようとするインセンティブが強い。
だから小沢氏や菅氏が労組に迎合するのは、合理的なバイアスである。しかし労組を支持しているのはリストラを恐れる中高年社員だけで、若い組合員には見離されている。派遣規制のような労組べったりの政策を出すことによって、無党派層が民主党に失望するコストのほうが大きいかもしれない(少なくとも私は民主党には絶対に投票しない)。かつて特定郵便局長会という少数の既得権を守ろうとした郵政族が小泉首相に敗れたように、少数の固い基盤を守る小沢氏の選挙戦術は、もう時代おくれなのだ。
サンフランシスコでAEAの会合が開かれ、Reinhart-Rogoff論文の第2弾が発表された。それによれば、図のように日本の90年代は地価の下落率では平均の少し上ぐらいだが、その続いた期間は群を抜いて長い。
幸か不幸か、この会合でも日本がよく話題になったようだ。Rogoffによれば、政策担当者はみんな“We're not Japan”というそうだが、日本が何を経験したのか、系統的な記録は何も残っていない。きくところによると日銀が聞き取り調査を進めているが、関係者の協力が得られなくて難航しているそうだ。大恐慌をしのぐ長期不況をもたらしたのは何だったのか、まだ終わっていない不況の歴史をちゃんと記録にとどめる責任が、日本政府にはある。民主党が政権をとったら調査委員会をつくり、国政調査権を使ってやってはどうだろうか。
民主党が派遣労働の規制を強化する法案を、社民党などと共同提案するそうだ。菅直人代表代行は、きのうの記者会見で「これまで製造業への派遣禁止まで踏み込んでいなかったが踏み込む」とのべた。今の国会情勢ではただのスタンドプレーだが、政権を取って同じような法案を出したら通ってしまう。
46万人といわれる製造業の派遣労働を禁止したら、何が起こるだろうか。菅氏は派遣がすべて正社員として採用されると思っているのかもしれないが、企業の賃金原資は限られているので、そういうことは起こらない。ある企業に300人の労働者がいるとしよう。200人が正社員で100人が派遣、正社員の年収は400万円、派遣は200万円だとすると、賃金原資は
200人×400万円+100人×200万円=10億円
ここで派遣が禁止されて、正社員しか雇えなくなったら、何が起こるだろうか。賃金原資が変わらないとすると、雇用されるのは
10億円÷400万円=250人
つまり派遣の半分(50人)は失業するわけだ。人手が足りなければ、正社員を増やさないで残業を増やす。これが現実に起こったことだ。次の図はきのうも紹介したOECD報告のものだが、90年代以降、日本の平均賃金(原資)はほとんど変わらないで残業が大きく減り、景気回復にともなって増えている。

つまり派遣を禁止すると派遣労働者の半分は職を失う。これは正社員の賃金が派遣の2倍という事実から算術的に導かれる結果で、派遣の比率が何%であっても変わらない。46万人の派遣労働者のうち、23万人が路頭に迷うだろう。菅氏は東工大出身だから、まさかこんな小学生の算数がわからないことはあるまい。
46万人といわれる製造業の派遣労働を禁止したら、何が起こるだろうか。菅氏は派遣がすべて正社員として採用されると思っているのかもしれないが、企業の賃金原資は限られているので、そういうことは起こらない。ある企業に300人の労働者がいるとしよう。200人が正社員で100人が派遣、正社員の年収は400万円、派遣は200万円だとすると、賃金原資は
200人×400万円+100人×200万円=10億円
ここで派遣が禁止されて、正社員しか雇えなくなったら、何が起こるだろうか。賃金原資が変わらないとすると、雇用されるのは
10億円÷400万円=250人
つまり派遣の半分(50人)は失業するわけだ。人手が足りなければ、正社員を増やさないで残業を増やす。これが現実に起こったことだ。次の図はきのうも紹介したOECD報告のものだが、90年代以降、日本の平均賃金(原資)はほとんど変わらないで残業が大きく減り、景気回復にともなって増えている。

著者も序文で書いているように、これは成長理論というより「長期マクロ経済学」の教科書といったほうがいい。もともとケインズ理論とは別に始まったソローの成長理論が精密化され、他方でマクロ経済学もルーカスなどによって動的最適化の理論になったので、両者にはほとんど区別がなくなった。マクロ理論にはもう「学派」はなくなったといってもいい。いまだに短期の「景気対策」ばかり論じている日本のどマクロ経済学者には、本書ぐらい読んでから議論してほしいものだ。
もう一つ印象的なのは、技術革新や制度の問題に多くのページがさかれている点だ。したがって本書は、「イノベーションの経済学」の最上級教科書でもある。一昔前はイノベーションといえば内生的成長理論だけだったが、本書では「シュンペーター理論」や開発経済学も取り上げている。さらに本書の最新の成果は、著者の専門である政治経済学で、これまで定性的な議論にとどまっていた制度分析を成長理論と結びつけている。
ただし、ビジネスマンにはおすすめできない。大学院生でも、本書を読める学生は限られているだろう。一貫してダイナミック・プログラミングで書いているので統一性は高いが、数学的にはきわめて高度だ。
追記:偶然きょうAghion-Howittの成長理論の教科書も、Amazon.comから届いた。こっちは「シュンペーター理論」を中心にして創造的破壊を論じている。数学的には、こっちのほうが一般向け。