完熟した大豆を搾ると大豆油ができ、煎って粉にするときな粉になる。
蒸した大豆を麹菌で発酵させると味噌、醤油ができ、蒸した大豆を納豆菌で発酵させると納豆になります。
熟した大豆を搾ったら豆乳、その残りカスがおから。
豆乳を温めて液面にできる膜が湯葉(ゆば)。
にがりを入れて固めると豆腐。
豆腐を揚げると油揚げ、厚揚げ。
焼くと焼き豆腐、茹でて湯豆腐。凍らせたら高野豆腐。
ちなみに大豆から作られる大豆油(サラダ油)は、かつては燃料としても用いられたものです。
まあ、日本人というのは、ひとつの豆から実にいろいろな食材を工夫し、用いているものです。
それだけ大豆が古くからの日本人の食生活に欠かせない食物であったという証でもあろうかと思います。
大豆というのは、植物の中で、唯一肉に匹敵するタンパク質をもっています。
なので大豆は、「畑の(牛)肉」、「大地の黄金」などとも呼ばれています。
現在、大豆の生産国は、1位アメリカ8282万トン、2位ブラジル5020万トン、3位アルゼンチン3830万トン、4位支那1690万トン、インド660万トンの純です。
日本は、国内消費量434万トンのうち、420万トンを輸入に頼っています。
いまや日本は、世界第3位の大豆輸入国となっている。
日本が大豆を輸入に頼っているから、なんとなく、大豆は欧米産なのだと思っている人も多いようだけれど、実は、欧米に大豆がもたらされたのは比較的新しくて、ヨーロッパで18世紀、アメリカは19世紀のことです。
そもそも大豆の栽培は、土壌が弱アルカリ性じゃないと生育しません。
欧米の土壌は弱酸性で、古代、中世ヨーロッパで大豆の栽培が広がらなかったのも、土壌の問題です。
この土壌を改良することで、19世紀以降、欧米でも大豆の栽培がされるようになるのですが、これも当初は、もっぱら油やプラスチックの原料などに使う工業用に栽培されていた。
欧米で大豆が食品として注目されるようになったのは日本の大正時代(1920年代)以降のことです。
なぜ1920年代かというと、これが実は、日本が実に深く関係しています。
登場するのは、明治の中ごろ三井物産に入社した商社マン、山本条太郎(やまもとじょうたろう)という人物です。
山本条太郎

彼は、商社マンとして満洲に一番乗りします。
山本条太郎は、慶應3(1867)年、福井県旧御駕町で元福井藩士の子として生まれています。
明治13(1880)年、12歳で神田淡路町の共立学校(現・開成高校)に入学するのだけれど、病弱で2年で退学し、三井洋行(現・三井物産)横浜支店に丁稚奉公します。
よほど働きがよかったのでしょう。
丈太郎は、21歳で上海支店に転勤します。
ここでも彼は抜群の商才を買われ、明治23(1890)年には、若干23歳で上海フランス租界の近くの交差点口に、三井支店長社宅を建立しています。
この建物は、1万坪の土地に、大きな3階建ての本館と別館、更に付属の建造物と、広大な庭には池や温室、芝生の野球場と5面のテニスコートが作られ、正門から本館の玄関までには、100メートルの小道がり、樹齢30年以上の桜の木が280本も植えられていた。
ここではその後、毎年3月に園遊会が開かれ、国内外の官民2000人あまりが招待され、当時この園遊会に招待されなかった人は社会的に紳士として認められていないとさえされたといいます。
それだけに招待客の選出には細心の配慮と苦心が重ねられたのだけれど、これを完全に取り仕切っていたのが、やはり山本条太郎だったそうです。
明治34(1901)年、若干34歳で、条太郎は三代目上海支店長に就任するのだけれど、当時、社宅の車庫には8人乗りの防弾型キャディラックが1台、8人乗りのビュイックと更に中型車が2台停まり、それが全部支店長専用車だったそうです。
この車、全部防弾車で、ガラスはどれも3センチ以上の厚さがあったとか。
不注意にドアを開けて人にぶつかると、転んでしまうほど重たいドアだったそうです。
この山本条太郎は、後に、昭和2年に満鉄の総裁になるのですが、実は、その条太郎が日本の商社マンで、満洲へ乗り込んだ第一号でした。
条太郎は、満洲で、いちはやく大豆に目をつけます。
実は、中国に普及した大豆は、もともと南満州にいた貊族(こまぞく)という朝鮮族が、細々と大豆を栽培していたものを、いまから約2600年前、斉の桓公(かんこう)がここに攻め込んで、持ち帰った大豆に戎菽(チュウシュク)という名前をつけて、普及させたのがはじまりです。
その伝統は、明治時代ごろもまだ続いていて、きわめて小規模ながら大豆の栽培がされていた。
大豆というのは、そもそもが温帯・亜熱帯産の植物です。
満洲は、亜寒帯になる。基本的に気象条件が合わないのです。
加えて大豆は、同じ場所で生育を続けていると、連作障害といって生育障害が起こるから、何年かに一度は、土地を休ませないといけない。
そういう意味で、大豆は、結構、栽培がたいへんなものなのだけれど、五穀豊穣(ごこくほうじょう)祈願の中の大切な穀物のなかの一つです。
きわめて細々と、大豆の生産は続いていたわけです。
これに山本条太郎は目を付けます。
気候を調べたり、品種改良の可能性を検討したり、徹底して満州での大豆の栽培の可能性を探った。
もちろん彼は商社マンです。栽培の可能性の研究だけでなく、販路も研究した。
そして、大豆栽培の目途が立つと、その足でイギリス市場に売り込みをかけ、ヨーロッパ大陸に満洲の大豆の独占販売権を得ます。
これが1920年のことです。
その頃のヨーロッパでは、まだ大豆を食べる、という習慣がなかったのです。
彼は、大豆の加工の仕方や料理の指導まで行いながら、売り込みをかける。
こうして、ほんの数トンあるかないかだった満洲の大豆は、山本条太郎が名付けた「満洲大豆」の商品名とともに大きく成長し、条太郎が満鉄総裁に就任した昭和2年には、満洲の大豆生産高は、じつに年間500万トン、欧米向け輸出だけで200万トン。
満洲は、当時としては、世界最大の大豆の生産国に育ちます。
日露戦争で勝利をした日本は、明治38(1905)年に、講和条約に調印し、長春から旅順口までの鉄道や支線全ての権利を手に入れます。
そして、翌明治39(1906)年には、日本は「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立するにいたる。
鉄道があっても、ただやみくもに大地が広がっているだけのところに列車が走るというだけでは、なんの収益性も産みません。
満鉄は、鉄道事業の収益性を維持するために、鉄道沿線での大豆栽培を奨励します。
とにかく、満洲に住む人々にとって、大豆は作れば売れる。
なにせ収穫量の8割以上が商品として輸出されるのです。
満州の人たちは大豆と小麦を売って、自分たちはトウモロコシやアワを食べていたとさえいわれる。
当時の記録によれば、満州の貿易額の50%以上が大豆です。
鉄道沿線で、大豆を作る。出荷するとカネになる。
大豆の生産を増やすために、荒れ地を開墾して大豆畑を作る。
そこに鉄道が伸びる。
こうして満鉄は満洲国の隅々にまで、その鉄道網を拡げて行きます。
さらに満鉄は、大連に「農事試験場」と「中央試験所」を建設し、大豆の研究に取り組みます。
「農事試験場」では大豆の品種改良や栽培試験を、
「中央試験所」では大豆の利用研究を進め、大豆油(サラダ油)の近代的製造法確立の研究をしています。
満鉄の大豆に注いだ情熱は並大抵ではなく、その後の30年間で設立した農事試験所関係施設はなんと90ヶ所にのぼります。
中央試験所には、当時、総勢千名を超える人員がいて、発表された研究報告は約1000件、取得した特許は349件、実用新案47件という、華々しい成果をあげています。
この試験所の様子については、夏目漱石が視察した模様を小説の中で紹介している。
さらに満鉄中央試験所では、大豆蛋白質による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法の確立など、その成果は枚挙にいとまがないほどです。
ちなみに、現在世界が大騒ぎしている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究も、世界の先鞭をきって開発研究に取り組んだのが、満鉄中央試験場です。
こうして、なにもないただの大地だった満洲の大地が、大豆栽培によって緑の大地に生まれ変わります。
いままで、人が住めない荒れ地だったところが、稔り豊かな豊穣の土地になる。
作った大豆は、右から左に高値で売れる。
大豆関連の産業が発展し、生産穀物の中継点となるターミナル駅には人があふれ、大都市ができあがる。
貧乏人には誰も振り向かないが、小金を手にすると多くの人が寄ってくる。
そんなことは今も昔もひとつもかわりません。
満洲が豊かになればなるほど、その利権を手に入れたいと、ここにも欧米列強が狙いをつけます。
そして、満洲建国にちなんで、日本を満洲から追い出しにかかる。
日本の満洲統治というのは、その基本として、つぎの3項目を掲げるものでした。
1 悪い軍閥や官使の腐敗を廃し、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることを建国の精神とし、資源の開発が一部の階級に独占される弊を除き、多くの人々が餘慶をうけられるようにする。
2 門戸開放、機会均等の精神で広く世界に資本をもとめ、諸国の技術経験を適切有効に利用する。
3 自給自足を目指す。
この理想を実現するために、日本は満州国建設に伴う産業開発五カ年計画を策定し、当時のカネで、48億円というとほうもない資金を満洲に提供し、大豆、小麦といった農産物に加えて、鉄、石炭、電力、液体燃料、自動車、飛行機などの生産力向上を図ります。
さらに日本は、かつてのロシアの満州経営が軍事に終始していたのに対し、満州の経済と人材の開発をその使命とします。
経済というのは、人が行うものだからです。
約束を守り、時間を守るという、いわば「あたりまえのこと」があたりまえにでき、人々が創意工夫をし、公に奉仕する精神がなければ、経済の発展などありえない。
こうして農業、産業、教育の振興と都市部の発展にあわせて、満州鉄道の路線は、昭和14(1939)年には、なんと1万メートルを超え、さらに、バス路線は、二万五千メートルに及び、満州航空輸送会社による国内航空路は、まさに、網の目のように張り廻らされる。
満洲は、世界有数の経済大国として成長していったのです。
そして、その満洲国の発展の、おおもとにあるのが、大豆の生産だった。
ところが、満洲はもともと酸性の土壌です。
大豆の栽培には、土壌がアルカリ性でなければならない。
土壌改良のために、農薬として、大量のリンが必要になります。
当時の満洲は、大豆生産のために必要なリンをアメリカから輸入していました。
ところがこのリンの満洲に対する輸出を、突然アメリカが打ち切ってきたのです。
ABCD包囲網です。
こうなると、満洲経済の基礎中の基礎である大豆の生産ができなくなる。
もともと大豆を食べる習慣のない欧米には、それはたいして困らないことかもしれない。
けれども、大豆を、味噌汁や醤油、豆腐などで、主食並みに消費する日本人や、その文化の影響を受けた満洲人にとっては、これはものすごい痛手です。
日本が、開戦をするしかないところまで追い詰められた背景には、こうしたリンの輸出制裁と大豆の栽培というファクターがあったことも見逃せない事情のひとつといわれています。
こうして日本は、大東亜戦争に突入せざるをえないところまで追いつめられる。
昨今、戦争は当時の軍部が引き起こしたものである、という人がいます。
しかし、これだけは言いたいのです。
「戦争を一番嫌いなのは、軍人さんです」
なぜなら、戦争が起きたとき、まっさきに痛い思いをするのは、軍人さんだからです。
リンがない。大豆の栽培ができない。なんとかしてくれ。
自分が大豆栽培農家で、同じ環境に置かれたら、誰しもそう言うのではないでしょうか。
女房子供のために、一生懸命野良仕事をして生産した大豆を、英米から武器を支給された野盗の群れが、共産主義者を自称したり、正義の味方の馬族などと称して、平気で荒らして、農作物を持って行ってしまう。
家の中まで入り込んで、目の前で女子供を強姦し、殺害する。
そんな事件が頻発し、子供たちが学校に行くにも、関東軍の兵隊さんに守ってもらわなければ、街を歩くことさえできなくなる。
連中は、ただ貧しいだけです。
まじめにちゃんと働いてくれるなら、当時の満洲にはいくらでも働き口はあった。
ところが、連中には、タダで武器支給されるのです。全部英米製の高性能武器です。
いい年した若者が、昨日今日、いきなり五族協和の理想郷であるはずの満洲にやってきて、武器を持ってまじめに働く満洲人の家や畑を襲い、日本人が出て行けば自分たちの楽園が空から降ってくるなどとわけのわからないことを言いながら、日本人に協力するまじめな満洲人を襲い、平気で殺害する。
冷静になって考えれば、当時の満洲が、いったい誰のおかげで富める国になったのか、ほんのちょっとでも脳みそがあるならわかりそうなものです。
ところが彼らには教養がない。
暑苦しさと、武器だけがある。
そんな状態が何年も続く中で、日本の政府は、それでもこちらから武器をもって反撃するのは決してすべきでないと、無抵抗主義、温情主義を貫きます。
だから、満鉄の総会では、議場に集まった多くの群衆から、檀上の軍の代表者たちにむけて「腰の軍刀は竹光かっ!、俺たちの生活を守るのが君達の使命じゃないのかっ!」と、血を吐くような言葉が浴びせられた。
とまあ、この続きは、当ブログの他の記事に譲ります。
≪五族協和を目指した満洲国≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-784.htmlその後の満州を襲った悲劇については、
≪満洲国開拓団の殉難≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.htmlいろいろと大戦前後の歴史を学んでいてひとつ思うことは、日本という国、あるいはかつての日本人は、どこまでも大御心のままに、善意と正義を貫き通したのだ、ということです。
しかも現代の日本人よりも、はるかに若く、活動もダイナミックだった。
最近、歴史に対する塗り替えや、故意にかつての日本人を貶めるような報道や政治家や評論家の発言等が目につきますが、ほんのちょっぴり自分の頭を使って思考力をはたらかせてみれば、誰でもすぐに気がつくことです。
いまの日本人に必要なことは、本当のことを知る、ということなのではないでしょうか。
さて、今日のお題は、大豆のお話です。
最近のものの本によると、大豆は支那の東北省(旧・満洲)のあたりが原産地である、などと書いてある本があります。
なるほど上に述べた通り、南満州に斉の桓公(かんこう)が攻め込んで、大豆を持ち帰ったというのですから、それなりの大豆栽培の歴史はあったものと思います。
ただしこれはいまから2600年前、紀元前7世紀頃の話です。
では、それ以前はどうだったのかというと、教科書などには、稲作と同じように、大豆は支那から朝鮮半島を経由して、いまから2000年くらい前に日本にもたらされた、と書いています。
なぜなら・・・という、これが実に面白いのですが、実はこの説は、具体的な考古学上の検証に基づくものではありません。
どういうことかというと、その昔、支那に神農皇帝という人がいた。
神農というのは、支那古代の三皇五帝の三皇のひとりで、いまから4700年ほど前に「実在した」とされる皇帝です。
この神農時代の事跡を書いた本が「神農本草経」という本で、その本には、「生大豆をすり潰して、腫れものに貼ると膿が出て治る」、「呉汁を飲むと解毒作用がある」などという記述がある。
だから、支那では、いまから4700年前、もっといえば、いまから5000年前には、大豆が栽培されていた、というのです。
もっとも多くの学生さんたちは、上の文の前段は省かれて「支那では、すでに5千年前には大豆の生産が行われて・・。」というところだけをまる暗記させられる。
テストに出ると言われれば、そう覚えるしかないです。
ところがこの神農という人が、実にすごい人です。
なんと身体が、脳と四肢を除いてぜんぶ透明!
内臓が外からはっきりと見えたのだそうです。
で、その神農が草木を嘗めて毒か薬かを調べると、毒があれば内臓が黒くなったので、その植物の毒の有無と、人体に影響を与える部位を見極めることができたのだそうです。
なぜ、胴体部分だけの皮膚や体脂肪だけが透明だったのか、どうして四肢は透明ではなかったのか、どうして脳は見えなかったのか、いろいろ考えだすと眠れなくなっちゃいそうですが、ひとついえるのは、その姿って、アマリミタクナイ^^;
「神農本草経」という書にしても、その原書があるわけではありません。
あるのは、西暦500年頃、つまり日本でいうと、蘇我氏と物部氏が、いろいろとゴチャゴチャと争いをしていた時代に、南朝の陶弘景という人が、原書を手本に注釈本として「神農本草経注3巻」を書いた、その注釈本が残っているだけの話です。
どこにも、4700年や、5千年を証明するようなものはない。
ほとんど、白髭三千丈とかの話と同じで、たんたんたぬきの百畳敷きという話です。
具体的に大豆が史書に登場するのは、先に述べた斉の桓公の逸話が、紀元前7世紀、次に出るのが、紀元前140〜8年に書かれた「史記」になります。
「史記」には、歴代皇帝が五穀豊穣を願って儀式をしたと書いてある。
五穀とは、諸説ありますが、米、大麦、小麦、粟(あわ)、黍(きび)、大豆であり、前に述べた、紀元前7世紀ごろの斉の桓公の逸話から600年で、支那全土に大豆が普及したとしても、これはおかしくはありません。
では日本ではどうかというと、実は、縄文前期(約7千〜5千年前)の遺跡である福井県三方町の鳥浜貝塚から、大豆が出土しています。
なにが目的なのか、その発見された大豆のことを、リョクトウと表記している本が多いのですが、これは感じで書くと「緑豆」で、ただしくは、ミドリマメと読みます。
これは大豆のことです。
逆にいえば、いまから2000年ほど前、つまり紀元0年ごろに、大豆が大陸から渡来したという証拠は実はなにもない。
むしろ、古代から日本で栽培され、日本人の食生活になくてはならないものとなっていた、と考える方が、土壌的にも、地質学的にも、考古学的にも正しい。
実は、今日食べたオカラがすごく美味しかったものだから、ついつい夢中になって大豆のお話をしてしまいました。
それにしても、日本て、ほんと、とてつもない国ですね^^b
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満州国国都、新京《後編》