自問自答:彼女との経過
(この内容は2001年8月に公開したものです)

 

・今日はいろいろお話を聞かせていただけると言うことで来ました。
→はい、よろしくお願いします。

・最初に、家族構成を教えていただけますか?
→妻とは1991年に結婚しました。妻との間には1994年生まれの娘がいます。
それから、大阪に、1999年に生まれた男の子とその母親がいます。

・その男の子は、あなたとその母親との子供ですか?
→はい。

・年齢から行くと、娘さんより後、結婚してからのお子さんですよね。
→はい。そのとおりです。

・奥様はそのことは知っていらっしゃいますか?
→はい。知っています。

・いつお知りになったのでしょう?
→そのことは後でお話しします。少し複雑なので。

・お子さんの戸籍はどうなっているんですか?
→認知しています。このこともあとで詳しく話しましょう。

・わかりました。では、彼女との出会いはいつだったんでしょう
→1997年の11月です。

・どんな方ですか。
→大阪で呼吸器内科を専門にしている医師です。

・どこで知り合ったんですか?
→JICA(国際協力事業団)の派遣です。マレイシアで森林火災があって、その調査に派遣されました。

・それ以前にお知り合いでしたか?
→いいえ。成田での緊急援助隊結団式で初めて会いました。

・最初、どんな印象を持たれました?
→実は、このとき、僕は海外に緊急援助で出かけるのは初めてだったんです。それで、JICAに問い合わせをしたら、一緒に行く先生が呼吸器のベテランだから安心してくださいと言われていました。
これには少し説明がいるかも知れませんね。このときの派遣の目的は、森林火災によって起こる呼吸器障害の調査だったんです。それで、大気汚染の専門家と、健康調査のために医師が派遣されたわけなのですが、僕はもともと救急医療が専門で、呼吸器には強くありませんでしたから、一緒に行くドクターが呼吸器の専門家と聞いてすっかり安心していました。それで、僕よりずっと年上の、ベテランの女医さんを想像していたんです。でも、行ってみたら、彼女は確かに呼吸器科医ではあったのですが、僕より若かったし、僕と同じで派遣は初めてだったし・・・しかも、彼女も、JICAからは、救急医療の専門家が一緒に行くから安心してくださいねと言われていたらしいんです。成田で出会って、いきなりしたのがそんな話で、笑いあいました。
でも、第一印象は悪くなかったですよ。そして、これ、信じてもらえるかどうかわかりませんが、初めて会ったときから、「僕はこの人に一生かかわるんじゃないか」っていう予感めいたものがありました。




・その予感で、お二人の子供を持つことを決めたんですか?
→いや、いきなりそんなことを思ったわけではありません。でも、その後いろいろな偶然も重なって、僕と彼女の将来は大きく変わることになります。

・どんなことですか?
→まず、機内では、最初、僕と彼女は離れた席だったんですね。ところが、僕の隣に座っていた外国人が気を利かせて席を替わってくれて、それで、彼女と隣り合わせになりました。

・それでどんな話をされたんですか?
→最初はもちろん、現地でどういう活動をするかっていうことです。
でも、そのうち、「患者さんの死」をめぐる話になりました。

・どうしてまたそんなお話に?
→そのころ僕は、僕の専門分野、救急医療の分野での「死」のことを熱心に考え、学会で発表したりしていました。詳しい話はここではしませんが、要は、「ICUや救急室をはじめとする、ホスピス以外の場所でも、ターミナルケアは必要ではないか」ということをいろいろなところで話していたんですね。
ところが、驚いたことに、彼女も同じことを考え、しかも彼女の勤務する病院で実践しようとしていたのです。これは驚きでした。お互い、こんなことを考えている仲間がいるとは思っていませんでしたから。それで意気投合してしまったんです。

・でも、それがどうして子供を持つ話に?
→それはまだ先なんです。
そんな話をしているうちに、援助隊チームは最初の目的地のクアラルンプールに着きました。翌日からはさっそく活動ですから、当日は休む間もなくブリーフィングです。全体の打ち合わせが終わったのはもう夜半近くでしたが、その後、医療班の中で、明日以降の行動の話をしようと、僕は彼女の部屋に行きました。

・そのときはどんな気持ちで?
→誓って言いますが、この時点で下心があったわけではありません。普通に打ち合わせをしましたよ。それで、打ち合わせが終わって、ちょっとビールを飲んでいて、シングルマザー(SMC)の話になったんです。

・SMCって?
→Single Mother ofChoice、すなわち、死別とかではなく、自分の選択で、シングルマザーを選んだ方のことを言います。

・そのことを聞かれたのは初めてだったんですか?
→はい。

 




・それでどう思われました?
→すごく魅力的に思えました。
これにも説明がいると思います。
その時期僕は、「家族」というものがなにかわからなくなっていた時期でした。僕は、子供のころは比較的恵まれていたと思います。経済的にっていう意味ではなくって。両親とも田舎の地方公務員でしたから、よっぽどのことがない限り休日出勤や残業はなく、食事は家族揃ってするのが普通でしたし、日曜日や夏休み、お正月などは家族で小旅行に行ったりしていました。もちろん、普通に反抗期もありましたけど、僕はそんな家族の姿が好きでしたし、家族ってそんなものと思い、また、自分が家族を持つようになったら、そんなふうにするんだと漠然と思っていました。

・そんなふうにって?
→ですから、家族って、いつもいっしょにいて、いっしょに食事をして、いっしょに旅行して・・・って感じです。
でも、実際に自分が家族を持ってみたら、そんなふうには行きませんでした。仕事が、毎日帰れる仕事ではなかったっていうのもあるのですが、それだけではなかった。自分の気持ちの問題なんですね。
家族の一人一人は好きなんだけど、家庭というものが重たく思えていました。妻と話し、子供と遊ぶのは楽しいんだけど、でも、家庭っていう形でいることがなんだかつらく思えたりしていました。つらい、と言ったら言いすぎでしょうか。いつもいっしょにいることがくすぐったく、てれくさく、重いっていうか、そんな感じで、家族って、普段は別々に暮らしていて、でも、会いたいときにはすぐ会えて、って言うふうにいかないのかなぁと思っていました。ものすごく自分勝手なのはわかっているんだけど、家族は好きだけど、家族に縛られたくないっていうか。ところが、彼女が描いていた家族の姿が、SMCだけではなくって、そういったことを解決してくれそうな形だって思えたんです。

・そこでまた意気投合されたと・・
→はい。
そして、彼女の生き方を応援しようと思いました。

・しかし、それがどうして子供を持つことに?
→いや、もうちょっと話させてください。
最初にSMCの話をしたのはこの初日の晩だったのですが、その時点で僕はもう彼女に好意を抱いていたんだと思います。と、いうのは、そのときの彼女のプランでは、この先数年間で、そういったSMCを含めた彼女の生き方を認めてくれる相手が見つからなければ、アメリカに精子ドナーを探しにいくって言う話しだったのですが、そのことに激しいジェラシーを感じましたから。

・ジェラシー、ですか?
→はい

.



・いったい誰に?
→今後現れるかもしれない、彼女の理解者、あるいは精子ドナーです。

・だってその時点では両方ともいなかったんでしょう?
→そうです。ですから僕は彼女の未来に嫉妬していたのかもしれません。そして、その二つの役、両方を、自分が引き受けられたらいいのにと思いました。

・そのことをすぐ彼女に告げられたんですか?
→いや、そこまではっきりは言いません。でも、「もし理解者がいなければ、精子ドナーになってもいいですよ」って言い方はしました。

・初日にですか?
→そうだったと思います。

・その後、彼女との関係は?
→その後2週間、彼女とともに仕事をしたわけなんですが、仕事の上でも、彼女と僕は驚くほど息が合いました。そして毎晩ディスカッションをし、そのあとにSMCの話しをし・・・そうやって行くうちに僕はいよいよ彼女のことを、仕事のパートナーとしても尊敬し、また女性としても好きになっていきました。

・しかし、そのとき家族はいらっしゃったわけですよね。反対されるとは思いませんでした?
→うーん。そのことをまったく考えていなかったといえば嘘になりますが・・・でも、これはこの先話を進める上でも、非常に重要なキーワードになるんですが、そのときの僕は「なんとかなる」と思ったんです。それまでも僕は、ずいぶんとわがまま勝手なことをしてきました。海外や国内のいろいろな仕事を引き受けて、突然数日間いなくなったり、経済的には決してそんなに余裕があったわけではありませんが、クルマも2台持っていたし、コンピュータもいろいろ買ったりして、自由気ままに暮らしていて、「あなたは何でも自分の好きにしないと気がすまないのね」っていうのが妻の口癖でしたし、実際そうしてきていました。

・だから今回も自分の好きにしても認めてもらえるだろうと。
→まさにそのとおりです。精子提供するって言っても、彼女と寝るわけでもないし、離婚して彼女と結婚しようというわけでもないし、今自分の趣味につかっている時間とお金を、彼女のサポートにまわせば、十分家族と彼女の両立は可能だろうと考えたんです。また仲間内でも僕は変わり者で通っていましたから、仲間もまた認めてくれると思っていました。

・それで、どうされたんですか?奥様には話は?
→いや、その話はもう少し先です。
少し話を戻しますが、マレイシアへの出張中は、そんな話をしたものの、実際は何もありませんでした。毎晩、仕事の打ち合わせとデータ整理で、二人で部屋に閉じこもっていたわけですから、なにかしようと思えば誰にも怪しまれずに何でもできたはずでした。しかし、さすがに僕も、そこまでやる勇気はありませんでした。いや、むしろ、逆に手を握ることすらしませんでした。手を握ったら終わり、というか、そのままずるずるになってしまう、という予感があって。





・少しは理性を働かせたわけですか?
→それを理性というのかどうか・・・本当に理性があるなら、精子提供の話なんかしないはずだって言われればそのとおりですから。それに、彼女は京都に住んでいて、僕は東京でしたから、この仕事が終わったら、そうそう会う機会はないだろうし、これ以上関係が深まる可能性はあまりないんじゃないか、だったらあまり深入りしないほうがいいって感じで、少しあきらめていた部分もあります。

・でも、結局子供を持たれたんですよね?
→そうです。それにはいろいろな偶然と必然が重なっています。
本来なら、マレイシアから帰ったら、成田で解散式をやって、それでもうそのあと彼女と会う機会は当分ないはずでした。しかしこれは本当に偶然なのですが、帰りの成田エクスプレスの中で、僕らの目の前で人が倒れ、僕と彼女で応急処置をして、途中下車して病院まで二人で救急車に同乗して送っていきました。それで、そのまま帰るのも変だったので、また二人でお茶を飲んで、話して・・・。
神様が味方してる、って思いました。そのとき。
でもね、そのあと自宅に帰ったら、僕の机の上に、陰膳がしてあって・・・妻が毎日僕の無事を祈ってくれていたんですね。これを見たときには、さすがに良心が痛んで、彼女とはやはりこれっきりにしたほうがいいかな、と思ったりもしました。
しかし、その後も、データの整理のことで、彼女とは何度も手紙や電話のやり取りをし、また、実際に何度か会うこともありました。そしてそのたびごとに、僕は彼女のことを好きになっていって、結局、ある打ち合わせ会の打ち上げの帰り、僕は彼女の手をしっかり握ってしまいました。

・そのときが初めてですか?
→はい。そして、最初に予感した通り、その後、彼女と深い仲になるのにはそう長い時間はかかりませんでした。

・奥様や周囲の方にはお話されたんですか?
→いえ、この時点ではまだ話していませんでしたし、深い仲になってもずっと話していませんでした。

・彼女とはどんな話を?
→彼女もまた、不安に思っていたのでしょう。本当に僕の子供を産んでいいか、産んでもサポートしてくれるか何度も僕に聞きました。そして僕の最終的な答えは「大丈夫です。僕の子供を産んでください」でした。
さっきも触れましたが、僕は彼女の将来、すなわち、これから現れるかもしれない彼女の理解者と精子ドナーと両方に嫉妬していました。ですから、このとき、僕はこの二つの役割を果たすことを彼女に誓ったことになるのですが、この言葉の重みに、実はまだ僕は気づいていませんでした。





・行動に移すにあたって、確信があったんですか、なにか?
→いや、「なんとかなる」というふうにしか考えていませんでした。本当なら、この時点で周囲の承諾を得、もし、周囲が反対するなら、それでも押し切るか、すっぱりあきらめるかどちらかにすべきだったのだと思います。しかし、僕は「既成事実を作ってしまったほうが認めてもらいやすいだろう」と、そんなふうに都合よく考えて、事をすすめました。

・彼女はそれで納得したのですか?
→いいえ。
最初に深い仲になった後、彼女は僕にこんな条件を出してきました。
1.彼女と子供に対する時間的、空間的、経済的保証
(会いたいときにいつでも会えるようにする。また、彼女と子供が安心して住める空間を確保する)
2.誰に対しても彼女と子供の存在を隠さず、積極的に紹介すること
この条件が満たされなければ、子供は持てない、と言われました。

・それで?
→戸惑い、また困ったことになったと思いました。このあたりはほんとうに自分でもずるいと思います。さっきも書いたように、僕は自分から、単なる精子ドナーではなく、彼女の理解者にもなると宣言したのに、そのことから当然発生する問題のことを具体的には考えていませんでした。

・では、どうしたんですか?
→この条件は実現困難だと思った、少なくともすぐにはできないと思いました。しかし、彼女はどうしても失いたくなかった。それからがいつもの「なんとかなるんではないか」です。彼女は妊娠する前にこれらの条件の達成を求めましたが、僕は既成事実を作ったほうが話を進めやすいと考え、いつまでも条件に対する回答を出さない。彼女もいらだってきました。まぁ、時間的、空間的、経済的保証は産まれてからの話ですが、少なくとも情報の公開、すなわち彼女との間に子供を持つことは公言してほしいとずいぶん迫られました。

・それで、公言したのですか?
→公言、とまではいきません。まずはごく親しい友人何人か、これに男性も女性も含みますが、に話しました。

・反応はどうでした?
→うーん。おおざっぱに言えば、女性はあまりポジティブな反応をせず、男性は結構ポジティブでした。




・そのことは彼女に?
→告げたと思います。しかし、それだけでは公言になりません。彼女はやはり「できちゃったから」という既成事実に乗っかるのではなく、きちんとしたプロセスを踏むことを求めました。「認められる」のではなく「積極的に認めてもらう」こと。今考えるとすごくあたりまえのことです。妊娠している間の安心感も違いますし。僕はその彼女の生き方に共感したはずなのに、いざとなると、なかなか行動が起こせませんでした。彼女からの執拗な要求を受け、僕はまず妻に彼女の存在を打ち明けました。

・いきなり奥様ですか?
→はい。公言すれば当然妻の耳にも入るであろうし、どうせそうなるのであれば自分から話したほうがいいだろうと、そう考えました。

・どんな話を?
→尊敬する女性がいて、彼女がSMCになりたがっているので、精子を提供したいって、そう話しました。

・で、奥様は?
→そう甘くはありません。怒り、嘆き、悲しみました。説得しようとしましたが、まったく無駄でした。これも常識に照らせばあたりまえのことです。今まで信じてきた夫に裏切られて、それでにこにこしていられるほうがおかしいでしょう。

・その後どうしたのですか?
→結局この時点では説得はあきらめました。でも、僕には家族を捨てる勇気も、彼女と別れる勇気もなかった。それでとった手が一番姑息なこと、すなわち、妻には黙って、しかし公言もせず、彼女に会い続けることでした。

・彼女は納得したのですか?
→いいえ。だって何も解決していないわけですから。
それでその後も彼女との間はもめにもめました。そしてある日決定的なできごとがあり、彼女とは別れる話になりました。ところがこれもまったくの偶然なのですが、彼女と別れ話をした、というか、彼女から最後通帳を突きつけられたまさにその日に、僕にボリヴィア赴任の話が来たんです。

・ボリヴィア、ですか。
→はい。
で、もう会わないはずだったのですが、ボリヴィアに行くことだけは彼女に告げようと電話し、結局はまた会うことになり・・・




・どうしてまた会ったのですか?
→これで少し流れが変わると思いました。これもずいぶん勝手な考えですが、少し距離をおくことで、純粋になれそうというか・・・

・純粋?
→これも説明がいりますね。
実はこの少し前に、僕は知り合いの検査技師さんに頼んで、自分の精子の数を数えてもらっていたんです。

・それはまたなぜ?
→ひとつには精子提供のこともありましたし、あとは、妻との間にも、避妊していなかったにもかかわらず、二人目ができなかったこともあります。

・で、結果はどうだったんですか?
→実は、自然妊娠は望めないほど少ない精子数でした。
原因はわかりません。例のチェルノブイリ事故のとき、あのあたりを何も知らずにうろついていたのが関係あるかどうか・・・妻との間の娘はできてはいるわけですから、絶対ではないにしろ、これは通常の性交渉では多分受胎は無理で、凍結精子を濃縮する方法しかないだろうと考えたわけです。それで、ボリヴィアに行く前に精子を凍結しておけば、会わなくても、また条件が整ってからでも妊娠できると、そう考えました。
それで、僕の精子を凍結し、彼女を通してある産婦人科クリニックに預けました。

・その精子で彼女は妊娠したのですね?
→いや、そうではありません
その後も僕のほうは公言はできず、時間ばかりが経っていきました。そんなある日、もうボリヴィアに行くまで数週間しかなく、あと何回会えるかわからない、っていうとき、僕は彼女と会いました。彼女が妊娠したのはそのときです。

・自然な方法で?
→はい。その日はたまたま彼女の排卵日で、これは僕も確認しています。また、さっきも書いたように、精子が少ないとはいえ、妻との間には、通常の方法で子供がいるわけですから、このときもいろいろなことがうまく行ったのでしょう。

・妊娠を知ったのはいつですか?
→もう、出発の一週間くらい前、家族で僕の実家に帰って、挨拶と墓参をしているときでした。

・彼女から?
→はい。

・どうしたんですか?その後?
→彼女は、いい機会だから、実家で公表してくれと。

・で、そうされたんですか?
→いいえ。このときは、そうする勇気がありませんでした。




・じゃあ、いつ公表されたんですか?
→ボリヴィアに行く直前です。彼女から告知されてから五日目くらい。

・その五日間は何をしていたんですか?
→公表することに抵抗していました。彼女と毎晩電話で話し合っていたんですが、彼女はとにかく公表してほしい、と言っていましたし、僕は今は公表したくない、と言い続けました。

・どうして食い違ったんですか?
→そのときの僕は「公表することによって妊娠が継続できなくなるかもしれない」「だから、生まれてから公表したほうがいい」と彼女に言いました。でも、これって、詭弁ですよね。問題を先送りするばかりで。「僕の子供を産んでください」と言ったからには、こういった問題を考えておくべきだった、いや、話は逆で、そういった問題をクリアしてから子供を持つべきだったし、それができなければ、子供はあきらめるべきだった、と思います。それを甘く考えていた、「なんとかなるだろう」と考えていたわけです。

・それで、結果的にはいつ?
→ボリヴィア出発の直前です。

・奥様の反応は?
→再び嘆き、悲しみました。

・でも、ボリヴィアには奥様を連れて行かれたんですよね?
→そうです。いろいろ話し合いましたが、結局一緒に行きました。

・そのことはどう考えていらっしゃいます?
→これもある意味暴挙だったと思っています。一緒に行ってよかった、悪かったっていう問題以前の話として。結局は何も解決しないまま行ってしまったわけですよ。僕と妻の関係で言えば、「一緒にいれば何とかなるだろう」彼女との関係で言えば「離れていれば何とかなるだろう」と。結果的には、僕は、妻については、全く言葉の通じない国で、それだけでもストレスがあるのに、知り合いもおらず、日本に電話もつながらないっていうまったく逃げ場のない状況においてしまいましたし、彼女は彼女で、何のサポートもしないどころか、ある意味、存在を否定さえするような形で、連絡を絶ってしまったんです。

・連絡を絶った?
→少し時間が前後するんですが、その通りです。そのことは後で話しましょう
いずれにせよ、僕は、妻に対しても、彼女に対しても、なんのフォローもないまま、ボリヴィアに行ってしまったわけです。その先は、今考えると、滑稽とさえ言っていいほど、ずさんな対応でした。そんな不安定な状況に置かれた妻も、彼女も、いらだち、僕を責め始めました。それに対して僕はどうしたか?逃げただけでした。匙を投げてしまったんです。「何とかなるだろう」のつけが回ってきたんですが、それに向き合おうとしなかった。妻が何か言ってきてもはぐらかそうとし、彼女からのいろいろなメールも無視し続けた。しかも、自分でしっかりしたポリシーを打ち出そうとせず、人任せにしてしまったんです。

・人任せ、ですか?
→弁護士さんに交渉をお願いしたんです。これはいろいろな意味で間違いだったと思います。誤解しないでほしいんですが、弁護士さんの善し悪しを言っているのではありません。僕自身の無知と無責任の話です。




・無知と無責任?
→そうです。「無知」は、弁護士さんの役割を誤解していたこと。僕は、弁護士さんって言うのは、もめ事の当事者同士の間に立って、公平に物事を裁定してくれるものだって思っていたんですね。今考えると、テレビやラジオに出てくる弁護士さんの「法律相談」みたいなイメージを考えていたのかも知れません。でも、現実の係争事件となると、これ、よく考えたら当たり前の話なんですが、弁護士さんは当然、依頼人を中心に物事を考え、依頼人に少しでも有利に話を進めようとする、それが仕事ですものね。そんな事すら知りませんでした。そして、そのときに判断のよりどころになるのは、多くは「法律」ですが、そもそも、「法律」の枠に沿わない形で子供を持とうとして、いざとなって「法律」に泣きつこうというのは、終始一貫していなかったと言わざるを得ません。
いや、それより何よりの「無責任」は、自分でものを考えようとしなかったことです。結局僕は、自分のポリシーを持たなかった。妻に何か言われても、「弁護士さんに聞いてみたら」で逃げ、彼女からのメールに対しても、自分でリアクションするのではなく、そのまま弁護士さんや妻に転送して、反応を伺い、挙げ句の果てには、彼女には「今後一切弁護士さんを通して話をしてください」と言って、直接交渉の窓口を閉じてしまったわけですから。すべて人任せで、最後はいつもの「どうにかなるだろう」です。

・それで、ボリヴィアにいらっしゃる間、なにか進展があったのですか?
→胎児認知をしたくらいですね。それ以外は何も進展はなく、結局、彼女が出産したことも、人づてに聞いただけで、僕自身は何のリアクションも起こしませんでした。いろいろ悩んで、少し反省して、養育費とか、慰謝料とか、そんな交渉を始めたのも、帰国してから、すなわち、子供がもう一歳になろうとしたころからです。その二つは、いわば「後始末」的なことであり、前向きなことではありませんよね。それだけでも、もっと早い時期に、きちんと話していれば、彼女も、妻も、もう少し楽だったと思うのですが、そんな塩梅でしたから、あとは推して知るべしです。
一番ひどかったのは、今書いたように交渉を一方的に断ち、その後交渉を迫ってくる彼女を「病気だ」と決めつけるようなことまで公言したことです。それに対し、彼女は彼女で、そのことを攻撃し、僕や家族を責めるようなHPを作り・・・泥仕合でした。しかも、これもまた、今から考えると滑稽ですらあるんですが、そうやって彼女と子供を切り捨てようとすることが、自分のできる最大限の愛情だと思いこもうとしていたんです。いや、そういう考え方もあってもいいと思うんですが、自己犠牲というか。でも、それはきちんとしたフォローがあってのことで、その意味で僕のやったことはそれにはあまりに無責任だったと言わざるを得ません。

・でも、胎児認知はされたんですよね?
→これも、彼女に強く請求されてのことです。僕は認知は拒む気持ちはなかったのですが、でも、結婚しているわけでもないし、一緒に住んでいるわけでもないんだから、生まれてからで充分だろうと思っていました。
これは、全然彼女の気持ちをわかっていなかったんだと思います。一緒に住んでいないから、結婚していないからこそ、一刻も早く認知すべきだった。そのことだけでもきちんとやっていれば、こんなに話はこじれなかったと思います。

・今は、彼女のことと、子供さんのことはどう考えていらっしゃるのですか?
→すごく自然にとらえています。

・自然、って?
→どう言えばいいんでしょうか・・・今まで書いてきたように、僕は、一時期、彼女よと子供を完全に否定しようとしたんですね。それが誰のためにもなるんだと。その反面、心の中では、誰に対しても申し訳なく思っていた。彼女にも、子供にも、妻にも、娘にも、あるいは僕の周辺の人々にも。でも、それって、ある意味でものすごく無理をしている、っていうことに、あるときふっと気が付いたんですね。そんなんじゃ結局みんな苦しむだけじゃないかって、そう思ったんです。そうじゃなくって、もっと自然にとらえよう。原点に帰ろうって、そんなふうに思うようになりました。それは、妻と娘に対しても同じです。冒頭に書いたけど、家族を「重荷」に考えるんではなく、もっと自然に接することができるんじゃないかって。

・抽象的ですね・・
→う〜ん、もっと具体的に言いますとね、彼女と子供のことを、ポジティブにとらえられるようになって、そして今もポジティブに考えている、ってことなんです。
彼女が妊娠してから、特にボリヴィアにいる間は、彼女に対して手のひらを返したような対応をしたわけでしょう。子供にとっても。くどいようですが、それは彼女のためでもあり、自分のためでもあると思っていたわけですけど、結果的には、彼女と子供のことをネガティブに考え、葬り去ろうとしていたわけです。でも、帰国して、養育費や慰謝料の交渉が一段落したころ、あるとき突然に、ふっと、彼女と子供がこの世にいることが、すごく誇らしいことだ、っていう気になったんですよ。そう思えるようになって、また、妻と娘のことも自然に思えるようになってきました。




・かなりの心境の変化ですね。どうしてまた?なにか根拠があってですか?
→そういうわけではないんですが、突然、すうっとそう思えるようになりました。

・でも、それって、子供を作る前に思ったことと同じじゃないですか?
→そう、そうなんです。そのために子供を作ろうとしたわけですから。ぐるりと回って、元に戻ったわけです。すごく自然なところに落ちついたというか。いろいろ振り返って見て、自分の行動って、極端すぎたと思うんですよ。彼女に出会って、行き方に共鳴して、でも、そこで誰にも相談せずに彼女と子供を作ったわけでしょう。これも、さっき話したことの繰り返しになるけど、それで突っ張れるくらい強い人間だと自分自身を過信していたっていうのもあるんですが。で、いざ妊娠したら、突っぱねようとする。その反面、そのことが気になって眠れなくなる。また逆に家族のことが気になってどうしようもなくなる。正直、自分がこのまま死んでしまったほうがいいんだろうかとか、家族を捨てて彼女と一緒になったほうがいいんだろうかとか、そんなことまで思い詰めたりもしました。でも、そのどれもが極端ですよね。

・それを通り過ぎて、素直に今の状況を受け入れるようになったと?
→そういうことです。

・それって、すごく甘くないですか?
→確かに。心境が変化しただけですべてが解決する、っていうのものではないですから。でもね、これは一般的なことなんだけど、相手に対して「憎しみ」や「苦手意識」を持っていたり、あるいは「憐れみ」「自己犠牲」といった、どっちかが強くてどっちかが弱い、っていう心情だと、かならず破綻が来ると思うんですよ。そうじゃなくって、もう少し素直な気持ちで接すること、それが大事なんじゃないかと思うんですよ。

・「問題をクリアしてから子供を持つべきだったし、それができなければ、子供はあきらめるべきだった」っておっしゃいましたよね?それとの整合性はどうなんですか?

→確かに自分はさまざまな誤謬を冒しました。でも、その過程は責められても、その結果を責める必要はないんじゃないかと、自分の中でそう思えるようになってきました。
実際ね、そういうふうに、彼女と子供のことをポジティブにとらえられるようになってから、家族のこともポジティブにとらえられるようになりました。それまで、家族に対して、ものすごく後ろめたさがあって、罪悪感で、向き合っていられない、という部分があったんですが、今はもっと素直です。悪かったことは悪かったこととしてね。

・これからどうされるつもりですか?
→表面上は何も変わらないはずです。でも、かなりいろいろなことを素直に考えられるようになってきてはいるつもりです。まだ未解決の問題も残っています。子供たちが大きくなったら、どうやって自分のやったことを話そうかってこととか・・いや、話すのはきちんと、自分のよかった点、悪かった点、正直に話すつもりですが、それに対する子供たちの反応はちょっと想像が付きません。でも、二人とも反発はするだろうなと思います。それにどう答えるのか。それをきちんと考えて行かなくてはいけないですね。「考えて行かなくてはいけない」なんてところにまだ「あとでゆっくり考えよう。そのうち何とかなるだろうから」っていう、僕の悪いところはまだ残ってはいるんですが、それをまじめに考えられるようになったのは、進歩だとは思います。でも、そんなふうに前向きに考えていくつもりです。
彼女と、あるいは妻との接し方も同じです。さっきも話したけど、両極端しかなかった。そのくせ、どちらからも自由になれなかった。でもね、今後はもっとリラックスした対応ができるんじゃないかと思っています。

・最後はまた抽象的ですね。
→自分自身でもわからないところはあるんですが、ポジティブシンキングで行くしかないと思っています。

・どうもありがとうございました。また聞かせてください。
→こちらこそ。ではまた。