シンプル
2−5 育った心
結局、榎さんからの連絡は葉書だけだった。
お互い携帯番号を知っていたのに、そういうデジタルな情報機器は使わなかった。
メールは本当に便利な道具だけど、それを使わずに葉書というものを送ってくれたのは、やっぱり榎さんらしいな…と思った。
帰国を知らせて欲しいと言った私への連絡も、短く留守番電話に「ただいま日本に戻りました」と入っていただけで、2週間ぶりだからといって私の顔が見たいなんて甘い言葉は言わない。
彼の行動や時間の過ごし方には、全て「ゆとり」を感じる。
焦って大事なものを見過ごしがちな私の生き方とは違う。
だから、榎さんと離れた2週間で私は自分が恋以外に何をするべきなのかという事も考えていた。
「榎課長って損な人だよ」
彼が帰国した次の日、午後出勤になっている彼のスケジュールを見ながら木村さんがそうつぶやいた。
「どういう意味ですか?」
私に言ったつもりじゃなかったんだろうけど、何となく聞こえてしまったから気になって木村さんに思わずそう尋ねてしまった。
「あ、聞こえた?いやね、…もしかしたら、来年の異動で榎課長がここを動くかもって噂聞いたからさ…」
それを聞いて、私は思わず立ち上がった。
「え、課長…東京をお出になるんですか?」
私の表情を見て、木村さんも少しびっくりしたようだ。
「噂だよ。その異動先での仕事っていうのがさ…ものすごく面倒な仕事なんだよ。誰もやりたがらないから、結局榎課長が全て引き受けるって言ってるみたいなんだ」
「そんな……」
私の頭の中は、榎さんが来年は顔の見えない場所へ行ってしまうかもしれない…という事でショックを受けまくっていた。
聞いた事はある。
茨城県に新しくできた施設がうまく運営できなくて、会社が大赤字を出しそうになっているというのを。榎さんが行こうとしている、その面倒な異動というのは茨城なのに違いない。
榎さんの事だから、損な仕事でも一生懸命頑張ってしまうんだろうな…と、想像がつく。
遠くはない。
関東圏内だし、どちらかというと近い場所だろう。
毎週会おうと思えば、会えない距離じゃない。
でも、まだ私達はちゃんと付き合ってもいない、微妙な関係だ。そんな私達が1年もしないうちに中距離に離れてしまうのは、不安を隠せない。
「情け無いけど、あの人の力を借りないと駄目な仕事は五万とあるんだ。いい上司だから…ここを動かれるのは個人的に嫌なんだけどね」
それだけ言い残して、木村さんは自分の席に戻っていった。
木村さんと入れ替わるように、榎さんが2週間ぶりに会社に顔を出した。
「お疲れ様です!」
皆それぞれ席を軽く立って、榎さんが帰ったのを確認して頭を下げる。
「お疲れ様…何か変わりは無かったですか」
「メールでお知らせした件意外は特に変わった事はありません」
「そうですか。了解しました」
彼が戻っただけで、仕事場の空気に緊張感と活気が戻る。
自分の席に着いて机に積まれた書類を手にしながら、彼はフッと私に顔を向けた。
私はうまく言葉が声にならなくて、ただペコンと頭を下げただけになってしまった。
そんな私を見て、彼は少し表情を緩ませ「お久しぶりです」と小さな声で言った。
2週間、彼も長いと感じただろうか。
会わない時間を、私と同じくらい長いと感じてくれただろうか。
絵葉書があったから、私は残りの1週間を過ごす事ができた。多分携帯で声なんか聞いていたら、もっと会いたくなって、つらい気持ちになっていたかもしれない。
だから、彼の多少淡白にも見える心の表現方法は、結果的に私の気持ちを何倍にも大きくさせる効果を持っていた。
今日よりも明日。明日よりもあさって。
会える日も、会えない日も…確実に彼を好きになる気持ちは大きくなる。
私の力じゃない。彼の魅力から発信される力が、ものすごい吸引力で私の心を惹きつけるのだ。
こんな私の肥大化した心を、今の榎さんは受け止めてくれるだろうか。
そして、私はスローペースな彼の心に合わせて、愛情表現を抑えていられるだろうか。
自信がなくなってきた。
とうとう私は我慢できなくて、今夜1分でもいいから二人きりで会える時間をいただけませんか…というメールを打ってしまった。
それを私の目の前で確認した彼が、ちょっと口の端を上げて微笑んだのが分かった。
『僕の方からお誘いしようと思っていました。今日は定時に帰る予定でしたので、是非ご一緒に夕食でも』
こんなメッセージが戻ってきた。
私は嬉しくて、思わず携帯を握りしめながら顔を赤くしていた。
帰国の連絡がそっけなかったから、次の約束までは時間がかかるのかなと思っていた。でも、一応榎さんも私と過ごしたいと思ってくれていたのが分かって、とても嬉しかった。
*
「ご迷惑じゃありませんでしたか?」
最初に私が紹介したお店で、私達は久しぶりに二人きりで向かい合った。
今回はステーキに合わせた真っ赤なワインがグラスに注がれている。
「嬉しかったですよ。今日出社したのも、半分は中田さんの顔を見たくて…っていうのが本当のところですから」
またもや、狙わない殺し文句が出た。
私はまだワインをほとんど飲んでもいないのに、顔が暑くて心臓がバクバクしている。
挙動不審になってないだろうか。
「中田さんは、元気にお過ごしでしたか?」
「あ、はい。…いえ、本当は元気じゃありませんでした」
私の言葉に、榎さんは口に運びかけたグラスをテーブルに戻した。
「何かあったんですか?」
どうして榎さんは、そんなに落ち着いてるんですか。
2週間ぶりに会ったっていう顔をしていない。
昨日会ったみたいに穏やかな顔をして…、私みたいに会えない時間に胸が痛んだりしてはいないんですよね。
こんな理不尽な感情に囚われかけた私は、慌てて自分の感情を殺した。
「少しだけ。榎さんの顔が見られない環境で過ごすのが、少しだけ寂しかったんです」
来年異動になるかもしれないという話も聞いてしまったから、私の心は焦りが出るのを止められない。それでも、精一杯感情を抑えて“少し寂しかった”という表現をした。
言ってしまってから、もっと重い気持ちがあるのをごまかすように私はワインをグイッと喉に流し込んだ。
そんな私の様子を見ていて、榎さんは少し黙っていた。
料理が3品ほど並び、美味しそうに湯気をたてているけど…何だか食欲が出ない。
「美味しそうですね。いただきましょう」
そう言って、彼は皿に少量ずつのおかずをのせて私の前に差し出してくれた。
「ありがとうございます。すみません…」
いつもに増して気が利かなくなっている自分を、どうにもコントロールできない。
余裕が無い。
彼を好きだという気持ちを、夜景を見る日までは抑えようと思っていた。
でも、もう限界だ。打ち明けてしまわないと、私の中の不安が爆発してしまいそうだ…。
「中田さん」
サラダを少しだけ口にしてから、榎さんは私を呼んだ。
「はい」
「何度も口にするものではないと思っていたんですが…。もう一度言っていいでしょうか」
驚いて顔を上げると、穏やかだと思っていた彼の瞳が少し緊張しているのが伺えた。
「はい、お聞きしたいです」
私は、自分から今口に出しそうになっている事を彼が言ってくれるのだと予感していた。
「長く言葉にすると恥ずかしいので、単刀直入に言いますね。もしご迷惑でなければ、僕と付き合ってくださいませんか」
1回目に聞いた彼の声よりハッキリとしていて、もう紛れもなく彼は私に告白してくれたのだと分かった。
私のドキドキは、心臓の限界に達しようとしている感じがした。
「あの、私…本当に私でいいんでしょうか」
声がうわずって、うまく話せない。
「中田さんがお嫌でなければ。是非…末永くお付き合いしていただきたいと思ってるんですが」
それって。
それって…結婚まで考えてくださってるという事でしょうか!?
こんな事口に出せるわけもなくて、私はただ彼の言葉に「はい」「はい」と頷いただけだった。
やっぱり格好悪い。
私の態度が挙動不審だったのを見て、榎さんは私達の関係をきちんとさせた方がいいと思ったんだろう。
おかげで榎さんの心が正確に伝わってきたから、私の心もだいぶ安定した。
*
結構長くお店にいたから、すでに時間は9時になっていた。
お店を出てから、私は彼に渡したいものがあるのを思い出した。
「あの、いつもご馳走になっているので。何かお礼がしたいと思ってたんです。色々迷ったんですが、これを使ってもらえますか?」
あまり高価じゃなくて、榎さんが使ってくれそうなもの。
どうか当たりでありますように。
榎さんが紙包みを開ける姿を見ながら、私は少し緊張した。
「素敵な万年筆ですね」
箱の中身を見て、彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。
今時万年筆を贈る人なんているんだろうか……と、相当悩んだ品だ。
でも、私は榎さんの書類に書かれている文字が、ボールペンとかではなくて万年筆のものだというのを知っていた。
だから、もしかしたらセカンドのペンとして使ってもらえるかもと思って、これを選んだ。
「ありがとう、今使っているのがペン先が割れてきていて…ちょうど買い代えようかと思っていたところだったんです。とても嬉しいですよ」
それを聞いて、私はとてもホッとした。
「良かった、喜んでいただけて」
私が安心して笑みをこぼしたのを見て、榎さんはそっと私の頬に手をあてた。
「やはり、あなたは笑顔が一番素敵ですよ」
そんなセリフを聞いて平然と出来るはずもなく、私はまたもや真っ赤になっていた。
榎さんの手は暖かくて、何だか涙が出そうなほどの安らぎを感じる。
好きです。大好きです…榎さん。
私は心の中で、何度も彼に告白していた。
そして、この日はどちらからともなく手をつなぎ、駅までの暗い道を幸せをかみしめるように黙って歩いた。
会えない時間が心を育てる事もあるのを実感する。
私達は、近すぎない距離で思いあう事で、その気持ちを強めているのかもしれない。
今握られているこの暖かい手が消えない限り…私は榎さんの為に笑顔を絶やさないでいようと思った。
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