シンプル

2−4 会えない時間

榎さんと過ごす夜の時間は、本当に驚くほどアッという間に過ぎてしまった。
とても美味しいお寿司をご馳走になったんだけど、ここもやっぱり彼が知らないうちに支払いを済ませてしまっていた。
彼の好意だと思って、私はこの日もにこやかに「ご馳走様でした」と言った。
すると、榎さんは嬉しそうに頷いて、
「いつも一人で食事をするのに慣れていたので、一緒に食事をする人がいるというのがこんなに楽しいものだというのを忘れていました」
と言った。
お声は色々かけてもらってそうなのに、積極的に誰かと食事をするという事の無い人みたいだ。

駅までの帰り道も手を握ってもらえるかなあと思って期待していたんだけど、そういう気配がないいまま何となく雑談を交わしながら歩いた。
「明日の成田発は何時ですか?」
別れる直前、私は彼の出発時間が気になってそう聞いてみた。
「2時半ですが…どうしてですか?」
「あの。ご迷惑でなければ、お見送りに行きたいんです」
土曜日だし、アパートで寂しい気分でいるよりはもう一度彼の顔が見たいと思ったのだ。
でも、榎さんはそれを承諾してくれなかった。
「成田は近い場所じゃありませんし、見送りはいいです」
「そ、そうですか」
何となくショックで、私はしょんぼり俯いた。
喜んでくれるかと思ったのに、仕事モードだと迷惑なのかな。
私が寂しそうな顔をしたのを見て、榎課長は口にするかどうか迷っているような表情をした。

「…その。中田さんの顔を見ると、飛行機に乗るのがつらくなるので。そういう意味なんです」
すごく恥ずかしそうに彼は自分の気持ちを言ってくれた。
全く会えないより、今日の夕食で少し時間を過ごし、明日は完全に仕事モードに切り替えて行こうとしているんだというのが分かった。
「ごめんなさい。勝手な事を言って」
「気持ちはとても嬉しかったです。明日もあなたが僕を思ってくれていると思うと、心強いですよ」
「……そうですか」

もう二人とも改札に入り、ホームで電車を待っている状態だ。
今日も榎さんは私をアパートまで送ってくれると言ったけど、今度は私がそれをお断りした。
「まだ8時ですし。危険っていうほどの道じゃないので」
忙しい彼の時間をこれ以上裂くのは申し訳無いというのもあったし、やっぱりお別れの時にすごくつらくなるのが予想できたから。
榎さんは、その気持ちを察してくれて「何かありましたら、すぐ携帯に電話をください」とだけ言った。

彼と一緒の電車に乗る時間は、ほんの10分ほどだ。
何かを話したいのに言葉が出なくて、私達は何となく寂しい空気を感じながら黙って電車に揺られた。

「お帰りになったら…連絡くださいますか?」
降りる駅に近くなった時、私は遠慮がちにそう聞いた。
「ええ、もちろんです。それより、僕の携帯は海外でも使えるので、そちらに中田さんからかけてくださってもいいんですよ。僕も可能な限り日本時間の適切な時間を考えてかけますから」
すごく私の寂しい気持ちを考えてくれての言葉だった。
忙しい榎さんだもの。
私の事を考えて携帯に連絡なんて、きっと大変なのに違いない。
「ありがとうございます。でも…大丈夫です。2週間待ってますから。榎さんはお仕事の事だけ考えてください。きっと次にお会いするのは、本当に嬉しい瞬間になると思います」
私がそう言い終えたと同時に、ホーム側のドアが開いた。
名残惜しい気持ちを振り切って、私はホームにトンっと降りた。

「中田さん、――――― 」
発車ベルが鳴る中、榎さんが何かつぶやいた。
「ごめんなさい、何かベルがうるさくて聞こえづらいんですが」
「いえ、何でもありません。今日はありがとう、おやすみ」
発車ベルが鳴り終わり、電車のドアは静かに閉じた。
届かなかった言葉は2度は言ってくれなくて、榎さんは窓に手をかけて優しく私を見ていた。
思わず目が潤んでしまったけど、泣き虫に見られても恥ずかしいから、私は無理に笑って“おやすみなさい”と言って頭を下げた。


電車が完全に見えなくなってから、私は人のまばらな駅の中をトボトボと歩いた。
夢のように過ぎた榎さんとの時間。
仕事の事なんか一つも話題に出なくて、お互いにどういうジャンルに興味があるのかとか…そういう個人的な趣味の話が多かった。
あまりに楽しく会話が出来たから、私は飯塚さんへのお土産の事をすっかり忘れていた。
同じお土産をもらった事をいちいち口に出すのも格好が悪い感じがして、この事は忘れることにした。
飯塚さんがライバルなら、それに対抗する気持ちがあるぐらい、私は榎さんを好きだと思っている。
思われるのが女の幸せなのかと思っていたけど、自分から相手を強く思うのもまた幸せなのだな…と、今更のように思った。
これが例え片思いだったとしても…今の私は、榎さんを思うだけで嬉しいのだ。

榎さんのどこに惹かれたんだろう。
会話は決して多くないし、年も離れていて共通の話題を見つけるのもちょっと大変だ。
でも、とにかく何もかもが好きなのだ。
声も好きだし、広い肩幅も、サラッと流れるような黒い髪も好き。
真っ直ぐ目を見ると恥ずかしいのか、正面を向いて話す時は少し伏目がちになる姿も可愛らしいと思ってしまう。
今日は手をつないでもらったけど、あの大きな暖かい手も大好きだ。

彼は…榎さんは、私の何をいいと思ってくれているんだろう。
笑顔がいいとは言ってくれたけど、それ以外で彼に好かれる理由なんて全く思いつかない。
性格はわりと自分勝手だし、今は我慢してるけど…本当は相当甘えた女だし。
彼がしっかり距離を保ってくれているから、私も暴走しないで済んでいる。
もっと、もっと榎さんを好きになって、私の嫌な部分とかも見えてしまったらどうなるんだろう。
何年も見ていてくれたといっても、それは職場での表面的な私だ。

臆病になってる。

この恋だけは失いたくないって…すごく怖い気持ちが強くなってる。

スローテンポだけど、確実に暖かい関係を築きたいな。
手をつなぐ関係だけで何ヶ月過ぎたっていい。
特別ロマンチックな事をしなくたって、公園のベンチでボウッとしてたっていい。
彼の優しい声が聞こえる環境で、ゆったり過ごせていたら…それだけで幸せな気がする。

                          *

2週間という時間は、思ったよりずっと長かった。
こういう時に限って仕事が暇で、余計色々考えてしまう。
とにかく雑念を払う為に、私は職場で時間が余ると英語の勉強をさせてもらっていた。
会社側としても、英語を習得してくれるのは戦力になるからっていう事で、勉強タイムを許してくれる。

「中田さんが英語を習得したら、色々手伝ってもらえる事が増えるから嬉しいね」
勉強をしているところを見られているから、外からのプレッシャーもかかる。
中学から習ってきているのに、全く身についてない英語っていう分野はずっと苦手だった。
だから、ちょこっと勉強したところで仕事に通用するはずがない。
使える人間になるまでには、かなり時間がかかりそうだ。
でも、これが榎さんを少しはサポートする役に立つなら、頑張ろうと思える。


榎さんはやはり忙しいみたいで、携帯が鳴る事はなかった。
私も、彼の行っているアメリカ時間がいったい何時なのか分からなくて、電話するタイミングが見つからなかった。

1週間。
ようやく1週間経った。
1ヶ月も経ったような気分でアパートに戻ると、ポストに絵葉書が一枚届いていた。
「榎さんだ!」
社員名簿でも見たんだろうか、ちゃんと私のアパートの住所が書かれていて、自由の女神の写った葉書が私宛てに届いた。

“中田 美羽 様

元気に過ごしてますか?
こちらはやはり日本より寒いですね。
アメリカはどうしても食事が合わないので、早く日本に戻りたいと思ってしまいます。
でも、マンハッタンの夜景はそれは綺麗で、あなたをいつかここに連れてきてあげたいと思いました。
あと少しで戻れる予定ですので、もうしばらく待っていてください。
再会楽しみにしています。

榎 幸生“


「榎さん!!」
この葉書は、間違いなく私だけに宛てて書かれたものだ。
夜景を見せてあげたいと書いてくれている。
私の勝手な思い込みでなければ、榎さんは、やっぱり私を特別に思ってくれている気がする。

嬉しくて、私は葉書を胸に当てたままポスト前で、しばらく立ちつくしていた。

そういえば、彼の名前は幸生というんだった…とか思ったりして。
もしお付き合いするようになったら、「ゆきおさん」とか呼ぶんだろうか。

うわ、恥ずかしい!!

名前を呼ぶ自分を想像しただけで、顔が赤くなるのが分かる。
本当に…私は29歳なんだろうか。
こんな気持ち、親しい友達にだって言えない。恥ずかしくて。

だいたい、榎さんだって40歳とは思えないほど奥手な人だ。
どんな恋愛をしてきたんだろう。
あの顔と体をそのまま10年若くしただけでも、相当魅力的な感じがする。

噂で聞いたけど、彼が20代の頃はファンクラブまで出来ていたという。
かなりの女性からアプローチされていたのに、彼は職場とは関係の無い社外の人と長く付き合っていたらしい。
何が原因で別れる事になったのか…そこまでは当然誰も知らない。
30代に入ってからは仕事が激的に忙しくなり、多分のんきに恋愛をしている暇はなかったんじゃないかという勝手な推測が社内ではささやかれている。

で…彼が言ってくれた言葉をそのまま信じるとすると、30代の途中から私をいいなと思ってくれていたという事だ。
榎さんの性格を考えると、10歳以上も年齢の離れている私に積極的になるのは相当ためらったんだろう。私も、もしかしたら今のタイミングだからこそ彼を好きになったのかもしれない。

運命の人?

こうやって女っていうのは、何でも”運命”のせいにするのが好きだ。
特に私は妄想癖があるから、ついつい色んなものに意味付けをしようとしてしまう。
今まで失恋してきた事も、全て今現在愛する人に出会う為だった…みたいな考え方をする。

葉書1枚で、私の妄想がどこまで広がったのか…それは内緒だ。

あと少し。
あと少しで榎さんと再会出来る。
会わない時間が1週間も開いたというのに、ドキドキは全く治まる気配が無くて、私の心に焼きついている彼の笑顔や仕事中の真剣な顔が浮かんでは消える。

会いたい…早く会いたい。
強い気持ちでそう思いながら、私は彼が送ってくれた葉書を枕の下に入れて眠った。


*** INDEX ☆ NEXT ***

inserted by FC2 system