シンプル
2−3 思いがけず
職場では29歳の女をきちんと演じておかなくてはいけない。
昨日見せた情けない顔はしていられない。
そう思って、私は気持ちを切り替えて仕事に出た。
思えば、私は榎さんが出張が早まった事より、飯塚さんにも同じお土産を買ってきていた彼の気持ちの方が気になっていて。
でも、「私と飯塚さんは同列なんですか」なんて馬鹿な質問は出来ないし、せっかくの好意を台無しにしてしまう気がして、どうやって自分の中で消化しようかと思っている。
「おはようございます」
会社に入る手前の道で、榎さんが声をかけてきた。
「あ、おはようございます」
いつもは9時出勤の彼が今日に限って私と同じ8時半出勤なんて、めずらしい。
明日からの移動の準備で仕事が多いんだろうか。
何か力になってあげたいけど、私の実力では彼をフォローできる事はほとんど無い。
無言のまま一緒に社内に入り、私はいつも通り階段を使って3階のフロアに上がる。
エレベータを使っていいのは重いものを運ぶ時だけだ。
当然管理職の課長は乗ってもいい人なんだけど、何故か彼も私と一緒に階段を上がりはじめた。
「榎さん、エレベータお使いにならないんですか?」
「エレベータですか?ああ…あれはめったに使わないですね。何で管理職だけエレベータ使用許可になってるのか疑問です。年をとるほど運動が必要なんですから、本来なら全員階段っていうのが正解で、具合が悪いとか、怪我をしているとか…そういう理由の人がエレベータを使うべきだと思いますね」
そう言って、彼は私よりやや早めの速度で階段を上がっていく。
私は榎さん独特の考え方に納得して、黙ってその後ろに続いた。
「中田さん」
階段を上る足をぴたっと止めて、榎さんが私の方を振り返った。
「はい…どうしましたか?」
「昨日は申し訳ありませんでしたね」
夜の電話で様子がおかしかったのを気にしてくれているみたいだ。
謝られたりすると、何だか自分が本当に子供じみていたな…と恥ずかしくなる。
何か口にするとまた誤解されてしまうかもしれないと思って、うまく言葉が出てこない。
「今夜、時間ありますか?」
「え?」
「今夜。一緒に夕飯を…と思ってるんですが」
榎さんの顔が、少しだけ緊張しているように見える。
忙しいのに、出張前の貴重な時間を私に少し分けてくれると言ってくれているのだ。
「はい、嬉しいです」
私が笑顔でそう答えると榎さんはホッとした表情になり、少し顔を緩ませた。
「では、今日は僕が中田さんをエスコートしますから。また少しだけ休憩室で待っていただいてもかまいませんか」
「ええ、もちろんです」
思いがけず、榎さんと二人の時間が持てる事になった。
それに、あまり会社では表情を変える事のない彼が、私を誘うのに少し緊張していたのが分かって、何だか新鮮な気分だった。
2週間会えないと覚悟していただけに、その日の夜に少しでも彼と一緒の時間を過ごせるというのは言い表せない幸せを感じる。
*
仕事の時間は、朝交わした会話が嘘のように私達はまた上司と部下という図になっていた。
出張前の仕事を残してしまわないように、彼はきびきびと仕事をしている。
面白い男の人がいいなんて思っていたけど、こうやって真剣に仕事に向かっている榎さんを見ていると、それだけで「素敵」と思っている自分がいた。
私、実は今まで本当に恋した事が無かったんだろうか。
学生の頃から数人の男性と付き合ったけど、どの人に対しても今榎さんに感じているような“痛くて苦しい”という気持ちはほとんど抱いた事がない。
デートの日はどこへ出かけようかなって思うのが楽しかった。
会えない日は、それはそれで自分の時間が持てるからといって好きな事をやっていたし。
榎さんと一緒の私はまるで別人だ。
どこに行きたいっていうのは2の次で、とにかく一緒にいる事が嬉しい。
毎日でも会いたいと思ってしまうし、今回のように長期で会えないのが分かってしまうと、猛烈に寂しい。
やっぱり、私は榎さんに本気で惚れてしまったんだな。
そんな自分の気持ちを再確認したりして、その日の仕事を終えた。
6時を過ぎると、休憩室を使う人はほとんどいない。
私は手帳に落書きなんかをして榎さんが来るのを心待ちにしていた。
ガチャっとドアが開いて、私は当然それは榎さんだろうと思って顔を上げた。
「あれ、中田。まだいたの」
そう言って入ってきたのは、同期入社の小林くんだった。
「なんだ…小林くんか」
「なんだって事ないだろ?俺が入ってきたら何かまずかったか?」
そうぼやきながら、彼は缶コーヒーを買っていた。
残業の前の一服って感じだろうか。
「ううん、別に」
目線を落として、私はまた落書きをはじめた。
すると、すぐに出て行くかと思った小林くんが私の真向かいに座った。
「誰か待ってんの?」
プルタブをカシュッと開けて、どう見ても残ってる意味のなさそうな私にそう聞いてきた。
「あ、うん。ちょっとね」
内緒にする事も無いのかもしれないけど、やっぱり榎課長を個人的に待っているというのを知られるのは、まずいような気がした。
「なあ、今度飲み会しようぜ。俺達が幹事やってさ、出会いの場を広げない?」
「エー…幹事?めんどくさいよ」
私は合コンというのには、正直疲れていた。
20代前半の頃はそういうのも嫌じゃなかったけど、親しくも無い人が集まったって盛り上がるわけがないんだよね…と、最近は思っている。
「中田…枯れてるな、お前」
「余計なお世話です。私だって、ちゃんと恋愛してるんだから。心配ご無用!」
とっさに私はそんな口答えをしていた。
「え、恋愛?相手いるの?」
小林くんは失礼にも、かなり驚いている。
私がいつまでたっても結婚する気配が無いのを見て、相手がいないんだろうと思っているみたいだ。
「えっと…まあ。それなりに」
「え、誰?」
「それは…ちょっとここでは言えないかな」
「何だよ、気になる言い方だなあ」
そこまで会話したところで、今度こそ榎課長が入ってきた。
「あ、お疲れ様です」
小林くんは急に緊張した顔をして、榎さんにおじぎをした。
「お疲れ様。話中だった?」
榎さんが私達を見てちょっと遠慮するような様子を見せた。
「いえ、雑談してただけです。すぐ準備しますね」
私は手帳を片付けて、そそくさと出かける支度をした。
その様子を見ていて、小林くんは『うそだろー?相手って課長かよ!?』という顔をしている。
「じゃあ、僕は先に玄関先で待ってますから」
そう言って、榎さんは先に休憩室を出て行ってしまった。
小林くんに私と待ち合わせしていたのを見られたのが恥ずかしかったんだろうか。
「おいおい…中田。まさかだよな?」
私が休憩室を出ようとしたところで何故か腕をつかまれ、小林君に本気でそんな事を聞かれた。
「え、何が?」
「今のだよ。榎課長とお前…付き合ってんの?」
「小林くんには関係ないでしょ。手を離して、急いでるんだから」
すると小林君は黙って手を離し、軽くショックを受けた顔をした。
「会社の他の人には内緒にしてね」
「言えるかよ、こんな事」
そう言い残し、私より先に小林くんの方が出て行ってしまった。
何であんなに怒った顔をしていたのか、良く分からない。
榎さんと交際するのが、そんなにまずい事なのかな…。
上司って言っても彼は独身だし、付き合うのに全く問題は無いと思うんだけど。
*
真っ暗な中、前回私が案内したお店がある方向とは別の方に向かって、私達は歩いた。
今日は榎さんの知っているお店だから、私は彼の後ろにくっついていればいいんだ。
そう思って、私は黙って榎さんの後ろを歩いた。
「多く時間がとれないので、申し訳ないですが」
そんな事を言って、彼は私を振り返った。
「いえ。数分でもいいんです、こうやって一緒に歩いているだけでも嬉しいです」
「そう言っていただけると、ホッとしますね」
また前を向きなおって、歩調を私に合わせるように歩いている榎さんの後ろ姿。
やっぱり素敵だな…。
黙って歩く彼の手を、思わず握ってみたくなる。
ちゃんとお付き合いもしてないんだし…そんな事出来るはずもないんだけど。
「あっ!」
ぼんやりと榎さんの後姿ばかり見ていたから、私は目の前にあった道路の段差に気付かないで、つまづいてしまった。
思わず榎さんの背中にぶつかって、そのままよろっと倒れそうになった。
「中田さん!」
とっさに彼の手が私の腕をつかんでくれたから、完全に転ぶのを避けられた。
「すみません。ボーっとしてしまって」
「大丈夫ですか?暗いですからね、足元注意してください」
すごく恥ずかしい場面を見せてしまった。
私っていつもこんな感じなのだ。いいところを見せようとしたって、どこかでボロが出るっていうか…とにかくカッコよくは生きられないタイプだ。
「まだ少し歩きますから…よろしければ僕の腕につかまってください」
「はい、ありがとうございます」
私は足元が危ないんだというのを理由に、榎さんの腕につかまる事にした。
ドキドキして、心臓は限界に近いほど脈打っていたけど、私は思い切って彼の左腕に腕を絡ませた。
すると、榎さんがビックリして立ち止まった。
「え、どうしました?」
「あの、そういう腕の組み方は…非常に恥ずかしいんですが」
私が図々しく恋人みたいな腕の組み方をしてしまったが為に、榎さんに引かれてしまった。
後で知ったんだけど、こういう腕の組み方をすると女性の胸が腕に当たってしまうらしくて…それが榎さんにとっては非常に恥ずかしい事だったみたいだ。
「す、すみません!」
慌てて腕を離す。
じゃあ普通にスーツのすそでもつかんでればいいのかなと思って、彼のスーツの袖の部分をちょこっと掴んで歩いた。
「中田さん、手をもう一度離してもらえますか?」
え、これも駄目!?
私はもうどうしていいのか分からなくて、手を離して立ち止まった。
すると、彼の大きな暖かい手が私の右手をそっと握った。
「これで歩きましょう」
「は、はい」
ドキドキ…。また心臓が早く動き出した。
榎さんの手が、私の手を握っている。
私達、手をつないでる。
真っ暗だから、お互いどういう顔をしているのか分からないけど…きっと二人とも照れた表情になっているに違いない。
何でだろう。
好きな人の手の温もりを感じるだけで、涙が出そうなほど嬉しい。
言葉も必要なくて、黙っているだけなのに…いつまでもこうして歩いていたい感じがする。
そう思っていたら、知らないうちに私の目から本当に涙が出てきてしまった。
暗闇の中でも、私の涙がポトポトと落ちる光が見えたみたいで、榎さんが驚いて私の顔を覗きこんだ。
「どうしました?何か…失礼な事ありましたか?」
「いえ。嬉しくて。榎さんと手をつないでるだけで…幸せで。勝手に涙が出ちゃうんです」
「……」
私が子供みたいにメソメソしているから、彼に呆れられるかなと思ってちょっと後悔した。
でも榎さんはそんな私を笑ったりしなくて、握っていた手にぎゅっと力をこめてくれた。
「出張から戻ったら、必ず夜景を見ましょう。最高に綺麗なロケーションを見つけておきますから」
「ありがとうございます」
こんなスローモーションな感じで、私達の関係はほんの少し近付いた。
ちゃんと口には出してないけど、お互い相手に好意があるのは伝わっているはずだ。
次に待っている夜景デート…そこで、私は榎さんに自分の心をちゃんと言いたいと思った。言ってもらおうと思ってたけど、待ってるばかりではやはり駄目だ。
短いけど、なかなか口にできない言葉。
『あなたが好きです』
言えるかな…私に。
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