シンプル
2−2 仕方ない
榎さんに会えると思うと、日々の仕事にも熱が入った。
何ていうか…全てがキラキラして見える。
電話応対もいつもより丁寧になっている気がするし、大量の面倒な仕事を頼まれても笑顔で返事の出来る余裕がある。
「中田さん、いつもに増して愛想がいいね」
仕事を頼んできた人にそんな事を言われる。
「絶好調なんですよ。今のうちに、どんどん仕事くださいね」
「それは頼もしい。じゃあ、これもよろしく」
ドサッと大量の資料が置かれる。
こんなの普段の私なら来週までかかるかもって感じだけど、今の私ならきっと明日中には終わらせてしまえそうだ。
時々榎さんをちらっと見る。
いつも通りの真剣な顔だ。
来週水曜日から海外出張の予定で、2週間は顔が見られなくなる。
他の上司と違って、彼は偉そうに命令したり無茶な注文をつけたりしないから、出張で席に彼がいないと寂しがる人が多い。
「あ、出張される前に聞いておけばよかった!」
そう言って、悔しがる人も出るぐらいだ。
どんな事も丁寧に教えてくれる人って事で、男性社員からの人気も高い。
あまり難しい事を下に流すのは得意じゃないみたいで、可能な限り自分の手で作業を済ませてしまう。
私が受け持つ彼からの仕事も決して多くなくて、逆に申し訳ないぐらい少ない。
もし、私が英語が得意だったら…飯塚さんにまわっている仕事を少しはお手伝いできるのかもしれないなあと思って、今更ながら英語の勉強を自主的に始めている。
「海外に行くのに自分では買わないけどもらったら嬉しいものって何でしょうかね」
ランチの時、一緒になった少し年上の先輩にこんな事を聞いてみた。
彼は榎さんとは別の仕事をしている人だけど、海外出張は同じように時々入っている様子だ。
こんな事聞いたら私の裏心がバレるだろうかと心配したけど、そういう様子はない。
「もらったら嬉しいもの?何だろう…。長距離の移動だと退屈だから面白い単行本とかあるといいかな。その日の為にわざわざ本を買ったりはしないけどね」
「そうですか。本…」
これは個人の好みが相当入ってしまうジャンルだ。
榎さんがどういう本を読むのか…しかも読書が本当に好きなのかも分からない。
あまり値段が張ると遠慮してしまいそうだし、意味が深そうなものを送るのも失礼な気がしてなかなか決まらない。
土曜日にそれとなく趣味の事とか、好みのものを聞き出したほうがいいかも。
そんな事を思って、ますます土曜日に対する期待が高まっていた。
木曜日。
あと1日仕事を頑張れば榎さんとのデートが待っている。
気持ちは相当浮ついていたけど、それが外からは見えないよう仕事をもくもくとこなす私。
逆にいつもより真剣に頑張ってるから、不思議そうにしている人もいる。
そんな感じでウキウキしていると、仕事中なのにめずらしく榎さんから携帯にメールが入った。
彼は今日打ち合わせの為に外勤していて、帰るのは夕方か直帰か…という感じだ。
夜に「おやすみなさい」ぐらいのメールは交換していたけど、昼に…しかも仕事中にっていうのは初めてだ。
どうしたんだろう。
嬉しいような、ちょっと怖いような。
携帯を開いてみて、軽く目の前が暗くなるのを感じた。
『突然すみません。打ち合わせの流れと海外での会議の時間が変更になりました。移動するのが土曜日になりそうです。お約束していたのに、申し訳ありません。また改めて夜に電話します』
「……」
仕事だもの。
忙しい人だもの。
仕方ないよ。こんなすぐに連絡くれたのを見ると、榎さんだって好きで日程変更したわけではないんだし…デートならまた彼が帰ってからゆっくりできるよ。
自分に色々慰めの言葉をかけてみるんだけど、私の「やる気ボルテージ」は完全に下降線をたどっていた。
「中田さん…顔色悪いよ?」
そう言われてしまうほど、私の心のダメージは大きかった。
情け無い。
好きな人との初デートが駄目になったからって、こんなに落ち込むなんて…いい大人として恥ずかしい。
でも、今私をちょっとでも刺激すれば、多分簡単に涙が溢れるだろう。
それぐらい、心の膜がヨワヨワになっているのが自分でも分かる。
土曜日から移動って事は、そこから2週間彼とは会えない。
顔が見られるのは明日だけ…?
しかも、出張準備で忙しいだろうから、きちんとお話をする事もできないかもしれない。
一人で妄想していた二人の時間が、目の前でフッと消えた。
『お仕事お疲れ様です。急な出張日の変更、大変ですね。私の事は気にしないで下さい。またの機会を楽しみにしています』
トイレに入って、何分もかけてこのメールを打った。
榎さんに私のショックを悟られてはいけない。
気を使って、彼が私に「申し訳ない」って思わせないようにしないと。
仕事でろくなフォローが出来ていないんだから、こういう時こそ彼の為にきちんとしていなければ。
会えないのが悲しくてトイレで少しだけ泣いたというのは、当たり前だけど絶対秘密だ。
涙をふいて、深呼吸を繰り返す。
気持ちを切り替えないと。
2週間後に榎さんが帰ったらきっと約束の夜景を見に行けるんだから。
こんな事を思っていたら、飯塚さんが化粧ポーチを持って入って来た。
「おつかれさまです」
「あ、おつかれさまです」
危なかった。
もう少しで私が泣いているのを見られるところだった。
私は慌てて携帯をポケットにしまい、最後に軽く手を洗って化粧室を出ようとした。
「あ…」
私は飯塚さんが大きめのポーチから取り出したものを見て、動きが止まった。
「どうしました?」
「あの…その手鏡」
彼女が手にしているのは、よーじやのポーチセットに入っていた赤い小さな手鏡と同じものだった。
まさかと思うけど、榎さんは私以外の人にもこれを買ったんだろうか。
「あ、これですか?前回榎課長が京都に出張された時に買ってきてくれたんですよ。いつもは同行してるんですが、この時はちょっと私も別件で忙しかったので」
「そうなんですか」
私は頑張って元気に振舞おうとしたけど、落ち込む声はどうにもならなかった。
「中田さんももらったんですか?」
「あ、はい」
何となく飯塚さんの方もショックを受けているように見えた。
お互いにお土産は自分だけもらったんだと信じていた節がある。
「私が何かお土産お願いしますね…なんて頼んだから。課長は本気にして買ってきてくれたんだと思います。本当にとことん真面目ですからね、あの人」
“あの人”と言った飯塚さんの言葉のニュアンスに、やけに親しげな…私の入っていけない二人の世界がある感じがして、ズキっと胸が痛くなった。
「そうですね。あ、じゃあ私戻ります」
早々に話しを切り上げて、私は化粧室から逃げるように自分の机に戻った。
にわかに、榎課長はどれぐらいの気持ちで私の事を思ってくれているのか不安になった。
長いこと一緒に仕事をしている飯塚さんの事は、恐らく仕事のパートナーという意味で大事にしているんだろう。
私も一応彼の部下だし、そういう意味でも大事に思ってくれているのは確かだと思う。
でも…私が告白を断っても、全く動揺する気配もなかった。
単に彼が大人だからそうなのかと思っていたけど、もしかしてそれほど深くは思ってなかったのだろうか。
だいたい、数年「いいな」と思う気持ちを抑えていられたというのも、気持ちが浅かった証拠なのではないだろうか。
私のネガティブ思考は爆走を始めていた。
デートが駄目になった事に加えて、お土産が私だけのものではなかった事も必要以上にダメージを与えてくる。
明日榎さんに会って、「行ってらっしゃい」と気分良く言葉を告げられるだろうか。
今の状態では、そんな事全く不可能な感じがする。
*
その日の夜、約束通り榎さんから電話が入った。
「はい…中田です」
「榎です。こんばんは」
「こんばんは、お疲れ様です」
なるべく話は短くしようと思っていて、私は自分からは話題をふらないことにしようと思っていた。
「今日は突然メールしたので驚かれたかもしれないですが、本当にすみません。自分から提案した事なのに、急に駄目になってしまって」
「いえ、お忙しいんですから。仕方ありません」
私の声に抑揚が無くなっているのに彼も気付いたみたいだ。
「中田さん…気分を悪くしてますか」
「いえ、そんな事ありません」
ここですねたり泣いたりしたら、子供と同じだ。
物事は自分の好むように進まないものだと、30年近く生きてきて少しは分かっているつもりだ。
その中でも恋愛に関しては特に自分の頑張りとは関係の無い力で左右される事も知っている。
でも、今は余裕が無いんです。
早く電話を切りたい…榎さん、もうおやすみなさいって言って下さい!
こんなふうに私は心の中で叫んでいた。
でも榎さんは、すぐにおやすみなさいとは言わなかった。
「早く終われば2週後の週末には戻れますから、お約束はその時にきっと…」
そんな「義理」みたいな言い方しないで。
もっと心を伝えてくれないと、いくら言葉を重ねてもつらいだけ。
本当は今すぐにでも飛んで行って会いたい…ぐらいの気持ちを私は聞きたいんです。
こういうセリフは女性に慣れた人ほどスラスラ出てくるものだけど、榎さんはやっぱり不器用らしくて、真面目に私との約束をフォローしようとしている。
分かってる。
榎さんは狙わない場所で突然殺人的な言葉は出るけど、狙ったわざとらしい甘い言葉は出ない人だ。
「気にしないで下さいよ、本当に。2週間ぐらいアッという間です。私、待ってますから」
精一杯の元気をふりしぼって、私はそう言った。
「じゃあ、お忙しいでしょうから。切りますね、おやすみなさい」
これ以上通話を続けたら、何か自分勝手な気持ちを彼にぶつけてしまいそうだった。
強引なぐらいの調子で電話を切り、私はそのまま誰にも見られる心配の無い自分の部屋でメソメソと気が済むまで泣いた。
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