シンプル

1−5 伝えたい、伝わらない

榎さんは彼が言ってくれた通り、私をアパートまで送ってくれた。
彼の住んでいるマンションを聞いたら、どう考えてもここから1時間以上はかかる場所だった。
絶対終電は無くなるに違いない。
「ごめんなさい。こんなに遅くなるなんて、逆に迷惑かけてしまいました」
私はアパート前でしょんぼり俯いた。
気にしなくていいと言われたけど、やっぱり自分が誘った食事で随分彼にお金を出させてしまっている感じがした。
「中田さん、もしかしてすごく僕に気を使って疲れてるんじゃないですか?」
「え?」
「仕事を離れれば、職場の上司だという事は忘れていただいてよかったんですが。きっと、あなたの事だから、気疲れしているかもしれませんね」

私の思いが全て裏目に出ている。
いつもの私ならもう少し甘え上手なのに、さすがに榎さんの前では気軽に甘えられない。
上司だから…っていう条件を除いても、今の私には最も話す事に緊張を覚える人だ。

この心理状態が「恋」のせいだ…という事には、当然気付いてはもらえないだろう。

「明日の仕事にさしつかえないよう、ちゃんと寝て下さいね。今日はありがとう、おやすみ」
私を最後まで気遣う言葉を残して、榎さんは今歩いて来た道を引き返して行った。

私はしばらく黙って彼の後ろ姿を見ていたけれど、とっさに走り出していた。

「榎さん!待って下さい」
暗闇に消えそうだった彼の姿がぴたりと止まる。
「中田さん?」
振り返った榎さんの表情は哀愁を帯びていて、私はたまらなくなった。
彼の目の前まで走り寄り、少し呼吸を整える。

「私…、榎さんの事が気になってるんです」
思っている言葉をそのまま口にした。
榎さんは黙って私の言う事を聞いている。
「先週失礼な言葉を言ったのを後悔してまして…それで、今日はちゃんとお詫びがしたいなって思ってたんですけど。なかなかうまく言葉にならなくて」
言い訳じみた言葉を色々並べたけれど、何だかどれも自分の言葉じゃない感じがした。

緊張で頭に血がのぼった状態で、私は榎さんの目の前で仁王立ちしていた。
そんな私の頭に大きな手をポンポンと乗せて、榎さんはニコッと微笑んだ。
「すみません。先週僕が言った言葉で、中田さんを混乱させてしまったみたいですね。君はまだまだ若いし、素敵な相手がいるだろうと思ったんですが…数年抱えていた気持ちでしたから…」

榎さんが、私の事を数年も思ってくれていた…?
信じられない思いで彼の顔を見上げる。
やっぱりいつもの真面目な榎課長の顔だ。冗談は言っていない。

数年黙ってるなんて、どれだけ気の長い人なんだろう。
私は気が長くないから、好きだと思えば即行動を起こしてしまいそうなんだけれど。
榎さんは、女性を自分のものにしようとか…そういう独占欲が薄い人なのかな。
蕎麦が飽きないと言っていたから、人間に対しても一度好感を持つと長いとか…そういう感じなんだろうか。

ほんの数秒の間に私はこんなに色々な事を考えていた。
榎さんは、さらに言葉を付け足した。
「上司だからとか、好かれたから応えなければとか。そういう事は思わなくていいんですよ。僕は自然体の中田さんがいいなと思っているのですから」
「榎さん…違いますよ。そういう事じゃないんです」
何と言っていいのか分からなくて、涙が出そうだ。
自分で、自分の心をどう表現していいのか分からない。

確かに告白されたから気になってしまったのは間違いない。
それに、上司だから余計意識してしまったというのも否定できない。

でも…でも、今私が抱えている、このドキドキする感情は恋ではないのですか?

恋は、理屈ではないですよね。
お見合いしたからってうまくいくわけでも無いし、結婚相談所で全ての条件をクリアしているからといって好きになれるかどうか分からないし。
人間の心ってすごく複雑に見えるけれど、恋愛感情を抱くかどうかというのは、すごくシンプルな事みたいで…それを私は今実感してるんです。

きっかけは単純な事。
本当に、全ての恋愛が千差万別の色を持っているように、好きになる瞬間というのも様々で。
私は榎さんに告白をされたのがきっかけで、その存在と魅力に改めて気付かされたんです。


心の中ではこんなに理屈が出来上がっているのに、結局私は榎さんに好意があるという事を伝える事が出来なかった。

もっと一緒にいたい。

私が求めているのはただ、これだけなのだ。
今、私が榎さんに求めているのは、“面白い話”でもないし“甘いささやき”でもない。
できるだけ長く彼の傍にいたい。
彼の存在を肩で感じているだけでいいの。

私は本当に、あと少しで感極まって泣きそうになっていた。
すると榎さんは、なだめ透かすように私の頭を優しく撫でてくれた。

「中田さんが部屋に入るのを見届けてますよ。さあ、もう遅いからお帰りなさい」
彼は年上らしい言葉で私をアパートに帰るように言った。
「はい。おやすみなさい…」
頭でごちゃごちゃ考えた事を何一つ告げられずに、私はアパートの方向に歩き出した。
「おやすみ」
後ろで榎さんの低い魅力的な声が聞こえた。

これでいいの、美羽?
このままだと、榎さんの存在は今までよりもっと遠くになってしまうかもしれないよ。
私を諦めて別の恋人を作るかもしれないよ。

もう一人の自分が、自分を叱り飛ばしている。
私は榎さんの方を振り返り、思いきって一つだけ気持ちを言葉にした。

「課長、またお誘いしていいですか?」

今の私に言える、精一杯の積極的な言葉だった。
次につなげる橋を彼の心に架けておきたかった。

榎課長は一つ大きく頷いて、右手を軽く上にあげた。
その反応を見て、私は少し救われた気分になり、思わず笑顔になった。

恋人同士になるには、私達はあまりにも年齢も心も離れた場所にありすぎる。
これから少しずつお互いを知る事で、もしかしたら私は榎さんの隣にいるのに相応しい女になれるかもしれない。

もう一度。
もう一度、彼の口から告白の言葉を聞きたい。
その時こそ、私は迷いなく彼の心を受け止められるはずだ。

だから、今度は一緒に休日を過ごしませんか?
私は次の誘い文句を考えながら、最後にもう一度だけ榎さんに向かって頭を下げた。


*** INDEX***


ジレジレな大人です…。
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