シンプル

1−3 お誘い

榎さんが言った通り…月曜日、彼は出張だった。
パソコンのメールに、水曜日までの詳細な日程が届いていた。
丁寧で親切な文章。
いつも通りなのに、その文字のどこかに少し親しみが出てないか探してしまう。
「きちんと日程だけ書かれている…」
当たり前の事だけど、ちょっと寂しい。
水曜日の午後に戻って来るから、今日と明日は顔を見られない。

榎さんは出張が非常に多く、週に1回の国内出張と、半年に1回2週間以上の海外出張が入る。
英語も堪能らしく、様々な方面で活躍しているようだ。
会社で使う製品や道具は海外から輸入しているものが多く、そのマニュアルを翻訳する仕事をする人がいるんだけれど、その人が彼の出張についていく事が多い。
飯塚早苗(いいづかさなえ)という、理知的な女性だ。
年齢は31だったか、2だったか…それぐらいだ。
榎さんのサポート暦も長く、二人の関係はずっと怪しまれていた。

「だいたいさ、いい年齢の男女が出張の度に行動を一緒にしてたら、何か生まれない方がおかしいよね」
もう結婚して子供もいる石原さんは、化粧室での雑談でよくこの話題を出す。
それまで私は何となく「そうかもしれませんよね」「お似合いかもしれませんね」なんて相槌を打っていた。
でも、今日はそういう相槌を打つ気にはとてもなれなかった。
「それぞれ仕事中心の人達だから、そういう次元超えてるんじゃないですかね」
こんな事を言ってしまった。
でも、実際数年仕事を一緒にやっていて特に進展が無いという事は、少なくとも課長は飯塚さんをどうこうは思って無いような気がする。
「そうかしら。うーん、結婚して恋とかから離れてしまうと、身近な人のロマンスが気になってしまうのよね。飯塚さんは多分課長の事を気にしているはずなのよ」
私が適当に話を切り上げようとしているっていうのに、石原さんはまだ二人のロマンスを語る。
飯塚さんが課長を気にしているなんて、誰が見ても分かってますけど。
でも…私はあえてそれを口にしないでおきたかった。
良く分からないけど、今日と明日の自分が非常に苦しくなる予感がした。

何で私は榎さんの真面目な告白を笑ったりしたんだろう。
ひどく失礼だった気がして、後悔で胸がギュウっと痛くなる。
携帯には坂本くんから、次の約束をどうしようかという内容のメールが届いていた。
申し訳ないけれど…近いうちに会いたい感じがしない。
やっぱり最初の日に恋愛感情の破片でも感じてなければ、先は続けられないんだろうか。
今の自分の気持ちに正直になるとすると…せっかく紹介してくれた理恵にも悪いけど、坂本くんとは男女の付き合いは出来ないかもしれない。

でも、すごく気を使ってメールを打ったんだなと分かる文章を見ていると、すぐに断りのメールを入れる勇気も出なかった。
もしかしたら、今日と明日で榎さんから遠ざかる事で気持ちがまた変化するかもしれない。
そう思って、私はとりあえず坂本くんには「予定が分からないから、また連絡します」とだけ返信した。

                            *

月曜日はどうにか心を無にして仕事をした。
でも、火曜日になると早く明日にならないかという焦燥感に駆られるようになった。
何度時計を見ても5分ずつぐらいしか進まない。
「はぁ…」
資料のリスト作りをしながら、無意識にため息が出る。
「どうしたんだい、中田さん」
部長の机まで私のため息は聞こえていたらしい。
まるで仕事がつまらない…みたいな態度に見えたんだろうか。
「いえ、何でもありません。ちょっと肩が凝ったかなって思って…少し休憩いただきますね」
なんてその場限りの苦しい言い訳をして、私は席を立った。

休憩室でコーヒーでも飲もう。
そう思って自動販売機を眺める。
榎さんの好きな『グリーン茶』が品切れになっている。
早く追加してあげないと、明日彼が飲みたいと思った時に買えないじゃない。

結局考えてしまうのは榎さんの事だ。
もう自分で認めてしまった方がいいような気がしてきた。
私はどこまでの気持ちなのかは不明だけど、明らかに榎さんを異性として意識している。

でも、榎さんは思った以上に自分の心をコントロールできる大人だなと思った。
だいたい、部下に直接「付き合ってください」と言うには、彼なりに相当考えた末の事だったに違いない。
なのに「冗談ですよね」なんて言われて。
それが断りの言葉だと解釈しても、全く傷ついた表情を見せずに「笑顔が素敵ですね」と言った。
自分が逆の立場だったら、もう会社に行くのも嫌なぐらい傷つくに違いない。
次の日に電車で顔を見たからって「こんばんは」なんて声はかけられない…絶対に。

あれが大人の男の余裕なんだろうか。
堅物に見えるけど、何せ40歳で魅惑的な男オーラを出している人だ。
当然何人かの女性とは付き合ってきたに違いない。
それでも、彼が結婚してもいいと思える人には今まで巡り会っていないという事だ。

そんなセクシー度万歳の榎さんが、どうして私に付き合って欲しいなんて言ったのか。
やっぱり分からない。
でも…ここまで気になるんだから、私からもう一度彼に接近してみるしかないような気がする。
土曜日の電車での様子を見ていると、もう榎さんから私を誘う事は無さそうだ。

                       *

結局、水曜の午前まで私はモンモンと榎さんが戻るのを待っていた。
そしてとうとう水曜日のお昼。
ごはんもそこそこにしてオフィスに戻ると、今戻ったばかり…という様子の榎さんが机の上を整理していた。

「あの…課長、お疲れ様でした」
私は自分の席に戻りながら、そう声をかけた。
昼ごはんに出ていて、他の社員は誰もいない。つまり、二人きりだ。

「中田さん。お疲れ様」
それだけ言って、彼はまた下を向いて作業を続けている。
やっぱり、こんな二人きりのシチュエーションでも雑談なんかする人ではないんだ。
分かっていたけど、私は多少強引にさらに声をかけた。
「出張いかがでしたか?結構寒くなってきましたし、体調とか大丈夫でした?」
すると、榎さんはフッと顔を上げて何か思い出したように床に置いてあったカバンを開けた。
そして、中から何か紙包みを出して私に手渡す為に少しだけこっちに歩いてきた。
「これ、中田さんへのお土産です」
「え、私に?」
彼は職場用に大きなお菓子は買ってくるけど、女性に個人的なお土産を買ってきた事は一度も無い。
なのに今回は、私だけに…私の為にお土産を買ってきてくれた。
何だか嬉しくなって、すぐにその紙袋を開けてみた。
「あ、ようじやのポーチセットですね!」
出張先は京都だった。
個人で旅行に行った時、私はこの“ようじや”で油とり紙を買った。
でも、ポーチセットは高かったから諦めたのを覚えている。
それが思わぬかたちで自分の手の中に…。

「嬉しいです。ありがとうございます!」
私は本当に感激してしまい、これを買う為にあの女性ばかりのお店の中に彼が入ってくれたのかと思うだけで涙が出そうになっていた。
「喜んでいただけて良かった。京都は素敵なものがたくさんあるので、お土産を一つ絞るとなると迷いますよね」
榎さんはそう言って、また自分の机に戻った。

これは…期待していいのかな。
今から私が彼を食事とかに誘ってもNGにならないかな。

「榎課長!」
私が結構な緊張ぶりで彼を呼んだから、書類をまとめていた手が止まった。
「…どうかしましたか?」
私の気迫に、彼もやや押されている感じだ。
「あの、お土産のお礼に…時間のある時でいいので、お食事とか一緒にいかがですか」
自分からこんな誘い文句を言うのは何年ぶりだろうか。
あまりにも言い慣れないから、言葉が滑らかに出てこない。
「ええ、いいですよ」
私はあたふたしているのに、ほとんど間の無い状態で彼はOKの返事をくれた。
「ありがとうございます。わ、私はいつでも大丈夫なので、榎さんの都合のいい日で…」
「でしたら今夜がちょうど都合がいいですね。明日の夜からはまた少し忙しくなりそうなので」
速攻な決断だ。
私は自分から誘ったくせに「えー!いきなり今日ですか?」と、心の中で慌てていた。
「分かりました、では今夜で。場所はお嫌いなものが無いようでしたら私のオススメのお店があるのですが」
私には行きつけの洋風居酒屋さんがある。
大人ムードでジャズも流れているし、人がごちゃごちゃしてなくて落ち着いている場所だ。
「ええ、僕はどこでもかまいませんよ。6時半までには仕事を終わらせますが、少し待っていただくかもしれません」
「私は適当に休憩室ででも待ってますから、大丈夫ですよ」

こんな具合に、私は自分から榎課長を食事に誘ってしまった。

                      *

また二人で職場を出た。
やっぱり外のひんやりした風に当たったとたん、「寒くありませんか?」とまた榎さんは聞いてくれた。
「大丈夫です」
前回より意識し過ぎていて、私の言葉も短くなる。
本当にこの人は私を思ってくれているのかなあ。
広い肩幅の男らしい後ろ姿を見て、何だかやっぱり信じられない気分になる。
苦手だと思っていたのに…私は告白されたからって、どうしてこんなに榎課長にトキメいてるんだろう。
いただいたお土産の事を考えても、やはり榎さんは私を少し特別に思ってくれているのは分かった。だから、こうやって食事に誘う勇気も出せた。

ただ、ここからどうやってお話しすればいいのか分からない。

「道はこっちでいいんですか?」
私がノロノロ歩いてるから、先を歩いていた榎さんが足を止めて振り返った。
もう真っ暗で、彼の表情はほとんど見えない。
「はい。このまま真っ直ぐで。大きな赤い看板が見えるので分かると思います」
そう言いつつ、私が場所を教えなければと思って歩調を早くして彼の横に並んだ。
「僕、歩くの早いですか」
そう言って、榎さんは自分の歩調を緩めた。
「いえ、私が遅いんです。だいたい動作はいつもノロノロなので」
「そんなことありませんよ」
フォローの言葉を追加しながら、彼はやっぱり私のちょうどいいスピードに歩くテンポを落としてくれていた。
こういうさり気ない優しさって…結構嬉しいものなんだ。
言葉は少ないけれど、何かと気を使ってくれている榎さんの態度がとても好ましいと思えてしまう。

並んで歩いていたせいで、一瞬彼の手が私の手に触れた。

「あ、ごめんなさい」
「いえ。ちょっと近すぎましたね」
お互い照れてしまったのが空気で分かった。

中学生みたいだ…私たち。
30歳になろうという女と、40の男が、並んで歩くだけで顔を赤くしている。

やっぱり、これは恋なのかな。
ほんの一瞬触れただけの手にとても暖かいものを感じ、私はあり得ないほど心臓がドキドキしてしまうのを止める事が出来なかった。


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