シンプル
1−1 苦手な上司
私の勤めている会社はちょっと難しい実験をしているところで、どの資料を見ても私にはさっぱり分からない。
それでも資料の作成を頼まれればやれるし、名簿を作ってくれと言われればそれもこなせる。
それだけの存在だ。
単純な事務作業なのに、職場に男性が多いせいで少し私は特別待遇されてしまう。
ランチでお食事に行っても絶対にお金を払わせてもらえない。
それに、残業で遅くなると危ないからといって、めったに残業はさせてもらえない。
中田美羽(なかたみう)29歳…独身。
このままいい出会いが無かったら、一人でマンションでも買おうかと思うこの頃。
ハッキリいって30歳まじかの女性職員に、ここまで親切な待遇をしてくれる会社はそう無いのではないだろうか…。
「美羽は会社の居心地がいいから、彼氏作る気力無いんでしょ」
と、友達に指摘された。
うん、それも言えなくもない。
そんな快適な職場だけど、私にも苦手な人はいる。
課長の榎幸生(えのきゆきお)氏、40歳独身…だ。
何が苦手と言われても理由は言いづらいんだけれど、とにかく固い。
丁寧で礼儀正しいのは素敵だと思うけれど、少し疲れる。
つい先日「あの、中田さん」と声をかけられ、振り返ると榎さんが猛烈に真剣な顔をしているから私は驚いた。
「何かミスしましたか!?」
朝、頼まれたプリントの枚数が違っただろうか、伝えた電話のメモ内容が間違っていただろうか。
色々自分のしくじりを考えていると、彼はポケットから何かを取り出し、自分の手のひらにのせた。
「これ、昨日落ちてました。中田さんのではないですか?」
「あ…」
それは、確かに私が昨日落としたヘアピンだった。
こんなの、束で買った安物だから全くなくしても問題なかったんだけど…。
「ありがとうございます」
そうやって受け取ったヘアピンは、何だかもう二度となくしてはいけないもののような感じがしてしまう。
正直、榎さんが何故独身なのかさっぱり分からない。
年齢をある程度重ねた男らしさもあるし、重厚なオーラというか、とにかく物事を軽んじない丁寧さがある。
部長なんかが「榎くん、いい女性を紹介するよ。どうだね」なんて言っても「お心使いありがとうございます。でも、相手は自分で見つけたいと思ってますので」と、速攻で断る。
自分で見つける…って、毎月のように誰かに告白されてるじゃないですか。
と、私は心で突っ込みを入れる。
私が発見したラブレターは結構あって、彼は無造作にそういうのをデスクに置いたりするから…見えてしまう。
それに、休憩室で緑茶を買うのが彼の習慣なんだけれど、そこでわざとらしく声をかけている女性社員を何度も見た。
なのに…鈍感なのかシビアなのか分からないけど、そういう誘いにのっている彼は見た事が無い。
「ええ」とか「そうですね」という丁寧な受け答えはしているけど、そこから話は膨らまないみたいだ。
私から言わせれば「つまらない男」という感じだ。
どれだけ理想が高いんだろう。
まさか女優とかそれぐらいの美人を求めているんだろうか。
さらに、彼は笑わない。
仕事が忙しいのは分かるけれど、他の社員はお茶の時間なんかにはベラベラ世間話をしている。
「ねえ、榎課長もそう思うでしょう?」
気を使って話をふっても、「え、何の事ですか」と、全く聞いてはいないようだ。
ランチ後のオフタイムも、一人でパソコンに向かっていて無言だし。
おやつの時間にお茶を入れて運んでも「ありがとう」とだけ言って、顔も上げずに仕事に没頭している。
仕事が恋人?
それも悪く無いけど、もうちょっと遊び心があってもいいのではないでしょうか。
私はお笑い系の明るい男性が好きだから、そういう理由で榎課長の事は好きではなかった。
というか、意識の外だったというか。
「中田さん、榎課長の好きな食べ物とか分かる?」
他の課の女性にそんな質問をされるけれど、私が知るわけがない…と言いそうになる。
だいたい彼は何を食べてるんだろう。
お昼になると一人でフラッとどこかに消えてしまい、社員食堂にも居た事がない。
孤独が好きな人っていうのもいるし、結婚が面倒くさいと思う人もいるだろう。
だから、私はあえて榎さんの生き方を否定する気は無い。
が、席がほんの少し距離が開いてはいるけど、ほぼ真向かいというのが困る……。
顔を上げると時々目が合ったりして。
別にそこで微笑む人でもないから、私は「えーと…この書類は」とか独り言を言ってわざとらしく目線をそらす。
こんな具合に榎さんとの付き合いに難を抱えてはいるけれど、他の面では全く問題が無いから、私は結局10年もこの会社に勤めてしまっている。
29歳…結構リアルな数字だ。
そういう焦りもあって、私は今週友達の紹介で軽いお見合いを計画してもらっている。
「美羽、次は期待してね!外見は普通だけど、結構面白い人だから」
そう言われ、私は期待を膨らませている。
面白い人が一番だ。
カッコイイとか仕事が出来るとか…そんなの生活してしまえば関係無いもの。
食事の時に雑談しながら笑い合える。
これが理想。
私がルームウェアで歩いていてもOKな、気を使わないでいられる楽ちんな人がいいの。
結婚したけれど、旦那がいい男過ぎて彼の前でメイクを落とせません!という悲痛な叫びを聞いた事がある。
そんな生活息苦しいよ。
あり得ない。
こんな訳で…私は「お笑い彼氏募集中」の看板を下げて生活している。
*
明日はお見合いの日――― という金曜日の夕方。
仕事が多かったから、少しだけ残業をしてしまった。
そろそろ帰ろうと帰り支度をしている私を、榎さんが呼び止めた。
「あ、中田さん。お帰りですか」
彼から声をかけてくるなんてめずらしいなあと思って、私は動作を止めた。
「はい。もう6時なんで…帰りますが?」
まさかもう少し頼みたい仕事があるとか言われるのかなと思ったけど、違った。
「僕も帰りますので。ご一緒にいいですか」
「え?…はあ、いいですけど」
一瞬目が点になる。
榎さんが私と一緒に帰る?
「ありがとうございます。では、ジャケットをとってきますので」
そう言って、彼はスーツのジャケットを引っ掛けてあるロッカーを開けている。
本気で私と一緒に帰ろうとしているのだ。
どうしよ…話す事なんか何も無いよ。
私の動揺をよそに、彼は机の上をささっと片付けて「では行きましょう」と言い、先頭を歩き出した。私は何がなんだか分からない気分で、その後ろをテクテク歩く。
外はまだうっすら明るい。
それでも、これから秋に向かってどんどん日は短くなるんだよな…なんて思ったりする。
「寒くありませんか?」
少し風が強かったのを感じて、榎さんは私にそう言った。
「いえ、これぐらいでしたら平気です。私、寒いのは結構強いので」
「そうですか」
そう言って安心したように少し彼が微笑んだのを私は見逃さなかった。
“榎さんが笑った…”
その微笑に胸がドキッとしてしまった自分の気持ちが理解できない。
予想通り話題はなく、無言のまま私は彼の隣を歩いた。
このまま10分もある駅までの道のりを黙って帰るのはきつい。
かといって話題も無いし。
こうして歩く事8分。
あと少しで駅という場所まで来たところで、榎さんが立ち止まった。
「…課長?どうしました?」
驚いて顔を見上げると、いつも真面目な彼が、さらに真面目な顔になっている。
そしていきなり予想外の事を言った。
「あの、ぶしつけな事を伺いますが。中田さんは今、誰かお付き合いされている方はいらっしゃるんですか?」
「お…お付き合いですか?」
「ええ」
明日その運命の人と出会うかもしれないですけど…とは答えられない。
「いえ、今はいませんが」
私がそう言うと、彼はホッとした様子を見せた。
「では、僕とお付き合いしてもらえませんか」
仕事以外の言葉をあまり聞いた事の無い男性から、いきなり告白の言葉を聞いた。
え…あり得ない。
この人だけはあり得ないと思っていた。
「ええと。何か冗談おっしゃってるんですよね?」
私は何と答えていいか分からなくなって、こんなセリフを言っていた。
「冗談?…ああ、そういう断り方もあるんですか」
そう言って、彼は何かを納得している様子だ。
「やだ、課長。そんな深刻な顔をして!」
私は思わず榎さんの前でマジ笑いをしてしまった。
すると、彼はまたフッと顔を緩めて「中田さんはやはり、笑顔が素敵ですね」と言った。
私の顔がガーッと熱くなり、変な汗が出てくる。
あの無感動人間と思われた榎課長が、私の笑顔を素敵だと言っている。
さらに、その前に付き合ってもらえませんか…とか言った気がする。
私の小さい脳みそでは、現状を受け止めきれず…処理能力がパンクした。
「突然失礼な事を言いました。では、お疲れ様です」
榎さんは私に一つおじぎをして、そのまま改札の中に入っていってしまった。
残された私がそこから動くのに、多分数分はかかったはずだ。
私は明日お見合いなのよ。
職場の上司に告白されて動揺してる場合じゃない。
しかも、彼は私が交際を断ったのだと解釈していた。
そう。榎さんとは何もない…何も無かったのよ!
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