日蓮正宗・法華講員「れいな」氏主催の『有志の会』における、お知らせ、

今般、私こと法太郎は、れいな氏が<創価脱会運動>を推進するために立ち上げた『有志の会』における、石山門流の化義を遵守するために、化義・化法の是非をアドバイスする相談役に就任したことを、お知らせしたい。


正宗内部を撹乱するために、日蓮正宗法華講を名乗る創価学会の謀略部隊である『富士宗学研究』の謀略を暴き

慈折広宣流布の大願を阻止せんとする『富士宗学研究』の正体を暴くことによって魔の正体を暴き、正法破壊の謀略を粉砕して広宣流布の大願を成就せしめんと願うのみである。


なお、日蓮正宗の法華講を破壊せんと策動する『富士宗学研究』に対しては、今後も直師範の御指導を仰ぎながら正法破壊の魔行を粉砕するために、あらゆる方途を以て粉砕せんことを、ここに宣言しておくものである。


『有志の会・代表相談役』 法太郎



 創賊の謀略サイト『富士宗学研究』に注意! A

日蓮正宗を詐称する創賊の謀略サイト『富士宗学研究』
http://fujimonryu.blog40.fc2.com/

謀略サイトの公開掲示板
http://9208.teacup.com/hokkeko/bbs


以下の投稿に留意されたし。(笑)、

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Re: 異体同心の実を、 投稿者:誠之助 投稿日:2010年 9月 9日(木)03時25分42秒   通報 返信・引用
> No.63[元記事へ]

法太郎、殿へのお返事です。

賑わっているので誰かと思えば富岳さんの梯子を外した法太郎さんじゃありませんか。
お久しぶりです。清流掲示板以来ですね。掲示板には参加しないと引退宣言されていましたから、いまだに掲示板に書き込みしているとは思いませんでした。

わたしは富士宗学研究様には敬意を抱いていてブログは移転前からアクセスしてるし、移転後は全文を拝見させて頂いてるので経緯は把握しているつもりです。それに他支部の方とも情報交換しているので事情もだいたい分かってます。

富士宗学研究様が書かれていますが大阪南布教区支院長の近山信澄御尊師が黒川問題で調査されているのは本当のことです。“有志の会”も問題でしたが近山御尊師のご指導があって黒川さんはお止めになったんです。それで富士宗学研究様とこきち様が収束を宣言された翌日に黒川さんは宗務院が許可されたと宣言して“有志の会”が再開したんです。

宗務院許可の虚偽発言に近山御尊師は黒川さんに裏切られて「“有志の会”とれいなについて宗務院が調査を始めている。暴走した黒川和雄には今後一切関わらないように」と法住寺支部でご指導されてます。

どちらが事実かご自身で確認されてはいかがですか?
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私のことを知っているのである。私も彼を知っている。東京の昭島市に在住する赤沢というれっきとした学会員である。

謀略サイトの主催者である『久遠居士』というよりも、『久遠コジキ』もしくは『久遠のバカ誇示』と云うべきであろう。(笑)、

この人物は「ネットの怪人」とか、「ネットの妖怪」といわれた人物である。常泉寺の法華講員を名乗っていたが、富裕でマシンはマックを持っている該当者はとんと知れなかった人物である。

私の情報を知りたがっており、山岳写真家の白旗史郎氏のカレンダーなどを送付してきたことがあったが、差出人は書かれていなかったのである。(笑)、

この人物を的にかけて狙っている集団がいるようで、ある時、「お〜い、法さん、たのむから死んだことにして妙縁寺で葬儀があったことにしてくれ」と私に懇願してきてから『久遠バカ誇示』はネットから消えたのである。(爆)、

やつは、旧漢字を使って高齢をよそおっているが、実際にメールのやりとりでは頭の弱い若者、というよりもバカ者であることは確実である。(笑)、

以下が『久遠バカ誇示』が「富岳」と称して書き込むときの文体である。


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悲しすぎる(>_<)ヽ ナケルゼェ 投稿者:denken 投稿日:2010年 9月 8日(水)20時24分49秒 返信・引用

このような掲示板を観ることすら久しぶりです。法太郎がなにか変なこと言い出さないか彼のサイトだけは監視していましたが、なにやらこちらのサイトを批判する‘注意喚起’の書き込みがあったので初めて閲覧させていただきました。

「異体同心」のカキコの中で彼自身「かつての同志」「友たちよ」と言われているようにこのサイトが誰人によって運営されているかはチラッと拝見しただけの私にもわかります。その「同志」に対して「日蓮正宗もどき」「創価系の謀略サイト」はあまりにも悲しすぎる現実。何故そこまで彼はれいな氏を擁護し続けるのか不思議ではあります。

すべての書き込みを観たわけでもありませんが法太郎が宝竜寺について云々している箇所がありました。れいな氏が言うごとくかつての定善寺が邪宗の寺であったなら、正しく宝竜寺は邪宗の壇信徒により建立された寺であり、大石寺は邪宗の寺に御本尊を下付し、宝竜寺は邪宗の寺から住職を迎えたことになります。

讃岐本門寺は戦後ようやく日蓮正宗に復帰がかなったお寺だからです。法太郎がかつて所属していたと公言している寺院に対して同じことを言われてもやはり同じようにれいな氏を擁護したのでしょうか?なんにせよ、皆様ご壮健の様子で安心しました。ばんばん??
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これが、れっきとした富士宗学研究の主催者である『久遠バカ誇示』が「富岳」のときの文体なのである。

こやつらは、十年〜十五年ほど前に法華講員を名乗り、私もやつらの運営する掲示板に参加していたことがある。ところが、である。やつらは、私から宗内の情報を得たがるが、東京第一地方部の様子などを聞くと、曖昧な返事しか帰ってこないのである。

以前に述べたが、私が日時を勘違いし、東京第一地方部の様子を聞いたところ、本行寺のSくんを遠くでみた、との返事が返ってきたのである。この日は私の勘違いで会合は別な日だったのである。(笑)、

このことがあって私はやつらに疑惑を持つようになった。当時、れいな氏と激戦ちゅうだったこともあり、掲示板(清流談所)のパスワードを預けてほしいと云ってきたので渡したら、かってにパスワードを変更して私を除外したのである。これを機にやつらとは縁を切ったのだ。(笑)、


二番目の記述に、私が北海道の宝龍寺が本籍寺院で札幌は預かり檀徒であることを知っているのは最短十五年以上はネットをやっていなければ知ることが出来ない情報である。この投稿は紛れもなく『久遠バカ誇示』のものであることを断言しておく。


今般、謀略サイトり富士宗学研究がれいな氏攻撃を行ったのは、偶然にれいな氏が、ネットを介して人脈を広げたいとやつらのサイトに申し込んだことが発端となった。

応顕寺の法華講員をなのる「こきち」が、ぜひに小論を載せてほしてと懇願してきた。れいな氏が新講中を立ち上げていると取られかねない行動をしているので、注意を喚起したいとのことだったのである。

れいな氏とこきちの間に私がいることで、双方の誤解を解いて和解はできるだろうとノンキに構えていたら、なんと!同じ文面がかの謀略サイト富士宗学研究の最前面にアップされていることを知ったのである。

私はやつらに利用されたことに気がついたのである。創賊と法華講員のサイトにれいな氏誹謗の記事がアップされればれいな氏は八方ふさがりとなってしまうことに気がついた。


もし、過去の『久遠バカ誇示』であれば、私が云えばある程度の理解は示すのではないかと、和解への投稿を試みたところ、痴犬どもがキャンキャンと噛みついてきたのである。

その文面や傾向性をみて瞬時に「創賊」であると察し即座に筆誅の反撃に移ったのである。しかも、まさに正真正銘の「誠之助(赤沢)」ではないか!。


これで、すべてのリンクがつながったのである。誠之助は十五年ほど前に、ネットを去ると行って退去した人物である。が、影でこそこそとネットを閲覧し、私の動向を監視していたのである。(笑)、

れいな氏誹謗の謀略が、私の転換で失敗したことで頭に血が上ったやつらはホンネで書き込んできた。(爆)、

私が掲示板を隠退しネットに残った最後の、創賊破折の大スターであるれいな氏を抹殺するために大仕掛けの謀略を仕組み、成功しかかったのだ。

「こきち」にメールを送付したとき、「富士宗学の一派が」と表記すると、とたんに噛みついてきた。やつもまた創賊の一味だったのである。(苦笑)、

そもそもである。この私が、本物の法華講員を誹謗中傷するわけがないのである。(苦笑)、

今、別な法華講員が、やつらのサイトのパスワードを入手するために動き出しているらしい。そのうち、面白い情報をアップできると思う。(笑)、








 急告!謀略サイト『富士宗学研究』に注意!

日蓮正宗法華講を詐称する『富士宗学研究』が、掲示板に参加を申し入れた「法華講員・れいな」氏の個人情報を公開した。

http://fujimonryu.blog40.fc2.com/

般の法華講員は、このような詐欺的技法で法華講員の個人情報を公開する謀略サイトには絶対に参加しないでください。!!






 『富士宗学研究』の運営者である「久遠居士」と「富岳」は似非法華講である、(笑)、


れいな氏、どうやら飛んで火に入る夏の虫であったようだ。

富士宗学研究は旧久遠居士が運営していることは、旧字体の漢字の使い方で明白である。むかし、富士の清流掲示板を主催し、れいな氏の乱入で、ひどくれいな氏を怨んでいたやつである。

やつは、常泉寺の法華講員を名乗っていたが、ある時、私の勘違いで東京第一地方部の、指導会だったか何かの幹部会だったか失念したが、本行寺のSくんと会ったかと聞いたところ、「遠くからみかけた」との返答をもらったのである。

しかし、これは私の勘違いで第一地方部の会合は別の日だつたのである。つまり、富士宗学研究の主催者である久遠居士は、開催されていない東京第一地方部の会合で本行寺のSくんを見た、というのである。(爆笑)、


その日以来、私はやつを冷徹に見ていた。そのうち面を割られそうになり、「久遠居士は死んだことにして妙縁寺で葬儀があったと掲示板で広言してほしい」と懇願してきたのである。(苦笑)、

おそらく、この板を見ているであろう古いネッターは驚いたのではなかろうか。


この久遠居士という狂乱は、ゲイの世界に詳しく、旧RS研に波木井坊のネタをバラしたのもこの人物なのである。波木井坊が恋人の男性と手錠をかけてゲイのパレードに参加していたとか、波木井坊の勤務先であった富士宮のK電機の得意先が東京の千代田区にあり、社名は失念したが、さまざまな謀略を入れて波木井坊を放逐したのである。

これにひっついている「富岳」なるバカ僧は、久遠居士からマックのノートマシンを買ってもらったと云っていた。当時のマックはカローラの新車が買えるほど高価なもので、一般人が購入出来るしろものではなかったのだ。つまり、やつらには肉体関係が疑われるのである。(苦笑)、

こやつは、ひどく波木井坊を憎んでおり、波木井坊のやつは意外にお人好しな面があるので気付いていないが、そのむかしに波木井坊となんらかの接触があったことは間違いがないのである。

ハッテン系だとか、私には理解出来ない用語も使っていたし、波木井坊が独立した後に法務局へ行って法人の登記原簿を検索し、エルノルテの登記代表が波木井坊の父親であることも調べていた。ここまでやるか、というくらい異常な執念を燃やしていたのである。

2チャンネルの創価・公明で、波木井坊を糾弾するスレをたてていたのも久遠居士の仕業である。波木井の父親の職業や付近を徹底的に調べて丸裸状態にしてついに波木井坊を追放したのである。(笑)、

当時、私が参加していた掲示板に、波木井坊のプライバシーを暴いた個人攻撃のログを自慢げにコピーしていたが、私でさえ唖然とする内容で、ここまでやるか、と思ったのである。


この久遠居士というのは、自分から邪教を破折することはなく、私が徹底して創賊やら正信会やらを破折した後にのこのこと出てきては、一人前に解説≠オてさもさも自分が破折して勝ったような卑劣な人物でもあった。

この人物、日蓮正宗を名乗っているが、大石寺の丑寅勤行が六座を構えていることを知らなかったことでも驚愕させられたことがある。大石寺では五座の勤行の後に、戒壇大御本尊に向かい遥拝≠キるならわしを知らなかったのである。

さらに云えば、久遠居士の愛人と思われる富岳にしては、御歴代の忌日を得意げに掲示板にアップしておったのである。法華講員であれば過去帳を奉戴することは当然であり、御歴代の忌日など誰でも知っているのに、である。おそらく新入法華講員用の手引き書かなにかを手に入れ、御歴代の忌日を知って得意になっていたものであろう。


以上の事柄から、私は久遠居士やその愛人とおぼしき富岳を法華講員のナリスマシであると断定しているのである。この者どもは、掲示板を主催しては、日蓮正宗内部の情報を収集しており、自分のほうからはまったく情報を発信しない。

創賊か、それとも正信賊か、他の邪教なのかは知らないが、いずれにせよそのうち化けの皮は剥がれるであろう。(笑)、





 日蓮正宗の法華講員による掲示板から、富士宗学研究の謀略を指摘する、



法華講員によく知られている法華講員のうーまん氏が以下のごとく、富士宗学研究のれいな氏誹謗の投稿を削除されたことを広く喧伝するとともに、この意味について、正真正銘の法華講員は、れいな氏を擁護し富士宗学研究を排除したという現実を示しておきたい。

http://9022.teacup.com/haja_kensho/bbs

以下、

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削除・数点 あしからずです。 投稿者:管理人 投稿日:2010年 9月 7日(火)06時10分2秒 返信・引用
削除を数点 致しました。 中には法華講員もおられたと思います。

管理人が管理できない間に2チャンネルのような状況にあったことを皆様にお詫びいたします。

問題定義をされた山さんは法華講ひいきではありますが、まだ、たしか法華講員ではありません(と思います。寺院にいかれ御住職様とお話しはされていると記憶しておりますが・・)

れいな氏のことをこの掲示板で争うこと事態がそもそもおかしいと思いますよ。
まさに当人に申し上げればよいこと!。 この掲示板で批判・悪口を言って同意を得たとしても仏法では十四誹謗ということになります。

それぞれの人格の範囲で折伏・破折等々、していかざるをえません。なぜなら完璧でないから、修行をしているのです。人様のことを言えるほど、自分は・・と考えて我が身を振り返る、自分が持っているもので行動を起こすしかありません。

ここは、仏法の破折、折伏のための論争であるならば少々のことは目をつぶっております。
しかし、この掲示板に関係のない方の個人の中傷は、この板の意に反しております。

法華講員の反論も削除いたしましたことを申し訳なく思いますが、ご理解の程をよろしくお願いいたします。

数点、削除しないでおります。 この問題にあえて投稿される場合は、一時的に投稿禁止に致します。

板が他の掲示板の中傷リンクなどは、意にあらずですので、よろしくお願い致します。
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いじょう。

正真正銘の法華講員は、富士宗学研究の投稿は削除して、れいな氏を法華講員として認めているということを示しておきたい。

法太郎・敬白。



 富士宗学研究なる謀略サイトの妄乱を破す、A      2010年9月8日 21:46:49

富士宗学研究なる謀略サイトが狂乱して云はく、
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一,黒川和雄一派との係争の経緯
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■[破折一]そもそもである。「黒川和雄一派」なる組織について、当人がそう名乗ったのか明拠を示すべきである。 れいな氏が黒川という人物であることは、創価学会の教宣部や広宣部が流布したものである。

であれば、富士宗学研究なる痴犬集団は、創賊が開示した情報を鵜呑みにしていることとなる。創価学会の情報を信じてこれを依用するということは、即ち創賊に準拠していると云うことである。つまり、富士宗学研究とは創賊と同次元の痴犬集団ということとなるのである。(爆)、


富士宗学研究なる謀略サイトが狂乱して云はく、
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それから黒川和雄君は有志の会のことは沈黙していたところ、專修山法住寺の御信徒からメールを頂き、法住寺御住職の近山信澄御尊師が大阪南布教区宗務支院長のお立場として眞法山妙輪寺御住職の坂田正法御尊師に御指導され、それを受けて黒川和雄君は有志の会を解散させたとのこと。これにより小生は五月二十四日に拙稿「れいな氏設立の宗教団体・自称『有志の会』解散」を発表し、「自称『有志の会』は解散したのだから、法華講員読者におかれては、れいな氏が惹起した自称『有志の会』不祥事問題は過去は過去として徒に論うことなく、未来に向けて精進あらせられたい。過去を徒に論うのであれば、自称正信会の愚を踏むこととなる。よってこの不祥事問題の寄稿へのコメントは今後は自重願えれば、幸甚である」と宣言したのである。
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■[破折二]さて、実在の正宗寺院の住職を騙り、もっともな作り話をしているが、私が所属寺院の御尊師に問いただしたところ、「そのような問題は知らない」との回答であった。しかるにこの富士宗学研究の発言は策謀による謀略と断定できるのである。正宗僧侶の実名を使っているが、関連信徒の名は表明されていない。

れいな氏を弾劾したのが実在の法華講員であるならば当然に公的場所に堂々と名乗るべきであり、コソコソと影で蠢いていたのであれば単なる<告げ口が大好きな謀略性癖を持つ腰抜け>であり、正法の信徒とは認め難いのである。このように実在の人物の名前を利用してもっともらしい謀略を作るのは「波木井坊竜存」なる身延もどきの謀略者が好む方途である。(苦笑)、


富士宗学研究なる謀略サイトが狂乱して云はく、
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ところが五月二十五日に黒川和雄君は「日蓮正宗総本山富士大石寺宗務院の御僧侶と1時間にわたり、“有志の会”の趣旨を説明致しましたところ、【一定の条件のもと】に、ネットで連絡が取れた入信希望者、脱会希望者の入信及び脱会を呼び掛けることには【なんの問題もない】との素晴らしい御意見を頂戴いたしました」「ここに正式に許可が取れましたことを、サークルの皆様にご報告いたします」と宣言された。
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■[破折三]宗務院を巻き込んでの謀略でれいな氏が糾問されたようだが、れいな氏の堂々たる弁論に宗務役僧が許可したのであれば、れいな氏が立ち上げた同人である『有志の会』は、御宗門の公認であるということではないか。

であるならば何故に、れいな氏に対して支離滅裂で筋違いの狂難を為すのであるか。ここに、富士宗学研究の真意が現れていると断定するのである。つまり、種々に法華講員を取り込んで得た情報をもとに脚本を描き、邪教にとって脅威的存在である<正法のれいな氏を抹殺すき目的>が、かいま見えるのである。(苦笑)、


富士宗学研究なる謀略サイトが狂乱して云はく、
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これに対して、法住寺の御信徒が大阪南布教区宗務支院長の近山信澄御尊師より暴走した黒川和雄君には関わるなとの御指導があり、また宗務院も黒川和雄君のことを調査しているとの情報が同御信徒より寄せられた。
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■[破折四]これもまた不可思議な論理破綻の狂論である。そもそもである。法住寺の法華講員が事実として宗門の規範にのっとってれいな氏を糾問したと論じて舌の根も乾かないうちに、「関わるな」と指導があったと云うのであるから支離滅裂の極致であり論理破綻の狂人による脚本たることが露呈しているのである。(爆笑)、

また、宗務院がれいな氏を調査していると云うことだが、私の師範である御住職の在勤御僧侶にうかがったが、「そのような話題は聞いたことは無い」との回答が得られたのである。(爆笑)、


■[破折五]いじょう、この富士宗学研究なる石山門を騙る謀略サイトの広言は、すべてが作り話の謀略であることを指摘しておく。ま、そのうちに面が割られるであろう。ネットの情報とは、書けば書くほど情報が垂れて真実が除々に顕れてくるのである。(笑)、

そもそもである。れいな氏が自ら黒川と名乗ったことは私じしんは知らない。掲示板にこうあったと云われてもログなどどのようなものでも作り出すことは可能なのである。して、否定することも可能であるいじょう、ネットの情報は<正しい根拠とはなり得ない>のである。

しかもである。この痴犬集団には重大な異常性愛の疑いがある。つまり、この富士宗学研究なる痴犬集団はネットを介して正宗の男性信徒に接触し、同性愛の世界に引き込む疑惑が情報として寄せられているのである。

つまりこの「富士宗学研究」なる痴犬集団はゲイを広めるための同性愛者によるダミーである可能性が存するのである。これについては改めて指摘したい。


文責在・法太郎。





 富士宗学研究なる謀略サイトの妄乱を破す、@     2010年9月8日 21:15:40



大石寺門流を騙る謀略サイトである「富士宗学研究」なるサイトに「仏教類聚」なる項目があり、「伝統宗教と新興宗教の定義」と称する妄論が垂れ流されている。(笑)、

この狂論によれば、

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筆者は三十年以上も宗教学を研究しているが、それで得た知識として、幕末以降の宗教を「新興宗教」と定義し、幕末以降の中でも大東亜戦争後の宗教(及び戦時中前後に生じて戦後流行した宗教)を「新宗教」 昭和四十五年前後以降の宗教を「新新宗教(新々宗教)」と細分類していた。
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と述べ、

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新興宗教の定義は幕末以降の宗教であり、我が国の新興宗教の嚆矢は本門仏立講(現在の本門仏立宗)と天理教や黒住教である。
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と結論づけている。(笑)、


そもそもである。三十年も研究していてこの程度の結論であれば研究の名に値するものであるかどうか脳味噌の構造に異≠唱えたくなるのは私ひとりではあるまい。


では宗祖の鎌倉仏教が『鎌倉新仏教』と呼ばれる史学的用語についてはどう解釈するのか。鎌倉新仏教とは平安仏教に対置する用語であり、さらに奈良仏教を「古代仏教」と定義されている関連をどう説明するのであろうか。(苦笑)、


史学で云う「日本古代仏教」とは聖徳太子の時代から平安時代の末までを云うが、全体的には史学に準拠して「古代」「中世」「近世」「近代」と時代区分をするのが妥当である。

この定義に沿えば宗祖の鎌倉時代の仏教は「中世仏教」といえべきもので史学的に認識されている。古代仏教に関しても一様ではない。仏教の日本渡来以後、氏姓社会の時代、律令国家の時代、摂関政治の時代、院政期の時代等の異質な社会事情と背景をもとに独特の発展をとげて時代的特質が存するのである。

この仏教史に関して新宗教と伝統宗派などという区分は存在しない。あくまでも古代、中世、近世、近代における区分の形態が存するのである。

この程度の基本的な学力も持ち合わせておらない末学がたいそうに学者ぶって恥知らずな幼学をさらすものではない。幼学は幼学らしく、他の碩学に教えを請うべきであろう。(苦笑)、





法華講員諸氏へ『富士宗学研究』なる謀略サイトについて注意を喚起す。


最近、日蓮正宗もどきの謀略サイトが、れいな氏攻撃を行っているようである。

http://fujimonryu.blog40.fc2.com/


論じておることが支離滅裂で無知蒙昧な虚論の羅列であり、なんら大石寺門流の化義に沿ったものではない。

樒の話にしても常識的法華講員であれば殆どの講員がしていないマメ知識を「金科玉条」のごとく取り上げて大聖人の仏法を知った気になっておる、すなわち日蓮正宗を騙るセンズリサイトと云ってよかろう。(笑)、

常識をそなえた一般的法華講員であれば、かような妄乱サイトのデマゴーグのヨタ話など無関心であろうと思われるが、親交のある「うーまん」氏の掲示板にも、れいな氏を誹謗中傷する記事をアップし、法華講員の管理人に削除されるなど、普遍的法華講員から否定されているのである。(苦笑)、

しかも、ヤツ等いろいろな集団に見せかけているが、やっているのはたった一人なのである。(爆笑)、ま、こきち君の投稿は別としても、ひとりで多勢になりすまして大きく見せかけているのである。(笑)、

法華講員であるうーまん氏の掲示板等を利用して謀略を練ったり、実名まで知っていて真実の法華講員であるれいな氏に対し誹謗中傷の方途を見ると、法華講員を撹乱するため、法華講員の組織割りを狙った創価系の謀略集団と思われる。


そもそもである。きやつらは己の所属する寺院でさえ公表出来ないのである。もし、仮に寺院名を公表したら、実在しないことが即座に判明するからである。(爆笑)、

宗制宗規だとか、何条違反だとか痴犬のごとく遠吠えしておるが、所詮は謀略集団の浅知恵に過ぎないのである。(笑)、

もし、本物の法華講員であれば話は簡単である。所属の住職を通じて対手の寺院に申し入れれば話はけりがつく、やつらは宗規違反だとか、化義違背だとか喚いてはいるが、もっとも簡単な解決法が使えないでいるのだ。(苦笑)、


いじょう、法華講員諸氏は、「富士宗学研究」なる謀略サイトの浮言に惑わされることなく伝統の信行にいそしむべきである。


いじょう、法華講員諸氏に注意を喚起す。



 法太郎・敬白。




 国賊の血脈・讀賣新聞社=かくて祖国はアメリカの植民地となった  2010年1月20日 20:34:01


有馬哲夫著・「原発・正力・CIA」  機密文書で読む昭和裏面史」(新潮新書)


ひさびさに読み応えのある一書であった。戦後、米国の日本支配を心理的植民地とするためにCIA本部(ラングレー)から指令が降りた。

「讀賣新聞社主ノ正力ト協力シ、親米世論ヲ形成セヨ」

有馬哲夫氏は、

「アイゼンハワー大統領図書館」
「ハーバード大学ホートン図書館」
「アメリカ合衆国第二公文書館」
「ハーバード・フーバー大統領図書館」
「トルーマン図書館」
「合衆国外交文書」

等に公開されたCIA関連の、厖大な機密文書を解析して昭和の裏面史である、米国による日本支配の一実相を解明した。


アメリカは戦後の日本支配にあたり、反米思想を圧殺して親米国家と為すべく讀賣新聞を使った。

讀賣新聞の正力松太郎はおのれのメディア支配の野望たる「マイクロ波通信網」の建設を目指してCIAと結託する決意をしたのである。



米国は敗戦国の日本を親米国家≠ニすべくプロパガンダ放送で日本国民を洗脳しようと企画したが、NHKが占領下において米国のプロパガンダ放送を流すことに抵抗していたことには驚きを隠せない。なんぼ占領軍でも聴取料で成り立っていた公共放送という建前を崩さなかったのである。日本の官僚は凄い!の一点に尽きる。

手を焼いた米軍はNHKの職員をパージしたが、放送枠さえ買い取れば放送が可能な民間メディアにシフト変更し、讀賣新聞に目を付けたのである。

広島・長崎の原爆で反米思想の強かった日本国民は、米国のピキニ環礁における水爆実験で放射能を浴びた「第五福竜丸事件」でさらに反米運動が巻き上がり、原水爆反対署名は三千万人にものぼり、駐日大使館、極東指令軍、合衆国情報局(UCIA)、CIAを震撼させた。これらの米政府の部局は終戦後の日本マスコミをコントロールして対日外交を有利にみちびくための「心理戦」担当部局である。

米国は原子力アレルギーにあった日本国民を転換させるために「原子力発電」のすばらしさをプロパガンダする方針にあり、これを積極的にすすめたのが讀賣新聞の正力であった。これは米政府が、原発の利点を強調して原子力思想を日本人に埋め込み、米国の日本支配をスムースに進める意図があったものである。

かくて正力は原発を誘導して政界に進出し、総理の座を狙っておのれの野望である「マイクロ波通信網」の構築を目指した。が、時至らざる故か、機至らざるゆえか、野望は砕け散ったのである。

しかし、正力とCIAの結託は、讀賣新聞の記者をCIAのエージェントとして利用することや、保守大合同、ディズニーランドへとつながつてゆくのである。現在、讀賣のナベツネが政治の世界に首をつっこんでいるのは、こうした昭和の裏面史に隠された事実が、現在も国賊の血脈≠ニして成り立っているからなのであろう。

もちろん、情報収集が仕事である讀賣の記者は、社会のため日本のため国民のためであると信じて仕事に励んでいるのだろう、が、記者の収集した情報はCIAの情報源ともなっていた側面も見逃せないものである。

CIAというのは、映画や小説と違い実際には暗殺やら情報の収集に職員が直接はたらくことはありえない。作戦を執行する地元の有力組織を利用したり下働きの団体を作って利用するのである。

例えば戦後の日本国内に於いて、後に映画スターにもなる渋谷の覇者であった安藤組の組長・安藤登氏は、GHQが背後にあったために渋谷を制覇できたのである。

安藤組はれっきとしたGHQの下部組織であり、反米の諜報員であった中国人の捜索を依頼され、いざとなったら射殺するよう指令をうけ、これをソ連の仕業に見せかけるため、GHQからソ連製の拳銃を支給されている。安藤登組長が捜査しているさなかに、この中国人は川に浮いていたということである。(余談)、

米国のプロパガンダの一翼として「ウオルト・ディズニープロダクション」も参加しており、ま、もちろん米国の映画社だから当然なのだが、これが米軍産複合体の一端を担うことを認識していたかどうかは別問題ということとなろうか。

ところで、面白いのが日本テレビの専務であった柴田秀利がCIAのダブルエージェント的立場にあったことである。柴田は正力を好んでいなかったようで、CIAが知りたがっていた正力の情報をときどき会っていた米政府要員に流しており、その人物がCIAであることを薄々感づいていて、回顧録に書いてあるようである。

柴田が会っていた「D・S・ワトソン」とはケネディ暗殺事件に関与していたCIAのエージェントであり、犯人とされるオズワルトの監視役でもあったそうである。また、NHKが1994年に放送した「原発導入のシナリオ」にも実名で登場している。

余談だが、正力松太郎が苦心のすえCIAを通じて購入したテレビはトラックで全国をまわり、テレビの普及に一役買ったのである。これが実は米国の日本支配、もしくは「心理的植民地化」のプロパガンダとして大いに威力を発揮することになるのである。

そして、正力はカラーテレビの普及にも尽力し、日本第一番のカラー放送は米国から配信され、ケネディの頭が銃弾で吹っ飛ぶカラー映像は日本人に衝撃を与え、米国民を悲哀の底におとし、この瞬間に米国は軍産複合体≠ノ乗っ取られたのである。



  私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)  002


[その二]

 [それは戸田会長時代から始まっていた]

 私が学会に不信を抱(いだ)いた理由(わけ)

 (理境坊信徒・原島昭=元東洋哲学研究所・研究員)

 四、不信感の芽生えと拡大

前回、「父(原島宏治)が私的な場面で池田氏を『先生』と呼んだことを聞いたことはないし、父の著述の中でも池田氏に『先生』の称号を用いたことはない」と述べました。

 より正確に言ったならば、創価学会の幹部会や『聖教新聞』『大白蓮華』といった公の場では、「池田先生」と称することはありましたが、その場合でも必要最小限の使用に止どめていた、ということです。もちろん、池田氏を仏として称賛するような言葉は全くありません。

 そういう父でしたので、とても池田氏のお気に召すはずがなかったのです。 また、前回、家族の中では私だけが初期の段階から池田氏の本性を見抜いていたかのように述べましたが、それは私が優れた洞察力の持ち主だったからではなくて、私が特に疑い深く、池田氏のことも最初から疑いの眼で見ていたからでした。私がこうしたねじけた物の見方をするようになったのは、多分に創価学会二代会長・戸田城聖氏の影響でもあります。

 次にその経緯について述べてみたいと思います。


 [衝撃@戸田氏の金融業]

 戸田氏は、戦前から出版業を営むかたわら、金融業にも手を染めていました。昭和十六、七年頃のこと、まだ幼かった私が夜中にふと目を覚ますと、両親が部屋の隅に寄せたテーブルに向かい合って、何やら作業をしていました。そのテーブルには紙幣がうずたかく積まれており、両親は、それを数えながら束にしていたのです。

 主に十円紙幣だったと思いますが、当時の父の給与は百円に届かず、バナナが一束十銭の時代です。テーブルの上にいくつもの山を作っている紙幣は、今の金額に換算すれば、おそらく数千万円、あるいは一億円を超えていたのではないでしょうか。

 後になって知ったことですが、そのお金は、母の実父・高松甲子男が戸田氏の金融会社に出資する、ということで両親に預けたものだったのです。

 それから六、七年が経って、やはり夜中に目を覚ますと、両親が何やら深刻そうな顔つきで話し合っていました。

 父が「高松のお父さんに連絡は取れたか」と母に尋ねますと、母は「まだ取れていません。父には本当に気の毒なことをしました」と答えていました。

 なんと、昭和十八年に戸田氏が牧口初代会長と共に治安維持法違反で逮捕・投獄されたことによって、その会社は倒産し、祖父の預金も全て貸し倒れになってしまったのです。

 私の母は、どういう事情か、実の父親とは幼い頃に生き別れになっており、長じてからようやく巡り会えて親交をもつようになったようです。私にとって祖父に当たる高松甲子男は、孫の私を大変可愛がってくれました。ところが、戸田氏の金融業のために大損害をこうむった後は、祖父と私達家族との交流は全く途絶えてしまいました。

 そうしたことを見聞きし、私の心には戸田氏に対して、少なからず不信感が芽生えたのです。

なお、戸田氏の金融業に出資して損をした人はかなり大勢いたようです。私の中学時代の校長だった方もその一人だったらしく、昭和五十六年、同窓会で久しぶりにお会いした折、私達教え子に向かって、「昔、戸田氏に多額の出資をして大損した」と声を荒げて語っていました。



 [衝撃A 雑司ヶ谷の夜]

 昭和二十二年の春の夜、当時の私達の住まいであった雑司ケ谷の家に戸田氏が訪ねて来ました。戸田氏はだいぶ酔っているようでしたが、両親は、尊敬している戸田氏の訪問に大喜びでした。

 戸田氏は、弟・嵩と将棋をさしたり、まだ生後二、三ケ月だった下の弟・弘の小さな掌をとって、手相を見たりしていました。嵩と私の手相も見ました。

 そして、母に抱かれている弘を指して、「この子は世界の父になる」と言いました。嵩が「ぽくは?」と尋ねると、「嵩は世界の父の門番になる」と答えました。私より気性の烈しい嵩は怒り、「門番とは、何を言うんですか!」と戸田氏に食ってかかりました。

 私も、「では、ぽくは何になるのでしょうか」と尋ねてみました。

 戸田氏は、じろりと私の顔を眺めましたが、いつまで経っても何も答えてくれません。私は救いを求めるように父母を見詰めました。しかし、父母は黙って微笑んでいるだけでした。「ぽくは門番にもなれないのか」−−私は、こう心の中で思い、落ち込みました。

 それから三、四十年が経って、あの夜の戸田氏の「世界の父になる」云々の言葉は、単なる酔客の戯言(たわごと)だった、とわかりました。

 と言いますのも、弟の弘は、平凡ながらも心の優しい、まじめな青年に育っていきました。大学を卒業後、創価学会国際センターの職員となり、そこで十年近く勤めましたが、嵩が学会を去るのと同時に、辞表を提出、宗教とは無関係の、ある図書関係の会に再就職しました。数年前、法華講妙緑寺支部の講員になり、現在に至っています。

 嵩はといえば、あのことを自分の著書書に一度だけ、「戸先生と将棋をさし」と述べていました。「門番」については何も触れていませんが、忘れるわけはないと思います。負けん気の強い嵩のことですから、戸田氏の言葉をむしろ自らの向上に役立てたのだろうと私は推測しています。

 私の場合は戸田氏の無言の意味するものを深く考えすぎて、それが心の傷となり、永い間苦しみました。ただし今の私は、門番もまた立派な職業だと考えておりますが___。



 [衝撃Bポルノ雑誌『ルピー』]

 戸田氏が雑司ヶ谷の我が家に訪れてきた翌年だったと思います。戸田氏は少年向け雑誌冒険少年』、次いで成人向け雑誌『ルビー』創刊し、私の両親もそれらの雑誌を売り捌さば)くよう、依頼されました。たしか、時は雑誌一冊が二、三十円くらいの値段で、一冊売るごとに一円ずつの謝礼が原島家に入る、という取り決めだったと思います。

 なにじろ、終戦直後の貧しい時代で、ある裁判官が闇米を買うのを潔しとせず、配給米ばかりを食べて餓死した、という時代です。

 私の家も、子供四人に加えて他人の子供が一人、戦地から引き上げてきた母方の叔父、そして母方の祖母と、合わせて一家九人を小学校教員の父の給料一つで養っていかねばならない時でしたから、一冊一円ずつの利益でも有り難く、両親は懸命にあちらこちらの本屋と交渉して、店内にその雑誌を置いてもらっていました。

 ところが『冒険少年』も『ルビー』も、あまり売れませんでした。本屋からの返品が山のようになり、両親の儲けははとんどなく、むしろ返品の一部を買い取ったりして損の方が大きかったようです。

 ある日、私は家の中に置いてあった『ルビー』を何気なく手に取り、ぱらりと開いて見て驚きました。グラビアの写真と本文の始めから終わりまでの挿絵(さしえ)のほとんど全てが、ヌード写真で占められていたのです。私は頭がくらくらし、「いやしくも、これが仏教徒が同信の人々を使ってする仕事か」と、怒りが込み上げてきました。

 こうして、両親が及ばずながらも戸田氏を助けて働いていた頃の二十四年の春、これら二つの雑誌を発行する「日本小学館」に一人の若者が入社しました。二十一歳になったばかりの池田大作氏です。ちなみに、『新・人間欠命』には、戸田社長と雑誌編集者の打ち合わせをする池田氏の姿が描かれています。

 帰宅した父が、「池田君はよく働く。今夜も励ましてきた」と私に語ったことがあります。しかし、あの雑誌『ルビー』の内容を知っていた私は、そう語る父に対しても不信の眼を向け始めていました。

 その後一年もたたないうちに、池田氏編集の二雑誌は廃刊になりました。



 [衝撃C『聖教新聞』のある記事]

 昭和二十六年六月十日付『聖教新聞』の一面に、「不純分子に光る検査の目」「監査部活動対象すでに数名」などの見出しと共に、次のような記事が載っていました。

 「指導監査部は、さきに学会組織編成に当り、会長直属の常用部処としてもうけられたが、ここに矢島周平氏を部長と決定、適任者を得た監査部はいよいよ活動を開始することになった。(中略)戸田会長はこの活動の重要さに留意され、馬場勝種、相原ヤス、和泉ミヨの三名を部員に加えて種々協議した」−−−私は、監査部員三名の中に、柏原ヤス、和泉ミヨの名前が挙げられているのに、心安からぬものを感じました。

 と申しますのは、私の記憶では昭和二十四、五年頃、本部通達として私の父・原島宏治と小泉隆、辻武寿の三名が謗法者と断定され、学会の全ての役職を解任されて、本部はもちろんのこと、各支部、学会関係の建物、座談会などへの出入りを一切禁止されことがあったのです。私は、「父はさぞかし苦悩するだろう」と心配して様子を見ていましたが、父は、いっこうにショックを受けた気配を見せず、学会活動にあてていた時間を、読書とか家族団欒にあてて、ゆうゆうと毎日を過ごしていました。

 この出入り禁止期間は半年ほどで終わったと思いますが、この事件についての母のうち明け話によれば、「戸田先生の側に仕える御婦人達から讒言(ざんげん)されたのよ」とのことでした。

 右の『性狂新聞』の記事は次のようにも述べています。

 「学会の手で産まれた信者でありながら折伏精神を会得せず折伏形態に外れ、便乗的に学会を利用して自分の立場を保とうする不純分子には断固たる処分がなされるは当然である。(中略)こうした問題になる人物は、会長の意思により最後決定をなし、除名が明らかとなれば、本紙紙上に不名誉なる名をつらねることになる」−−何やら、当時盛んに配られていた左翼のアジびらを思わせるような文体ではありませんか。しかも仏教徒としての慈悲の精神が、この記事からは全く感じられません。

 私の不安は二年後に現実のものとなりました。昭和二十八年一月一日付の『聖教』紙上に、私の父が、十二月に文京支部長を解任され、地方統監部長という新しい役職を与えらた、ということが載っていたのです。さらに、同年六月には長らく勤めてきた教学部長の任を解かれ、小平芳平氏が新教学部長となります。私の母も、前年にわけのわからないまま支部婦人部長を解任され、謹慎を命じられていました。

 嘆き悲しむ母に対して、父は常にこう言って慰めていました。「支部長・婦人部長の時は日本一の支部長・婦人部長になり、一会員の時は日本一の会員になればいいじゃないか」と。それを聞いていた私には、いったい、この父は偉大な人物なのか、鈍感な人なのか、わけがわからなくなりました。

 その後、二、三年して、戸田氏は母を呼び寄せ、「側近の言葉を信じて、あなたを辛い目に合わせてしまった。申し訳なかった」と詫び、母に本部副婦人部長の地位を与えて名誉を回復させました。

 近年、よく、「創価学会は、戸田先生が会長の時は良かったが、池田氏がすべてを狂わせてしまった」ということを耳にしますが、しかし、戸田氏と池田氏には多くの共通点があります。

 ただ、戸田会長の時代はまだ会員数が少なかったため、宗門にある程度妥協していただけで、本当の牙(きば)を隠していたのではないか、と私は思います。

 私のささやかな体験に、創価学会にもとから潜(ひそ)む鋭利な牙を、読者に少しでも感じていただければ幸いです。

 (つづく)



 『慧妙402号』−私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)  001

今般、宗内雑誌『慧妙』に、極めて興味深い記事が掲載された。創賊の原島元教学部長の兄である昭氏が実地に見聞した戸田・池田にわたる二代の創賊史を語り始めたのである。ハッキリ云うが山崎正友氏の手記などは伝聞に基づくものが多く、史料としての価値は低かった。

しかし、今回の原島昭氏の発表はまさに「歴史」の実見者が語る史実であり極めて高い史料である。特に第二回目は戸田城聖の実相が語られており興味深いものである。

現在、宗内では戸田城聖の発言を切り文にして現在の創賊と対比させることによって創賊の矛盾を論ずる傾向があるが、史料を精査すると、現在の創賊の根本に戸田城聖が在ったのである。已下、


 [その一]

 [原島家と池田大作の邂逅−若き日に垣間見た池田大作の本性]

 理境坊信徒・原島昭 (元・東洋哲学研究所 研究員※註)

 【註】東洋哲学研究所は創賊教学部のシンクタンクで原島嵩氏も在籍していた。


 一、池田大作と原島家の因縁

 東京大田区・多摩川下流の六郷川のほとりに矢口渡(やぐちのわたし)があり、私は、幼少の頃、両親と共にこの町に住んでおりました。
 
 昭和十三年、私の二つ違いの弟・崇が生まれ、私が三歳、弟が一歳を過ぎた頃、母が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室註:理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。

 入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。

 さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」とててました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。

 私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和十五、六年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏、小泉氏の紹介で辻武寿氏らが次々と入信しました。

 さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和二十二年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした。

 このように、池田氏と我が原島家とは、浅からぬ因縁があったのです。しかし、池田氏との因縁が深い、と感ずる父の思い入れこそが、後々まで池田氏の実態を見破れなかった大きな原因であった、と私は思います。



 ニ、池田の怨念を買った白木氏

創価学会は、昭和三十年に、公明政治連盟を結成して政界に進出しました。私の父は、二十余年勤務した小学校の教員を辞めて、大田区議会議員に立候補、めでたく当選しました。しかし、それから一年も経つか経たぬかのうちに、今度は参議院に立候補することになったのです。

父のほかには、相原ヤスさん、白木義一郎氏(※「かね」さんのいとこ)ら、学会首脳数人が同時に立候補していました。

 その選挙の翌日、私は自宅でラジオの開票速報に耳を傾けていました。父や柏原ヤスさんの票が伸び悩み、落選が確実になった頃、大阪地方区から出馬していた白木義一郎氏の当確が報じられました。

 白木氏の選挙参謀はあの池田氏で、私は、日頃から父母が池田氏を高く評価していたことと思い合わせ、「さすがだ」と思いました。

 その翌日だったと記憶していますが、夜、池田氏が、大阪から凱旋(がいせん)して来ました。ちょうどその時、私は母と共に、お祝いを言うために池田宅を訪問していました。

 池田氏は、笑みを浮かべながら訪問客の待ち受ける部屋に入って来ました。私もお祝いを述べると共に、日頃から私の両親が池田氏を「人材中の人材」と褒(ほ)めていることを告げました。池田氏はそれを満足そうな様子で聞いていましたが、突然、表情が一変して険しくなり、腹の虫が治まらないという感じで、次のようなことを言ったのです。

 それは−−−大阪で、当選が決まって報道陣が白木氏のもとに集まり、いざ記念写真を撮る段になったところで、白木氏から「池田君、君はもういいから、奥の部屋へ行って待機していてくれ」と命じられ、自分は止むを得ずその場を退(しりぞ)かざるをえなかった、ということでした。(ちなみに、当時の新聞の写真に白木氏を中心に当選の万歳をしている人々の中に、池田氏は写っていないと思いますが、こういうわけがあったのです。)

 池田氏にとって、自分がないがしろにされたことは大変な屈辱(くつじょく)だったようで、遠く大阪にいる白木氏に向けられているであろう、その両眼は、怒りに燃えているでした。

その池田氏の姿に、はいささか興醍(きりざ)めじた気分で、池田家を出ました。そして、折に触れては、池田氏の怨念を買ってしまった白木義一郎氏の将来に思いをいたすようになりました。

その白木氏は、選挙に出る数年前までプロ野球の花形スターでした。昭和二十五年九月には、次のような報道がなされています。

 「九月二日、後楽園球場で東急フライヤーズの大下弘と白木儀一郎の両選手に、野球連盟ならびに球団から記念トロフィーと記念品が贈られた。大下が百本塁打、白木は七十四イニング三分の二無四球の世界記録を達成したため」(『昭和二万日の全記録』講談社)と。

 白木氏は、それはそれほど世間的にも著名な人でしたから、選挙の勝因も自らの名声にあるのであって、池田氏の力によるものではない、との自負の念があったのではないでしょうか。

 しかし、池田大作夫人の身内である白木氏が、政治家としてさしたる功績も残せないまま、いつの間にか表舞台から消え去っていったことを思う時、かつての夜の池田氏のすさまじい怒りが私の脳裏に浮かんでくるのです。


 三、父・原島宏治の遺言

昭和三十九年の初夏のある朝、私が、勤行するために自宅の二階に上がって見ると、父がひとり何か考えごとをしていました。そして、私の顔を見ると、父はゆっくりとした口調で、

「池田会長から『近い将来、原島理事長は学会を離れ、創価大学の理事長として活躍されたらどうか』と言われた。おまえはどう思うか。』と言いました。

その時の父の様子から″突然、思い掛けないこと、理解しがたいことを言われた″という戸惑(とまど)いがうかがわれました。しかし私は、″ついに来るべき時が来た。池田会長は、理事長として学会の中枢にいる父の存在が邪魔になったのだと直感しました。ただ父の問いかけには答えようがないので黙っていました。

 ちなみに、私の弟の原島嵩(元・創価学会教学部長)は、後年の著書『池田大作 創価学会の真実』で、池田氏には当初から天下盗りの構想があったとして、

 「@まず、創価学会内にあって青年部を押さえる。A次に会長になり、創価学会の絶対的権力を手中におさめる。Bそして次の段階で宗門を支配下に置く。C…」と、天下盗り構想の図式Gまで述べています。

 昭和三十九年のその時の時点では、Aの段階ははぼ完了しており、次の「B宗門を支配下に置く」ことを目指す段階に来ていました。

 そして、Aの「創価学会の絶対的権力を手中におさめる」との段階を上がり切るには、最後の障害がありました。それは、創価学会理事長であり、さらに年内に公明党の結成が予定されているなか、その初代委員長に内定している原島宏治の存在です。

 ちなみに、竜年光氏(元・公明党都議)の著書の中に、「原島理事長は池田会長に対して、池田先生、先生と繰り返し呼び、へつらっていた」と記述されていたようですが、それは全くの誤認識です。私自身、父が直接にも間接にも池田氏を 「先生」と呼んだことを聞いたことはありませんし、父の著述の中でも池田氏に「先生」の称号を用いたことは一例もありません。

 父はいつも、池田氏のことを「池田会長」あるいは「池田さん」と呼んでおりました。逆に、会長になる前の池田氏は、時に私の父母に対して「お父さん」 「お母さん」と呼びかけて、母を喜ばせたりしていました。

 同年十一月十七日、公明党が結成され、父が同党の初代委員長に選出されました。そして、それからいくばくもない十二月九日朝、父は心筋梗塞(しんきんこうそく)のために五十五歳で急死しました。

 悲しみの醍(さ)めやらぬある日、弟の嵩が少し不思議そうな表情を浮かべながら、私に次のような話をしました。公明党結成直後のこと、父は、沖縄指導のため空港まで嵩を伴(ともな)って車中にいました。その車中で父は嵩に向って、「私は日蓮正宗の立派な一信者でありたい」と語ったというのです。

 「兄さん、これはどういう意味だろうね」と、弟は怪訝(けげん)な面持ちで私に問いかけました。無理もありません。当時の弟は、池田会長を「生涯の師」として敬愛し、一生忠誠を捧(ささ)げようと決意していたのですから。

 私はまたも本心を隠し、当たり障(さわ)りのないことを言って、その場を取り繕(つくろ)うしかありませんでした。弟が父のこの遺言を本当に理解したのは、池田氏と訣別して、日達正宗へ回帰してからです。

 父の一周忌法要の終了後、池田氏と私のほかに大幹部数人がその場にいるだけの時であったと思います。池田氏は私に、

 「原島理事長は、けっして私の事を先生と呼ばなかった」と話しかけてきました。そして、つぶやくように

 「私は、原島さんに、かつて一度たりとも心を許すことはなかった」と付け加えたのです。

 やはり、これが池田氏の父に対する本心だったのです。私は、原島一族の前途に、漠然(ばくぜん)とした、しかし言い知れぬ不安を抱きながら、池田氏と別れました。

 (つづく)