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[21271] 【習作】 低の夢夢 【ハンター×ハンター】
Name: 誘電分極◆9d806c6d ID:6edb6924
Date: 2010/08/20 16:08
 皆様始めまして。誘電分極という名前の者です。
 ハンター×ハンターの二次創作小説を投稿させていただきます。
 原作の設定は厳守の方向で行きますが、不自然な点があれば指摘をお願いします。

 グロテスクなシーンや、欝表現が入る恐れがあります。苦手な方は回避推奨です。
 定期更新ではありません。週に一回か二回、都合によっては二週間に一回になる場合もあります。
 では、よろしくお願いします。



[21271] 1 序章開始
Name: 誘電分極◆9d806c6d ID:6edb6924
Date: 2010/09/11 21:53

 底の夢夢



 序章・失くしても気付かない



 一瞬の浮遊感の直後、それとは全く別種の開放感が彼女を襲った。
 脳みそを焼き切られるような、抵抗しがたいオルガスムスにも似た感覚である。
 彼女の体が意識を手放したのだ。視界は真っ白に、思考は真っ黒になり、五感は全てシャットダウンされる。
 死を目前に控えた体が、咄嗟に取った本能的な防御行動であった。

 人は、死の恐怖に耐えられない。よって、実は(場合によっては)死の直前に既に死んでいる。
 マンションの七階から飛び降りた彼女は、地面との接触の1.72秒前に意識をなくし、0.23秒前には命をなくしていた。
 彼女が29歳の誕生日を迎えた、なんでもない春の日のことであった。
 0.23秒後、彼女はマンション前のアスファルトに咲く、一輪の大きな赤い花となった。

 警察はその死を自殺と断定。早々に捜査を打ち切った。
 異議を挟むものはいなかった。部屋に残った遺書が、それをあっさりと認めていたのだ。

 『お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は死にます。どうしてもこの世界が、私の世界だとは思えないから。お葬式の費用は私の貯金からどうぞ。余ったお金は好きに使ってください。今までろくに親孝行できなかったこと、許してね。一足先にあの世に行ってます。部屋にある私のぬいぐるみは、全部私と一緒に燃やしてください。最後に、今まで本当にありがとう』

 遺書を発見した警察の人間が感心したことは、その字の達筆なことだった。とても今から死ぬ人間の字とは思えない、魂を揺さぶる力強さを持った字であったのだ。
 しかし、内容としては極々平凡な、特に不審な点の見当たらない遺書だった。

 彼女の両親は突然の娘の訃報を信じられず、しばらくの間何も食べないことで現実に抗った。
 通夜と葬式には彼女の多くの知人が集まり、彼女との余りにも早すぎる別れに思い思いの涙を流した。
 誰もが悲しみ、心を痛めた。とはいえ、特別なトラブルのない、一般的な通夜と葬式であったことは間違いない。
 知人の一人が言った。

 「なんで自殺なんか……。明るくて良い子だったのに……」

 彼女の心の闇を知る者は一人もいなかった。当然である。人は誰もが心に闇を持ち、普通はそれを周りには明かさず生きていくのだ。彼女はそこで『生きない』という行動を取ったに過ぎない。親や恋人でない限り、人は他人を真の意味で理解することができない。それは、生死に関わることであっても変わらない。 

 半年後には、ただの知人は彼女のことを思い出さなくなっていることだろう。
 3年後には、両親でさえ思い出に涙を流さなくなっているかもしれない。
 20年後、果たして彼女の墓を掃除する者はいるだろうか。
 50年後、彼女のことを、誰もが知らないのだ。

 彼女は世界においてその程度の存在だったが、それは彼女に限ったことではなく、全ての人間に言えることである。
 とにかく、彼女は死んだ。彼女のストーリーは、まだ死んでいなかったが。 



 1・幼年


 
 ラッコ=ハイネマンの前世は酷いものだった。
 一般家庭の娘として生まれ、何一つ不自由なく育ち、真面目に勉強に励んで名門大学を卒業。その後、親のコネで大手出版社の編集者として雇われ、金銭的には余裕のある一人暮らしを続けること6年余り。平日は朝から夜まで働き、休日は家で静かに過ごしたり友達と遊びに出かけたり……。

 それは他人からすれば、不足のない幸せな生活に見えたかもしれない。
 しかし別の角度から見た場合、順風満帆な人生ほど刺激のないことはない。事実、自分のあまりの平凡さに、彼女は心底うんざりしていた。彼女はその生活を手に入れるために犠牲(時間や体力)を払い、見返りとして相応の金銭を得ていたに過ぎないのだ。こんな人生の何を楽しめというのか、と彼女は苦々しく思っていた。

 陳腐な日常における唯一の癒しは、可愛いぬいぐるみに囲まれて眠る夜の時間だけ。夢を見ているときのみ、彼女の世界は光を放つ。現実の瞼を閉ざし、空想の瞳を輝かせる。それは、余りにも惨めに過ぎた。
 恋人でも作れば新鮮味が出るか、と考えたこともあったが、彼女にしてみればその考え自体に刺激がなかった。それはありきたりすぎる!! と魂が叫んでいた。もっと根本的な、もっと根源的なところで刺激が足りない、と常々感じていたのだ。


 そう、まるで、自分にとっては特別重要な『何か』を、世界のどこかで見落としてしまっているかのような……。
 

 結果的に、彼女は『何か』を探すことはせず、マンション七階の自室のベランダからダイブすることを選択した。死という道に『何か』を求めた、と言い換えても良い。
 部屋を掃除し、お気に入りのぬいぐるみに何度もお別れを言った後、適当に遺書を作って紐無しバンジーを敢行。速やかに死んだ。
 確かに死んだ、はずだった。

 現在彼女は、8歳の少女としてスクスクと成長を続けている。
 ラッコ=ハイネマンという、新しい名を得て。

 「ラッコ、みかん食べるー?」
 「あー、食べるー」

 母の言葉に答えながら、ラッコの目は逆さまのテレビに釘付けになっている。しかしテレビはあくまで相対的に逆さまになっているだけであり、実際に逆さまなのは逆立ちをしているラッコの方だった。長い黒髪が床に広がり、叙情的な模様を作り出している。

 「ラッコー、テレビぐらいちゃんと座ってみなさいねー」
 「はーい」

 逆立ちをしていたラッコの腕が一瞬縮んだかと思うと、その直後バネのように伸び上がった。強力な反動が、彼女の体をふわりと跳ね上げる。さらに体は宙で器用に反転、足を下にして着地が決まる。着地後の動きが全くないことは、ラッコが慣性を完璧に操っている証拠だった。
 見事な軽業。しかし、それを見守る母の目は、元気な猿を見るそれだ。 

 「ラッコって、将来何になりたいの? 体操選手とか?」
 「んー、ママみたいなお嫁さんー」
 「ママ、お嫁さんはもっとおしとやかな方がいいと思うなー。ほら、ママはラッコみたいに逆立ちなんてできないけど、ちゃんとお嫁さんになったでしょ? 可愛いお洋服着たり、可愛いお菓子作ったり、お嫁さんになるにはそういうこともしなくちゃだめなんだよ?」
 「ええー……。ママ、今の私のこと。嫌い……?」
 「あ、もちろんそんなことないよ? ママ、ラッコのことだーい好き」

 ラッコの肉体は8歳の少女のものであり、実際彼女は8歳の少女であった。一方で、その精神は前世で29年の時を刻んでいる(今のラッコの精神が、前世と現世を合わせた37歳のものである、という意味ではない。また、単純に29歳の精神を持っているわけでもない)。その強みは、他者に自分をどう見せることが効果的なのか、はっきりと理解していることだった。

 「私もママのことだーい好き!」

 無邪気な笑顔で言い切る。そこに罪悪感はない。あるのは幸福感だけである。精神は肉体に引っ張られ、今のラッコは正真正銘8歳の少女であった。少しややこしいのは、その8歳の少女の精神の中には、確かに29歳の精神も同居しているということだ。
 今のラッコは単純にママが大好きな少女であると同時に、大好きなママが喜ぶであろう自分を演出することのできる狡賢い少女でもあった。幼稚と成熟は、彼女の中に矛盾無く内包されている。

 「……ほんと、あなたって娘はもうなんていうか、なんていえば良いのかしら……」
 「え、ママ、何?」
 「……ううん、なんでもないよ。あ、ほら、みかん剥いたげよっか?」
 「わ、やった! 剥いて剥いてー」

 平和な母子家庭の休日、午後の光景。みかんの皮を剥いて娘に食べさせてやる母親も、口を大きく開けてみかんを食べさせられている笑顔の娘も、世界中の至るところで見られる当たり前に幸せな親子でしかなかった。
 違うことといえば、娘の笑顔。純粋な笑顔の中に閃く、一筋の鋭さ。彼女は母を見ながら、目をさりげなく点けっぱなしのテレビにも向け、注意深く耳をそばだてている。午後のニュース番組が伝える、見逃すわけにはいかない情報に向けて。 

 『いよいよ明日から、今年もヨークシンドリームオークションが開催されます。ヨークシンドリームオークションは10日間にも及ぶ競売の祭典であり、全世界の各方面に大きな影響を及ぼすとされる巨大フェスタです。非常に多くの著名人が直接足を運ぶことでも知られており、我々報道関係者にとっても見逃せないイベントですね。今年はその中でも、一本50億ジェニー以上の価値を持つとされるゲームソフトが複数本出品されるという噂が持ち上がっており、関係者の期待値は例年以上となっているようです』

 誰にも分からない角度で、ラッコの唇がにやりと釣りあがった。
 年に似つかわしくない、妖艶な笑みである。



 ▼



 生まれ変わった先がハンター×ハンターという漫画の世界だった、という漫画以下の現象が実際に起きていた。最初それを確認したとき(たまたま生まれた病院からハンター協会本部が見えたのだ)、ラッコは熱を出すほど動揺し(そもそも生まれ変わった時点で動揺はかなりのものだったが)、次いで誰かに騙されているのではないかと疑い(窓の外のハンター協会本部がダミーである可能性は高かった)、三日間しっかり考えた末に現実として受け入れた(いくら考えても、彼女を騙す理由のある人間はいなかった)。
 案外あっさりと受け入れたのは、動揺とは裏腹に嫌な気持ちではなかったせいだ。
 むしろ……。


 そう、むしろ、前世の方がおかしかったのだと、彼女はそう思った。


 ラッコは少しだけ未来を知っている世界で、前世にはなかった不思議な居心地の良さを感じながら幼年期を過ごした。
 母子家庭だったが、働き者の母は優しく、いつしかラッコはこの母以外のことを親と呼んでいた前世の自分に気持ち悪さすら感じるようになっていた。そう感じてしまうほど、彼女は日々に幸せを感じてしまったのだ。

 自分は幼く、母は優しく、日々は楽しく。そんな世界は厳しかった。
 この世界には刺激が溢れていた。
 ハンターという超法規的特権を持つ職業が認められており、幻獣や魔獣といった御伽噺のような生物が実在した。
 大小様々で奇妙なコミュニティが乱立し、その中では何よりも『力』が重要視されていた。野蛮な思想であったが、この世界ではそんな野蛮な思想さえも複雑なスシテム社会の一部とされていた。
 この世界は、生きているだけでラッコをくらくらさせた。
 
 さらに、最もスパイシーな存在。念という不思議な力。 
 ハンター×ハンターという漫画の世界に生まれて、念を覚えないという選択肢はラッコにはなく。託児所で過ごす約12時間、彼女はひたすら精神集中を繰り返し、己から流れ出ているオーラを感じ取ろうと努力した。その努力はおよそ半年で実を結び、そこから彼女は半年かけて少しずつ全身の精孔を開くことになった。

 乳児のくせに寝るわけでも、かといって泣くわけでもなく、ただ目を閉じて静かにしているラッコのことを母は不思議そうに見ていたが、やがて娘が少し変わった子であるということを理解した。
 朝早くから夜遅くまで働かなければならない母の仕事の関係上、ラッコは一日のほとんどを託児所で過ごす。母はそんな娘に対して申し訳ない気持ちを抱いていたが、ぐずることなく、かといって懐いてくれないわけでもない娘の様子に心底安堵していた。なんて良い子なんだろう、と涙が滲むことも少なくなかった。

 「ありがとね、ラッコ。ママ、あなたのために頑張るから!」
 「……私こそ、優しくしてくれてありがとう、ママ」
 「うふふ、そんなのいいんだって。ママったら最近、ラッコのためだって思ったら仕事中でも楽しい気分になっちゃったりしちゃって……って、しゃしゃしゃしゃ喋った!?」

 ラッコ、0歳の時の話である。
 ラッコとしては、必要なとき以外は放っておいてもらえる環境を悪く思っていなかったし、母のシングルマザーという立場の難しさを理解もしていた。母は親切で、自分のために一生懸命働いてくれている。それだけで、彼女としては母に愛情を持つには十分だったのだ。

 少しずつ精孔を開き、ついに全身からオーラが出るようになったのが一歳半の頃。少しずつオーラを開放したおかげか、その時点で纏(オーラを体の周りに留める技術)は完成していた。2歳の誕生日に母の豪快過ぎる『たかいたかーい』によって天井に叩き付けられても、無傷で落ちてこられた程度には防御力のある纏だった。 
 
 3歳までに絶(全身のオーラを消す技術)と練(オーラを勢いよく噴出させる技術)を覚え、5歳の誕生日に母からもらったプレゼントを見つめすぎて凝(体の一部にオーラを集中させる技術。単純に凝と呼ぶときは、通常目にオーラを集める)を習得した。
 プレゼントは、5歳のラッコと同程度の大きさを持つクマのぬいぐるみ。凛々しい眉毛が印象的な母の手作りの品だった。そのぬいぐるみにハンという名前をつけて、一緒にベッドで寝るほど可愛がるラッコを、母は少し意外に思った。

 「ラッコって、時々大人なのか子供なのかわかんなくなるなー」
 「私、まだ子供だよ?」
 「うん、知ってる。そのクマさん、可愛い?」
 「すっごい可愛い! ハンって名前付けたの。特技は爆発!」

 無邪気な笑顔で放たれたラッコの言葉を、母は瞬間的には理解できない。

 「ば……くはつ?」
 「うん、凄い可愛いから。可愛すぎて爆発しちゃうの!」
 「……そ、そうなの? それでいいの……?」
 「うん!」

 5歳の時既に、ラッコの前世での29歳の精神はかなり薄れていたと言って良い。
 肉体、環境、生活リズム。それら全てが5歳相応のものであるため、彼女の元々の(29歳の)精神はどんどん心の奥深くへと押し込まれていくのだ。
 とはいえ、その成熟した精神が完全に無くなることはなく、あくまでも表に出ないだけである。
 
 既に完成していた人格を持って始められた二度目の人生は、ラッコの精神を正常に育むはずもなく、年を重ねるごとに彼女の心は歪んでいく。
 ゆっくりと。




[21271]
Name: 誘電分極◆9d806c6d ID:9a4d03f7
Date: 2010/09/03 15:53

 現在、8歳の少女として育ったラッコは、基本的な念の技術を一通り修めている。苦手な円(オーラを薄く延ばす技術)は半径1メートルほどしか伸びないが、堅(練を維持する技術)は30分ほど続けられるし、未熟ながら周(体の外にまで纏のオーラを及ぼす技術)や硬(体の一部のみに練を行う技術。他の部分は絶を行う)も可能だ。実践レベルであるとは決して言えなかったが。

 ラッコにとって最も大切なことは、この刺激的な世界で刺激的に退屈せず生きることである。念もそのため(好奇心を満たすため)に覚え、当然これから先も修練を続けるつもりでいた。そして、彼女の貪欲な嗜好は、楽しそうなイベントをむざむざ見逃すほど鈍らではない。
 ラッコは母の手からみかんを口の中に貰い受け、むしゃむしゃと食べながら提案する。

 「ねえママー」
 「ラッコ、食べながら喋るのは行儀悪いよ?」
 「私、ママと二人でお出かけしたい!」

 母が思うラッコの基本的なキャラクターは『聞き分けの良い、大人びた良い子』である。しかし、ラッコに対するその認識は少しばかり誤りを含んでいる。
 可愛く利口な8歳の娘は知っていたに過ぎない。わがままの使いどころを。

 「え、お出かけ? じゃあ、後で一緒に公園行こっか」
 「違うの! 私、ママともっと遠くにお出かけしてみたい!」
 「と、遠くかぁ……。でもママ、しばらくお休みがないからなぁ……」
 「……ううぅ……」

 涙を溜めて上目遣い。この行動を取る女性を警戒する男性は多いが、この行動を取る娘を警戒する母親はいない。

 「え、でも、待って! ラッコ待って! どこ!? どこ行きたいのかな!?」
 「あのね、あのね。……ヨークシン!」

 ポイントは、ヨークシンがそこまで遠くないことだ。日帰りが可能な距離、ということが重要である。
 親という生物は、子供の願望を無条件に叶えてやりたいという正体不明の欲求を持っている。にも関わらず、一般的な親が子供に対して時に辛く当たるのは、大抵の場合は子供の要求が非現実的すぎるせいである。

 普段わがままを一切言わない8歳の娘から突然お出かけをねだられて、しかもそのお出かけが日帰りで済む旅行。ここまでの好条件が揃い、子供の要求を突っぱねることのできる親はそういないだろう。相手がそんな親ならば、ラッコもこんなことは言わない。
 全ては打算ずく。母の優しさと、効果的なお願いの仕方を計算に入れた上で、ラッコは必勝を確信していた。
 ラッコは全てにおいて8歳である。しかし、29歳の精神が心の奥深くにある分、少しだけ賢しい。あくまでも少しだけ。

 母はヨークシンへの旅行を承諾し、ラッコの太陽のような笑顔を目にすることができた。その笑顔が母の母性を直撃し、本来日帰り旅行の予定だったところを一泊の旅行に変えさせたが、それは母だけが知っていることであった。



 2・相反する



 ラッコがヨークシンへ行きを望んだ理由は二つ。
 一つは単純に、漫画に描かれていた街を実際に見てみたかったということ。もう一つは、漫画でゴンとキルアがしていたように、オークションで掘り出し物を探し当てたいと思ったこと。
 後者は、より具体的に言えばベンズナイフが欲しかったのだ。武器にするにしろ換金するにしろ、千ジェニー以下でベンズナイフが入手できるなら、そのためだけにヨークシンへ行く価値があった。

 どうにかしてサザンピース主催のオークションハウスに潜入(入場料だけで1200万ジェニー必要であるため、正面から入るという選択肢は無い)して、さらにどうにかしてグリードアイランドへ参加することも考えたが、それができるほどの余裕も実力もラッコにはまだなかった。そのため、ヨークシン旅行の日取りはオークションが始まる9月1日に決まった。


 9月1日当日、母と二人で列車に乗り、ラッコは非常に機嫌よくヨークシンの街に降り立つ。
 その日のラッコは黄色のワンピースを頭からすっぽりと被り、長い黒髪を無造作に振り乱す、いわゆる『お洒落も何もしていない状態』だった。自分はそういうことを気にするキャラクターではないし、また、8歳の少女がそうお洒落する必要もないだろう、と彼女は思っていた。
 ヨークシンの街は、その全てがラッコを圧倒する迫力を持っていた。彼女が住む住宅街とは活気が違う。

 「わぁ、わあぁ……。ここが、ヨークシン……!」
 「ねえラッコ、なんでヨークシンが良かったの? 知ってるかもしれないけど、この街ってちょっと危ないところなんだよ?」

 大きな麦藁帽子を被った母は心配顔だ。愛する娘の、生まれて初めてと言って良いほど珍しいわがままだったため反対こそしなかったが、本来ならば犯罪都市と名高いヨークシンに、8歳の娘を連れてきたくはなかったのだろう。
 そんな母の心配をよそに、ラッコはにかっと元気な笑みを浮かべる。

 「ニュースでね、ヨークシンで今日からオークションやってるって!」
 「ラッコ、オークションなんてできるの? 高い入場料がかかったり、年齢制限があったりするんじゃない?」
 「ハウスが主催してない値段競売市っていうのがあるんだって! 私もそこでならお買い物できるから、ママと一緒に回りたいの!」
 「……あなたのそういう知識って、ほんとどこで手に入れてるのかしら」

 感心半分呆れ半分といった母に「秘密!」とだけ返し、ラッコは駅前の広場から街へと飛び出した。

 「あ、待ちなさいラッコ! まずはホテルを確保してから。お買い物はそれからね?」
 「はーい!」

 ヨークシンは、舌が痺れるほどのスパイスが効いた街だ。空の青さに心を馳せている間に財布をスラれ、雑踏の活気に萎縮している間に高い壷を買わされている。無力な女二人が、油断して歩いて良い場所ではない。
 ラッコも十分それを承知していたし、警戒を忘れてもいなかった。身を包む纏はよどみなく、自分と母の身の安全には常に気を配っていたのである。
 

 しかし、それが功を奏すかどうかはまた別の話。
 このとき、ラッコと彼女の母親が列車から降り、楽しげに言葉を交わしながら街の中心部に向かう一部始終は、二人の男によって監視されていた。
 一人はラフな服装に今時の髪型をした、気だるい目の青年。
 もう一人は、何の変哲もないスーツに身を包んだ、特徴のない顔立ちの男。ただし、男の首には銀色の首輪が付けられており、それだけが平凡な男の容姿の中で違和感を放っていた。

 同じように一組の親子を監視する二人だったが、実はこの二人に関連性は全く無い。さらに言うと、スーツ姿の男は自分以外にも親子を監視する存在があることに気づいていたが、一方の気だるい目をした青年はそのことに気づいていなかった。

 その結果、監視対象が駅から出たことを確認し、尾行を開始しようとしたマヌケな青年は、背後からの一撃に容易く意識を刈り取られてしまう。
 音の一切無い、完璧な不意打ちだった。襲撃者はもちろん、スーツ姿の男だ。

 「全くもぉ、へたくそな尾行で彼女に警戒されたらどーしてくれんだバカ。こっちは仕事でやってんだよクズ。このクズ。クズ、マジクズ」

 気絶した青年のパサパサの茶髪を無造作に掴み、スーツ姿の男は似合わない乱暴な口調で悪態をつく。さらに壊れたおもちゃを扱う子供のような動作で、青年をぽいっと投げ捨てた。
 その場所は大きな柱の影になっていて目立たないとはいえ、多くの人間が利用する駅のホームだ。気絶した青年はそのうち誰かに発見され、運がよければ親切な誰かに声をかけられるかもしれない。
 
 ちなみに、男は「こっちは仕事でやってんだ」と言ったが、気絶してしまった青年も決して遊びで親子を監視していたわけではなかった。彼はヨークシンを縄張りとする巨大スリ集団の一員であり、幹部から課せられた厳しいノルマを達成するため、今日も真面目に働いていたに過ぎない。
 最終的に獲物を取り逃がし、さらに自分の食い矜持を男に侮辱されるという散々な結果に終わったが、敗北した彼と勝利した男、両者の目的や行動理念にそれほどの違いがあったわけではなかった。
 あったのはただ一つ。純粋な実力差だけである。
 
 「さて。さてさてさて……。いつやろっかなー、いつぶっ壊そうかなー。……やっぱあれか? ここはセオリー通り、しばらく温かく見守ってから、んんっと、んんんんんっと見守ってから、いよいよ我慢できなくなっちまったときに行くべきか? ……ああ、でも、でもでもでも、それだと一つ、一つだけ問題がある」

 男の唇は醜く歪み、その目に濁った光を灯している。さらに、困った風な口調とは裏腹な惚けた表情。興奮と劣情を抑えきれていない声。

 「そう、そう、そうなんだよ。そうそう。な? 要は、俺が我慢できるかどうかってのが問題なんだよ。それだけが問題なんだよ。ああああぁ、やっべぇ、なんだよもぉ……。ってか、俺勃ってるし……。早く行かないと見失っちまうってのに勃ってるし……。やべぇやべぇ……。いや、まぁ、別にいいけどな。勃ってようが萎えてようが仕事には関係ねーし。んー、さて」

 次の瞬間、長い独り言の最後に「行くかぁ」と男が何気なく口にしたとき、その場から彼は消えていた。少なくとも、男のことを仮に誰かが見ていれば、消えたように思っただろう。
 男は単に、尋常ではない加速でその場を後にしただけだったが。

 スーツ姿の男は、そうして一組の親子の監視任務に戻った。
 そのときには既に、彼の顔から表情は消えている。にやけた口元も、いやらしい目尻の皺も消えている。
 男の首に巻かれた銀の首輪は、彼の仕事に油断や慢心を許しはしないのだ。首筋を締め付ける感触で、彼は常に冷静さと執念を忘れずにいられる。醜い内心をギリギリで押し殺すことができる。
 彼の名はセイロン=スルルツ。人間としてはともかく、猟犬としては優秀な男である。 



 ▼


 
 ホテルに部屋を確保した後、ヨークシン中心部に出て十数分。
 値札競売市の一角でベンズナイフは簡単に見つかった。複雑な形状のそれは、遠くからでも分かるほど凶悪なオーラを放っていたのだ。大量殺人鬼ベンニー=ドロンの無意識の念が込められた、288のナイフの内の一振り。今はその正体を知られず、しがない商人の店に並べられている。

 「おじさん、このナイフすっごいね!」
 「あ? おっとお嬢ちゃん、触っちゃだめだぜ。よーく斬れるナイフだからな」
 「でも売れてないよね。あ、もしかして……私にくれるの!?」
 「なんでだよ。くれねーよ」

 予想通りの返答に、ラッコの口角がにこっと笑みを形作る。

 「じゃあ売ってほしいな! 私、今日お小遣い持ってきてるの!」
 「んー、そりゃ俺としても売ってやりてぇとこけどよぉ、お嬢ちゃんみたいな女の子に売る品物としては、これはちとなぁ……」
 「えー? 可愛いのになー……」
 「うは、可愛いってかい! お嬢ちゃん、良い趣味してんじゃねぇの。でもだめー。どうしても欲しけりゃ、お母さんに買ってもらいな。ここの札んとこに値段書いてくれたら入札できっから」

 商人の人の良さが滲み出る対応だったが、もちろんそれでラッコが諦めることはない。
 そのとき、ラッコの後ろからちょうど母がやってくる。母は麦藁帽子を押さえ、早くも息を荒げていた。

 「も、もぉ、ラッコ、走らないでよ。迷子、迷子なっちゃうよー?」
 「ママが?」
 「ラッコが!!」
 「あ、ねぇねぇママ! 私ね、これ欲しいな! 買っても良い?」

 ベンズナイフを指差し、瞳を期待に輝かせるラッコ。
 対する母の反応は、概ね商人の男と同じようなものだった。麦藁帽子をうちわ代わりにして体を煽ぎながら、母のこめかみがぴくりと動く。

 「いや、ラッコー、それはさすがに駄目だよ?」
 「なんでー?」
 「変な形でしょ? それじゃリンゴの皮が剥けないじゃない」
 「私、リンゴは皮ごとバリッて食べた方が美味しいと思う」
 「それはママもそう思うけど……」

 でもね、と母は続けた。

 「もしママが病気になって、リンゴを皮ごとバリッて食べる元気もなくなっちゃうとするでしょ? そんなときママは、ラッコがリンゴの皮を剥いてママに食べさせてくれたら嬉しいなーって思うの。そしたらきっとママすぐに元気になって、リンゴも皮ごとバリッて食べられるようになると思うなー」
 「……ママは、病気なんてならないよ?」
 「わっかんないよー? ママもう若くないから、急にすっごい病気になっちゃうかも」
 「……そんなのなんないよ」

 母を見上げるラッコの瞳には、曇り空のような不安の色がある。それは本心からのものだった。

 「それに、もしママが病気になっても、私包丁持っていくもん。それでリンゴ剥いてあげるもん」
 「あー、残念ラッコ、病院には包丁持って入れないんだよ。危ないから」
 「えー、そんなのうそだー」
 「とにかく、それは買ってあげられません。ラッコにはまだ早いからね。ラッコがおっきくなって、それがちゃんと怖い物だって分かったら、そのときは自分で買いなさいな」
 「うぅ……」

 病気やリンゴ云々の話よりも、ラッコとしては、母が自分にナイフを買わせることを嫌がることの方が意外だった。
 確かに禍々しいフォルムのベンズナイフだが、護身のために武器を携帯することはよくあるこの世界で、ナイフを所持すること自体はそれほどおかしいことではない。たとえそれが少女であったとしても。

 「……可愛いから部屋に飾りたいだけだよ? 私、これが危ない物だってちゃんと知ってるよ?」
 「ねえラッコ、後でママがもっと可愛いナイフ買ってあげるから、それで我慢してくれない? そんな怖いナイフ、ラッコには似合わないと思うなー」
 「えー……? もっと可愛いナイフってー……?」
 「可愛くてちっちゃくて、とーってもよく切れるナイフ」

 つまりこれを買わせるつもりは絶対にないということだ、とラッコは理解した。理由は分からないが、母は武器としてのナイフをラッコが持つのは嫌らしい。
 少し予想外だったが仕方ない。ここでごねても勝算は薄かったし、他の方法で無理やり入手したとしても、それが発覚したときのことを考えればリスキーに過ぎる。何より自分は、聞き分けの良い子でなければならない、とラッコは自分を制御する。半ば無意識に。

 「うん、分かった。ママが選んでくれるなら、そっちの方が良い」
 「……良い子ね、ラッコ」

 黒髪を優しく撫でられながら、ラッコは無念と喜びを同時に感じる。無念は、ベンズナイフという一級の武器を格安で入手するチャンスを逃してしまったことから。喜びは、母が自分のことを本気で案じて(詳細は分からなかったが)ナイフ購入を止めてくれたことから来ていた。

 ぐるぐるぐると。これらの相反する二つの感情は、ラッコの胸の内に陰陽玉のような模様を描いて溶けていく。二つの精神を持つラッコにとってはよくある二律背反だったが、それでも自分が二人いるような感覚に慣れるということはない。眉間に小さな皺が寄る。 
 そんなとき、ラッコの目の前に小さな麻袋が差し出された。視線で辿ると、仏頂面の商人が手を伸ばしていた。
 
 「お嬢ちゃん、ガキがガキん頃からそんな顔してちゃいけねぇな。ほれほれ、これやるから泣くな。……俺が客を泣かすしょっぺえ奴みたいに見られちまうし」
 「……えっとね、おじさん。私、泣いてないよ?」
 「いいからもらっとけ。な?」

 ラッコは強引に麻袋を握らされ、戸惑いながらも頷き返した。粗末なつくりの麻袋を覗き込んでみれば、そこには直径2センチほどのキラキラした球体がいくつも入っている。ラッコは球体の一つを摘み、袋から取り出した。
 太陽の光を乱反射して輝く、大きいサイズのビー球だった。

 「うわぁ、きれぇ……」
 「ま、並べてても売れそうにねーからな。お嬢ちゃんの部屋にでも飾ってくれや」
 「……ありがとう、おじさん!」

 じゃらじゃらと楽しげな音を鳴らす麻袋をワンピースのポケットに突っ込み、ラッコはにっこりと笑った。年相応の笑みである。
 商人は満足そうに笑い返し、商売に戻った。
 母はそんな商人に礼を言い、ラッコを連れてその場を離れた。

 その後、巨大な値段競売市を一通り見て回った親子は、暗くなる前にホテルに戻る。
 帰り道、母は雑貨屋を見つけて娘に小さなプレゼントをした。約束通り、小さくてよく切れるナイフ。柄にクマの模様が入った、それは可愛いペティナイフだった。
 喜ぶラッコと、微笑む母の横顔。
 

 その様子を、監視され。
 その様子は、監視され。
 その様子が、常に監視されていることなど、非力で幸せな親子には知る由もなく、また、スーツを着た監視者がこのとき浮かべてしまった、抑えきれないほど醜悪な笑みの意味など──それこそ、知るはずもないのだった。
 
 
 
 



[21271]
Name: 誘電分極◆9d806c6d ID:ea7ed839
Date: 2010/09/11 21:53



 セイロン=スルルツは裕福な家庭に生まれた。
 大企業の重役を務める父と、穏やかな母、四歳年上の活発な姉に囲まれ、誰もが羨むような幼少時代を過ごした。食べるものに困ったことは一度としてなく、望むものの大半を手にすることができた。セイロン自身が非凡な利発さを有していたことも、彼の生活の充実の一端を担っていたと言える。
 誰もがセイロンを褒め、誰もが愛した。父も母も姉も、彼を愛していた。

 そんなセイロンの幸福は、あっけなく幕を閉じる。父と母の突然の死によって。

 それは、なんでもない冬の日のこと。その日、学校から帰宅した11歳のセイロンと15歳の姉エレノアが見たものは、リビングで並んで首を吊った、動かない両親の姿だった。
 荒れ果てたリビングの様子や、遺書が用意されていなかったこと。それらの状況から、警察は当初二人の死を自殺に見せかけた殺人事件によるものだと疑い、捜査を進めた。
 結局、余人関与の証拠は発見されず、警察は二人の死を自殺として処理せざるを得なかったが、納得の色は誰の目にもが浮かんではいなかった。

 幸せな家庭を突然襲った悲劇。
 それはスルルツ家の周囲に様々な疑惑を呼び起こした。右では非合法な団体による陰謀説が囁かれ、左ではセイロンの父の愛人に関する噂話が語られた。過去の借金の金額が暴かれ、過去の宗教暦が暴かれ、果ては過去の純愛すら暴かれる。疑惑の究明の名の下に、スルルツ家に対する人々の下世話な詮索は留まることを知らなかった。

 人の不幸は蜜の味であり、それは成功者の不幸ならなおさらである。スルルツ家の悲劇は確かな悲劇として伝聞されたが、伝えられた者は例外なく、脳内である種の快感を得ていた。

 セイロンにとっては、それからの日常は悪夢だった。
 両親の死後、幼いセイロンは名前も知らないような親戚に引き取られ、まるで空気のような扱いを受けることとなった。彼を受け入れたその家は決して悪人の巣窟ではなかったが、かといって他人の子に真心を向けることができるほど親切でもなかったのだ。彼は部屋を与えられ、放置された。食事代として、一月に最低限の金銭だけを渡されて。

 しかし、それはセイロンにとってそれほどのダメージとはならなかった。
 セイロンにとっての一番の問題は、姉のエレノアに関することであった。セイロンと同じ家に引き取られていたエレノアは、厄介なことに両親の死で精神を病んでしまっていた。

 「……ねーえぇ、セイロォン。姉さま、ちょっと寒いわぁ……。こぉして、ほらぁ、姉さまのこと、暖めてくれないかしらぁ」

 夜も更けた頃、セイロンの寝室に音もなく入ってきたエレノアは、壊れた人形のような笑みを浮かべていた。着衣は乱れ、素肌が過剰に露出し、好奇心に満ちていた彼女の瞳に光はなく。セイロンを求めながらもセイロンを見てはいない、奇妙な表情は光悦に似た何か。
 セイロンは、意識しないうちに顔を歪めていた。

 「……姉さん、寒いなら服をちゃんと着ないと。それに明日も学校があるんだから、早く寝よう」
 「ふふふぅ……。なぁにセイロンったら、恥ずかしがってるのぉ? 姉さまの弟なのにぃ、いけない子ぉ……」
 「ねえ、部屋に戻ってよ姉さん。僕、今日はもう寝たいし。こんなところ、この家の誰かに見られたら不味いから」
 「ほらぁ、ほらぁセイロン、触ってよぉ……。姉さま、寒いのよぉ。寒くて死んじゃいそうなのよぉ……」

 エレノアの痴態は、言うまでもなく両親の死に原因があった。
 人の精神は耐え切れないほどのショックを受けると、一時的に理性を隠す。理性というリミッターを解除して、体に精神の安定を図るための行動を取らせる。
 彼女は唯一の肉親であるセイロンに、心に開いた穴の修復を求めた。文字通り、体で。

 「姉さん、本当にやめて。僕だって大変なんだから。姉さんだって、泣いてばかりいちゃだめだって分かってるんでしょ? いい加減、しっかりしてよ……」
 「あぁん、セイロン冷たぁい……」
 「出てってよ。現実から目を背けても意味なんてないんだ。……そうだよ。僕も姉さんも、頑張るしかないんだよ……」

 セイロンは正しかった。加えて、現実と向き合えるだけの強い心を持っていた。
 皮肉だったのは、結果的にそのセイロンの強い心こそが、エレノアにとっての毒だったことだ。

 人間、誰しもが強い心を持っているわけではない。特に肉親の死ほど、人の心を弱くさせるものはない。
 エレノアの場合、現実逃避はむしろ心身を守るための防御行動であった。セイロンにそれを真っ向から否定され、彼女が縋るべきものは消えたのだ。

 両親の死から半年も経たない内に、エレノアの精神は修復不可能なまでに壊れてしまう。致命的な精神的欠損は、ついにエレノアを正気に戻すことを許さなかった。

 そして、そんな姉に対し、セイロンは……。

 現実の非情さは自明である。
 この姉弟の一連の話に関する結末は、セイロンが念能力に目覚める切欠となり、また、彼が己の異常な性癖に目覚める切欠ともなった。とはいえ、その詳細が語られることはない。
 その痛々しくも愛しい思い出は、何よりも大事な宝物としてセイロンの胸に今もしっかりと仕舞われているのだから。

 あれから長い年月が、両親の死から約20年が経った今、セイロンは幼い日の面影がうっすらと残る顔に、幼い日の彼からは想像もできないような表情を浮かべている。
 にたりと頬に張り付く、背筋が凍るような不気味な笑みである。

 「あー、やっと本番だなぁ……。うぉ、緊張するぅ……。あー、もぅ、頑張ってズッタズタにしてやるからなぁ」

 セイロンは銀の首輪の締め付けをしっかりと意識する。
 そして、金色の文字でNO.607と刻まれたドアの前で、絶を解いた。 
 


 3・NO.607  



 夜、ヨークシンプリンスホテルの607号室は、ラッコとラッコの母が過ごす穏やかな空気に包まれていた。
 母子共に特にすることはなく、ラッコはベッドに寝転がり、母に買ってもらったペティナイフをさまざまな角度からただ眺めている。母はソファに腰掛け、そんなラッコの背中を眺めている。
 冷蔵庫の駆動音が聞こえるほどの沈黙が、狭い部屋を支配していた。二人にとって、それは不快な沈黙ではない。
 おもむろに、ラッコが「ねぇママ……」と呟いた。

 「んー? ラッコ何ー?」
 「ママー、あのね。お父さんの話、してほしいなー」
 「……お父さんの話?」
 「うん」

 母は少しだけ驚き、黄色いワンピースに包まれたラッコの小さな体を見た。この賢くも愛しい幼い娘は、今まで意図して父の話題を避けているのだと、そう母は思っていたのだ。お父さん、という言葉が娘の口から出たのが、そもそも始めてのことである。
 母はにこりと笑った。

 「お父さんのどんな話が聞きたいの? ママの旦那さんだった頃の話?」
 「どんな人だったのか、とかが聞きたいなぁ。ねぇ、お父さんって優しかった?」
 「うーん、どうだったかなぁ……。仕事が忙しい人だったから、あんまりお話した記憶がないんだよねぇ。あ、でも、もし今でもラッコのお父さんだったら、きっと優しいお父さんだったと思うよ」
 「えー、なんでー?」

 疑問の声と共にラッコが振り向き、母と目を合わせた。
 母は目を細めて、ラッコの真っ直ぐな視線を受け止める。

 「お父さんね、ラッコがまだママのお腹にいるとき、よく楽しそうにラッコとお喋りしてたの。今日は暑いなーとか、まだ起きてるかーとか、どーでもいいような内容だったけどね。……多分、あの人はあの人なりに、ラッコのお父さんになるのを楽しみにしてたんじゃないかなー」
 「ふーん……。でも、私が生まれる前にママと別れちゃったんだよね? なんで?」
 「さー、なんでかなー。結局理由が聞けなかったからねー」
 「えー? それ、凄い自分勝手なんじゃないの? ママ、そんな人のどこかよかったの?」
 「うん、まぁ確かに、身勝手って言ったらそうなんだけど……。でも、よーく見れば優しい人だったと思うんだよね。気難しい人だっただけで。それこそ、あの人が今この瞬間もラッコのこと愛してくれてたとしても、ママは不思議に思わないなー」
 「えー、やだー」

 眉をひそめて不満を口にするラッコを、母は笑う。

 「まぁまぁ、そう言ってあげなさんな。ママとあの人はもう他人同士だけど、ラッコがあの人の娘であることは変わらないんだよ?」
 「……でも、お父さんが今何してるか分からないんだよね? もう私のことも忘れてるかもしれないよ?」
 「うーん、多分結構近くに住んでると思うから、それはないんじゃないかなぁ。職場が変わってなかったら、だけど」
 「えー、でもやっぱりやだー。顔も知らないもーん」

 ベッドの上に足を伸ばし、ラッコはペティナイフを手の中で弄んでいる。オーラを纏ったその体は頑丈だが、そのことを知らない母は、今にもナイフの鋭利な先端部が娘の肌に触れそうで気が気ではなかった。
 そんなとき、ふと母は娘に違和感を感じた。正確には娘の隣に違和感を感じた。そこには、いつもあるはずのものがなかったのだ。

 「ラッコ、そういえばクマさんは?」
 「ハンさんのこと? お家だよー」
 「え、持ってこなかったの?」
 「うん。だってママと私とお出かけしたら、お家に誰もいなくなっちゃうでしょ? ハンさんはお留守番してくれてるの」
 「へぇ、そうなんだぁ……。うーん、そっか。ハンさんがお留守番してくれてるなら、ママも安心だなー」

 眉毛が特徴的なクマのぬいぐるみを思い出し、母は口元を緩めた。
 ラッコの5歳の誕生日に手作りしてプレゼントしたそれは、3年経った今でも大事にされている。母にとっては純粋に嬉しいことであった。

 「あ、そうだラッコ。ママ、今度また新しいクマさん作ったげよっか?」
 「えっ、ハンさんのお友達!?」
 「うん、そうなるかなー。ラッコももうすぐ9歳になるし、ハンさんだって一人じゃ寂しいでしょ?」
 「おー! ママ、それ凄く良い! ありがとう!」

 母が半ば予想していた通り、ラッコは新しいプレゼントの提案を全力で喜んでくれる。花が咲くような笑みを浮かべ、ベッドに座ったまま体を跳ねさせるラッコは、それだけを見れば歳よりも幼く感じられるほどだった。動きに合わせてふわふわと舞う長い黒髪が、その印象を強めているのかもしれない。

 母も釣られて笑った。今日は笑ってばかりだな、と穏やかな気持ちで考える。不安もあったが、旅行に行きたいという娘のわがままを叶えて良かった、と心から思う。
 しかし、次の瞬間起こることは、さすがの母にも予想できないものだった。

 「ふふふー、ハンさんの新しいお友達かぁ。名前どうしよっかなー、どうしよっかなー。──えっ!?」

 ご機嫌に歌いながら、ばいんばいんとベッドのスプリングを使って跳ねていたラッコの表情が、突然強張り、その拍子にラッコの手からするりとペティナイフが抜け出したのだ。
 宙に投げ出されるナイフ。金属の刃は蛍光灯の光を反射しながら上昇し、天井付近で一瞬停止する。直後、すぐさま落下してラッコの頭に向かった。
 刃を下に向けて、頭に。切っ先を光らせて、頭頂に突き刺さったのだ。

 「らっ……!」

 母の言葉と動きが止まる。母は眼球の動きすら停止して、ただ娘の頭に突き立ったナイフを傍観してしまった。
 そんな母の視線の中で、ナイフはゆっくりと倒れる。ナイフの刃はラッコの纏うオーラに阻まれ、肉体にまでは達していなかったのだ。
 そうとは知らない母は、数秒の自失状態からやっと回復。慌ててラッコに駆け寄り、ナイフがラッコの頭の上から落ちる前に回収した。続けて娘の頭を調べるが、ナイフが突き刺さったはずのそこに血はなかった。

 「ちょ、え……。ラッコ、大丈夫なの!?」
 
 そのとき、母はぞわりと全身が震えたことを自覚する。

 「ら……っこ……?」 

 小さな声で呟き、母は自分の体が震えを止めないことに驚き、恐怖した。
 ナイフが頭に落ちてきても平気な娘に対する恐怖──ではない。ラッコが少し変わっていることなど、今更指摘されるまでもなく分かっていることだった。
 
 そうではなく。もっと正体不明の、根源的な恐怖。

 母はそっと視線を下ろし、娘の顔に目をやった。そこに、先程までの笑顔の娘はいない。
 笑顔ではあった。ラッコは確かに笑顔を浮かべてはいたものの、それは今まで母に向けられていた暖かい笑みではなく、まるで、へたくそな落書きによって作り出されたような、歪な表情。泣き顔のような笑顔だった。
  
 「ら、ラッコ? 大丈夫……?」
 「ん、何が? あ、ママ」
 「え?」
 「ごめん。私、ちょっとお出かけしてくるね」
 「お出、かけ……?」
 「うん。なんか急に外の空気が吸いたくなったから。あ、付いてきちゃだめだよ? 私、どうしても一人になりたいんだから」 

 奇妙だった。
 ラッコが静かに立ち上がり、ベッドから降りて自分から遠ざかっていく様子を、母は眺めることしかできなかった。手に小さなペティナイフを握り締めて、隠しきれない震えを持ったまま。
 意思を裏切り、ドアに向かう娘を追いかけることを母の体が拒否していたのだ。それどころか、手を伸ばすことすら、足を動かすことすらできなかったのだ。
 母は本能的に理解していた。今、ラッコを部屋から出してはいけないことを。

 「え、ちょっと待ってよラッコ。だめに決まってるでしょ、そんなの。そんなの、危ないに決まってるでしょ?」
 「ねぇ、ママ」
 「ねえラッコ聞いて? ママ、ちょっと急に病気になっちゃったみたいなの。どうしても動けないから、ラッコに看病してもらわないと大変! ねえ、お散歩なら後でママと一緒に行こ? だから、今はだめだよ。今は一人出ていっちゃだめだよ」
 「ママ、ごめんね。でも、どうしても行きたいから」

 母の体は、ラッコによって嵐のようなオーラを叩き付けられていた。単に指向性を持ったオーラを向けられているだけであったが、念能力者でない母にはオーラの正体が掴めない。よって、その力を打ち破ることもできない。重力が増したかのように、体がぴくりとも動かないのはそのせいであった。

 「ラッコ、待って? ね? 変なこと考えないでさ」
 「変なことなんて考えてないよ? ちょっと外の空気吸って、すぐに帰ってくるから」
 「急にどうしたの……? ねえ、ラッコ、何があったの? ママに言ってみてよ、ねえってば!」
 「ママ、あのね」

 ラッコはドアに手をかける。
 そのときの娘の表情を、母は窺い知ることができない。それどころか、加速度的に意識さえ朦朧とし始めていた。小さな娘の背中が少しずつ霞み、ぼやけ、滲んでいく。母は全身を叱咤し、なんとか娘に近づこうとするが、叩きつけられているオーラは気力だけでどうにかできる代物ではなかった。
 そして、ラッコがドアを開きながら言った次の一言は、母の気力すら奪ったのである。

 「……大好きだったよ、ママ」

 扉が閉じられた後、部屋にはついに意識を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ちる母だけが残された。



[21271]
Name: 誘電分極◆9d806c6d ID:6edb6924
Date: 2010/09/11 23:03



 オーラとは、精神エネルギーに等しい。精神エネルギーとは、心の強さに起因する力のことである。そのため、個人が持つオーラの性質は、人それぞれの才能や性格に大きく左右される。必ずしも言い切ることはできないが(念には例外が付き物であるため)、例えば将来に漠然とした不安を抱く平凡な大学生と、明日の我が身すら省みない豪気なホームレスとでは、後者のオーラの方がより力強く色濃い。

 真っ直ぐな意志、迷いのない心、不屈の精神、炎のような情熱、明鏡止水の冷静さ。そういった類ものから、オーラは自然と溢れ出るのだ。一般的には、無垢な子供よりも経験豊かな大人の方が強いオーラを持っているとされる。複雑な情念や知性でオーラが増えるのであれば、それは事実なのかもしれない。自分に自信が持てない凡百の大学生風情よりも、自分を世界一の賢人だと思い込んでいるホームレスの方が大きな念能力的才覚を持っていると推察されるのは、そのためだ。

 修行でオーラ量を増やすこともできるが、そこで大事なのは修行の内容ではなく、オーラが増えるとされる修行をこなした、という『確信』である(その確信をより強固にするためには、修行の内容も大事であることは言うまでもない)。このことも、オーラがいかに心的状況に左右される力かということを示しているだろう。
 
 ヨークシンプリンスホテル607号室で、ラッコは他者のオーラを感じた。オーラの発信源はドアの向こう側。
 弄んでいたナイフを思わず手放してしまうほどそれは濃密なオーラであり、円を使って探らずとも(彼女は円を苦手としていたが)、ラッコはそこに自分以外の念能力者がいると瞬時に悟った。

 そしてラッコは、間を置かずに色々なことを諦めてしまった。相手の風貌や能力の性質を知るより先に、ただただ『敵わない』と思ってしまったのだ。恐怖を感じた、と言い換えても良い。
 これは二つの意味で致命的なミスである。一つは、諦めるにしても早すぎたこと。もう一つは、諦めた先に何のビジョンも持たなかったこと。
 敵わないと思ったなら、その先にどうするのか、ということをラッコは考えるべきだった。無謀を承知で戦うのなら勇気を振り絞るべきたったし、逃げるのなら策を巡らせるべきであった。諦めた時点で思考を停止したラッコは、自ら己を窮地にへ追い込んだようなものだった。
 
 ラッコは不出来な笑みを顔に浮かべることに全力を尽くした。そうでもしないと、自らの心が感じる恐怖にぺちゃんと押し潰されてしまいそうだったからである。
 様子のおかしいラッコに戸惑いながら、ペティナイフを握っておろおろする母を横目に、半ば自暴自棄にオーラを発散させながらドアへと向かうラッコ。何らかの目的や計画があったわけではなく、そのときラッコの頭の中にあったのは、『とりあえず私がなんとかしないと』という使命感にも似た気持ちだけだった。

 ちょっと散歩に行くだけだからと誤魔化し、母の動きを剥きだしのオーラで押し留め、自分よりも明らかに強い相手の下へと何の対策も講じずに向かう。
 相手の目的は何なのか、そもそも相手は自分に危害を加える存在なのか。そんなことすらも判然としない状況で、ラッコの取ったその一連の行動は余りにも浅はかだったが、忘れてはならないのは、ラッコの精神性の主体が8歳の少女のものであるということだ。8歳の少女に、突発的なシチュエーションに対する冷静で正確な判断を求めることは酷である。

 「ラッコ、待って? ね? 変なこと考えないでさ」
 「変なことなんて考えてないよ? ちょっと外の空気吸って、すぐに帰ってくるから」
 「急にどうしたの……? ねえ、ラッコ、何があったの? ママに言ってみてよ、ねえってば!」

 母の縋るような声が背中にかけられたが、ラッコには答えられない。 

 「ママ、あのね」

 ドアノブに手をかけながら、ただ、言う。

 「……大好きだったよ、ママ」
  
 ラッコの自己犠牲の精神は年相応に幼く、思慮が足りず早計であった。
 もしもラッコがもう少し冷静であれば、前世で得た人生経験を元にこのシチュエーションをもっと的確に処理できたかもしれない。
 とはいえそれは結果論。ラッコは無策でドアを開いた。
 ドアを閉める直前、オーラを過剰に浴びたことで精神的疲労が限界に達したのか、母が部屋の中で倒れる音が、ラッコの耳を静かに打った。



 4・疎開する
 


 ヨークシンプリンスホテルの廊下は明るく、きちんと整備された蛍光灯の輝きは、昼でも夜でも廊下を照らし出している。

 部屋から廊下へと出たラッコは、後ろ手にドアを閉めた。すると、小さな機械音が静かな廊下に鳴り響く。それは、オートロックシステムによってドアが施錠された音である。キーを持たないラッコは、これでもう部屋には戻れない。少なくとも、部屋の中で気絶しているだろう母が目覚めるまでは。

 しかし、そんなことにまでラッコの考えは回らない。
 廊下に出てすぐ、至近距離から声をかけられたためだ。

 「なんだい、結構あっさり出てきたなぁ。ちょっと予想外だ」

 軽薄な声だった。
 ラッコは気を引き締め、身体に纏うオーラの量を少しだけ増やした。

 「おじさん、オーラ、部屋の中にまで駄々漏れてるよ? 誘われたのかと思ったから、出てきたんだけど」
 「お兄さん、な? 次からは気をつけろよクソガキ」
 「人にはそんなこと言いながら、自分はクソガキって……」
 「ああ? なんか言ったか?」
 「んーん、何にも」

 ラッコは首を反らして、斜め上へと真っ直ぐ視線を向けている。
 相手は、小さなラッコからすれば巨人にも等しい体躯を誇る、とはいえ一般的な成人男性と比較すれば極々平均的な身体を持った、スーツ姿の男だった。銀色の輪で首を締め付ける、セイロン・スルルツである。セイロンは荷物など何も持たず、ズボンのポケットに両手を突っ込んで濁った目でラッコを見下ろしている。

 「それで、お兄さんは何かご用? わざわざこの部屋の前で絶を解いたんだから、目的があったんだよね?」

 ラッコは積極的に自分から喋ることで、主導権を握ろうと考えた。今更ながら、何も考えずにドアを開けてしまった自分の愚かさに気付いたのだ。いざ現実的に突発的シチュエーションの中に入り、『正体の分からない危機感』が、セイロンという『形として明確な危機感』に変わったことが、ラッコに地に足の付いた思考を取らせたのかもしれない。
 そんなラッコに対して、セイロンは片目を器用に吊り上げてみせる。

 「んあ、絶を知ってるか。いったい誰に教わったんだろうなぁ……」
 「あの、もしかしてママに用事がある人? でも、それならまた今度にしてね。今、ママお部屋でお休みしてるの。だから、あんまり私も部屋から離れられないし、私に用事があるん場合も、ここで聞くことにするね?」
 「しかも、ガキのくせに意外としっかりしてやがる。纏も綺麗。念の扱いにもちっとは慣れてるっぽい。ふむ、どうしたもんか。どーじたもんかなー。……フヒヒッ」
 
 突然小さな奇声を発したセイロンは、一瞬だけ相貌をぐりゃりと歪めた。

 ラッコは数秒の空白の後、その声が笑い声であり、その表情が笑顔であると気づく。部屋の中でオーラを感じたときも思ったことだったが、目の前の男が相当ヤバイ類の人間であると、ラッコは改めて判断した。改めて判断するまでもなく、そう思ったからこそ一人で部屋を出てきたわけだが。
 ラッコは緊張を悟られないよう、やんわりと幼い笑みを浮かべる。

 「……あの、何も用事がないの? だったら、私、もうお部屋に戻らせてもらうね?」
 「んあ? いや、だめだめ。だめに決まってるっつーの。あー、ラッコちゃんには、今からちょっとだけ俺と遊んでもらいまーす。えー、まあそういうわけだから、戻るのはだめ。あ、すぐ終わるから、大丈夫、大丈夫」

 そう言うセイロンの顔は醜い。邪な思いはオーラからも滲み出し、それはセイロンの表情までも変化させていた。
 ラッコは目尻を下げ、セイロンに申し訳なさそうな顔を見せる。演技の表情。心中ではけたたましいほどにアラームが鳴っている。 

 「あのね、ごめんね、今ママが具合悪くて、やっぱり、私ママのことが心配だから、そばに居てあげたいの。だから、遊ぶ時間はないの。ごめんなさい、お兄さん」
 「ああ、そう。ラッコちゃん、ママが心配なんだ。そうなんだ。そうなんだ……。だから俺とは遊んでくれないのかぁ……。くくく、そっかそっかぁ」
 「うん、そうなの。だから──」

 ラッコは喋り、セイロンが返事を交えながら聞く。

 しかし、そんな一連のやり取りとは全く無関係に、突然ラッコの小さな身体が宙に浮いた。

 ──否、吊り上げられたのだ。セイロンの右腕に頭を鷲掴みにされ、ラッコの足は床を離れていた。目を離していたわけでもなく、油断していたわけでもなく、ラッコにはセイロンの腕の動きが『純粋に』見えなかった。ポケットから手を抜いた動作さえ。
 ドクン、とラッコの鼓動が、セイロンの動きに遅れて跳ねた。

 「……んあー、まぁ身体能力は並ってとこか。あ、まず一つ、忠告」
 「い、いや……」

 ラッコの眼前に、セイロンの顔が寄せられる。息がかかるほどの距離で、セイロンは唇の端を小さく上げる。
 平凡な輪郭。平凡なパーツ。平凡な黒髪に平凡なブラウンの瞳。セイロンの顔を形成するのは、紛れもなく平凡な要素ばかりであった。そんなセイロンに、ラッコは凡庸な印象を抱くことができない。どこか狂ったようなオーラと、完全に狂ったような表情。そして自らを圧倒的に上回るであろう実力故に。
 ラッコの表情が恐怖で引き攣った。

 セイロンはラッコの耳元に口を寄せ、平凡な声で囁く。

 「俺の言うことに逆らうなボケ。黙って従えメスガキ。逆らったら、てめえの大好きなママをひゃっぺん犯していっぺん殺すぞクソッタレが」

 すると、ラッコの意志とは裏腹に、まるで糸を引っ張られた人形のような動きで、ラッコの首が細かく縦に振られた。ラッコは絶望的な思いを抱きながら、濃密なオーラの気配を感じている。身体を念で操られたのだ、と彼女が気付くまで、時間はかからなかった。
 操作系か? とラッコの中の冷静な人格が言う。しかし、8歳のラッコにはそれを考える余裕などない。恐怖に頭を掴まれている。

 「わ、私に、何がしたいの……?」
 「だから、ちょっと俺と遊んでほしいだけだって。まあ具体的に言えば、そうだなぁ……。腕か足をちょん切る遊びでもしよっか?」
 「ひぃっ!」

 右腕でラッコの頭を鷲掴み、吊り下げたまま、セイロンの左手はラッコの頬を優しく撫でていた。
 ラッコはその拘束から逃れようと全身に力を込めるが、ラッコの心の中では巨大な恐怖が無秩序に暴れ回っている。それが邪魔をして、ラッコのオーラは練られたそばから拡散し、彼女の力とはならない。

 そして、オーラに頼らない少女を力でねじ伏せる事など、セイロンにすれば余りにも容易いことだった。セイロンは半ばパニック状態にあるラッコを眺めながら、意地の悪い笑みをにやりと浮かべる。

 「ラッコちゃん、離してほしい? なんで? 痛いから?」
 「うっ、うっ、やだ、怖いの、やだ……。離して……っ」
 「そーんなに離してほしいかぁ……。なら、首を切り落とす遊びもありかもなぁ。今からやる?」
 「や、やめて……。お願い、やめて……。なんで、こんなこと……」
 「ふひひっ!!」 

 目に涙を溜めたラッコがセイロンに問いかけるが、まともな返事が返ってくることはなかった。
 その代わりに、セイロンはラッコの頬を撫でていた左手を離し、上着の内ポケットをごそごそとまさぐった。そうしてポケットの中から出てきた物は、ラッコにとって見覚えのある形をしていた。ナイフ。それも、特徴的なデザインの。

 「そ、れは……」
 「もちろん、ラッコちゃんはこれが何か分かるよな? 昼間、ラッコちゃんはこれを欲しがってた。しかも、他のどんな競売品も無視して、これだけに凄いこだわりを持ってた。普段は利口でわがまま一つ言わないラッコちゃんだから、ママも驚いただろうな。でも、俺には分かる。このナイフからは、注意して見ればオーラが出てる。これは、ベンズナイフと呼ばれる逸品だ。で、なんでだろうねえ……。ラッコちゃんは、そのことを、明らかに知っていた」
 「なんで……」
 「それはどっちの意味の、なんで? ラッコちゃんの昼間の行動を俺がなんで知ってるのかって意味なら、ずっと君とママのことを監視してたからだな。あー、なんで、君がベンズナイフのことを明らかに知ってたって俺が思ったのかって意味なら、まあ、単に勘だ。余りにも、君がこのナイフを見つける手際が良かったもんで、色々と妄想を巡らせたってわけだ」

 くるんと、セイロンの手の中でベンズナイフが踊る。オーラを纏ったその刃は、同じようにオーラを纏ったラッコの体を傷つけることができるだろう。傷つけるどころか、切り裂くことすら容易いかもしれない。

 「んあー、まあ、こんな話は別にどうでも良いんだよ。大事なことは──」

 セイロンは口の動きを止めた。不自然な静けさが廊下に広がる。彼は口を閉ざし、自身の右手に拘束されたラッコを、まるでピンセットで羽を縫い止められた蝶々に対するような目で、ただ観察したのだ。
 
 今や、ラッコの目に恐怖以外の色はなかった。蛍光灯の光がセイロンの銀の首輪にきらりと反射する様子さえ、彼女にはおぞましい光景に感じられた。抵抗の意志すら、もはや無い。思考は完全に停止し、弱弱しいオーラが彼女の体を頼りなく守っていた。
 
 セイロンは口を開く。 

 「そう、大事なことは、俺が操作系の念能力者であり、今からラッコちゃんに一つの念をかけるということで、そのために俺は今ここにいるってことだ。ああ、でも、俺の念をかけられちまっても、ラッコちゃんははっきりと、セイロン・スルルツの姦計見破ったり、と言えば良い。そうすれば、ラッコちゃんにかけられた念は簡単に解ける。大切なのは、はっきりと発音すること。それと、強い気持ちで言葉にすること。ああ、それともう一つ大事なことは、俺の念は、相手に解除方法をしっかりと教えることで発動するってことだな。はい、分かった?」
 
 こうして、セイロンの矢継ぎ早な言葉にラッコの考えが追いつくより先に、セイロンの念能力【思い出疎開(メモリーポートレート)】は発動した。

 ラッコは自身を覆いつくしてしまいそうなほどに膨れ上がったセイロンのオーラに、思わず息を止めていた。身動きが取れないラッコによる、せめてもの抵抗。無論、無意味である。
 対するセイロンは、左手のベンズナイフを無言で閃かせた。複雑な形状の刃は、空気さえ裂くようにラッコの頬すれすれを走り抜けていく。
 ひゅ、という風を斬る音が、ラッコの耳に届いた。

 「はい、とりあえずちょっとだけもーらい」

 はらりと落ちたのは、ラッコの長い黒髪の一房である。セイロンはそれを宙で掴み、満足げに頷いていた。
 ラッコには意味が分からない。

 「な、何を……」
 「わかんねえ?」
 「え……?」
 「俺はラッコちゃんに念をかけた。解除方法は教えただろ?」

 そう言うセイロンの表情は、全てが笑みで構成されていた。その笑みの全ては嗜虐心で構成されている。
 そこで、やっとラッコは気付いたのだ。自分が『された事』に。
 正確には、自分が『された事』を『覚えていない』ということに。

 

 ♯


 
 作者です。まずはここまで読んでいただきありがとうございます。いくつか、この場を借りてお詫びとお知らせを。

 まず、一部に致命的な誤字や、全面的に説明不足な箇所があったので、今までの記事を少しだけ修正させていただきました。なお、ストーリーに一切変化はありません。誤字を指摘くださった方、ありがとうございました。

 次に、近々タイトルを変更する予定です。今更ながら意味のよく分からないタイトルだったので、意味の分かるタイトルに変えようと思います。しばらくは(旧題・~)と付けるつもりです。

 以上です。
 では、これからもよろしくお願いします。



 


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