底の夢夢
序章・失くしても気付かない
一瞬の浮遊感の直後、それとは全く別種の開放感が彼女を襲った。
脳みそを焼き切られるような、抵抗しがたいオルガスムスにも似た感覚である。
彼女の体が意識を手放したのだ。視界は真っ白に、思考は真っ黒になり、五感は全てシャットダウンされる。
死を目前に控えた体が、咄嗟に取った本能的な防御行動であった。
人は、死の恐怖に耐えられない。よって、実は(場合によっては)死の直前に既に死んでいる。
マンションの七階から飛び降りた彼女は、地面との接触の1.72秒前に意識をなくし、0.23秒前には命をなくしていた。
彼女が29歳の誕生日を迎えた、なんでもない春の日のことであった。
0.23秒後、彼女はマンション前のアスファルトに咲く、一輪の大きな赤い花となった。
警察はその死を自殺と断定。早々に捜査を打ち切った。
異議を挟むものはいなかった。部屋に残った遺書が、それをあっさりと認めていたのだ。
『お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は死にます。どうしてもこの世界が、私の世界だとは思えないから。お葬式の費用は私の貯金からどうぞ。余ったお金は好きに使ってください。今までろくに親孝行できなかったこと、許してね。一足先にあの世に行ってます。部屋にある私のぬいぐるみは、全部私と一緒に燃やしてください。最後に、今まで本当にありがとう』
遺書を発見した警察の人間が感心したことは、その字の達筆なことだった。とても今から死ぬ人間の字とは思えない、魂を揺さぶる力強さを持った字であったのだ。
しかし、内容としては極々平凡な、特に不審な点の見当たらない遺書だった。
彼女の両親は突然の娘の訃報を信じられず、しばらくの間何も食べないことで現実に抗った。
通夜と葬式には彼女の多くの知人が集まり、彼女との余りにも早すぎる別れに思い思いの涙を流した。
誰もが悲しみ、心を痛めた。とはいえ、特別なトラブルのない、一般的な通夜と葬式であったことは間違いない。
知人の一人が言った。
「なんで自殺なんか……。明るくて良い子だったのに……」
彼女の心の闇を知る者は一人もいなかった。当然である。人は誰もが心に闇を持ち、普通はそれを周りには明かさず生きていくのだ。彼女はそこで『生きない』という行動を取ったに過ぎない。親や恋人でない限り、人は他人を真の意味で理解することができない。それは、生死に関わることであっても変わらない。
半年後には、ただの知人は彼女のことを思い出さなくなっていることだろう。
3年後には、両親でさえ思い出に涙を流さなくなっているかもしれない。
20年後、果たして彼女の墓を掃除する者はいるだろうか。
50年後、彼女のことを、誰もが知らないのだ。
彼女は世界においてその程度の存在だったが、それは彼女に限ったことではなく、全ての人間に言えることである。
とにかく、彼女は死んだ。彼女のストーリーは、まだ死んでいなかったが。
1・幼年
ラッコ=ハイネマンの前世は酷いものだった。
一般家庭の娘として生まれ、何一つ不自由なく育ち、真面目に勉強に励んで名門大学を卒業。その後、親のコネで大手出版社の編集者として雇われ、金銭的には余裕のある一人暮らしを続けること6年余り。平日は朝から夜まで働き、休日は家で静かに過ごしたり友達と遊びに出かけたり……。
それは他人からすれば、不足のない幸せな生活に見えたかもしれない。
しかし別の角度から見た場合、順風満帆な人生ほど刺激のないことはない。事実、自分のあまりの平凡さに、彼女は心底うんざりしていた。彼女はその生活を手に入れるために犠牲(時間や体力)を払い、見返りとして相応の金銭を得ていたに過ぎないのだ。こんな人生の何を楽しめというのか、と彼女は苦々しく思っていた。
陳腐な日常における唯一の癒しは、可愛いぬいぐるみに囲まれて眠る夜の時間だけ。夢を見ているときのみ、彼女の世界は光を放つ。現実の瞼を閉ざし、空想の瞳を輝かせる。それは、余りにも惨めに過ぎた。
恋人でも作れば新鮮味が出るか、と考えたこともあったが、彼女にしてみればその考え自体に刺激がなかった。それはありきたりすぎる!! と魂が叫んでいた。もっと根本的な、もっと根源的なところで刺激が足りない、と常々感じていたのだ。
そう、まるで、自分にとっては特別重要な『何か』を、世界のどこかで見落としてしまっているかのような……。
結果的に、彼女は『何か』を探すことはせず、マンション七階の自室のベランダからダイブすることを選択した。死という道に『何か』を求めた、と言い換えても良い。
部屋を掃除し、お気に入りのぬいぐるみに何度もお別れを言った後、適当に遺書を作って紐無しバンジーを敢行。速やかに死んだ。
確かに死んだ、はずだった。
現在彼女は、8歳の少女としてスクスクと成長を続けている。
ラッコ=ハイネマンという、新しい名を得て。
「ラッコ、みかん食べるー?」
「あー、食べるー」
母の言葉に答えながら、ラッコの目は逆さまのテレビに釘付けになっている。しかしテレビはあくまで相対的に逆さまになっているだけであり、実際に逆さまなのは逆立ちをしているラッコの方だった。長い黒髪が床に広がり、叙情的な模様を作り出している。
「ラッコー、テレビぐらいちゃんと座ってみなさいねー」
「はーい」
逆立ちをしていたラッコの腕が一瞬縮んだかと思うと、その直後バネのように伸び上がった。強力な反動が、彼女の体をふわりと跳ね上げる。さらに体は宙で器用に反転、足を下にして着地が決まる。着地後の動きが全くないことは、ラッコが慣性を完璧に操っている証拠だった。
見事な軽業。しかし、それを見守る母の目は、元気な猿を見るそれだ。
「ラッコって、将来何になりたいの? 体操選手とか?」
「んー、ママみたいなお嫁さんー」
「ママ、お嫁さんはもっとおしとやかな方がいいと思うなー。ほら、ママはラッコみたいに逆立ちなんてできないけど、ちゃんとお嫁さんになったでしょ? 可愛いお洋服着たり、可愛いお菓子作ったり、お嫁さんになるにはそういうこともしなくちゃだめなんだよ?」
「ええー……。ママ、今の私のこと。嫌い……?」
「あ、もちろんそんなことないよ? ママ、ラッコのことだーい好き」
ラッコの肉体は8歳の少女のものであり、実際彼女は8歳の少女であった。一方で、その精神は前世で29年の時を刻んでいる(今のラッコの精神が、前世と現世を合わせた37歳のものである、という意味ではない。また、単純に29歳の精神を持っているわけでもない)。その強みは、他者に自分をどう見せることが効果的なのか、はっきりと理解していることだった。
「私もママのことだーい好き!」
無邪気な笑顔で言い切る。そこに罪悪感はない。あるのは幸福感だけである。精神は肉体に引っ張られ、今のラッコは正真正銘8歳の少女であった。少しややこしいのは、その8歳の少女の精神の中には、確かに29歳の精神も同居しているということだ。
今のラッコは単純にママが大好きな少女であると同時に、大好きなママが喜ぶであろう自分を演出することのできる狡賢い少女でもあった。幼稚と成熟は、彼女の中に矛盾無く内包されている。
「……ほんと、あなたって娘はもうなんていうか、なんていえば良いのかしら……」
「え、ママ、何?」
「……ううん、なんでもないよ。あ、ほら、みかん剥いたげよっか?」
「わ、やった! 剥いて剥いてー」
平和な母子家庭の休日、午後の光景。みかんの皮を剥いて娘に食べさせてやる母親も、口を大きく開けてみかんを食べさせられている笑顔の娘も、世界中の至るところで見られる当たり前に幸せな親子でしかなかった。
違うことといえば、娘の笑顔。純粋な笑顔の中に閃く、一筋の鋭さ。彼女は母を見ながら、目をさりげなく点けっぱなしのテレビにも向け、注意深く耳をそばだてている。午後のニュース番組が伝える、見逃すわけにはいかない情報に向けて。
『いよいよ明日から、今年もヨークシンドリームオークションが開催されます。ヨークシンドリームオークションは10日間にも及ぶ競売の祭典であり、全世界の各方面に大きな影響を及ぼすとされる巨大フェスタです。非常に多くの著名人が直接足を運ぶことでも知られており、我々報道関係者にとっても見逃せないイベントですね。今年はその中でも、一本50億ジェニー以上の価値を持つとされるゲームソフトが複数本出品されるという噂が持ち上がっており、関係者の期待値は例年以上となっているようです』
誰にも分からない角度で、ラッコの唇がにやりと釣りあがった。
年に似つかわしくない、妖艶な笑みである。
▼
生まれ変わった先がハンター×ハンターという漫画の世界だった、という漫画以下の現象が実際に起きていた。最初それを確認したとき(たまたま生まれた病院からハンター協会本部が見えたのだ)、ラッコは熱を出すほど動揺し(そもそも生まれ変わった時点で動揺はかなりのものだったが)、次いで誰かに騙されているのではないかと疑い(窓の外のハンター協会本部がダミーである可能性は高かった)、三日間しっかり考えた末に現実として受け入れた(いくら考えても、彼女を騙す理由のある人間はいなかった)。
案外あっさりと受け入れたのは、動揺とは裏腹に嫌な気持ちではなかったせいだ。
むしろ……。
そう、むしろ、前世の方がおかしかったのだと、彼女はそう思った。
ラッコは少しだけ未来を知っている世界で、前世にはなかった不思議な居心地の良さを感じながら幼年期を過ごした。
母子家庭だったが、働き者の母は優しく、いつしかラッコはこの母以外のことを親と呼んでいた前世の自分に気持ち悪さすら感じるようになっていた。そう感じてしまうほど、彼女は日々に幸せを感じてしまったのだ。
自分は幼く、母は優しく、日々は楽しく。そんな世界は厳しかった。
この世界には刺激が溢れていた。
ハンターという超法規的特権を持つ職業が認められており、幻獣や魔獣といった御伽噺のような生物が実在した。
大小様々で奇妙なコミュニティが乱立し、その中では何よりも『力』が重要視されていた。野蛮な思想であったが、この世界ではそんな野蛮な思想さえも複雑なスシテム社会の一部とされていた。
この世界は、生きているだけでラッコをくらくらさせた。
さらに、最もスパイシーな存在。念という不思議な力。
ハンター×ハンターという漫画の世界に生まれて、念を覚えないという選択肢はラッコにはなく。託児所で過ごす約12時間、彼女はひたすら精神集中を繰り返し、己から流れ出ているオーラを感じ取ろうと努力した。その努力はおよそ半年で実を結び、そこから彼女は半年かけて少しずつ全身の精孔を開くことになった。
乳児のくせに寝るわけでも、かといって泣くわけでもなく、ただ目を閉じて静かにしているラッコのことを母は不思議そうに見ていたが、やがて娘が少し変わった子であるということを理解した。
朝早くから夜遅くまで働かなければならない母の仕事の関係上、ラッコは一日のほとんどを託児所で過ごす。母はそんな娘に対して申し訳ない気持ちを抱いていたが、ぐずることなく、かといって懐いてくれないわけでもない娘の様子に心底安堵していた。なんて良い子なんだろう、と涙が滲むことも少なくなかった。
「ありがとね、ラッコ。ママ、あなたのために頑張るから!」
「……私こそ、優しくしてくれてありがとう、ママ」
「うふふ、そんなのいいんだって。ママったら最近、ラッコのためだって思ったら仕事中でも楽しい気分になっちゃったりしちゃって……って、しゃしゃしゃしゃ喋った!?」
ラッコ、0歳の時の話である。
ラッコとしては、必要なとき以外は放っておいてもらえる環境を悪く思っていなかったし、母のシングルマザーという立場の難しさを理解もしていた。母は親切で、自分のために一生懸命働いてくれている。それだけで、彼女としては母に愛情を持つには十分だったのだ。
少しずつ精孔を開き、ついに全身からオーラが出るようになったのが一歳半の頃。少しずつオーラを開放したおかげか、その時点で纏(オーラを体の周りに留める技術)は完成していた。2歳の誕生日に母の豪快過ぎる『たかいたかーい』によって天井に叩き付けられても、無傷で落ちてこられた程度には防御力のある纏だった。
3歳までに絶(全身のオーラを消す技術)と練(オーラを勢いよく噴出させる技術)を覚え、5歳の誕生日に母からもらったプレゼントを見つめすぎて凝(体の一部にオーラを集中させる技術。単純に凝と呼ぶときは、通常目にオーラを集める)を習得した。
プレゼントは、5歳のラッコと同程度の大きさを持つクマのぬいぐるみ。凛々しい眉毛が印象的な母の手作りの品だった。そのぬいぐるみにハンという名前をつけて、一緒にベッドで寝るほど可愛がるラッコを、母は少し意外に思った。
「ラッコって、時々大人なのか子供なのかわかんなくなるなー」
「私、まだ子供だよ?」
「うん、知ってる。そのクマさん、可愛い?」
「すっごい可愛い! ハンって名前付けたの。特技は爆発!」
無邪気な笑顔で放たれたラッコの言葉を、母は瞬間的には理解できない。
「ば……くはつ?」
「うん、凄い可愛いから。可愛すぎて爆発しちゃうの!」
「……そ、そうなの? それでいいの……?」
「うん!」
5歳の時既に、ラッコの前世での29歳の精神はかなり薄れていたと言って良い。
肉体、環境、生活リズム。それら全てが5歳相応のものであるため、彼女の元々の(29歳の)精神はどんどん心の奥深くへと押し込まれていくのだ。
とはいえ、その成熟した精神が完全に無くなることはなく、あくまでも表に出ないだけである。
既に完成していた人格を持って始められた二度目の人生は、ラッコの精神を正常に育むはずもなく、年を重ねるごとに彼女の心は歪んでいく。
ゆっくりと。