OSCON2002基調講演<フリーカルチャー>
Lawrence Lessig : <free
culture>
2002/07/24@OSCON
(注:日本語字幕作成のための草稿。実際の講演にはパワーポイントによるスライドが多用されている。
日本語字幕付きFlash版を推奨。)
ローレンス・レッシグ:
これまで二年間、百回以上こうしたギグをくり返してきた。
それも今日、終わろうとしている。あと一度、それで最後だ――私にとっては。
締めくくりに歌を作ろうと考えて、私は歌えないし作曲もできないことに気づいた。だがリフレインなら作れる。これが分かれば、私が今日君たちに伝えたいことはすべて理解できるはずだ。
<リフレイン>
- 創造とイノベーションは常に過去の上に築かれる。
- 過去は常にその上に創造されるものを支配しようとする。
- 自由な社会はこの過去の力を制限することで未来を可能にする。
- われわれの社会は日々、自由を失ってゆく。
1.
1774年、自由な文化――“Free Culture”が誕生した。
英国貴族院、ドナルドソン対ベケット裁判の結果、フリーカルチャーがもたらされた――著作権の停止によって。
1710年、アン女王法は著作権を限られた期間、14年間に定めた。だが1740年代、スコットランドの出版業者が古典の再版を始めたとき(スコットランド人に感謝を)、ロンドンの出版業者たちは言った――「やめろ、著作権は永遠だ!」
ソニー・ボノ[*]は「著作権は永遠マイナス1日であるべきだ」といったが、ロンドンの出版業者たちが主張したのは「著作権は永遠だ」。
ミルトンが「労せず利益を貪る独占業者」[*]と呼んだら彼ら出版業者たち(まあ、ここにいるティム・オライリー氏は除いて)にとって、“学ぶ”とはすなわち彼らに借りをつくるという意味だった。
この出版業者たちは、「慣習法(コモンロー)の著作権は永遠だ」と主張した。 この主張は1769年、ミラー対テイラー裁判で認められたが、そのわずか五年後、ドナルドソン判決によって覆された。
そして歴史上初めて、シェイクスピアの作品はフリーになった。出版業者たちの独占から自由に。自由にされた文化はこの判決の結果だ。
リフレインを思い出そう――
歌いたいところだが、君たちは聞きたくないだろう。
2.
そしてフリーカルチャーはアメリカにもたらされた。1790年――われわれの起源だ。われわれは創造性を規制されぬままにする制度を作り上げた。“印刷”のみが著作権(コピーライト)法の範囲だったからだ。著作権法は著作物から派生してつくられた新たな作品を規制しなかった。そして14年の限られた期間のみこの保護を与えた。
これがわれわれの起源だ。そしてさらに重要なことに、1790年には、当時の技術のために、著作権で保護されたすべてのものはフリー・コードだった。シェイクスピアの作品を見れば、ソースを読むことができる――ソースこそが本だ。法律で保護されたどんな創造作品でも、手にとって学ぶことで何が重要なのかを理解できた。それがデザインであり制度だった。特許についてさえ、テクノロジーは明瞭(トランスペアレント/透明)なものだった。機織り機を理解するために、特許状を読む必要などない――ただ分解してみればいい。 当時の著作権や特許は、学習し理解することは自由のままという文脈のなかでの法的な保護だった。この文化のなかでのコントロールはわずかだった。わずかなコントロール…いい響きだ。だろう?
そして当時だけじゃない。18世紀や19世紀のことはいい。20世紀の始まりでさえ――これは私のお気に入りの例だ。
1928年、我がヒーロー、ウォルト・ディズニーがこの傑出した作品を送り出した――『蒸気船ウィリー』としてのミッキーマウスの誕生だ。
だが、この1928年の『蒸気船ウィリー』、後のミッキーマウスの誕生についておそらく知られていないのは、ウォルト・ディズニーはこの『ウィリー』を、バスター・キートンの映画『蒸気船ビル』から、今日のディズニー社の言葉を使えば「盗んだ」という事実だ。『ウィリー』は『蒸気船ビル』を基に作られたパロディ、模倣だった。映画『蒸気船ビル』が作られたのは同じ1928年だ。14年間待つことさえなく、ただRip, Mix, Burn (コピー、加工、公開)することでディズニー帝国を作り上げたんだ。
ピノキオ (1940)
シンデレラ (1950)
不思議の国のアリス (1951)
海底二万マイル (1954)
ジョニー・アップルシード (1955)
ポール・バニヤン (1958)
スリーピー・ホロウ (1958)
眠れる森の美女 (1959)
海賊船 (1960)
ジャングル・ブック (1967)
リトルマーメイド (1989)
美女と野獣 (1991)
ノートルダムの鐘 (1996)
ムーラン (1998)
これが彼のやり方だった。ウォルトはつねに主流の長編映画を真似することでディズニー帝国を築き、われわれはいまその結果を目にしている。これがディズニーだ:パプリック・ドメイン[*公共領域]の、あるいはパブリックドメインに入ってさえいない作品を題材にして、はるかに素晴らしい新しい作品に仕上げる。
たとえば彼ら、グリム兄弟――君たちはおそらく、グリム兄弟自身が偉大な作家だったと思っているだろう――の作品だ。彼らは一連のひどい物語を、誰でも子供たちから遠ざけておくべき、血なまぐさくて教訓じみたおとぎ話を書いたが、ディズニー社がそれをわれわれのために語り直してくれた。
ディズニー社にそれができたのは、それらの作品がコモンズのなかに――知的コモンズ、文化的コモンズ、誰もが自由に手にとり、上に築くことができる場所にあったからだ。そこは“弁護士無用”地帯だった。 誰の許可もいらずに取り、その上に築くことができるのがこの時代の文化だった。これが前世紀の始まりにおける創作の性質だった。
著作権の保護を限られたものにする憲法上の条件がこれを可能にしていた。著作権の保護はそもそもの始まりから制限されたものだった。まず14年間、作者がまだ生きていれば28年、それが1831年には42年間に、1909年には56、そして1962年からはまか不思議――ごらんの通り――保護期間は延長され続けてきた。
過去40年間で11回にわたり、すでに作られた作品に対して保護期間は延長されてきた。これから作られる新しい作品に対してだけではなく、もう既に作りだされた作品に対して。もっとも最近の例はソニー・ボノ著作権期間延長法、またの名を“ミッキーマウス保護法”。これはもちろん、ミッキーマウスの著作権が切れ、パブリック・ドメインに入ろうとする度に、著作権の期間が延長されてきたからだ。
このパターンの意味は、議会にこの法律を可決させるため金を出した連中にはこれ以上ないほど明らかだ。
“ウォルト・ディズニーがグリム兄弟に対してしたのと同じ事を、ディズニー社に対して行うことは誰にもできない。”
かつてわれわれが持っていた文化、過去の作品を誰もが自由に利用できる文化は消え去った。
過去40年間に11回の延長を実現させてきたものたちの辞書にはパプリック・ドメインなどという言葉はない。なぜなら、いまや文化は“所有”されたものだからだ。
リフレインをもう一度。
われわれは常に過去の上に築く。
過去は常にわれわれを阻もうとする。
自由とはこの過去の力を抑えることだ。
だが、われわれはその理想を失った。
3.
物事は変わった――ウォルトがウォルト・ディズニー社を作った頃と比べてさえ。いまや、創造性を規制する強力なシステムが存在する。著作権法を通じて創造性を規制する法律屋たちの強力なシステムは、それと気付かれない形で拡張されてきた。――出版に対する規制から、コピーに対する規制へと。――
コンピュータを起動するとき、内部で何が起きるかは知っているだろう?
そしてコピーから、オリジナルの作品に対するコピーだけでなく、そこから派生して作られたものにまで。
企業ではなく個人が作者の場合(少なくなる一方だが)、保護期間は14年間から作者の寿命+70年間へ。これらは法律の拡張だ。だがテクノロジーを通したコントロールの拡大も存在する。
まず何よりも、この“隠された”創造作品――君たちがプロプライエタリな/専有のコードと呼ぶもの――がある。どういう仕組みで動くのか知ることができない作品、見えないものをさらに法律が保護している。これは読んで理解できるシェイクスピア作品――なぜならコードが本来の性質としてオープンだから――とは違う。今では技術によってその性質は変化させられ、隠されたものになりうるが、法は変わらずに保護しつづけている。
さらに、単なる保護を超えて、創造の成果を利用することへのますます強化される支配を通じて。
君たちも見たことがあるだろう――私のアドビeブック・リーダーだ。『ミドルマーチ』これはパブリック・ドメインにある作品だ。これは“パーミッション”――パブリック・ドメインにあるはずこの作品で何が許可されているか――の表示だ(弁護士が噛んでいるに違いない)。
“クリップボードへのコピーは十日間ごとに10ヶ所まで許可”――いったい誰がこの数字を決めたんだ?
この大長編を“プリントするのは十日間ごとに10ページまで”。そして“読み上げボタンの使用を許可する”。
次はアリストテレスの『政治学』だ。おなじくパブリック・ドメインにあり、一度も著作権で保護されたことはない。だがこの本の場合、一行のコピーもプリントも不可、だが読み上げボタンで聞くのは許可。
そして、まったく恥ずかしいことに――これは私の最新作『コモンズ』だ。“コピー不可、プリント不可、読み上げ技術など言語道断!”。
(つぎのバージョンでは“歌う”ボタンをつけるつもりだ)。
問題は、コントロールが技術に組み込まれていることだ。1760年の出版業者たちは、後の世に君たちコーダーが与えることになるこうした力のことなど思いもよらなかった。法律の拡張にさらにこの技術的支配が加わる。法と技術が組合わさって、創造性への空前の規制を実現する。 なぜなら――簡単な著作権のレッスン:「法律はコピーを規制する」。これはどんな意味だろうか?
この円が著作権のある作品のあらゆる使い方すべてを示しているとしよう。インターネット以前は、ほとんどは規制されない使用だった。これは“フェアユース”じゃない。“規制のない使用”だ。読むことはフェアユースじゃない。そもそも規制のない使用だ。誰かにあげるのもフェアユースではなく規制されない使用だ。この作品を売るのも、上で寝ることも無規制の使用だ。
つぎに、この規制されない使い方の中央に、著作権法で規制される小さな領域がある。たとえばこの本を出版すること――それは規制されている。
さらに、この小さな規制された部分の周囲に、インターネット以前には存在していたこのわずかな帯が“フェアユース”――本来は規制されるはずだが、誰の許可もなく行ってよいと法が定めたもの。例えば他の文章の中に引用すること。これはコピーだが、公正な使用、フェアユースだ。
つまり、世界は二つではなく三つの部分に分かれる。規制のない使用、本来規制されるがフェアユースであるもの、そして本物の著作権の領域。三つのカテゴリーだ。
インターネットへようこそ。ネット上ではすべての行為が“コピー”だ。
こちらの規制されない用途はすべて消え失せる。ネットワーク上のマシンで行われることはすべて規制をうける利用と見なされる。「でもフェアユースは? フェアユースはどうなった」だって? 私ならこう言おう。フェアユースなど知ったことか。この凄まじいコントロールの拡大以前にあったそもそも無規制の使用はどこへいった?
いまや規制されない使用は消え失せ、われわれはフェアユースを議論する。だがかれらはフェアユースを取り除く方法を見つけた。
君たちにはおなじみのクリーチャー、いろいろな芸を仕込めるソニーAIBOだ。誰かがすばらしいaidopet.comサイトを開いて、人々に自分のAIBOをハックする方法を教えた。自分が所有するAIBOだ。
このサイトは持ち主に自分のAIBOをハックしてジャズを踊らせる方法を教えようとした。混乱があるようだが、合衆国ではジャズを踊るのは犯罪じゃない。犬にとってさえ、これは完全に許された行為だ。(なにか別の法律がある州もあるらしいが)。つまり、ジャズを踊るという行為にはなんの問題もない。aibopet.comは「AIBOをハックしてジャズを踊らせるやり方」を載せた。これこそ、この1500$以上するプラスチックの塊のフェアユースだ。「これはフェアユースだ」と思うだろう?
aibopet.comへの警告。
貴サイトはAIBOウェア・複製防止プロトコルを迂回する方法を示す情報を含んでおり、デジタルミレニアム著作権法の迂回行為禁止条項に違反している。
たとえフェアユースにあたる利用であっても、この法律のもとでは許されないのだ。フェアユースはこの技術的コントロールと「触るな!」という法律の組み合わせによって消去されてしまう。残されたのは著作権によるコントロール、創造性への支配だけだ。
これこそ、理解しなければならないことだ。これこそ、映画協会会長のヴァレンティが見逃している核心――これほどまでのコントロールは、かつて存在しなかった。著作権の期間の延長、適用範囲の拡大、すさまじく集権化されたメディアの構造から見えてくるのは、この事実――
歴史始まって以来、これほど少数の人間が、社会の発展のこれほど大きな範囲を支配したことは決してなかった――決して。フリーカルチャーの誕生する以前、著作権が永遠であった1773年にあってすらこうではなかった。なぜなら、すでに話したように、当時は印刷だけが規制対象だったからだ――そのころ何人が印刷機をもっていただろうか。作品に対してしたいことはなんでもしてよかった。通常の使用はまったく規制されていなかった。だが今や、君の人生は君自身が属する世界によって絶え間なくコントロールされている。法がそれを支えている。
リフレイン:
創造はこの支配を阻止することにかかっている。かれらは常に支配を試みる。われわれは抵抗した分だけ自由でありうる。だが、われわれの自由はどんどん失われている。
4.
君たちプログラマー、あるいはGNUは、開かれた[transparent]創造性の世界を作る。それが君たちの仕事だ――21世紀の奇妙な例外、開かれた創造、知識の自由な共有に捧げられた世界。1790年には、これは選択ではなく自然のありかただった。君たちはそのあり方を再建している。これが君たちのしていることだ。君たちは人々が上に築いてゆける共有の基盤を作っている。君たちの一部は、不十分とはいえこれで稼いでいる。これが君たちの事業だ。
1790年のように創造する。それが君たちの生き方だ。
そして君たちは、かつては共有の知識に付け加えてゆくことこそが創造とイノベーションだったのだと残りの世界に思い出させる。このプロプライエタリ[独占、専有]のシステムと自由との戦いにあって、君たちは自由のもつ価値を示している。そして先日のRealNetworkの発表が示すように、この自由というものは今も、この産業で最もクリエイティブな人々の想像力を捕らえている。
――今は。今のところは。
なぜなら――
5.
フリーなコードのもたらす脅威が、フリーなコードへの脅威となって帰ってくる。
ソフトウェア特許の話をしよう。ビル・ゲイツという人物がいる。彼は天才だ。違うかい? 天才的ビジネスマンだ。素晴らしい洞察力をもつ戦略家でさえある。これは彼がソフトウェア特許について書いたことだ。
「今日使われているアイデアを考案した人々が、特許はどう与えられるかを理解していて、もし特許を取得していたとしたら、今頃この産業は完全に行き詰まっていたに違いない。」
ゲイツ氏の言葉で君たちが100%同意する初めてのものだろう。ゲイツは正しい。彼は完全に正しい。そして彼は天才ビジネスマンの面を表す。
「われわれのとるべき戦略は、とれるだけの特許をとることだ。独自の特許を持たない将来の新進企業は先行する巨人たちの決めるどんな対価でも払わざるを得ない。値段は高くなるだろう。すでに確立された企業には将来の競争相手を排除する理由がある。」
未来の競争相手を排除する。
この戦いが、人々が不快に思うような形をとって君たちのレーダーに映ってから四年が過ぎた。四年間だ。わずかな変化だけが起こった。
ティム・オライリーが起こしたいくつかの変化。かれは悪質な特許を攻撃するための活動をしている。それはいいことだ。
Q.トッド・ディキンソン――かつての特許委員会の長――による変化。気に入らない特許などないという人物だが、特許の審査過程にいくつか小さな変更をおこなった。
だがこの分野は現状維持の支持者たちによって圧倒されている。これまでも何にだって特許は与えられてきた。ゆえに、これからもそうすべきだ、というものたち。グレッグ・アーロニアンのように、あらゆる特許は馬鹿げていると説いてまわる人々もいる。だが「特許制度は素晴らしい。絶対に変更すべきじゃない」ということにされてしまう。なぜだ? これがわれわれの住む世界――ソフトウェア特許がますます繁栄する世界だ。
質問がある。
これに対して、われわれは何をしてきた? 君たちは何をしてきたんだ?
未来の競争相手を排除する――これがスローガンだ。この言葉をつくった会社は、これまでのところ特許を守りにしか使ってこなかった。だが、ジャーナリストのダン・ギルモアが引用したように、彼らはこうもいっている。
「オープンソース陣営は問題となる特許が多数存在することを理解した方がいい。そして、われわれがいざとなればそれを利用するのを覚悟しておくことだ。」
だが、この問題についていえるのは、特許は核兵器ではないということだ。特許を強力にしているのは物理法則ではなく、法律屋、立法者、そして議会にすぎない。核兵器を人類を絶滅させられるほど強力たらしめている物理法則にいくら抵抗したところでまったく勝ち目はない。だが、この特許の問題に対してはできることがある。君たちへの法的な脅威と立ち向かう革命に力を貸すことができる。
それなのに、君たちは何をしてきた? 一体何をしてきたんだ?
次に、著作権を巡る戦いだ。ある意味、ホメロス(ホーマー)的悲劇といえる――非常に現代的な意味で。こんな話だ。アメリカの教育についてのドキュメンタリーを撮っていた映画作家がいる。教室で子供たちがテレビに夢中になっているシーンを撮影して、編集の途中、わずか2秒ほど、そのテレビに映っているのが何か辛うじて見分けられることに気付いた。『シンプソンズ』のホーマー・シンプソンだ。そこで映画作家は、友人である原作者のマット・グローニングに電話をかけて聞いた。「なにか問題になるかな?ほんの2・3秒なんだ。」グローニングは答えた。「いやいや、問題ないよ。だれだれに電話してみてくれ。」映画作家はそのだれかと連絡をとり、その誰かからまたべつの誰かに回された。
そのうちに、その誰かは弁護士になった。映画作家は尋ねた――「何か問題になりますか?ドキュメンタリーだし、教育についてです。それにほんの2・3秒なんですが。」
弁護士は答えた。「二万五千ドル。」
「二万五千ドルだって?! ほんの数秒なのに!二万五千ドルって一体?」
弁護士:「どんな映画かなんて知ったことか。二万五千ドル払うか、映画を変えるんだな」。
狂ってる、と君たちはいうだろう。全くだ。そしてこれがハリウッドだけのことなら、まあいい、好きなようにさせておこう。だが問題は彼らの狂ったルールがいまや全世界に押しつけられようとしていることだ。この支配に憑かれた狂気は、著作権が絡むすべてのことにまで拡大している。
ブロードキャスト・フラグ――デジタル放送に付加される信号――の問題。「デジタルテレビに関わるいかなる技術も、ブロードキャスト・フラグに従うように設計しなければならない。」コンテンツが完璧に保護されるようにネットワークそのものを作り替えることを要求する。あるいは法で強制されるチップ――インテルが「すべてのコンピュータの内の警察国家」と説明したもの。インテルはそんなチップを作ったが、この警察国家システムは反発をうけた。
そして最新のものは常軌を逸したこの提案、著作権保持者にP2Pマシンを攻撃する――悪意のあるコードでP2Pネットワークに接続しているコンピュータを破壊する――権利を認めるというもの。“デジタル自警団”だ。さらにもし間違いで君のマシンが破壊されても、相手を訴えるためにはまず訴訟を起こす許可を司法長官にもらう必要がある。
これが、彼らがワシントンD.C.で話していることだ。これが彼らのやっていることだ。映画協会のジャック・ヴァレンティがいったように、これが彼らの「テロに対する戦争」、君たちやその子供たちというテロリストとの戦いだ。
君たちはたじろいでこう聞く。「でもなんのために? なぜ? なにが問題なんだ?」彼らは言う。君たちが与えている害をなくすためだ。その害とはなんだ? P2Pネットワークが与えている害とは? 彼ら自身の主張する数字をみてみよう。
去年、販売されたCDの五倍の量の音楽がネット上でフリーに交換された、という。五倍。
その売り上げの五倍のフリーな交換が与えた害についての主張:売り上げが5%低下。5パーセント。
去年景気は後退していた。彼らはCDを値上げして、統計の取り方も変更した。これらすべてがこの5パーセントに含まれうる。だが仮に含まれなかったとしても、五倍の無料交換が与えた損害の総計は5パーセントだ。
わたしは正しい文脈でいう戦争ならば支持する。だが、これがテクノロジーに対する「テロとの戦争」を呼びかける根拠だというのか? この“損害”が? もしこの5パーセントが、彼らにこの産業を壊滅させる権利をあたえるとしても、コンテンツに手を触れようとするあらゆる相手に仕掛けられているこの“テロとの戦争”が、エンターテインメント産業よりも何倍も規模が大きいIT産業を衰退させていることはだれも考えないのか? ベンチャー投資家に、レコード協会のヒラリー・ローゼンや映画協会のジャック・ヴァレンティが契約したがらないような方法でコンテンツを扱う新技術に対していくら投資したいか聞いてみるといい。答えは簡単だ。$0。ゼロ。
かれらはひとつの産業とイノベーションをテロとの戦いの名の下に葬り去った。その理由、その損害がこれだ。5パーセント。
そして、君たちは一体何をしてきた? これは狂気の沙汰だ。政治的意図で操られている。伝統的な価値観のなかには、こんな法的規制を正当化するものは何もない。それでも、われわれは何もしてこなかった。われわれは彼らより大きいんだ。われわれの側にも権利がある。なのに、われわれは何もしてこなかった。われわれは彼らにこの問題を支配させてきた。
リフレイン:われわれが何もしてこなかったせいで彼らが勝っている。
6.
J.C.ワッツ議員がいる。共和党で指導的な立場にある唯一の黒人メンバーだ。かれは辞任しようとしている。7年半のあいだ下院にいて、もう沢山だという。ワシントンの誰もこれを信じられなかった。自分から政界を退くだって?
彼はいう。君たち同僚はいいやつだ。だが7年半で充分だ。8年は長すぎる。もう出ていくよ。
ワッツがワシントンに来たちょうどその頃、このフリーコードとフリーカルチャーを巡る戦いが始まった。
二日前のインタビューでワッツはいった。これがワシントンの問題だ:“説明しているなら、すでに負けている”。
説明しているなら、既に負けている。
バンパーステッカー文化だ。もし理解するのに三秒以上かかるようなら、すでに圏外。理解するのに三秒、でなければ負け。これがわれわれの問題だ。
この戦いが始まって六年、われわれはまだ説明を続けている。いまだに説明をし続け、負け続けている。彼らはこれを盗みを止めさせるための大戦争、知的財産を守る戦いだという。彼らはネットワークのアーキテクチャの改変がなぜイノベーションと創造性を破壊するか理解しない。彼らは著作権を永遠に延長し続ける。なぜそれ自体がある意味での盗みであるかを理解しない。われわれの共有の文化からの盗みだ。われわれは彼らになにが問題なのか分からせることに失敗し続けてきた。
それがいま、自由の伝統をもちながら、彼らの支配がそれを奪い去った世界にわれわれが生きている理由だ。
私は君たちに語りかけることに二年を費やしてきた。われわれ自身に語りかけることに。そしてわれわれはまだなにも成し遂げていない。ウェブサイトを開いたり、ウェブログやスラッシュドットのストーリーには多くのエネルギーが費やされている。だがワシントンの視界ではなにも変わっていない。なぜなら、われわれはワシントンを嫌っているからだ。そうだろう? だれが政治で時間を無駄にしたがる?
だが、君たちが今、なにかをしなければ、君たちが築いてきたこの自由、君たちが人生を費やしてコーディングしてきたこの自由は奪い去られてしまう。君たちを脅威と見なして特許を利用するものたちに、あるいは著作権法のすさまじい拡大が与えた、イノベーションに対する支配力から利益を得ようとするものたちによって。法律を通じたいずれの変化も、世界から君たちの自由を奪い去ってしまう。
そして、もし君たちが、自分自身の自由のために戦うこともできないというのなら ……君たちはその自由に値しない。
それでも、君たちはなにもしてこなかった。
いく人か、支援できる人物を挙げることもできる。
状況をみてみよう。この中で、EFFに寄付したことのある人は?――ok。
劣悪なDSLサービスのために地元電話会社に払っている以上の寄付をしたのは?――4人。
毎年独占メディア企業に、相手側の陣営を支えるために支払っている以上の金をEFFに寄付しているのは?
かれら、バウチャーやキャノンになにかの支援をしたものは?
これは右か左かという問題じゃない。理解しなければならない重要な事は、これは保守対リベラルの問題ではないということだ。エルドレッド裁判には、17人の経済学者がわれわれを支持する意見書を提出した。ミルトン・フリードマン、ジェイムズ・ブキャナン、ロナルド・コース、ケネス・アロー……コチコチの右派も、左寄りのリベラル派たちも。
フリードマンは意見書の中に「一目瞭然」という言葉を入れるのに拘った。これが彼にとってはまったく一目瞭然だというように。これは右か左かの問題じゃない――正しいか誤りかの問題だ。それがこの戦いだ。かれらは右派からも左派からも来てくれた。
ハンク・ペリット――サイバースペースの祖父――はイリノイ州で立候補して、支持を得るために、このメッセージをワシントンに届けるために苦戦している。かれらがこの運動のソース、主導者たちだ。
そして、このEFF――電子フロンティア財団がある。わたしが理事の一人なのを知っている人もいるだろう。私はその席上で、いくつもの論争をしてきた。君たちの一部は、われわれは極端すぎるという。だが間違った伝え方で。君はメールを送ってきてこう言う。
「あんたたちは極端すぎる。もっとメインストリームにならないと。」
わたしも賛成だ。いくつもの戦いを経てきたシンボルとして、EFFは偉大な組織だとわたしは思っている。だが、その戦い方にも変革は必要だ。力を貸して欲しい。泣き言によってではなく、「もっとメインストリームに!」と書いた小切手を送ることで。小切手だ、いいかい? これが、この戦いを変えるために君たちが慣れなければならない考え方だ。
なぜなら、君たちが今、何かをしなければ、また2年経って、また他の誰かがこう言うだろう。
「OK。二年でもう充分だ。自分の人生に戻らなきゃ。」
そして君たちに言う。
「何一つ変わらなかったよ。」 ―― 君たちの自由の他には。
その自由は、自分たちを脅かす未来に気付き、政治の世界で自らを守る力をもつものたちにいまも奪われ続けている。 自由社会は失われる。
ご静聴ありがとう。
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