| 東洋大牛久高監督 大野久氏(43) | |
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乗せられて同じ道へ 「人生観を変える泥臭い野球を」 |
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結果は0―10のコールド負けだった。大野監督は、「何とか木内監督の引退に間に合った。最後に試合ができたことは本当にうれしかった」と話す。その一方で「木内さんがまだ監督を続けていた方が驚きですよね」とも付け加えた。 27年前の1976年(昭和51年)に取手二の野球部に入部。中学時代は大柄な体格でひときわ目立っていた。校内の短距離走や水泳でもトップと、抜群の運動能力を備えていた。 野球はあくまで遊びの延長だった。興味はむしろ音楽。小学生のころはビートルズ、中学からは矢沢永吉らがバンドを組んだ「キャロル」などロックに夢中だった。音楽仲間とバンドを組んで自らエレキギターを弾き文化祭で注目を集めた。「矢沢永吉にあこがれて髪をリーゼントにしたり、ちょっと不良っぽい格好にあこがれていましたね」。照れながら少年時代を振り返る。 自宅近くに取手二があったため、同校OBから熱心な誘いがあった。「すぐに選手として試合に出場できるぞ」。この言葉に動かされ木内野球の門をたたいた。そのとき初めて髪の毛を坊主刈りに。そのせいかかぜをひいて3日間寝込んだという。 前年の夏の県大会でチームは2年連続準優勝。しかし入ってみると部員数は20人を下回っていた。そのため即レギュラーとしてベンチ入り。大野氏は「ほかのやつらよりもおれの方が野球はうまい」という自負を持っていた。 野球を真剣に打ち込むきっかけは1年秋の県大会。準決勝の相手は、2年前夏の県大会準決勝で苦杯をなめた土浦日大。チームはリベンジに燃えゲームは中盤まで1―1の同点だった。八回にセンターを守っていた大野氏の前に打球が飛んできた。ダイビングキャッチで捕球を試みたがキャッチできずに打球を後ろにそらし三塁打に。この長打で土浦日大に逆転を許し、1―4でまたしても敗退した。 記録は三塁打だったが大野氏は「絶対に捕れると思ったがボールを後ろにそらしてしまった。痛恨のエラーですよ」。試合後、悔し涙とともに「自分のミスで負けた」と自責の念にかられた。 木内氏が「これで大野も野球選手になれるだろう」。1球の重さ、野球の怖さを体感した大野氏にそう語りかけた。野球を心底好きになった瞬間でもあった。 この試合を契機にチームとともに大野氏自身もひと回り成長。翌77年(昭和52年)の夏の県大会準々決勝では、鬼怒商と死闘を演じ延長18回の4―4の引き分け再試合となった。このゲームで大野氏は延長15回に3―4とリードされた場面で、同点打となる貴重な右前適時打を放つ活躍をした。 再試合で鬼怒商を下し、初の甲子園切符を獲得。78年にも県大会を制し、2年連続して全国大会出場を成し遂げた。 最後の夏の甲子園ではエースナンバーを付けてマウンドに登った。「140`は出ていたが制球は悪かった。試合では四球を連発した時もありましたが、選手の人数が少なかったので、交代されずに使ってもらえた。その点、ラッキーでしたね」(大野氏)。 大野氏は一人っ子、家庭では大事に育てられてきた。そんな大野氏に木内氏は、しかったりきつい言葉よりも長所を伸ばす指導をした。大野氏は「選手の性格を巧みにつかみ、気持ちを乗せるように野球をしていた。自分も木内さんに乗せられ野球をし、最後は同じ監督を目指すことになった」。木内マジックの影響を多大に受けた。 東洋大を経てドラフト5位で阪神タイガースに入団。チーム構想で大野氏獲得を決めたのが、土浦一高OBで木内氏の後輩でもある安藤統男氏だった。 91年にはダイエーホークスで盗塁王にも輝いた。中日ドラゴンズで選手、コーチを経て、監督という立場で、今春に高校野球に戻ってきた。 大野氏は「自分の野球のベースには常に木内野球があった。教え子という恵まれた立場にあったのだから、これからも木内野球を継承していきたい」とし、さらに「9人全員でしっかり守り抜き、1つのプレーで自分の人生をみつめるきっかけに、また人生観が変わるような泥臭い野球を目指したい。どこにも負けない強いチームにしてみせます」。 木内野球とロックのような熱いハートを抱きながら、「甲子園」というビッグステージに立つことを目指す。 |
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