下妻二高監督 小菅勲氏(36)

ノウハウ生かし選手育成
「勝つ野球を意識させる」

小菅勲監督は社会科の教師。「地図を見るのが好き」という。練習グラウンドの控え室の壁には、世界地図と日本地図が張られている
取手二の選手時代は三塁手で九番バッター。小菅氏は「守り専門の脇役でした」。2度の甲子園を経験。1984年の選抜ではベスト8、同じ年の夏には全国制覇した。

木内幸男氏(72)は「ノックをやっても守備はうまくならない。アウトにしなければ意味がない」が口ぐせだった。すべて実戦に即した練習をしていた。木内氏は練習中に気付いたことを選手にアドバイス。次の練習で選手がそのアドバイスを実践しているかどうかをチェック。そこで選手としての技量を見極めた。

実戦形式のため個人練習の時間などはなく「練習は3時間程度と短かった」(小菅氏)。そして木内氏は突然、「きょうの練習は休み」と言う時もあった。選手は喜び帰るそぶりをしながらも、厳しいポジション争いに勝ち抜くため学校に戻り、自主練習した。

小菅氏は「試合に出たいという気持ちで自主的に練習し、それが『勝ちたい』という気持ちにも結びついていた」と振り返る。

自身の性格について小菅氏は「神経が図太くて落ち込まず、めげないタイプ」。その性格を見抜かれ、怒られ役として、木内氏からしょっちゅう罵声などを浴びせられていた。「私に向けられる言葉はチーム全体に向けて言っていた。試合のカギとなる脇役の選手の奮起も促していた」という。

木内氏にとって取手二最後のさい配の舞台となった夏の甲子園で、木内氏は「茨城の名前を売るにはこのチームしかない」と宣言。しかしナインには「全国制覇」という意識はなく、勝ち上がっても「また試合ができる」(小菅氏)という思いしかなかった。

PL学園との決勝戦前に木内氏は、「お前ら3年生が桑田、清原の2年生に負けるわけがない」と言いつつも、「勝っても負けても楽しくやろう」と。小菅氏は「あれでリラックスしました」と話す。その結果が優勝だった。

大学在学中の2年間、幸運にも木内氏の誘いで常総学院でコーチを務めた。小菅氏は「あの2年間で、ずいぶんと木内さんから指導のノウハウを盗ませてもらいました」とにんまりする。

2年のコーチ業から伊奈へ。93年の夏の大会2回戦で恩師の木内氏との初対決が実現。打撃戦の末惜しくも8―9で敗れたが、指導者としての確かな手応えを感じながら、チームを常に上位に押し上げていった。そして、96年の夏の準決勝、5―3で常総学院を破り、99年春の県大会・準々決勝でも2―1で競り勝った。

小菅氏は「教え子との試合という意識からか、いつもの木内さんらしいさい配は影を潜め、受け身になっていた」と勝因を語る。名将との対戦成績は2勝1敗で終わった。

コーチとして傍らにいた際、木内氏が「取手二みたいな田舎チームで、勝ったり負けたりする野球の方がおもしろいね」と本音を漏らしたこともあった。

恩師・木内氏の最後のさい配を見届けるため夏はテレビにくぎ付けになったが、「あのチームが全国制覇するなんて思いませんでした」。木内野球の奥の深さを改めて痛感した。

女子校から共学になった下妻二の野球部は創部9年目。チームカラーはまだなくまっ白な状態。そこで小菅氏は木内野球で培ったノウハウなどを生かした新しい野球を植え付け、選手を育成させながら甲子園を目指す。

小菅氏は「木内さんが勇退した今、甲子園に行くチャンスは広がった。私も指導者として、選手にたえず勝つ事を意識させ、勝つ野球をしなければいけない」。

チームは秋の県大会で準優勝し、選抜の出場権をかけた関東大会に初出場した。

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