鹿島学園高監督 三宅富士雄氏(28)

言えなかった「全国制覇」
「自主性と伸び伸びプレーで」

三宅富士雄監督の校内でのポジションは事務職員、笑顔で来校者を迎える
常総学院OBの中で唯一の高校野球監督。ナインとして3度の甲子園を経験。同期生の中にはプロ野球・日本ハムの金子誠選手がいたほか、驚異的なパンチ力のある根本健志氏、エースは左腕の倉則彦氏だった。在学中は「全国制覇」の呼び声が強かった。

地元・鹿嶋市内の小学生ではリトルリーグでは全国大会に、中学でもシニアリーグ東関東大会で優勝した実績を持つ。中心選手として活躍。少年時代から夏の甲子園でテレビに映る常総学院を真剣なまなざしで見つめていた。「甲子園を目指すためにはここしかない」と決意した。

入ってみるとだれもが自分以上の実力者ぞろい。金子選手の遠投は125b。チーム一の強肩で本塁からバックスクリーンまで届く距離を投げるまさに怪物だった。「競争に勝たなければレギュラーにはなれない」。練習が終わっても室内練習場でマシーンを相手に黙々と打ち込んだ。自主練習は深夜に及ぶこともあったという。

入部した当時のチームは3年生のレギュラーが少なかったため、三宅氏は1年の秋から試合に出場。ポジションはセンター。打順は一番バッターだった。

2年生になった翌1992年2年の夏の大会。初戦は水海道一。木内氏からは「相手ピッチャーは制球が乱れている。四球を選び重盗をしろ」。

先頭打者の三宅氏は指示通りに四球を選び、二塁、そして三塁までスチールを成功、そのまま先取点をもぎ取った。三宅氏は「監督の言葉通りの結果になったのには驚きました」。木内氏の鋭い読みに驚愕した。

甲子園では初戦で敗退。しかし、夏を経験した選手がそのまま残り、関東大会で優勝し、そのまま選抜にも選ばれ再び甲子園へ。

3年最後の夏も県大会を制覇し、選抜に続いて「優勝候補」の筆頭に挙げられた。

甲子園ではその前評判通り順当に勝ち進み、2回戦では強豪・近大付を7―0で快勝。ベスト4では準々決勝でサヨナラ勝ちした春日部共栄との対戦を迎えた。

試合前のミーティングで木内氏は、「相手は強い。ここまで良く戦ってきた。負けても胸を張って帰れるぞ」と、珍しくやさしい言葉をナインに送った。ナインはそれにうなずくだけだった。

三宅氏は「当時は選手は口には出しませんでしたが全国制覇の思いがありました。『監督、次も勝ちましょう』と言っていれば優勝できたかもしれませんね」。今でも悔やむ。春日部共栄戦は、木内氏の言葉通りに3―5で敗退した。

レギュラーとして活躍した間は、チームは県内では負け知らず。夢の全国制覇は実現できなかったが、チーム27連勝(92年7月─93年10月まで)は今も県大会記録として残っている。

三宅氏の気が小さい性格と堅実的なプレーに対して木内氏は「もっと冒険しろ」と、選手の気質に合わせた指導をしていた。そのためか三宅氏は「型にはまった窮屈な野球というイメージはまったくなく、伸び伸びとプレーしていた」という。

同校で5年間のコーチを経て2000年4月に監督に就任。今年の春の県大会決勝で初めて恩師の木内氏と対戦が実現したが、結果は0―10。まったく歯が立たなかった。

「選手時代に木内さんは身近な存在でしたが、同じ監督という立場になったら雲の上の存在になりました。選手の時に、木内さんのアドバイスをメモしとけば良かったなあと思いますよ」と苦笑いする。

三宅氏は「選手らに自分のために野球をするんだという自主性と、伸び伸びとプレーできるような指導をしたいです」。木内野球を体感した貴重な経験を基に、今度は指導者という立場で甲子園の土を踏むのが目標だ。

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