| 土浦三高監督 後藤賢氏(43) | |
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監督の「心得」学ぶ 「自分たちの世代が頑張る番」 |
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実家は千葉県柏市。当時、同県では習志野、銚子商など、全国でも名だたる強豪校があったが、「自宅から近い場所で野球に熱心な学校に行きたい」。その願いから取手二高へ。 部員は、総勢二十人程度と少なかった。「グラウンドに立っていた私服のおじさん」(後藤氏)が木内氏だった。当時の指導方法について、後藤氏は「練習時間は他の学校に比べて少なかったが、無駄を省いた合理的な練習をしていた」と話す。 木内氏の趣味はゴルフ。そのゴルフクラブを持ち出し、ゴルフ練習を兼ねて、自分で打ったゴルフボールを、外野の選手に捕らせることもしたとか。木内氏は「伸びる打球を捕る練習だ」と説明していた。 二−三時間を費やしたミーティングも盛んに行い、過去の試合事例を引っ張り出しては、具体的なゲームの流れを説明した上で、心理面も考慮した戦術を徹底的にたたき込んだ。「その記憶力に舌を巻くくらい、過去の試合を詳細に覚えていたのが印象的でした」という。 ミーティングが終われば即練習試合。「対戦相手は、学校に来ていた熱心な後援者が見つけてきた」という。練習よりも、実戦形式の練習試合での指導を重点に置いていた。 「木内さんは、相手のプレーを試合中に先読みし、それが見事に的中した。選手全員、木内さんには絶対の信頼を置いていた。監督は親分、選手は子分のような関係でしたね」。時には木内氏はバッターに「右目で走者を、左目でボールを見ろ」と無理難題を言う場面もあった。 甲子園初出場を決めた県大会準々決勝。鬼怒商戦は延長十八回、試合時間四時間二十二分にも及ぶ熱戦となり、最終的には4―4の引き分け再試合となった。県高校野球史に残る一戦を経験した。 チームは後攻め。1―1のまま延長に入り、十回に試合が動き相手が1点を加えた。その裏の攻撃は二死走者なし。誰もが負けを予想していたが、驚異的な粘りで1点を返し再び同点に。この同じケースが三度も繰り返された。 「甲子園の箕島―星陵戦以上の名勝負だと思う」「とにかくボールにかみつくような気持ちになりましたよ」(後藤氏)。 決勝で土浦日大に勝ち初の甲子園出場となったが、選手の脇でインタビューに答える木内氏は、「チームはもっと力があります。まだまだです」。初出場に喜ぶ表情はなく、淡々としていたのが印象に残っているという。 日体大を卒業後、開校二年目の竜ケ崎南で野球部監督に。九三年の夏の大会準々決勝で常総学院と対戦。試合前に木内氏から、「憎まれない程度に勝つから」。ゲーム前に勝利宣言した。後藤氏は「何クソー、絶対に勝ってやる」と挑んだが、木内氏の予言通り1―5で敗れた。 九六年から現在の土浦三に移り、九九年の夏の県大会で準決勝まで勝ち進んだ。再度、木内氏の常総学院とぶつかった。この時はゲーム前に、木内氏が「今年のウチのチームでは勝てない」と早々と敗北宣言。結果は7―5で初めて恩師を破ったが、決勝では春の選抜準優勝の水戸商の前に涙をのみ、初の甲子園出場の夢は絶たれた。 さらに木内氏は、「試合では(打順が)一巡すれば、勝てるか勝てないかが分かる」とまで言い放った。 監督の道を選んだ時、木内氏は「野球が好きで監督をするのだから、偉くなっちゃいけないよ」。監督の心得についても伝授してくれた。 夏の大会を最後に勇退した木内氏だが、取手二高時代も、「監督は今年が最後」と、引退を口にした事もあったという。後藤氏は「目標にしていた木内さんが引退した今、これからは私たちの世代が頑張る番ですね」。 |
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