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【社会】

会いたい、祖父救った少年 戦時中の四日市、強制労働中、食事譲る

2010年9月11日 夕刊

 太平洋戦争中に日本軍の捕虜となり、三重県四日市市で強制労働させられていた米国人を、自分の食事を譲って助けた日本人の少年がいた。元捕虜の孫ティモシー・ルースさん(27)=米国バージニア州=は「会って感謝の思いを伝え、話を聞きたい」と恩人の情報を求めている。

 ティモシーさんの祖父カール・ルースさんは、米陸軍航空部隊に所属し、27歳だった1941(昭和16)年11月にフィリピン・マニラに入り、日本軍の進攻に降伏して捕虜となった。

 44年9月から終戦までは四日市市の捕虜収容所に入れられ、石原産業の工場で銅の加工に従事。食事は捕虜2人に茶わん1杯の麦飯で、粒を数えて分けるほどだった。体重は36キロにまで減ったという。そんな時、工場で働いていた名前も知らない日本の少年が、少ない食事の一部をカールさんにこっそり分け与えてくれた。

 解放された際、カールさんは米軍から供給された食糧を少年に渡し、少年からは本人の写真を受け取った。

 カールさんは7年前に89歳で亡くなるまで、少年の写真を大切に保管し、いつも感謝を込めて少年の話を家族に話していた。

 四日市市史などによると、当時、石原産業では最大600人の捕虜のほか、学徒勤労隊も作業に従事。写真で少年が着ている制服は、旧制富田中学(現四日市高校)の可能性が高い。少年は、生きていれば80歳近いとみられる。

 ティモシーさんは、日本軍捕虜の体験記などを載せたホームページ(HP)「捕虜 日米の対話」を運営する鹿児島県霧島市のジャーナリスト、徳留絹枝さん(59)に相談。メールなどのやりとりで、ティモシーさんは「少年の親切がなければ祖父は生き延びられなかったかもしれない」として、祖父の恩人と出会えることができたら、当時の状況や祖父との思い出を聞きたがっているという。

 情報提供はHP「捕虜 日米の対話」へ。問い合わせは、徳留さん=電080(1747)2744=へ。

 

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