前エントリーより続く
来たる維新三部作 その三(後章)
遅れ馳せながら「龍馬」構想を実現させよ!
軍隊を持たない近代国家として致命的な欠陥が半世紀を経てそれが定着化してしまった今日、明確な国家プロジェクトも持たぬままかつてと同じ轍を踏むよりは、むしろ新たな国家像を求めていくほうが現実的と言えまいか。
小沢一郎が首相になろうが菅直人が首相になろうが、現体制のままでは仮に自民党政権であっても周辺国から侮られ、現在の民主党政権では海上保安庁の「支那漁船摘発」事件を受け支那(中国)政府が「尖閣はわが国固有の領土」と宣言したことに象徴されるように、なおのこと侮られる一方である。
民主党政権が日米間を離間させれば離間させるほど、支那による日本への軍事侵略の進行を招く。
既に「先軍思想」が破綻した実例が半世紀前にある以上、安全保障上の観点から戦前の日本に戻るだとかファシズム体制に移行するなどと言おうものなら世間からは「えぇ〜!!」と反発・抵抗も強いだろうが、その点、「武家政権」に立ち返るとなると、あまりにも遠過ぎてイメージが沸き難い分、土壌さえ整えば却ってスンナリと受け入れられるのではないか?
日本には鎌倉、室町、そして江戸(徳川)という三度にわたる武家政権が君臨し、江戸幕府に至っては265年にわたって日本を統治した歴史を持つ。
その前後には天皇を中心とした国体を形づくる政治的な大改革が行なわれており、象徴的なのが「大化の改新」と王政復古を提唱した「明治維新」とされるが、結局、日本という国はその歴史を繰り返していると思うのだ。
また、そうでなければ降りかかる国難を払いよけることは出来なかったに違いあるまい。
武家政権は江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜による江戸城開城によって終焉を告げたとされ、明治維新後の徳川家は公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となり、華族制度廃止後は徳川宗家と呼ばれて近代国家の建設以降は政治の表舞台から姿を消した。
現在、NHK大河ドラマ『龍馬伝』(福山雅治主演)でそこに至る経緯が描かれているが、幕藩体制から明治新体制に移行する際の「坂本龍馬構想」にこそ着目しなければならない。
薩長同盟から大政奉還に奔走した幕末の志士・坂本龍馬であるが、龍馬の構想では徳川将軍家に政権を返上させることで幕藩体制を打倒するとともに、新しい明治政府においてはその首班に江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜を立てるとしていた。
旧体制を打倒し、一転して旧体制の最高権力者を新体制において首班に立てるという実にややこしい大改革であるが、龍馬の脳裏にあったのは旧体制の為政者を粛清するヨーロッパや支那大陸型の革命ではなく、飽くまでも日本における「維新」であったはずだ。
ただし一度は慶喜を首班とすることで徳川家の面目を立てても、その後は入れ札(投票)によって首相を選び出す。
つまり、「龍馬」構想とは幕藩体制に見られた身分や出自に関係なく全ての者に国を司るチャンスを開くとともに、旧体制の支配者である徳川家からも能力があれば指導者に選出される機会を与えることで名門武家の政治に対する影響力を厳然と温存しておくことにあったのではないか?
結局、この「慶喜首班」構想は龍馬暗殺によって潰えてしまい、龍馬が回避を目論んでいた旧幕府側と薩長からなる新政府との間で日本人同士による血みどろの争い(戊辰戦争)が引き起こされてしまう。
薩長同盟、大政奉還を実現させた坂本龍馬が唯一果たせなかったこと。
それは徳川慶喜(徳川家)や会津藩・松平家まで旧幕府側の雄藩をも加えた形で新体制をスタートさせることであった。
実際には近代政治において、ドイツ企業から日本海軍高官への贈賄事件が露呈した大正3年の「シーメンス事件」で山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた際、徳川家達(とくがわ・いえさと)を「次の首相に!」という声があがるなど、徳川の名が取り沙汰されながら徳川一族の会議で反対が相次ぎ、ついぞ政治の表舞台に徳川の名が再登場することはなかった。
自分たちだけを引き摺り下ろした体制の下で首班を務めるなどトンでもないということだろうが、これは徳川家に限ったことではなく、旧会津藩の系譜を引き継ぐ福島県出身の政治家は「次期首相に!」というお声がかかっても誰もが固辞したという逸話を聞いたことがある。
ついでながら言うと、先般、総務相・原口一博がA級戦犯の靖国神社への合祀の在り方を見直すことに言及していたが、靖国神社には戊辰戦争を戦った幕府軍側の将兵は同じ日本人でありながら祀られていない。
もし、現在の日本が本格的に周辺国の侵略と対峙し、これと戦うことで撃退しようと思えば共産主義軍事独裁国家とも渡り合える体制でなければならないが、武家政権に移行することを前提にどこかのタイミングで名門武家である徳川一族を一度は桧舞台に担ぎ上げる必要に迫られると考えるものだ。
遡ること2年前、自衛隊空幕長の田母神俊雄が「日本は侵略国家ではなかった」論文でその任を解かれ一躍脚光を浴び、右派・保守派の間からは田母神を担ぎ上げた無血クーデターだのが盛んに騒がれ、「田母神閣下」などと持て囃す風潮が幅を利かせたものだ(今なお)。
だが、自衛隊幹部が何を語っただの売り出し中のタレント的にポッと出のヒーローを持ち上げて悦に浸るような低次元なクーデター構想に狂喜乱舞している場合ではない。
前述の徳川家達を首相に推す声があがった時代、日本は「大日本帝国憲法(明治憲法)」下で、同憲法の慣例である「大命降下(だいめいこうか)」によって政党党首・議員以外の者も首相候補に名が挙がった。
その大日本帝国憲法は、現行の日本国憲法の制定・発布によって事実上の失効とされているが、明確に廃止されたわけではない。
現行の日本国憲法を廃止して旧憲法の復活と言えば、右派・保守派は国軍再建などと諸手を挙げて喜ぶのかも知れないが、もはや現在の日本は内外の状況を見ても憲法の条文を少々いじったり、旧憲法を持ち出してきたところでどうにかなるようなレベルではないのではないか。
帝(みかど)を頂点に戴いていることに変わりないとしても、現体制を抜本的に大改革する視点に立脚しなければ支那・朝鮮に脅かされる現状を脱し、新時代を切り拓くことは出来まい。
当ブログのコメント欄に江戸時代を引き合いに、現在がいかに偽りの国・社会であるかを衝いた貴重なご意見を頂いているのでご紹介しよう。
江戸時代は、もっと見直されねばならないと思う。
都市機能にしても、森林などの自然保護にしても、あるいは人口の管理などの政治の働き。また、身分社会というたてまえはあったものの、意外と最下層とされた農民庶民が、伊勢旅行など楽しんでいる自由な社会であったこと。また、浮世絵や俳句など今でも世界に誇れるような文化が発展したことなど。勿論、武士道などの精神的な発展もあった。
色々あるが、一番注目せねばならないことは、現代の我々が、陥っている「平等という欺瞞」がない社会であるということであろう。不平等があったから、江戸の武家社会はあれほど発展したのである。
フランス革命・・狂気の革命において謳われた「自由・平等」。
このふたつは、決して両立するものではない。「人間は平等」をすすめると、「人間の自由はゼロ」となる。旧ソ連や北朝鮮を思い浮かべればよく分かる。つまりは独裁社会へと向かう。
「人間の尊厳=個人の尊重」は、平等主義があっては棲息できないし、人間の差別化において初めて現実となりうる。「人間の尊厳」は、不平等が大切にされ、人間の絆が伝統と慣習につながれた社会において初めて顕現されうる。・・(中川八洋)
この中川先生の真理をかみしめてほしい。
「人間は平等」と「法の下の平等」は異なる。
Posted by 法 at 2010年09月09日 20:58
かつて下級武士が主体となって追求された身分制度を廃した新時代は、今や誤った平等意識を蔓延させ、国境・国籍という枠を超えて不逞者が国政にまで深く携わる状況を招いてしまった。
テロの応酬が繰り広げられた幕末の頃、崩れ行く旧体制を目の当たりに坂本龍馬は「天皇親政の世に戻さにゃ、この乱世は治まらんぜよ!」と説いて回ったと思われるが、坂本龍馬に似ても似つかない坂本「侍蟻」龍馬は−、
総理大臣を決する党の選挙じゃいうのに、
どこの国か分からんモンまで投票する有り様じゃきに!
幕政の世に戻さんことにゃ、この乱世は治まらんぜよ!