米国は昔から「山の上の町」を自任してきた。新約聖書の「山の上の町は隠れることができない」という言葉を踏まえて「米国は世界の模範たるべきだ」と考えるのは、この国の伝統的な特質だ。その考え方は、米国は特別とする米国例外主義やブッシュ政権に顕著だった単独行動主義にもつながったといわれる。
そんな米国で宗教的な摩擦が強まっているのは憂慮すべきことだ。フロリダ州にあるキリスト教福音主義派の教会が、同時多発テロ(01年9月11日)から9年となる11日に、イスラム教の聖典コーランを大量に燃やすことを計画しているのだ。
米政府高官らが懸念を表明したのは当然だ。この教会はイスラム教が「民主主義や人権と合致しない」と主張する。確かに9・11テロは国際テロ組織「アルカイダ」のイスラム教徒が実行した。だが、コーランを燃やせば世界十数億人のイスラム教徒を侮辱し、米国とイスラム世界の対立をあおることになる。
非常識で危険な計画である。しかし、米国にはこれを禁じる法律がないという。他方、キリスト教原理主義とも呼ばれる福音主義派は全米の信者が7000万人前後に上る。11月の中間選挙を思えばオバマ政権も対立は避けたいだろうが、「山の上の町」を自任する米国を世界が注視していることを忘れないでほしい。
コーラン焼却計画は基本的に米国の内政問題である。だが、同時テロ以降、多くの国々がブッシュ政権の「テロとの戦争」を支援し、またオバマ政権の「イスラムとの融和」を支持することで、テロ抑止の試行錯誤を続けてきた。コーラン焼却はそんな国際社会への挑戦でもあろう。
別の宗教的摩擦もある。ニューヨークの世界貿易センタービル跡地の近くに、イスラム教のモスクなどを建てる計画が論議を呼んでいるのだ。オバマ大統領は8月中旬、計画を支持する発言をしたが、翌日に支持を事実上撤回した。テロの犠牲者の遺族らに配慮したのだろう。
イスラム過激派による9・11テロの衝撃を思えば、建設反対派の気持ちも分からないではない。だが、米国は異教徒・異民族にも寛容な、多様性を尊重する国でもあった。感情的な「イスラム敵視」の風潮によって、伝統的なよきイメージが損なわれるなら残念なことだ。
9・11を起点に、米国はアフガニスタン攻撃、イラク戦争へと突き進んだ。米国民にとって、この日は何よりテロの犠牲者と米兵の死者を悼む日だが、9年間の米国のありようを反省する日でもあろう。反省は日本にも必要だ。9・11後の日本の対応について、民主党政権が誠実に検証するよう重ねて要望したい。
毎日新聞 2010年9月10日 東京朝刊