プロバスケットボール選手・田臥勇太のお母さん 節子さん:4
2010年7月27日
「がんばれと言ったことは一度もない。楽しめと言ってきた。バスケがあればよかったから、親は楽だったよ」。父の直人(59)がそう言って笑った。
「天狗(てんぐ)になるな」とは何度も話した。小学生時代には、仲間の失敗で不満を顔に出した勇太(29)を、直人が試合中に「ふてくされるな!」としかりつけたこともある。「わがままになると人が離れていっちゃうよって。いい気にならないようおさえるのが、親の仕事だと思っていました」。節子(58)はそう話した。
秋田の能代工業高校に進学した勇太は、すぐにレギュラー入りすると、高校バスケットボールの3冠と言われる高校総体、国体、選抜優勝大会のすべてを3年連続で制覇。高校生では18年ぶりとなる日本代表候補にも選ばれた。
「勇太だけじゃない、チームメートに恵まれたからです。あの子は15歳で家を離れていますから、私たちは子育てらしいことは何もしていない。先生や下宿先の方たちに、秋田で育てていただいたようなものです」
1999年秋には、周囲の勧めでブリガムヤング大学ハワイ校に留学した。慣れない環境に加え、言葉の壁は厚く、めずらしく電話をしてきて「帰りたいけど、帰る勇気がない」と弱音を吐いた。
「意志も気持ちも強い勇太が泣き言を言ったのは、この時だけ。自分で決めたことだから、帰っておいでとも言えないしね。そのうち友だちができて、乗り越えたようだったけど。勇太はどこに行っても人に恵まれるんです」。それでも、「ハワイにいたころは、あの子の人生でもつらい時期のひとつじゃないかしら」と振り返った。
大学には一定の単位を取得するまで試合に出られない規定があり、1年目は深夜まで図書館で机に向かう日々。あせりから激しいトレーニングを重ねた結果、椎間板(ついかんばん)ヘルニアで2年目を棒に振った。やっと選手登録された3年目は、全試合に先発する活躍を見せたが、「電話でいきなり『日本に帰るから』って。チームは強くなかったし、選手の意識も高くなかった。あの子にとっては、バスケをいかにいい環境でやれるかってことがすべてなんです」。(敬称略・田中順子)