執筆されたのは、白石茂樹さんで、実はその白石さんを、先だって9月4日に東京・深川江戸資料館で開催した「日心会一周年の集い」にお招きし、檀上でその本の心を語っていただきました。
その白石さんのご講演について、やまと新聞社さんが、HPで上手にまとめてくださいましたので、今日はそれを転載します。
(文章は、ブログの体裁上、すこし語句を修正しています)
原文は↓コチラです。
やまと新聞記事「日心会一周年の集い」
http://www.yamatopress.com/c/2/4/2968/〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「道徳教育は不要だ。心の教育などやめてしまえ」
誤解を受けそうな表現ですが、では、多くの人々が求める「道徳」とはどういうものかというと、実は、単純に法律やルールを守り、マナーを守るということ、それがイコール「道徳」となってはいます。
ルールや法令を守ることなら、いくら道徳教育を施してきても仕方ありません。
アメリカでもクリントン大統領のときに、荒れる学校教育を是正するために、「ゼロトレランス」という政策を実施し、絶大な効果をあげています。
「ゼロトレランス」というのは、悪いことをしたら罰則を与えるという政策です。
規律指導に重きをおいて教育指導をする。
「マナーや法令を守る」ということは、「規律を教える」ということです。
人間の欲望、悪心、モラルハザードなどは、我慢できないとダメなことです。
理屈抜きで体で我慢するということが大事なんです。
よく「心」とか「心を耕す」、「心に響く道徳教育」などというけれど、そいうことではなく、迷惑をかけず他人のことを思いやって生きることが必要です。
それができないのは、自分が我慢できないからなんです。
我慢することができないから、自分が優先になり、周りが見えなくなる。
だからこそ、体にこだわるのです。
長年培われた行動の蓄積が体です。
心を耕せという前に、苦痛や、いやな時間をどうやって我慢するかを体で教え込む。
たった45分間の授業で、終われば、ちゃんと休み時間が待っているのです。
その45分間は、私語をせず、先生の言うことを姿勢をただしてちゃんと聞く。
たったそれだけのことです。
それを、心がどうの、道徳がどうのと言う前に、体にキチッと教え込む。
学校教育・大衆教育にあっては、身体の我慢をすること、長い時間いやなことを我慢させることが大事です。
今は、自由、悪平等の主張ばかりです。
管理や強制は、学校教育から遠ざけられています。
しかし、管理や強制は、体の我慢力を育てる上で必要なことです。
学校でいくら自由や平等を植えつけたとしても、実社会では労務管理、業務命令があります。
小さいころ学校で自由にやっても、それでは社会に出てから通用しません。
だからノイローゼになりすぐやめてしまう。
小中学校のころから体の我慢をすることを覚えさせ、45分間姿勢を正して我慢してみるという教育をカリキュラムの中に入れていかなければなりません。
再来年から武道が必修化されます。
文科省は「武道は武技武術などから発生したわが国固有の文化であり、
勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことのできる運動です」と書いています。
なんと「武道」が「運動」になっています。
戦後、昭和27年に主権が回復するまで、GHQによって武道は禁止されていました。
学校で認められたのは30年代からです。
そして平成元年になって始めて「武道」という言葉が使われました。
それまでは「格技」です。
「格技」というのは「格闘の技術」を指します。
「武道」は、体を鍛え、技を習得し、最終的に「心」を磨く修練です。「格闘の技術は単なる修練の一部にすぎない。
一番大切なものを元に戻さなければいけないことを忘れた我々の責任でです。
それでもまだ道徳意識が、この日本には残っています。
これだけひどい教育をしても世界一過ごしやすい国でいます。
日本人は、素晴らしい民族なのです。
いまのままでは、単純作業、長くて嫌な仕事を8時5時でやれるような子供は絶対に生まれてきません。
しかし、こういう仕事をする人たちが、国家を支える人たちです。
やりがいがあって、体はきつくなく、夢のようなことが実現できると考えている子供たちは、中高の間に我慢という教育が施されていません。
そして大人になって、自分にはそんな夢のようなことはちょっと無理だと知ったときに、実は一番むずかしいのが普通の生活だと気付く。
工場で泥まみれになって働いて、家に帰って巨人のナイターを見るのが幸せだと感じなければいけないです。
多くの人々にとっては、それが現実だからです。
なのに、何かドラマチックでテンションがぐわっと上がるようなものでなければ幸せと感じられない。そういう風に教育している。
いやなことを我慢して継続していけること、それが習慣で続くことが必要です。
ですから、あえて道徳教育は不要だといいます。
心ではなく体。
体で覚える、刻み込む。
そういう教育を実行することが、社会を維持することにつながるのではないだろうか。
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ボクは道徳教育推進派ですが、白石先生のおっしゃることはもっともだと思います。
道徳の授業というものは、それが最初にあるものではなく、その道徳教育を支える土壌の育成がまず前提になります。
いくら道徳の授業を取り入れても、生徒たちが授業中に先生の話を聞かず、後ろを向いたり横を向いたりして、ぺちゃくちゃとおしゃべりに興じていたら、授業にもなにもなりません。
その意味で、道徳の授業というのは、普段の生活を物語や理論で裏付けし補強するものでもあるといえます。
要するに、日ごろの教育が大事なのです。
その日ごろの教育というのは、ひらたくいえば、生徒が苦痛を受け入れることであり、粘り強さであり、我慢させることであり、ならぬことはならぬ、と教え込むことです。
言うことを聞かなければ、平手で打つくらいのことは、あたりまえの世界標準のごく普通の教育手法です。
これからみんなで野球をしようというときに、「ボク、サッカーしたいもん」じゃあ話にならないし、じゃあ折衷案で、野球のボールは、サッカーボールを使いましょうでは、マンガにもならない。
電車で座っているときに、目の前にお年寄りが立ったら、自分が疲れていようが眠たかろうが、席を譲る。
それは心がけとかお年寄りに対する思いやりとか、そういう高尚な理屈ではなくて、それがあたりまえ、常識となるレベルまで条件反射として徹底的に教え込む。
以前、杉本鉞子(すぎもとえつこ)の「武士の娘」という本を紹介させていただきました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-572.htmlこの本の中で、6歳になった杉本鉞子は、儒家で教育を受けるようになります。
授業の内容は、難しい論語の素読です。
学習中は、畳の上に正坐です。
手と口を動かす以外は、微動すら許されない。
鉞子が、いちどだけ、ほんのすこし体を傾けたことがあったそうです。
それをみた師匠は、驚き、次のように言ったそうです。
「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。
お部屋に引き取ってお考えになられた方がよいと思います。」
鉞子は、「恥ずかしさのあまり、私の小さな胸はつぶれるばかりでした」と書いています。
おそらくいまなら、微動どころか授業中に私語する、さわぐがあたりまえ。
それを教師がとがめると、子どもは言うことを聞くどころが、なぜ叱られたかすらまるでわからない。
挙句の果てが親が出てきて、
「どうしてウチの子ばかり叱るんですかっ!」
彼女は、師匠の叱責に、「恥ずかしさ」を感じた。
なぜ恥ずかしさを感じたかといえば、それは師匠の要求に答えられない自分を恥じたからです。そして自分を制御できなかったことを、恥じたからです。
それが「わかる」心を養うのが、教育です。
教育と言うのは、知識だけを詰め込めば良いというものではない。
こうして制御の精神を身につけて育った彼女たち武家の娘は、穏やかな中にも、自然と威厳が備わっていたといいます。
実は「武徳教育のすすめ」の著者である白石さんにも、その武士の威厳が自然と備わっています。
態度はごく普通です。
話し方もていねいですし、決して声がおおきいわけでもない。
とてもやさしく、にこやかにお話されます。
しかし、普通のいまどきの日本人とちがうのが、全身から、まるで鋼(はがね)でできたバネのような敏捷性と、精悍さと威厳が、自然体のなかにかもしだされている。
ああ、昔の武士というのは、きっとこういう雰囲気だったのだろうな、と思わず納得させられました。
もし、みなさん方も、白石先生の講演を聞く機会がありましたら、是非いちどお話を伺ってみるといいと思います。
古武士というものが、あるいは帝国軍人というものが、なぜ世界で絶賛されたのかを肌で感じることができます。
当時、武士と庶民では挨拶の仕方から、歩き方まで違った。
だから風呂屋で裸になっても、どの階級に属するのか、一目でわかったといいます。
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