2010-09-08 今日も、図書館で 
私が図書館へ行くと何かが起こる。
今日は、大きい机、座ると向かいに、男児が二人。どうも西洋人とのハーフらしい。左側が兄らしい。だいたい兄十歳、弟六歳くらいか。勉強しに来たのだろうが、当然、こちょこちょ何か言ったり、ふざけたりしている。少し様子を見て、「静かにしろ」と言った。弟のほうは、日本語が分からないのか、兄のほうが反応して、二人は一瞬静かになった。しかし、弟はやはり気づいていないのか、鉛筆で兄にちょっかいを出したりして、机が揺れる。
「遊ぶんじゃねえ」
と私は言った。兄がこっちを見た。私もじっと見た。
「遊んでません」と言う。「何?」
「遊んでません」
「こいつが遊んでるだろう」と弟のほうを指す。
「遊んでません」
私は、立ち上がった。「何だお前」「遊んでません」「こいつが遊んでるだろう。嘘をつくな」
兄はハンサムである。ロシヤ人のような顔だちである。目をそらさない。
私が座ると、兄は、「あっち行こうか」と言い、道具(半分くらいおもちゃ)を片付けて、後ろ側の丸い机へ移動を始めた。弟も片付けをしていたが、つっと、あっちのほうへ行ってしまった。兄は、「あ」と言い、「泣いちゃった」と呟いた。「泣いちゃった」とまた呟いた。まるで泣かせた俺が悪いかのように。そして弟の後を追って行ってしまい、姿が見えなくなった。
その後私が書棚で調べものをして戻ってくると、兄弟はさっきと同じところに座っている。私の姿が見えると、二人は静かになった。私は用事が済んだので鞄を持って立った。兄が私を見ているから「静かにしろよ」と言った。「え」と言ったように聞こえた。「静かにな」と言った。うなずいたように見えた。私は外へ出た。
しかしロシヤ系混血少年すげーハンサムで、これは成長したら女たらしになるだろうと思った。度胸もあるし、下手すると結婚詐欺師?
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なんか私は経済学に疎いから知らないだけかと思っていたのだが、「朝日新聞」1997年8月5日夕刊に西島建男が書いた「マルクス読み直し」って記事があって、
柄谷は一九七〇年代の初め、新左翼運動が崩壊して「マルクスはだめだ」といわれた時期に、『マルクスその可能性の中心』を書いた。何が終焉しようと、資本主義は終焉を先送りするシステムであり、終わりをかんがえる思想を裏切る。資本主義は主義でも、経済的な下部構造でもなく、それは幻想の体系であると。
戦中・戦後のマルクス経済学者宇野弘蔵の理論を引き継ぎ、いまや「宇野・柄谷派」といわれ、三十代の研究者に読み継がれる。いま、新たなマルクス論に取り組んでいる柄谷は語る。
のこの「宇野・柄谷派」ってずっと存在するもんだと思っていたのだが、そうでもないらしい。西島ってのは当時この手の記事でブイブイ言わせていて、平川先生の自宅まで取材に来て話を聞いてまったく発言を使わなかったって怒っていたっけ。今どうしているんだろう。
(小谷野敦)
2010-09-07 王様の耳はロバの耳 
子供の頃、劇団四季のこどもミュージカルで「王様の耳はロバの耳」をやっていたのをテレビで観た。もちろん原作とは違って、最後は王様と、真実を求める民衆との戦いになり、歌合戦になって王が謝る。王をやっていたのは滝田栄。
耳がロバの耳になった王は、「耳」「ロバ」という言葉を禁じる。媚びへつらう家臣が、「おふろば」というのも禁じました、などと言う。「ロバとか耳とか言うやつは、すべてまとめて牢獄へ、ぶちこめ〜ぶちこめ〜」と歌うのである。
腹が立ったので後半は見ていなかった禁断のゲラを、ふと見たら「昔は精神分裂病といった統合失調症は」というところに「わざわざ言うことはないのでは?」というようなコメントがあって、さらに激怒を誘う。おいどこの誰だか知らないが校閲よ、お前がやっているのはこのバカな王様と同じなんだよ。言葉を消せば何かがなくなるとでも思っているのか。いずれ十年もたてば、統合失調症もどうせ「差別的な含みが出てきた」とか言って言いかえることになるんだよこのバカ。で、そのあと、「これは遺伝性が強いが」というところ「そうではないという説もあります」とある。ほうそうか、どこの誰の説だか聞かせてくれ。俺は神経症のことを言っているんじゃないぞ。統合失調症の遺伝性を否定する説なんてのは、聞いたことがないね。編集者は、お前の名前を明かせないと言っているから、ぜひ俺に連絡をして、それがどこの誰が書いた何という論文に出ているのか、ぜひ知りたいものだ。いや、ないと言っているのではない。もし本当にそんな説があるなら、耳を傾けたいと思っているのだ。教えてくれないか。お前はさんざん俺に、根拠根拠と言っておいて、自分はソースも示さずに逃げるのか。
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室井佑月が『週刊朝日』で野田聖子の妊娠について書いていて、なんかあれが感動話として受け止められていると知ってやや驚いた。俺は、まったく野田そうまでして家名を残したいのかとか言っていたわけだが、室井も、国会議員として他人の卵でってそれはどうなのか、と書いている。しかし最後に室井は、野田には養子をとってほしかったと書いているのだが、おいおい室井よ、『週刊新潮』読んでいないのか。野田は養子をとろうとしたが、高齢だからどこでも断られたって書いているではないか。校閲ってのはこういうところを修正するもんだろうぜ。この場合、担当編集者の責任だがね。
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大江健三郎の『沖縄ノート』の「屠殺人」が問題になった時に、呉智英さんが、いつからこの語はいいことになったんだ、と書いていたが、これは「から」ではない。あれは1970年で、その頃はそんなにうるさくなかったのであり、加藤周一だって盛んに「シナ」と書いていたのである。うるさくなってきたのは、80年代のことで、シナ政府が、改めて「シナそば」に文句をつけたり、トルコ風呂が改名したりと、そういうのが趣味的に、クレーマー的に横行し始めたのである。
2010-09-06 「テレビ欄」の仕組み 
今やインターネットでテレビ番組の情報は分かるといっても、新聞の「テレビ欄」のあの簡明さには及ばない。だからもしネット上であの「テレビ欄」が見られるようになったら、新聞社は大打撃を受けるから、絶対それだけはやらないでくれとIT業者と申し合わせをしているに違いないのである。
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私はかつて、『文學界』や『文藝春秋』の編集者と、この表現はどうか、というのでずいぶんやりあったことがある。うち一人は、いま福音館にいて、例の「たばこ爺さん絶版事件」で手紙をくれたが、私は福音館には内容証明を出していて返事がないので、何とも返事できずにいる。
しかし、編集者が意見を持って、それでやりあうなら、いいのである。今回は、編集者は何も考えずに、ただ、校閲がこう言ってまっせ〜と能天気に言ってきて、私が怒ると、いや無視してくれて構わないですという、その子供の使いみたいな自分の意見のなさにむかっ腹がたつのである。しかも嘘の言い訳をぽんぽん言うし、第一それもすぐばれる嘘だし、どこまでバカなんだ。
そもそも、半年もあったのに、最後のぎりぎりになって、言葉狩り校閲をそのまま渡すのみか、私にメールで内容を送るなどというバカをなんでやったか。リスクマネジメント能力が低すぎる。なんでかというと、この編集者、私の書いたものを碌に読んでいないからである。
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『週刊現代』の「ナナ氏の書評」は、今回、今までで一番説得力なし。こんなの匿名でやる意味なし。「乙女の密告」てな、不出来な小説を褒めているわけだが、「初子さん」を褒めたオヤジ連中が「少女漫画のようだ」と言ったとか、俺かと思ったが俺「初子さん」なんて読んでないし、『アンネの日記』が誤読されてきたってどう誤読されてきたのか分からないし、ナナ氏がこれほど意味不明なのは、前にも一度あった気がする。で、最後に、オヤジ連中を説得したい、「今度、居酒屋で」って俺は酒飲まないからね、居酒屋へは行かねえよと言ってやりたいが、これは豊崎由美か。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100906-00000000-jct-bus_all
コーヒーをうちで呑む傾向が高まっているってそりゃ禁煙にするからだろ。分かっているくせにとぼけるなマスコミ。
2010-09-05 紅野謙介の偉業を読む 
前からオタどんに教えられていた『週刊読書人』の、紅野謙介による川西政明『新・日本文壇史2』の書評をようやく読んできた。紅野は、川西を「百年後のパパラッチ」と呼び、その男女愛慾のさまをいかにもも見てきたように描くやり方を何とも巧みに揶揄描写していて、なかなかの偉業である。有島武郎と波多野秋子の心中に際しても、「もちろん、その前夜二人は姦通した」とあるのを、こういう「姦通」の使い方は昨今珍しいとし、谷崎潤一郎が、妻千代の妹を「強姦」したという記述を紹介する。もちろん、強姦したなどという証拠はどこにもないのである。
人は川西が『渡辺淳一の世界』の著者であると知ったら納得するであろうか。
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ネットユーザーですら、品切れ・絶版の本の見方や入手法をあまり把握していないようだ。
私はまず、著作であればNDLOPACでどの辺が新しいかを確認する。続いて近い図書館を検索、アマゾンと「日本の古本屋」を見て、重要度によって買うか借りるかを決め、また図書館で現物を見てから買うのを決めることも多い。
次いで、古書店でも高値がついていて、もし著作権切れであれば、国会図書館で全部複写した場合とどちらが高値か計算する。なおこれは国会図書館へ行くわけではなくて郵送複写である。なおオークションに出ることもあるのでヤフオクとかも確認。
また雑誌論文は、NDLに雑誌があって、掲載年月日が分かっていれば、何も雑誌論文一覧になくたって郵送複写依頼はできる。
2010-09-04 そして新書が一冊没になった 
その新書の原稿は春ごろには完成していたが、十月刊行予定とのことでだいぶ待たされた。東大卒、20代、男の編集者Kは、『大河ドラマ入門』でひどい仕事をした奴で、その時『小説宝石』で宮崎哲弥氏と対談した際も、再校ゲラで宮崎氏の直しが反映されていないなど、この社の質の低下ぶりを窺わせるものがあったが、もう一回つきあったのである。
時間があるからブラッシュアップしましょうなどと言って、Kは、テクスト形式のままいくつか直しを提案したが、存外マイナーな修正しかなかった。
そして八月末になって、いよいよやるというのでゲラにして、校閲に見せるというので、私は用意しておいた「校正に関する覚書」を送った。以下のごときものである。
一、みだりに語の統一をしない。「とき」と「時」、「ころ」と「頃」などは、文脈に応じ、その周辺の漢字の量などを勘案して使い分ける。
二、差別語のむやみな規制はしない。「シナ」「看護婦」「スチュワーデス」は差別語ではない。
三、「ロシア」ではなく、原語に近い「ロシヤ」を使う。
するとKから「最近校閲が差別語に厳しくなっていて」と言ってきたから、私は色めきたって、それは社内校閲かと尋ねた。すると、そうだという。私は電話をかけた。すると、確認すると言い、「文脈次第だから大丈夫でしょう」という返事があった。
さて校閲が済んだから会って渡したいと言ってきた。編集者がむやみと会いたがるのは、親しい相手でもない限り何か言いにくいことがある場合なので、電話をかけて、私として受け入れがたい校閲になっているのではないか、確認したのだが、どうもKの口調に歯切れが悪い。それで、わざわざ暑い中来る必要もないから送ってくれと言った。そのうち、校閲が済んだと言って、校閲ではこういうところが問題にされていると、以下のごときメールが来た。番号を振ってみる。
1●「半身不随」という表現を言い換える
2●「信念」を持ったうえでの大量虐殺者は悪人ではない、という記述←現状の表現は危険なので少し言い換え(ヒトラー、ポルポトの箇所)
3●有吉佐和子の「テレフォンショッキング」事件は、「講談社文庫オリジナル版」の『恋愛論』に確実に入っているかどうか←ソフトバンク文庫版では削除されているとのことなので、事実が間違っているとマズい
4●病床の中込重明氏が、「実質的な夫婦関係ではなかった」という記述が、何をもって「実質的」とするか。もしくは、表現を和らげる?
5●中島岳志が、西部邁に対して「多分に精神的ホモセクシャルの傾向がある」という根拠は?
6●齋藤環氏が、岩月謙司氏が「有罪判決をいいことに」、「岩月著を参考文献にもあげず」という記述の根拠は?なければ、「有罪判決をいいことに」はマズい
7●『大阪ハムレット』の記述で、「西成区とか住之江区といった貧困層の住む世界」とありますが、「貧困層」と「居住地」の特定はマズいので、「大阪市西南部に住む貧困層を描く」としたほうが?
8●「お出逢い本舗」がおかしなところでやめたほうがいい、とありますが、その根拠がないと営業妨害になるのでマズい
一番激怒したのは「3」である。言うまでもあるまい。2については、ロベスピエールを例に挙げているのになおこういうことを言うかと。4にしても何が問題なのか。6も、斎藤環が文句があるというならいつでも相手になる。8については何をか言わんやである。9については、大江は『武満徹全集』への文章の執筆を拒否しており、その後人から聞いた話だが、大江が違うというなら話は聞く。
私は電話をかけた。すると、詫びのメールがすぐ来て、無視してくれて構いません、という。
ところが、実際に届いたゲラの校閲は、さらにひどいものだった。たとえば7は、「貧困層の居住地の場所特定はよくありません!」と、この「!」が太く書いてある。『大阪ハムレット』にはきっちり地名が出てくる。しかもそういう言い方は校閲の分際を超えている。あんたがいけないと思うんなら本が出たあとで「こいつはこういうことを書いていて許せん」とブログにでも書けばいい。貧困層が住むのがどこかなんて周辺の人はみな知っている。それを俺が自粛したってこれっぽっちも現実には影響しない。
また一頁分「この箇所全体として同性愛者に差別的とよめます」。それはお前の意見であって、校閲の言うことではないし、それならお前は名前を出して俺に言ってこなければならない。それは匿名での攻撃だ。
「『中国辺』といってもシナのことではない」という記述に「ではどこでしょう」とコメント。馬鹿なのか、嫌がらせなのか。
「西部邁が、佐高信や中島岳志といった「左翼」のような人たちとつきあい始めた」というところに「表現OK? 稚拙な印象があります」ってお前、喧嘩売ってるのか。
江藤淳の生年を1932としたら、古い文学辞典で「33年」に直す。馬鹿な校閲者は必ずこれをやる。鷲田清一を「阪大総長」と書いたら「阪大より大阪大のほうが表現適切?」とある。
恐らくこれは女だろう。字がものすごく下手。頭が悪い。何か意見を言いたいなら校閲で言うんじゃない。お前がやっているのは匿名での攻撃だ。たぶん「バカなフェミニスト」である。
変な校閲があったら、編集者はそれを消して著者に渡すものだ、ということをKは教わらなかったのか。そのために鉛筆で書いてあるのではないか。こういうのを見せられた著者の気持ちというものが分からんのか。
私はKに、この校閲者の名前を教えろと言ったが、Kは、自分の責任でやったとか、「よくありません」は自分が書いたとか見えすいた嘘を言った。それならこの数カ月の間いつでも言えたであろうに。
私は『大河ドラマ入門』以来のこの編集者の仕事ぶりに、これはもうかかわらないほうがいいと判断した。とてもじゃないが、もうつきあいきれない。「あなたが『よくありません!』と書いたのなら、私に喧嘩を売ったわけですね」とメールをし、本一冊没にすると通告した。電話がかかってきて、また、校閲は社外の人もやっていて、とぐだぐだ言い訳をするが、それじゃ社内じゃないじゃないかと言うと、いやそれは形式的には社内で、などと言い、誰だか分からないと言う。嘘である。「俺が松本清張だったらあんたのクビが飛んでるよ」と言って電話を切った。
というわけで、ゲラになって一冊没にしたのは初めてである。これまで40冊以上の本を出しているが、『大河ドラマ入門』に続いてのことだから、とうてい承服できなかったのである。
だいたい斎藤環にしたって、言い分があるなら俺はいくらでも聞くつもりだ。沈黙を決め込んでいるのは斎藤のほうである。だってこのことは前にブログにも書いたし本にも書いたんだからね。こういう、人に対話をさせないやり方は、許し難いね。
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この話とは別に、近ごろ校閲には悩まされている。もちろん、明らかな間違いを正してくれるのは結構だし、私は15年前に中公新書で、校閲の人に足を向けて寝られないと思うほど恥ずかしい間違いを直してもらって感謝したものだ。
しかるに昨今は、インターネットのおかげで著者があまり間違えなくなり、しかもダメな校閲はネットで調べるという血で血を洗うようなことになっていて、いちいちネット画面をプリントしたものを送ってきたり、中には私が編集したウィキペディアの画面を送ってくるのもある。紙のムダである。あとは統一である。中にはご丁寧に全巻を網羅して、「ごとく」はいくつ、「如く」はいくつ、みたいに書いてくるのもいる。そんなもの、どうでもいいと思うのだが。そういう校閲に限って、重大な間違いは見落としたりするのである。
(小谷野敦)