源頼朝(1147〜1199)は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町辺りで誕生、北条政子の夫。母は熱田神宮宮司藤原季範の娘。頼朝の幼名は「鬼武者」。義朝の三男として生まれたが源氏の嫡流として育てられた(母が正室の子であった為)。平治の乱に敗れた父・義朝は鎌倉に落ち延びる途中で殺され、頼朝は捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなった。そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。
治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートをきった。木曽の従兄弟・木曾義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は鎌倉幕府と呼ばれ、幕府による武家政権は、明治維新までの約680年間に渡り、存続することとなる。
建久10年(1199)正月13日に落馬がもとで亡くなる。頼朝が亡くなった後は、源氏の運命は悲惨なものであった。政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの政治から遠ざけられ、最後には非業の死を遂げた。その後の政治を継いだのは、皮肉にも平氏の一族である政子とその一族の北条氏であった。
結局、頼朝が長い雌伏の後に築き上げた源氏の幕府は、三代でその幕を閉じたのである。鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行して、武士の棟梁でありながらその真面目さはまさに偉大な政治家でもあった。
平治物語は「年齢より大人びている」、源平盛衰記は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。また吾妻鏡は、頼朝が御家人らの容姿を一人ずつ罵倒した書状を伝えており、頼朝は自身の容姿に自信があった事を伺わせる。身長も大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。
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