志士なら粋で未来に優しいバカでいろ!
民主党代表選がヒートアップしてきた。
一騎打ちの戦いを繰り広げる現首相・菅直人と小沢一郎は両陣営が各地で華々しい街頭演説を行ない、小沢が演説する際には異様な一団から不気味な「オザワ」コールが沸き上がり、一説によると在日本大韓民国民団(韓国民団)からの動員ではないかと伝えられる。
今のところ情勢はマスコミ報道では菅優勢としているが、五分五分でどちらが勝利してもおかしくない状況だという。
この民主党代表選、今に始まったことではないのだろうが、党員・サポーター登録さえすれば在日外国人であっても投票権を行使出来ることが問題視された。
要するに日本の政治それも政権を担う民主党の入党資格には「日本国籍」が規定されておらず、外国人が日本の首相を選出することにも直結する選挙権を行使することが首相を含む公務員選定を「国民固有の権利」と定めた憲法(15条)に反するという問題だ。
この問いに当の小沢も「それは党の問題。僕が決める話じゃない。党の規則で良いということであればそうでしょうし、僕に聞かれても分からない」と回答し、官房長官・仙谷由人も「報道で初めて知った。党の問題なので執行部で今後検討されるんだろう」と回答するなど無責任ぶりを如何なく発揮している。
民主党の無責任体質と言うよりは亡国体質はこれにとどまらず、党内にどれくらいの外国籍者が存在して、どれぐらいの外国人が党代表選で選挙権を行使するのか、それさえも把握していないという。
今回の民主党代表選に際して、民主党に入党した覚えもなければ選挙などでまったく関わったことのない人のところにまで投票用紙が届いたとしてニュースになっていたが、鳩山由紀夫が首相在任中に浮上した「故人献金」ではないものの、他人の氏名を勝手に用いた偽りの党員・サポーター登録が行なわれていたということではないか。
話を戻すが、党内にどのくらいの外国人が存在するのか把握しておらず、それらが代表選に与える影響などをまったく予測し得ない民主党の体質こそは同党が掲げる「人権」「共生」がいかに脆く、いかに安全を脅かしているかを示している。
つまり在日朝鮮人が通名(日本人名)で登録してもその国籍までを詳細に把握したり調査することもせず、出来ず、仮に不法滞在外国人が登録していたとしてもそれを精査することがない、また出来ないということにもなろう。
どこの出身の何者かも分からぬ者であってもろくに精査もせずに首相を選出するに等しい代表選に関わらせてしまう、その結果、日本の行く末を危ぶませかねない者を選出する危機に今、瀕している。
外国人参政権法案の成立にも積極姿勢を示していることで知られる小沢だが、その小沢を韓国民団が猛烈にプッシュし日本を混乱に陥らせる要素はミエミエだというのに、それでも積極的に善後策を講じる姿勢が微塵も見られない民主党。
これが人権・共生という美名の下に起きている事実なのである。
以上、首相をも決する民主党代表選の歪さに言及してみたが、現在の制度においては日本人であってお金さえあれば、出身地域や学歴、職歴に関係なく国政選挙に打って出ることも出来るし、総理大臣を目指すことも可能だ。
言ってみれば私・有門大輔もこのブログの読者の皆様方も、それが実現するかどうかは別として「理屈」では国会議員になることも出来るし、総理大臣を目指すことも出来るのである。
この近代国家の根幹を成す制度がつくられたこと自体は素晴らしいことで、かつて明治時代以前の厳しい身分制度を廃し、それまでの幕藩体制から統一国家に生まれ変わらせたことで国難を乗り切った先人らの功績は大いに顕彰されて良い。
ただ、昔風に言うなら「平民」やそれ以下の部落階層でも国政を司り、国民を指導する立場になれるシステムそのものは良いとして、現在の民主党政権に象徴されるように外国人であっても、いや、特定の外国人こそが政治権力を左右するシステムに堕してしまっては本末転倒ではないか?
部落のように弱者とされることこそが印籠か何かのように、弱者とされるがゆえに「最強」となって政治権力に強い影響を与えるに至っている。
当の民主党国会議員にしたところで小沢一郎を筆頭にそのルーツは非常に怪しく、帰化人の議員も少なくないとされるほど、どこの民族の血が入っていてどこの国に忠誠を誓っているのやも分からない。むしろそのような者だからこそ政界に進出するには有利な社会状況を招いてしまった。
「身分」というものが取り払われ、誰でもが最高権力者である総理大臣になる道が開かれた社会システムは立派だが、民主党政権の誕生とその代表選に象徴されるように有象無象の輩が政治家として代を重ね、ゆえに新たな「特権階層」が構築された現在の社会構造は見直されて然るべきである。
以前、当ブログのコメント欄に寄せられたご意見をご紹介しよう。
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51580171.html
アメリカとの戦争に負けたのにもかかわらず、明治革命大日本帝国新政府があまり批判されていないきがします、むしろいまだに絶賛されている、なぜナチスのように抹殺されなかったのか?どちらかといえば江戸時代の方を暗黒時代と定義されているのです。これは欧米白人キリスト教徒の手先ではないかと疑わしいのです。
Posted by たカメ at 2010年09月05日 11:42
現在の議会政治における近代国家が建設されたのは大河ドラマ『龍馬伝』(福山雅治主演)でも描かれているように、坂本龍馬ら明治維新の元勲の功績であり、それが後に日本が大東亜戦争で欧米白人(米国)に強烈な一撃を喰らわせたところで幕末の志士らが夢見た尊皇攘夷の精神が開花したのだ。
しかし、その結果として日本は大敗したばかりか、戦後65年後の今日、日本国の首相を決する民主党代表選において外国人の介入・侵食を許すに至ってはもはや侵略を食い止めるための機能を果たさないどころか、それを助長させるのみである。
大戦争における敗北によって近代国家・日本への審判が下されたわけだが、それが改められることもなくその系譜が現在まで続いている。
敗戦で完膚なきまでに壊されたものがなおも継続されたことで日本の政治に在日朝鮮人やらカルト宗教、反日勢力を侵出させた。敗戦から今日までの半世紀間は「近代国家・日本」瓦解の余興のようなもの。
現在の日本の体制が不可逆的に日本人を守るために機能しなくなっているからこそ、私は突拍子もなく「日本は武家政治に立ち返るべきである」旨のビジョンを示させて頂いた。
勿論、現在の常識では武家政治だの武家社会が到底受け入れられないものであることは百も承知している。
ただ、それは今後50年かかろうとも100年かかろうとも、我々の次世代、あるいは次の次の世代が維新運動として成就させてくれれば良いのである。
在日朝鮮人や反日左翼が戦後半世紀間にわたって日本社会であらゆる橋頭堡を構築してきたように、我々もまた長期間にわたって次世代に遺すべき社会運動の形、国の理想像を示すことが出来ればと思う。
言いだしっぺで駆け出しの我々はバカのままで終わっても一向に構わない。今の社会で受け入れてもらえなくて当然。
大事なのは行動・運動によって過去と未来を、その間に生きている我々が現在で繋ぐことだ。
次エントリーに続く