2010年09月07日

日本をぶっ壊せ! (2)

前エントリーより続く

来たる維新三部作 その二

是が非でも自衛隊の「国軍化」に拘る必要はない!

 菅直人は9月5日に出演したNHK討論番組の席上で、日本周辺海域での支那海軍による軍事行動の活発化を踏まえ、南西諸島への自衛隊配備について前向きな姿勢を示した。
 防衛相・北沢俊美も積極姿勢を示しており、防衛省は2011年度予算概算要求に調査費を計上したという。

 これが日本が歩む規定路線であり、仮に現在の政権が自民党政権であったとしてもこの通りのことが行なわれたに違いない。

 一方、この路線を真っ向から潰して新たに親支那路線を選択しようとしているのが小沢一郎であり、小沢はこの度の代表選を通じて米国内の反小沢ムードを和らげる狙いから米国との関係重視にも言及しているが、そこに支那が加わってくる時点でこれまでの日本とは根本的に異なる安全保障政策を採ろうとしていることは明らかだ。
 そのため小沢が首相に就いた後には在日支那人の暴動が惹起せしめられ、それに乗じて支那人民解放軍の日本上陸が現実味を帯びてきている。

 結論を言うと南西諸島への自衛隊配備は基地建設など防衛利権に群がる者らを潤わせるだけで、この南西諸島への配備に限らず、自衛隊の在り方そのものを抜本的に見直す必要があろう。

 こういうと右翼・右派・保守派が悲願とする「自衛隊の国軍創設」「憲法9条の改正」を想起する向きがあるだろうが、批判を恐れずに言うと、私は是が非でも自衛隊の国軍化に拘る必要はないと考えている。

 前述のように敗戦によって昭和20年以降、日本に軍隊なる組織は存在しないが、今日までの間、実に半世紀以上にわたって右翼民族派、右派・保守派勢力によって憲法改正と国軍創設に向けた政治運動が展開されてきたわけだが、ただの一度として憲法改正が行なわれていない。

 同じ第2次世界大戦の敗戦国であるドイツなどは何度となく憲法の改正に着手しているが、日本では一度もそれが実行されなかったとは、実のところ日本人には軍隊なる概念は馴染まないのではないかとさえ思う。

 無論、日本が明治維新以後、日清・日露両戦争および第1次世界大戦という大戦争に勝利し、その度に国家の危機が救われたことは事実で、幾万もの将兵が尊い生命を捧げてくれたことを否定するものでもなく、感謝しても感謝し切れない。

 しかし、歴史という長いスパンで見た場合、日本に「軍隊」「皇軍」「国軍」なる統一された軍事組織が誕生したのは明治時代からであり、それ以前には国軍なるものは存在せず、江戸時代などは言ってみれば警察だけで国を守っていたようなものである。

 明治時代から大正時代そして昭和の20年までと、それ以前を比較して見れば軍隊が存在しなかった時代のほうが遥かに長く、ヨーロッパなどは革命の度に途切れたとしても長い国軍の歴史を持つのかも知れないが、日本では敗戦ショックによる軍事アレルギーとも相俟ってなかなか憲法改正から国軍創設に至らない要因はこうした事情とも無関係とは思えない。

 自衛隊を軍隊にすることも出来ない、かと言って自衛隊のままにしておくことも歪である。もっとも自衛隊を軍隊にしたところで国家として戦う意志もない「名ばかりの軍隊」でも困る。

 とすれば、名よりも国を守るに最も適した「質」こそを問うべきではないか。

 そこへ来ると自衛隊の誕生時である『警察予備隊』にまで戻し、警察組織に編入させ「警察任務」として国土防衛を担ってもらう形が望ましいのではないかと思う。

NPR_personnel

 ご存知の通り、自衛隊は朝鮮戦争の頃、GHQのマッカーサー指令によって警察予備隊として発足した。後に保安隊となり現在の自衛隊となるわけだが、ついでながら言及すると警察予備隊という呼称を用いた当時の関係者らは保安隊だの自衛隊だの誤魔化しのような呼称を用いなかっただけ現在の為政者よりはマシと言えよう。

 この場合、警察予備隊は米軍に例えるなら陸海空の3軍とは異なる『海兵隊』のような位置づけで、昨今、組織の腐敗や不祥事が続発している警察組織において内部にまったく別の指揮系統で動く警察予備隊を編入させることで相互で牽制し、互いにライバル意識をより強く持たせることで業務の能率アップを狙う。

 イタリアにはまったく異なる2つの警察組織が存在するという。一つは主に首都の治安維持を担う組織で、もう一つは主に地方都市の治安維持を担うらしい。
 犯罪被害者がどちらの警察に被害届を出すのも自由だが、どちらか一方に被害届を出せば途中から乗り換えることは出来ずで、最後まで被害届を出した側の警察組織に捜査・摘発を委ねることになるという。

 一方の警察組織がもう一方の警察組織を捜査・摘発することも可能で、それがどれほどイタリア社会の治安維持・犯罪抑止に効力を発揮しているのかは分からないが、日本でも同じことをやろうとした場合、現行の警察組織を2分するような手間暇をかける余裕もないし、新しく創設している余裕もない。

 となれば警察以上の装備、人員、組織力を有していながら一向に軍隊として認められる気配もない自衛隊をいっそ警察予備隊として警察組織に編入させ、警察任務として治安維持も国土防衛も担わせてしまうほうがスムーズに事が運ぶように思える。

 この半世紀間、日本に存在しなかった軍隊、ここで復活するものならとうに復活していただろう。

 軍隊も戦争も知らない世代が社会の中枢を占めるに至った今日、一般的に軍事アレルギーや軍隊という戦争を連想するものへの拒否反応は強い。

 だが、警察官や警察署は一歩街中へ出れば必ず目にするものであり、刑事犯でなくとも免許証の更新や道路使用許可の申請など、日頃警察の厄介になる機会は誰彼なく世話にはなっていると思うので、いわゆる「警察予備隊構想」に抵抗感や違和感はさほどないものと思われる。

 その警察でさえ最近は支那人や朝鮮人凶悪犯への発砲という正当な職務遂行で、逆に犯人側から行き過ぎた暴力であるとして民事・刑事の両方で訴えを起こされるケースが各地で頻発しており、法治国家としての根幹を揺るがす危機的な状況にあるが、刑法犯のみを捕えることにウェイトを置いてきた戦後日本の刑事警察機構に国土防衛を主眼とした警察予備隊を編入させることは少なからぬ意義があろう。

 日本の喫緊の難題は、左VS右、保守VS革新といった旧態依然の対立構造にあるのではなく、周辺を共産主義の軍事独裁国家群に隣接している状況で、いかに日本を侵略から防ぎ危機から脱するかにあり、そのため明治以前の武家政治と軍隊なき時代に擬えた国家像の一端をここで披瀝させて頂いた。

 また、当ブログのコメント欄には「『サムライ』だの『ハラキリ』だのアナクロすぎて話にならん」といった指摘も頂いているが、果たして時代錯誤なものだろうか。

 毎年終戦記念日の前後には大東亜戦争時代を描いたドラマや特集番組が連日放送されるが、NHK大河ドラマはじめ時代劇は年中を通してテレビの液晶画面で歴史的政争やチャンチャンバラバラ劇を繰り広げている。 
 年末には「忠臣蔵」が放映され、また映画でも「たそがれ清兵衛」(真田広之主演)や「隠し剣 鬼の爪」(永瀬正敏主演)、「武士の一分」(木村拓哉主演)、「壬生義士伝」(中井貴一主演)など人気俳優を起用した時代劇モノが大ヒットで人気を博し、日本映画ではないものの「ラスト・サムライ」(トム・クルーズ主演)も大きな反響を呼んだ。

 その他、漫画や小説、舞台劇などメディアの発達による情報社会はますます高度化しているというのに、人々が武家の時代に馳せる思いはさらに強まっているのではないか。

浴衣_1~1

 夏の浴衣や着物など、日本人の「和」を尊ぶ心は廃れるところを知らず、その心の根底には武家時代に形成された精神が脈々と生き長らえており、むしろ時代を先取りしているのではないかと思う。

次エントリーに続く

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Posted by samuraiari at 17:12│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

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