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力道山最後の弟子 山本小鉄さん

2010年08月31日
スポーツ

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新日本プロレス顧問の山本小鉄さんは1941年10月30日、神奈川県横浜市中村町に生まれた。10人兄弟の六男で貧しい少年時代を過ごした。小学校5年の時から新聞配達を始め、兄弟で助け合いながら家計を支えた。

 中学2年の時、近所のパン屋のテレビで力道山とプロレスに出合う。衝撃を受けた山本さんは、弱冠13歳で伊勢佐木町のボディービル道場に入門した。中学卒業後、横浜市立横浜商業高校に入学したが、父親の急死により1学期で退学する。鋳物工場で働きながらレスラーになるためのトレーニングを続けた。

 62年、渋谷のリキスポーツパレスを訪れ、日本プロレスに入門を直訴したものの、断られる。1年後の63年2月19日、日プロに入門し、力道山の最後の弟子となった。同年7月19日の北沢幹之戦でデビュー。同年12月15日に力道山が逝去した時は、慶応病院の手術室の窓に張りついて解剖を見届けたという。 日プロではカール・ゴッチさんの練習に影響を受けて頭角を現す。67年1月4日、星野勘太郎と米国遠征に出発。ロサンゼルス、テキサスを回りテネシーで星野とヤマハ・ブラザーズを結成した。命名の由来は当時、米国で発売されたヤマハのモーターバイクだった。テネシー州タッグ王座を獲得し、悪役コンビとして旋風を巻き起こした。

 69年の「ワールドリーグ戦」では長崎公会堂で人間台風ことゴリラ・モンスーンを破った。山本さんが「生涯のベストバウト」に挙げる激闘だった。 71年12月にアントニオ猪木に誘われ、日プロを退団。猪木とともに新日プロ旗揚げに携わり、翌年3月6日の旗揚げ戦に参加した。

 77年頃から猪木の要請でテレビ朝日の解説を務める。79年1月、国際プロレスに乗り込み、星野とIWA世界タッグを奪取した。80年4月4日の引退試合では星野と組み、鶴見五郎、大位山勝三組と対戦した。 新日プロ黎明期から引退後に至るまでコーチとしても、レスラーの育成に尽力。2008年12月18日の昭和プロレス後楽園ホール大会では、特別マッチで復帰している。

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