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デストロイヤーが悔やむ「力道山とキャバレー」

2010年09月05日
スポーツ

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【東スポ創刊50周年特別企画「時空自在」】「東京スポーツとともに私のレスラー人生はあった」——。東スポ創刊から3年後の1963年に初来日して以来、凶悪外国人レスラー、ジャイアント馬場さんをサポートする助っ人外国人選手、はたまた「怖いけど面白いタレント」として大活躍してきたザ・デストロイヤー(80)が、47年間のジャパンライフを振り返った。毎年夏に来日してちびっ子レスリング大会を視察し、麻布十番祭りを楽しむ。

 東京スポーツには本当にお世話になった。50周年か。私が念願の初来日を果たしたのは1963年だから、私の日本で活動は、すべて東スポとともにあったんだ。
 羽田空港に到着した途端、カメラのフラッシュが出迎えてくれた。VIPルームでの記者会見もすごい人だった。正直、米国ではこんなことはありえない。日本でのプロレスのステータスには驚かされた。
 殺到した報道陣の中に東スポの記者やカメラマンもいたんだ。その後も常に私を追っかけてくれた。サーキット中にいろんな観光地に連れ出してくれたり、土地土地のおいしい物を食べさせてくれた。
 各社が競って声をかけてくれたが、東スポがイチバン。現在もプロレスを熱心にカバーしてくれる。歴代の担当記者、カメラマンとも仕事を超えて今でも友人だ。
 現役を退いてからも通信員をやらしてもらっていた。ファクスでアメリカマット界の出来事や、悲しいことだが、かつての名レスラーの訃報や思い出話を送った。
 東スポには1面によく掲載してもらった。力道山、馬場、猪木…激闘のもようが大きな写真とともに載っていた。私が凶器を使用して暴れているところか、やられているシーンが多かったような気がするが…(笑い)。まあ、今となればすべてがいい思い出だ。
 中でも忘れられないのは、力道山との死闘だ。足4の字固めを決めたのに、裏返されて私も苦痛を味わった。それでも互いに離さなかった。しばらく足がはれ上がったままだった。
 当時はテレビも生中継でテープにもほとんど残っていない。さまざまな角度からのいろんな写真で振り返ることができる。東スポからも多くの写真をプレゼントしてもらった。感謝している。
 実は力道山の最後の試合を戦ったのは私なんだ。63年12月7日、静岡県浜松市体育館での一戦だった。グレート東郷、吉村道明を従えた力道山と、バディ・オースティン、イリオ・デ・パチオと組んだ私が6人タッグマッチで戦った。
 ファイト内容は大暴れしたことしか覚えていないが、試合後に力道山に食事に誘われた。もちろん、初めてのこと。この年の最後の来日で、翌日に帰国する私を気遣ってのことだったのだろう。ビールを飲んですしやテンプラ、刺し身などを楽しんだ。
 翌日、羽田空港へ向かう前にも「キャバレーに行こう」と誘われた。だが、帰国後そのままオレゴン州ポートランドでの試合を控えていた私は、どうしてもその夜の便に乗らなくてはいけない。断ってしまったんだ。
 その後、力道山が刺された。ポートランド空港に迎えに来てくれたワイフから「力道山が刺された」と聞かされて信じられなかった。12時間前には彼と話をしていたんだから。
「もし、あの時、一緒に行っていたら」と今でも考えることがある。彼は実業家としても才能があったから、プロレスを元にいろんなビジネスを成功させていただろう。日本のプロレス界も今とは違っていたはずだ。
 もっとも、私と東スポのいい関係は何があっても不変だけどね。

<ザ・デストロイヤー>1930年7月11日生まれ。米国・ニューヨーク州バファロー出身。本名ディック・ベイヤー。シラキュース大でフットボール、レスリングの選手として活躍し、スカウトされて23歳でプロレス界へ。覆面レスラーとなった62年、WWA世界ヘビー級王座を奪取。63年に初来日し、足4の字固めを初公開すると同時に力道山と名勝負を繰り広げた。全日本プロレスに参戦する一方、タレントとしても成功。93年引退。183センチ、110キロ。

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