特集
4 ヒダカ、ついにBEAT CRUSADERS結成
――で、アメリカ留学を終えて、希望通り就職するんですよね。
ヒダカ:まあ、怒濤の留学を経てですね、社会人としてちゃんとした上で、まだ音楽が好きなら俺のロックへの情熱は本物だろうというふうに、自分の中で再確認できたので、まずは就職をするんですが。英語を活かした職種ということで、最初、輸入盤の卸問屋に入るんですよね。でも、その時はマライア・キャリーとかOASISとか、いわゆる量販店で売れるCDを卸す会社だったんで、それまでの自分のマニアックな音楽知識はまったく活かされることもなく(笑)。そこでまず社会の厳しさを味わうんすよね。
						で、まあふてくされながら仕事していくうちに、たまたま同僚で、NICOTINEのヴォーカルのHOWIEがいて。HOWIEは元々、大学生の時から対バンとかしてて知り合いだったんで、「久しぶりだね」みたいな話してたら、ギターのYASUが、都内で別の輸入盤卸問屋で働いてて、そこがもうちょっと英語のスキルのある人を求めてて。ちょうどYASUがSky Recordの運営に専念したがってて、やめるタイミングだったんですよね。で、「YASUの代わりに入ったらどうですか?」って言われて、そっちに転職するんですよ。そこで一気に人生が変わっちゃうんですよね。
						そこはCRジャパンっていって、POTSHOTのファーストを出した会社なんですけど。当時、FAT RECK  RECORDSの輸入盤を、独占的に扱える会社で。だからHi-STANDARDの輸入盤を、唯一売っていい会社だったんですね。そこでハイスタっていうものに出会って、まず「これはなんだ?」と。「このメロディック・シーンってなんだ?」ってなるんですよね。
						で、新宿ロフトのライヴの時は、会場販売の輸入盤を卸しに行ったりしていく中で、ついでにライヴ観てみよう、ってなって。そこでBEYONDSとかNUKEY PIKESとか、COKEHEAD HIPSTERSとかハイスタを観るんですよね。で、それまで自分の思ってた、パンク・ロック・シーンやパンク・ロック感と全然違うから、「なんじゃこりゃ!?」っていう衝撃を受けて。「やっぱバンドやんなきゃ」って気になっていくんですよね、俺も。
――そこでまさに、ラフィン・ノーズとモンキーズが合体したらこうなるっていうものを知ってしまったんだ(笑)。
ヒダカ:ほんとそうでしたね、今考えると。だから「自分の理想的なシーンなんじゃないか、これ」って思いましたよね。どれひとつとして同じじゃないし。BEYONDSとCOKEHEADだけでも全然違うし、COKEHEADとハイスタも全然違うし。実はこれ、すごい健全なシーンなんじゃないかと思って、そっからのめり込むようになりますよね。
						で、当時はPOTSHOTのスタッフとか誰もいなかったから、俺がローディー的な感じで入って、ステージ手伝ったり、物販を手伝うようになって、インディーズのイロハみたいなのも、そこで覚えちゃったりして。だからすごいラッキーでしたよね。で、当時、俺が卸してたお店の店員さんが、TROPICAL GORILLAのCimだったり、当時会社で作ったコンピレーション・アルバムに入ってたのがFRUITYで、そこでYOUR SONG IS GOODのサイトウジュンと出会ったりね。だから、後々の重要な出会いが、その会社ですでに行われてたんですよね。
						あとTシャツも扱ってたんですけど、Tシャツ卸してたお店にHUSKING BEEのレオナくんがいたりとか。そういういい出会いのあった時代ですよね。だから、音楽業界に対して幻滅して、バンドっていうものから1回距離を置いてた自分としては、「ちょうどいい立ち位置ってここなんじゃないか」ってすごい思いましたよね。音楽業界に裏方として関わって、自分がイヤなとこをちょっとずつ正していけばいいじゃん、みたいな。そういう発想に切り替わりましたね。
――じゃあメロディック・パンクとの出会いはすごく大きかったわけですね。
ヒダカ:だから、それまで、最初は有頂天のコピーバンドから始まって、大学生の時はネオアコ・ギターポップ的なものをやるんですけど、結局どっちも上手く自分の中で消化できてなかったんですよね、ひとつのものとして。だけどそのヒントがメロディック・シーンに転がってるような気がして。それでBEAT CRUSADERSをやろうと思うようになるんですよね。
――初めてそこで、自分の身長・体重にジャストな服を発見したわけですね。
ヒダカ:ほんとにそうですね、まさに。どっちかは合ってるんだけど、どっちかは必ず間違ってましたね。だから、ラッキーだったんでしょうね。まあ、自分が必要としてるものに呼ばれたのか、あるいは自分が出会いたいから一生懸命ディグっていくうちに会えたのか、今となってはわかんないですけど。
						そういう中で、CRジャパンにいる時に、BEAT CRUSADERSを結成するんですけど、なぜか最初は2人組だったっていうね。バンドじゃなかったんですよね。なんで2人だったかっていうと、たぶん自由度を上げたかったんですよね。人数が少ないほうが議論にならないだろうってことで。やっぱ、バンドって人数がいればいるほど意見が合わないわけじゃないですか。だから、どっちかの意見を必ず実行する、その代わり相手の意見も絶対に取り入れる、というルールを作って、BEAT CRUSADERSを始めるんですよね。
――実際上手くいきましたか?
ヒダカ:コミュニケーションは上手くいきましたけど、ライヴはさっぱり人が来ませんでしたね、そりゃあ(笑)。完全にアングラでした。曲によってはオケだけ流してずっと踊りっぱなしとか。実験的と言えばきこえはいいですけど。まあ要はアングラなローファイ・パンクですよね。当時下北沢のオールナイトのイベントに出てて。それだとノルマがないし、オールナイトだから最初っからある程度お客がいるんですよね。
――帰れない客に無理矢理イヤなものを見せるみたいな。
ヒダカ:そうそう。そういうイヤがらせでしたね、その頃は。それがBEAT CRUSADERSでしたね。で、いわゆるメロディック・シーンに出会ってから、やっぱりバンドの方がいいなと思って、サポート入れるようになりましたね。そっから変わっていくんですよね。
5 ヒダカ、ビークルの魔法を発見
――で、バンドはどうやって回っていくことになるわけ?
ヒダカ:だから、最初はマニアックなローファイ・パンクだったのが、メロディック・シーンの影響を受けながら徐々に変化していくんですけども。やっぱギターポップ・シーンにずーっといたので。まあいわゆるUNDER FLOWER RECORDS界隈ですよね、曽我部(恵一)くんだったり、N.G. Three、RON RON CLOU、NORTHERN BRIGHTの新井(仁)くんだったり、ZEPPET STOREだったり。そのへんと交流してた俺としては、やっぱ簡単にメロディック・シーンには行けないんですよね。だからまずは、ギターポップ・シーンの中でどんだけパンクっぽくなれるかみたいなテーマで進んでいくんですよね。
――いきなりいけばいいじゃん。
ヒダカ:いや、いきゃあいいんですけど、当時は職場がメロディック・シーンだったんで、卸問屋が。「おまえ、仕事をしないでバンドばっかりやってんじゃねえか」って言われるのがイヤで、わりとコソコソとギターポップ・シーンでやっていこうっていう感じでしたよね。その時点で、すでにコソコソする体質が始まってたと思うんですけど(笑)。
						だから当時、すごいよく憶えてるのは、メンバーがumu、araki、thaiくんで固定された頃って、パンクっぽく見せるために、わざと友達に「ソデに立っててくれ」って言うんですよね。たとえばBRAHMANとかハイスタのライヴ行くと、よくソデで仲間たちが腕組んで見てたりするじゃないですか。あれが俺、うらやましいなと思って。
――はははは。形から。
ヒダカ:そうです。形から入ってみたんですよ、まずはね。で、短パンはいたりして、俺だけ。で、楽曲もだんだん、それまでのローファイ・パンクっぽいのから、ちょっとメロディックっぽいのを入れていこうと思って、それで最初にできたのが“E.C.D.T”っていうインディーズのデビュー・シングルで。あの曲ができた時、なんか自分の中で1個答えが見えたっていうか。
						当時、SNUFFとかNOFXをものすごい研究しながら聴いてて、曲を作ってた時に、エモに出会うんですよね。THE  PROMISE RINGとか、JIMMY EAT WORLDとかですよね。あのへんを聴いた時にすごい「なるほど!」って思ったのは、いわゆるパンク・ロックから7thコード感を抜いて、で、BPMの問題じゃなく、アレンジメントとしてギターが幾層にも重なっていくみたいな、そういう方法論がなんとなく見えてきたんですよね。
						今だからこうやって理路整然と説明できますけど、当時はその仕組みがあんまりわかってないから、とりあえずエモをお手本にしようと思って、スナッフとエモを交互に聴きながらオリジナルを作って。「こんな感じ、こんな感じ」って。で、できたのが“E.C.D.T”なんですよね。
――面白いですねえ。今の話がもうヒダカトオル、ビート・クルセイダースの本質ですね。
ヒダカ:そうですね。ほんとにそうだと思います。
――普通のミュージシャンは、そういうふうに作りませんよね。普通は、たとえば、最初は「レッド・ツェッペリンやりたい」って始めて、やっていくうちにだんだん変わって、自分なりのものになっていくとか、そういうものだと思うけど、ヒダカさんの場合はそれじゃないわけですよ。まず最初に、いろいろなものをサンプリングして、「あ、こういう形にすると、俺は自分の作りたいものをやれるんだ」という、すごく知的な形で音楽を作るんですよ。だから、そこで自分に対する誤解が生まれちゃったんですね。
ヒダカ:ははは。だってそれは、才能とは言わないんじゃないですか?
――それを才能って言うんですけれども。それを自分は「俺は情報能力に長けた人間だ」と。
ヒダカ:ははは。そうですね。サンプリング文化の申し子だ、という感じですね。世代的にも当然、ヒップホップも好きだし。サンプリング云々っていうので、スチャダラパーとかの影響も確実に受けてるんですけど、やっぱりその、かぶりがヤだったんですよね。特に、アメリカはよりそれが顕著だったし。「○○みたいだな、おまえ」って言われちゃうのがダメな社会だから。なるべくかぶんないようにって工夫していったら、結局今の形になっちゃった感じですよね。
						だから、渋谷さんとかは俺を才能があるって言うけど、俺は、ベストとはあんまり思ってなくて。自分におけるベターをちゃんと更新できるかどうかが鍵だと思うんすよね。これからバンドやる人はそこを目指したほうがいいですよね。って、いい話をしてみました(笑)。
――でも、自分のスタイルができた手応えはあったでしょ?
ヒダカ:最初はだから、売れる売れないじゃなく、これでライヴやったら絶対楽しいだろうと思いましたね。で、実際やっぱライヴも楽しくなったし。ソデに人間がいるっていう感じも、だんだんフィットしてきて(笑)。一番象徴的だったのは、BACK  DROP BOMBにイベントに呼ばれるんすよね。そこからすべてが変わりましたよね。その打ち上げで、レオナが来て、TOSHI-LOWが来て。いわゆるAIR JAMに出るようなバンド達と友達になって。そっから一気に、ハコとかイベントの内容が全然変わりましたね。
						だから下北沢を裏切っちゃったみたいな気分でしたよね、当時ね(笑)。『バッドフード・スタッフ』っていうイベントに出してもらって。
						
						2000年ぐらいだったかな、それがZepp Tokyoだったんですよね。Zeppクラスでライヴやるのが初めてだから、俺たちだけ機材とか持ってないわけですよ。
						俺達だけレンタルして(笑)。「ビークルさんの機材、こっち置いてありまーす」みたいな感じで、当日届けてもらって、それで、レンタル機材をステージによいしょって上げて、ライヴやったんですけど。
						初めて何千人規模の前で演奏した時のことは、もう全っ然覚えてないですね。あまりの緊張で。ただ、エモいライヴだったなっていうことだけ、覚えてますけど。あのへんから流れが変わってきましたね。
――いきなりメインストリームに乗っちゃったわけですよね。
ヒダカ:そうですね。しかも、デビューシングルの“E.C.D.T”だったり、そのあとに出たアルバム『HOWLING SYMPHONY OF...』が、意外と売れてるよってレーベルの人にも言われて、すごいびっくりしたの覚えてますよね。もちろんある程度ウケるだろうっていう自信のもとにやってましたけど、それはあくまでも、下北沢でノルマを払わないでライヴがやれるっていうような範囲のものでしたよね。お客さんが70~80人から100人弱ぐらいいて、みたいなイメージでしたけど、下北だと売り切れるようになりましたね、そのへんから。びっくりしましたね。
――自分の中ではかなりの驚きだったんじゃないですか。
ヒダカ:相当な驚きでしたよ。だから、してやったりっていう部分と、自分が思ってる以上の評価っていうのの合間で、すごい悩んでましたよね。当時はちょうど仕事も、CRジャパンからLD&Kに変わった時期で。なんかこう、仕事人として生きるのか、バンドマンとして生きるのかみたいな選択肢を、周りがものすごい突きつけてきて。それはすごいヤでしたね。俺は当然、一生サラリーマンのまんまいくんだと思ってたんで。今でも悩んでますけどね(笑)。だから、そのびっくりを覆すために開発したひとつの技が、お××んコールだと思うんすよね、たぶん。
――それとお面は最初から?
ヒダカ:お面は最初からしてました。で、お××んコールに関しては、たぶんセカンドの前ぐらいだと思うんすけど、代々木公園で「蓮沼」っていうフリーの野外イベントがあるんですけど、それに出たんですよ。その頃、SKA SKA CLUBだったりPOTSHOTだったり、ブレイク直前の氣志團だったり、175Rだったりっていうメンツの中で、ライヴをやれってことになって。で、どうにかしてインパクトを持たせたいと。それまでも、下北沢ではなんとか一夜限りのチャンピオンにはなれたけど、さすがにこの「蓮沼」、代々木公園のシーンの中では、俺たちはまだペーペーで。そこでumu、araki、thaiと俺とで、ない知恵をしぼって考えだした答えが、これだったんですよね。お××んコール(笑)。
――非常に卑怯な手なんですけど。どんな反応でしたか?
ヒダカ:やっぱり、最前列のPOTSHOTを待ってた女の子たちは、ものすごいイヤな顔をしてたんですけど、意外と盛り上がったんすよね、やっぱりね。野郎のウケはよかったし。女の子達のイヤな顔を見るのは、俺の性的志向的にも、まあ満足でしたしね(笑)。
――それが自分達のスタンダードなスタイルになるとは、1ミリも思ってなかったという。
ヒダカ:ええ。あの頃ってやっぱ、音楽で食うつもりもさらさらないし、テレビやラジオに出るってこともなかったんで。で、自分たち主催じゃないイベントの度にやるようになって、しまいにはだんだん自分たちのイベントでも定番化していくって感じでしたね。
――お面をかぶってあのコールをするってこと自体、メジャーになっていく意志ゼロだよね。
ヒダカ:そうですね(笑)。確かに。あれはパーティー・バンドとしての覚悟がばっちりだったっていうとこだと思うんすけど、自分の中での言い訳としてもあったんでしょうね。ある程度ウケてるけど、これ以上ウケるわけがない、っていうことの言い訳としての、下ネタコールだったりお面だったりですよね。
――だんだんわかってきましたね、自分のことをね。
ヒダカ:わかってきましたね。はい。怖いなあ、これ(笑)。
――メンバーも喜んでたの?
ヒダカ:メンバーのほうがむしろ喜んでましたね(笑)。今でもみんなバカですけど、当時はもっとバカだったんで。みんなものすごいノリノリでやってましたよね。ただ、thaiくんだけはあんまりノリノリじゃなかったですね。そういうキャラは、やっぱバンドに常にひとりいますね。今はクボタ(マサヒコ)さんがノリノリじゃないです(笑)。
6 ヒダカ、サラリーマンをやめる
――それで、この頃からバンドはどんどん大きくなっていくよね。
ヒダカ:この頃はだから、仕事柄いろんなバンドを見てる中で、それこそサンプリング感で、例えばメロディック・シーンではこういうふうにしてお客さんを集めて、ギターポップではこういうふうにしてる、っていうのをちょっとずつやっていって、その規模がでかくなればいいな、みたいな。それがある程度達成されたような気がしますね。
						たとえば、セカンド・アルバムぐらいの時にシェルターでワンマンをやるんですけど、それが即ソールドアウトして、それがすごいうれしかったの覚えてますね。だけど俺、その日LD&Kで昼間仕事して、リハで夕方シェルターに行って、もう1回会社に戻って仕事してて、気付いたらもう7時過ぎてるんすよ。開演時間とっくに過ぎてて、「ヤベえ!」と思って慌ててタクシーでシェルターに行ったら、お客さん達みんな待っててくれたっていう事件もありましたよね。
――すごい、ほんとにサラリーマンとのギリギリの両立を。
ヒダカ:だからそこで初めて、バンドと仕事の両立が難しいんだなって意識し始めますね。だから、仕事のほうは、契約社員扱いにしてもらって、給料半分ぐらいにしてもらって、バンドの収入とそれを合わせて暮らしてましたね。それがサード・アルバムぐらいん時ですね。
――なんで会社やめないかなあ。
ヒダカ:はははは。まだ未練があったんじゃないですか、サラリーマンに対して。
――でもそこまで状況ができてくるとさ、それこそもう、でかい万単位の会場も埋まるような、そういうバンドになるんだ、って1ミリぐらい思いませんでした?
ヒダカ:いや、全然思ってなかったですね、そん時は。俺、今でもそうですけど、武道館公演とかをやろうという頭が全然ないんですよね。なんかそういうロック幻想から身を離すことが、むしろ当時はかっこいいと思ってたし。逆に、そういう幻想から距離を置けば置くほど、バンドがどんどん上手くいってたんですよね。だから、それで上手く回るだろうと思ってましたね、当時は。
						結局だから、契約社員になった時に、やっぱりレーベル側の要求としては「もっとバンドに専念してくれ」だし、で、まあ会社のほうは……LD&Kっていうのは、元々は友達として知り合ったので、すごくよくしてくれたんすよね。だから逆に、よくしてくれたからこそ、はっきりしなきゃいけないと思ったんすよね、そん時。だからインディーズで4枚目のアルバムを作る前後で、仕事なのか音楽なのか1回はっきり決めようと思って、LD&Kを円満退社してバンドに専念するんすよね。で、インディーズレーベルのほうも給料制にしてもらって、初めて音楽で給料をもらうんですよ。だから生まれて初めてプロのミュージシャンになるっていう。それがね、当時すごい気恥すかしかったのを覚えてます。
――なんで気恥かしいの?
ヒダカ:まあ、その時点でもう33歳でしたからね、俺ね。「まずいんじゃないか」みたいな(笑)。だからね、当時親に内緒にしてましたもん、俺(笑)。会社辞めたってすぐ言わなかったんですよね。
――いつ知るの?
ヒダカ:メジャーデビューのタイミングですね。さすがにそれはもう言わないとまずいなと思って。したら当時ね、うちの母がSNAILRAMPのベース&ヴォーカルのタケムラのお母さんと、会社の同僚で(笑)。それで「タケムラさんちの子みたいになるんでしょ?」って言ってましたね。
――はははは。で、まあ、ビークルは解散するわけですけれども。
ヒダカ:まあ解散というよりは、あの頃メンバーが俺以外はみんな、まあリアルな理由でバンド活動が難しいってことになって。じゃあ1回再編しようかってことだったんですよね。だから、いわゆる世間的な解散じゃなかったんですよね。で、俺はその間、水面下で「じゃあどうしようかなあ」って、半年ぐらいボーッと考えようと思ってたんですけど、実はそのボーッと考える時間が半年もなかったんですよね。
						ちょうどみんながやめるって頃に、日比谷の野音でのライヴが決まってて。日比谷の野音をやって、じゃあそのまんまフェードアウトか、もうパーンて終わらせるか、っていうのが普通の選択肢だったと思うんですけど、逆に野音でワーッてやってる隙に次のことやろうと思ったんですよね、俺。それがサラリーマン体質なのか、自分の中で、いわゆる再就職先があるみたいな保険を求める、そういう体質なのかわかんないんですけど。今だから謝りますけど、当時のインディーズ・レーベルやメンバーに黙って、もう今のメンバー集めてました(笑)。
――はははは。
ヒダカ:「ごめん!」みたいな(笑)。まあ、手堅かったですね。やっぱりその、ビート・クルセイダースっていうのを、まず続けたいと思ったし。それはなんでかっていうと、この先自分が、当時のメンバーがいなくなって音楽をまた改めてやるっていう時に、ヒダカトオル名義ってものすごい恥ずかしかったんですよね。ヒダカトオル&○○ズみたいなのはヤだなと思ったし、ソロ名義もヤだし。って考えると、やっぱり結局ビート・クルセイダースっていう名前でやりたいなと思ったんですよね。
						だから、ビート・クルセイダースっていう看板を下ろす意味が俺の中で全然見つかんなかったんですよね。となると、ビート・クルセイダースっていうものをまた1からやり直そうって考えて、今のメンバーに声をかけて、水面下でしこしこと曲作ったりしてましたね。リハやったり。
――完全にゲリラですね。
ヒダカ:完全にゲリラ作戦でしたね。だから、その日比谷の野音やって、SKYMATESとのスプリットを出して、ベスト盤が出て、「メンバーが脱退します」みたいな発表が当時あったと思うんですけど、その時点でもう、今のメンバーでレコーディングの段取りやってましたからね。で、同時にGALLOWも始めてて、俺。だからたぶん、みんな、俺が1回GALLOWに移行するんだろうって思ってたと思うんすよね。で、俺もそう思わせようと思ってたんですね、当時。
――すんごいヤな奴じゃないですか(笑)。
ヒダカ:ヤな奴ですよ、はい。なんかでも、そういうふうに、たとえばビート・クルセイダースってものに期待してくれてるお客さんだったり、あるいは自分が期待する自分に対して、1回ものすごい揺さぶりをかけたかったんすね。やっぱ、メンバーが変わるっていうのはものすごい事件じゃないですか。当時は俺は、それで食ってたから、その事件性を逆にプラスに動かすしかないなと思ってて。
						だから、わざと揺さぶりをかけるような展開を、自分でどんどん作ってましたね。当時はほんとにスタッフもいないから、俺ひとりで考えて。で、今のメンバーに、「こうやるけどいい?」って、一応おうかがいを立てながら、やってましたね。だから実は、ベスト盤が出た3ヵ月後に、クボタさんのレーベル、CAPTAIN HAUS RECORDINGSから、新メンバーでのシングルが出るんですよね。なるべくそのインターバルはないほうがいいと思って、俺。
――すごい戦略ですね。
ヒダカ:そうですね。だから、あの時が、人生で一番忙しくなってましたね。なんか人生の4、5年分の知力を使った感じがすごいします。ほんとに、前のメンバーやレーベルには悪いですけど、ものすごい楽しかったですね。人を欺くってなんて楽しいんだろう、みたいな(笑)。ものすごいヤな奴ですから、俺。そこらへんはあとからちゃんと謝りましたけど。「ごめん!」って。
(※後編に続く)