私には会ったことのない伯父がいます。私の母の兄。1942(昭和17)年11月、南太平洋のイサベル島付近での上陸作戦中に、敵機の攻撃を受け戦死しました。享年30。
私は末っ子の母と父の間に生まれました。父が40歳のときです。母の実家は群馬県沼田市。陸軍士官学校を出た兄、正雄は一家の誇りだったそうです。
兄の妻、光子は栃木県日光市生まれ。太平洋戦争が始まる直前の41(昭和16)年4月、二人は結婚。わずかな新婚生活の後、伯父は出征し帰らぬ人になりました。
伯母は伯父の戦死後、医学の道を志し、50(昭和25)年に医師免許を取得。古河電工日光電気製銅所付属病院で、内科医として働き始めました。
伯母は私が、お気に入りだったようです。「学さんは、正雄さんの若いころにそっくりね」。私は母親似と言われます。母の兄に似ていても、おかしくはありません。独身を通し子どももいなかった伯母が、若き日の夫においである私を重ねたのでしょうか。
伯母はどんな仕事をしていたのか。宇都宮に赴任してから調べると、アイスホッケー選手の疲労度に関する論文が見つかりました。57(昭和32)年のもので、日本最古の古河電工アイスホッケー部の冬季合宿における練習のあり方と疲労度について考察した内容でした。農村医学の研究もしていたようです。伯母は70歳で退職、02年に85歳で他界しました。
私は埼玉生まれですが、栃木に来たのは小学校の修学旅行で訪れた日光などわずかな機会しかありません。今回、この地に来られたのは伯母の導きと思います。伯母は医師として地域に貢献しました。私は立場こそ違いますが、地域に役立てるような報道を目指して取り組んでいくつもりです。伯母の最愛の人、「正雄さんに似ているわ」と言われ、私はとてもうれしかったことを覚えています。【宇都宮支局長・吉川学】
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紙面でのごあいさつが遅れ、申し訳ありません。4月に宇都宮に着任しました。2週間に1度、皆様に手紙をお届けします。ご愛読お願い致します。
毎日新聞 2010年9月6日 地方版