Index ティータイムの歴史話 その1

正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その2


■帰国

リトアニアを後にした杉原(杉原一家)はベルリンに行き、そこの来栖大使の指示でチェコスロバキア、東プロセイン、続いてルーマニアの領事となりその地で終戦を迎え、しばらくの間ソ連の収容所に入れられていました。1947年4月になってようやく帰国した杉原は2ヵ月後突然の解雇を言い渡されます。

「外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、〈君のポストはもうないのです、退職して戴きたい〉と言われた」

夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。

かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。(六千人の命のビザ)

『例の件』とは何か。
思いつくままに書きますが、いずれも納得できるものではありません。

まずビザ発行のことです。
しかし訓令違反による解雇というならそれはビザ発行直後でなければならず、その後の杉原はヨーロッパ各国に領事として赴任していますし、1944年ルーマニアにいた時には勲五等瑞宝章を授与させているほどです。ですから外務省はリトアニアを去った後の杉原に決して不利な扱いをしていないのです。

次に当時外務省は人員整理を行っていました。
これによる解雇なら、常識的に考えても奇妙な理由です。(外務省に常識が通用するか否かは別として)
人員整理は能力の低い者から順にするものですし、杉原のような有能な外交官にはあてはまりません。1947年は米ソの冷戦がはじまっている時期であり、杉原のようなソ連通の人材は外務省にとって不可欠だったはずです。

しかし人員整理による解雇の記録は残っているようです。これは1992年3月11日第123回国会衆議院の予算委員会において、草川昭三(公明党)の質問と外務大臣、総理大臣の答弁です。

 

草川昭三

終戦後ソ連での抑留から帰国されました杉原氏は、外務省に復職を願いますけれども、昭和22年の人員整理ということで退官を強いられました。独断によるビザ発給は本国政府の訓令違反とされたと言えます。杉原氏本人も家族も、本省の意向に反してビザを発給した責任を問われたとの思いを抱き続け、44年間外務省関係との交流を一切絶っていらっしゃいました。
昨年の10月、鈴木宗男外務政務次官がリトアニアとの外交関係樹立を機会にこの問題を取り上げられ、飯倉公館でご家族に謝罪されたと聞いております。

(中略)

この際、外務省は正式に謝罪をし、この方を顕彰すべきだと思うんですが、大臣の見解を聞きたいと思います。

渡辺美智男
(外務大臣)
これは昔の古い話なので記録以外には調べようがないんですが、杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない。それからそういうような査証を発行したのは15年ですが、その後でプラハの総領事館あるいはケーニヒスベルクの領事館、ルーマニア公使館などを7年間勤務してきた。

だから7年間外務省にずっとおるわけですから、処分されたわけではないし、22年には約3分の1、外務省の人間の3分の1が解雇されたそうです。終戦直後の話ですから、その3分の1の中に入ったということは事実でございますが、特に不名誉な話ということは私は全く聞いておりません。

宮沢喜一
(内閣総理大臣)
私も報告を受けておるところによりますと、杉原副領事の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います。

 

さてこれをどのように解釈しましょうか。
宮沢首相の見解ではなく渡辺外相のことです。

杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない、というのは本当にそうなのか、あるいは実際には記録があるけれど今さら、ということで杉原をかばったのか ・・・・・ ひねくれすぎた解釈でしょうか(笑)

ところで今回読んだ本のなかに興味深い話が載っていました。
杉原を大使にしてほしいとアメリカからの要請があったというのです。当時杉原は日本よりアメリカで有名でした。もちろんユダヤ人の間ですが。

もしそれが本当なら、当時の日本は (今でもかな?) アメリカの言いなりでしたから断ることはできなかったでしょう。杉原が外務省に在職しているかぎり。

杉原は例えば東大などの大学を卒業したいわゆる『キャリア組』ではなく、『ノン・キャリア組』です。
アメリカ大使といえば数多い大使のなかでもトップクラスの重要な地位にあるため、ノン・キャリア組の杉原がアメリカ大使になると外務省の伝統的習慣 (くだらぬ習慣ですが) を破壊することになるようです。アメリカ大使要請の真偽は不明ですが、こんな習慣は実際にあるかもしれません。

アメリカ大使が実現しなくとも、杉原のようなソ連通はソ連大使でも腕を発揮したでしょうし、実際杉原はソ連大使になりたかったようです。ソ連といえば独ソ戦争が始まる直前の1941年5月、東プロセインの領事だった杉原は『最近1週間ニ聞キ込ミタル独蘇関係判断御参考事項』という題で独ソ諜報活動の報告書を外務省に送り、ドイツとソ連の開戦はもはや避けられない、と結論づけています。実際に戦争が始まったのは翌月、6月22日でした。

この杉原からの情報に外務省はどう動いたか。
何も反応しなかったのです。

杉原がかけがいのない諜報活動をし、このように貴重な情報を送ったにもかかわらず、その情報を生かさず、無策のまま、日米開戦に至らしめた(外務省の)高級エリート官僚にとっては、戦後、杉原はますます煙たい存在であったろう。それがまた杉原を不幸にするのである。(杉原千畝と日本の外務省)

この本は、ノン・キャリア組の杉原は有能であるがゆえにキャリア組から煙たがられて退職を余儀なくされたような書き方をしています。私には肯定も否定もできません。

さらに杉原にとって不愉快なことは、杉原はユダヤ人に金をもらって見返りにビザを発行した、という噂がまことしやかに外務省内に流れたことでした。幸子夫人は、夫は怒りをあらわにした、と手記に書いています。

どうも釈然としませんが杉原が外務省にいては都合の悪い事情があったことは間違いないでしょう。
ではその事情とは何なのか。

日本の開戦は軍部、特に陸軍の暴走が原因の一つではありますが、それだけではなく対外的な窓口としての外務省の責任もまだ大でした。それを詳述するのは今回の趣旨から外れるので避けますが、東京裁判でのA級戦犯28人の中に松岡洋右、東郷茂徳など外務省出身者が5人もいたのです。(東京裁判の是非もここでは書きません)

戦後になって占領軍の指示で外務省の権限は大幅に縮小されましたが、それでも依然として占領軍にとって外務省は日本の窓口でした。外務省は戦争責任を軍部に押し付けることに汲々とし、また占領軍は効率的な日本統治の必要性から多少のこと(外務省の戦争責任の徹底追求)は黙認していたようです。

1947年6月は東京裁判で南京大虐殺の審議が進行中でしたし、ナチスのホロコーストが世界的に非難をあびていた時です。そんな時期に多数のユダヤ人を助けた杉原のことが取り上げられれば占領軍側の心証が相当良くなることは明らかでした。

ユダヤ人を救ったのは杉原だけではなく、この後に書く樋口季一郎もそうなのですが、東京裁判ではどちらも話題にはなりませんでした。あるいはアメリカが『ある目的』のため、その証言を押さえたのかもしれません。

杉原自身はあのビザ発行がどの程度の影響を与えたのかはよくわからなかったかもしれませんが、外務省に杉原の行為の意味がわからなかったはずがなく、外務省は『杉原の価値』を承知の上で彼を解雇したのです。

外務省がなぜ杉原を解雇したのか。
真相は永久に闇の中かもしれません。

杉原は黙って命令に従ったようです。
彼はリトアニアでのビサ発行については積極的に他人に話すことはなかったようですが、良いことをしたと思うのと同時に、解雇されたのですからずいぶん後悔することもあったようです。その点杉原は外交官である以前に、悩める一人の人間でもありました。

 

■その後の杉原

外務省を退職した杉原は職を転々としますが、得意の語学を生かし貿易関係の民間企業で働くようになります。1960年にはその会社のモスクワ事務所長として赴任し、1975年までモスクワで仕事を続けたのです。

転機が訪れました。外務省を去って21年後のことです。


イスラエルより受賞した勲章

1968年8月、杉原はイスラエル大使館からの電話を受けました。
杉原に救われたユダヤ人の一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していましたが、彼は28年間杉原を探しつづけようやく見つけたのです。

杉原に会ったニシュリは涙を流し、あのビザ・・・すでにぼろぼろになっていましたが・・・を見せたのです。このとき、ようやく杉原は自分の行為が報われたと思ったことでしょう。

翌年イスラエルに招待された杉原はバルハフティック宗教大臣に出迎えられます。大臣はカウナスで杉原と交渉したユダヤ人の5人の代表者の一人です。

バルハフティックは杉原をエルサレム郊外のヤド・バシェム記念館に案内します。ここはホトコーストの犠牲者を追悼する所であり、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館なのです。

1985年1月18日、ユダヤ人を救出の功績を称えるため、イスラエル政府よりヤド・バシェム賞 (諸国民の中の正義の人賞) を受賞。
このとき東京のイスラエル大使館に招かれましたが病床の杉原は出席できず、代理として幸子夫人と長男の弘樹氏が出席しました。


バルハフティック宗教大臣と会談する杉原

その年の11月イスラエルのエルサレムの丘に顕彰碑が建てられ、イスラエルへ留学していた四男の伸生氏が代理出席しました。伸生氏は握手攻めになり、その様子を手紙で知った杉原の目には涙が溢れたといいます。翌年1986年7月31日、杉原は鎌倉の病院で静かに息を引き取りました享年86歳。


1991年3月リトアニアがソ連から独立するとこれに影響されたのか同年10月3日、外務次官だった鈴木宗男は幸子夫人を外務省に招き過去を謝罪すると渡辺美智雄外務大臣、宮沢喜一内閣総理大臣(いずれも当時)等が謝罪、あるいは杉原を称えるようになります。なにを今さらという感じですが。(この様子は前述しました)

1992年生まれ故郷の岐阜県八百津町に杉原を顕彰する人道の丘公園が完成し、1994年には杉原の銅像が建てられました。これは当時の外部大臣河野洋平の挨拶です。

●故杉原千畝顕彰式によせて(1994年9月23日 副総理兼外務大臣 河野洋平)

故杉原副領事と日系アメリカ人部隊員は第二次大戦の困難な状況下勇気をもって人道的活動をされました。このような活動は当時の暗い歴史の中の一筋の光として私達に希望を与えてくれます。

日本の外交の責任者として私は外交政策のはどんな場合でも人道的考慮が最重要であると考えています。第二次大戦が終結して半世紀そして東西冷戦も終わりましたが民族間の対立はなお各地で生起しています。

しかし時代が変わっても故杉原副領事と日系アメリカ人部隊の活動は輝き続けるものです。それらの活動を語り継ぐことが私達の課題であると考えています。今日の式典はその課題に答えるものです。
これを企画し多大の労力をされた<意外な解放者>訪問団の皆様に敬意を表しご尽力いただいた八百津町岐阜県の方々に感謝の意を表します。

杉原千畝記念館
(岐阜県八百津町 人道の丘公園内)

『シンドラーのリスト』を製作した
スティーブン・スピルバーグと幸子夫人
(1995年アメリカで)

●杉原千畝氏顕彰プレート除幕式における河野洋平外務大臣挨拶(2000年10月10日 杉原千畝生誕100周年記念式典における挨拶)

本日御列席をいただきました杉原幸子令夫人、そして杉原家の皆様、今日の日を迎えるに当たって大変御尽力いただきました鈴木宗男議員、岐阜県及び八百津町の方々、それからリトアニア及びイスラエルの在京臨時代理大使、杉原千畝生誕100年記念事業委員会の皆様方、その他御列席の方々、皆様をお招きして本日ここに故杉原千畝氏の偉業を称える顕彰プレートの除幕式を開催できたことは、私にとりまして、大きな喜びでございます。

特に、故杉原氏と一緒に言葉には言い表せない御苦労をされました幸子夫人に御臨席を頂けたことは、本当に嬉しいことでございます。望むらくは、故杉原氏が御存命中にこのような式典ができておれば更に良かったと、こんなふうに思っています。これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

勇気ある人道的行為を行った外交官として知られる故杉原氏は、申し上げるまでもなく、在カウナス領事館に副領事として勤務されている間、ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ系避難民に対して日本通過のための査証を発給することで、多くのユダヤ系避難民の命を救い、現在に至るまで、国境、民族を越えて広く尊敬を集めておられます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

本年は故杉原氏の生誕100周年に当たりますが、杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝えるために、顕彰のプレートを設置することとなりました。

このプレートは、8月4日、衆議院外務委員会におきまして、鈴木委員から、顕彰のために何か残るものを考えるべきだという御指摘がございました。外務省といたしまして、色々と考え、相談した結果、ここにプレートを置かせてもらうことが最も適当であろうと考えた次第でございます。このプレートを見る度に、故杉原氏のとられた人道的かつ勇気のある判断と行動について、当省職員が常にこれを心に留めて職務に努めるとともに、外交史料館に閲覧にいらっしゃる方々にも、杉原氏の人となりと業績に思いを馳せていただければと考えた次第でございます。

また、故杉原氏の偉業を記念して、何か国際社会における相互理解に役立つ事業をできないかという御提言がございました。これにつきまして検討した結果、国際交流基金事業として、イスラエルからの有識者招聘が2001年度から実施されることとなり、同氏にちなんで「杉原千畝フェローシップ」と名付けられることとなっております。この実現に多大な御尽力をされた鈴木議員から改めて御説明があると存じますから、私からは一言の御紹介にとどめさせていただきます。
最後に故杉原氏の御冥福をお祈り申し上げ、御家族の皆様の御健康を願って、私の御挨拶とさせていただく次第でございます。有り難うございました。


■なぜシベリア経由、日本だったのか

1939年、ドイツがポーランドに侵攻するとポーランド在住のユダヤ人にとって逃げ道はリトアニア以外ありませんでした。
ポーランドの西はドイツ、東はソ連、南はチェコスロバキア、北はバルト海です。ユダヤ人にとってはヒトラーに協力しているソ連も信用できず、バルト海はドイツ海軍に制圧され、南のチェコはすでにドイツの支配下でした。
逃げられる可能性があるとすれば唯一、バルト海に面する小国リトアニアだったのです。しかしソ連はバルト三国併呑の動きを見せていましたからリトアニアも安全地帯ではなかったのです。

ユダヤ人にとって安全なのはアメリカ、英領パレスチナ、満州、上海、日本ぐらいでした。つまり英領パレスチナ以外ではシベリア鉄道に乗って東へ行く以外彼らが助かる道はなかったのです。

シベリア鉄道はモスクワからウラジオストックを結ぶ約9600kmの世界最長の鉄道です

 

■当時の状況

●水晶の夜

それが良いのか悪いのか。
日本人ほど宗教に寛容と言うか、いい加減な (笑) 民族というのも世界的に見れば珍しいでしょう。日本神話からして天照大神をトップとする八百(やおろず) の神々の国ですし、神道も仏教も共存しているような国柄ですから、キリスト教徒だからといって特別扱いをしない代わりに、ユダヤ教徒でも差別することはなかったのです。

宗教に疎い日本人の感覚から言えばユダヤ教もキリスト教も同じキリシタンですし(笑)、両者の違いは浄土宗と法華宗の違いくらいにしか写らなかったことでしょう。人種についてもアングロ・サクソン人やゲルマン人も白人ですし、ユダヤ人もまた白人なのです。

さてユダヤ人排斥といえばナチス・ドイツのそれが有名ですが、これはある面正しくまた別の面では間違っています。なぜならユダヤ人はドイツだけではなく、古来全ヨーロッパから直接的、あるいは間接的に排斥されていたのです。

その理由はあまりにも複雑で、私も当然ながら理解不足なのでここにきちんと記載することは到底不可能ですが、簡単に言えばユダヤ教徒がイエス・キリストを殺したためキリスト教徒から反感を受けていたからです。

2004年ハリウッド映画『パッション』が公開されると、ドイツのユダヤ中央評議会、司教会議、プロテスタント教会は反ユダヤ主義を扇動する恐れがある。製作意図が反ユダヤ主義であろうとなかろうと、反ユダヤ主義のプロパガンダとして使用される危険性があるとする共同声明を発表しました。

次にキリスト教はユダヤ教から派生しましたが、『神の定義』が違うのです。
ユダヤ教はヤハウェーを唯一絶対の神として他を認めません。これに対してキリスト教が成立すると神の実体に関する論議が起こりました。キリストは神か、ということです。聖書では『神の子』となっていますが。
結論としてキリスト教は父であるヤハウェー、子であるイエス、そして聖霊を合わせて一人の神としました。これを三位一体説といい、これを基本とするのがカトリックです。

聖霊とは聖書でも定義されておらず難しい概念です。それについての論議は古来何度もされてきていますが今日でも結論は出ていないようです。
カトリックは圧倒的な政治力を使って、三位一体説に反対する人たちを異端者として駆逐することに成功しました。後にカトリックから分離したプロテスタントもやはり三位一体説を支持しています。

イエスの母マリアは神の母、聖母として時には信仰の対象になりますが、これを否定して異端視されたのがネストリウス派です。ネストリウス派は迫害されて最後には中国(唐の時代)へ行き、その地で布教に努めました。中国では景教と呼ばれます。

さらには『ユダヤ人のみが救われる』という強烈な選民思想を持つユダヤ教はそれだけで、『信ずる者は誰でも救われる』と唱えるキリスト教徒の反感を買っていたのでした。
しかし、だからといって

そんなにキリスト教徒から排斥されるなら、ユダヤ教を捨ててキリスト教徒に宗旨がえすればいいじゃないか

こう考えるのは間違いです。
日本人なら気楽にそうするかもしれませんが、一神教・・・キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教・・・の信者達は神の教えを絶対と信じ、それにしたがって生活しているのですから、宗旨がえは精神的な死を意味するのです。

キリスト教もユダヤ教徒にとってはイエス(ユダヤ人)が始めた一つの思想に過ぎません。
キリスト教が世界に広がると本来のユダヤ教のものである、神の下では王も人民も平等である、という考え方が広く普及します。これが民主主義の起源になります。


紀元前70年、ローマの攻撃の前に国を失い放浪の民となったユダヤ人が、第二次世界大戦後ついにイスラエルを建国したことは彼らの宗教による結びつきがいかに強力だったかを物語ります。しかしそれだからこそヨーロッパ諸国では、頑固で自分達(キリスト教)に同化しないやつらとして差別的扱いを受けてきたのす。

シェイクスピアの『ベニスの商人』にはユダヤ人の悪徳金貸しシャイロックが登場します。この物語は悪徳の金貸しを懲らしめるという単純な勧善懲悪劇と思われがちですが、物語の根底にあるのはキリスト教徒(善)によるユダヤ教徒(悪)への差別なのです。

シャイロックがユダヤ人なのは決して偶然ではなく、当時のヨーロッパでユダヤ人はそういう扱いを受けていたのです。そういう扱いというのは金貸しのことで、これは当時のヨーロッパではまともではない職業の一つとされていました。

金融業というものの基本は貸した金に利息を加えて返してもらうことです。当然のことですがこの利息が金融業者の利益になるわけで、卑しくも下賎でもなく立派な職業です。
ところが中世までのキリスト教は利息を禁止していたのです。元々ユダヤ教自体が利息の徴収を禁止していたからで、そこから派生したキリスト教もイスラム教もまた同様でした。

例外があります。
ユダヤ教はユダヤ教徒以外、つまり異教徒からならそれを認めていたのです。
ですからキリスト教徒からみれば、利息を取り立てる金貸しはとんでもない職業であり、それに携わるユダヤ人は罪深き人だったのです。しかし卵が先か、鶏が先か。このようなことをしなければユダヤ人は生活できなかったのもまた事実なのです。

「ではでてゆけ。」元首は言った。「しかと署名するのだぞ。もしお前がみずからの残忍さを悔い改めて、キリスト教徒となるのであれば、国家による財産の半分没収も免除してやろう。」(ベニスの商人より)

宗旨がえができないのは前記のとおりです。
シェイクスピアが差別主義者だったかどうかわかりませんが、彼自身はそれ(ユダヤ人差別)を意識してはいなかったでしょう。
それが当時の一般的社会的風潮ですし、シェイクスピアも普通のキリスト教徒だったとしか言いようがありません。

『シンドラーのリスト』はスティーブン・スピルバーグの代表作の一つですが、彼はユダヤ系アメリカ人です。スピルバーグがベニスの商人を映画化したらシャイロックはどのように描かれるでしょう。

ユダヤ人は各国を放浪する『非定住民』で、『定住者』からは胡散臭い目で見られ、市民権は与えられず、必然的に土地もなく、彼らが従事できる仕事は農業、工業以外の、例えば金貸し、医者、芸能など限られたものになります。歴史的に見てそれらの分野でユダヤ人が優れた業績をあげたのは偶然ではないのです。

近代になってからはさすがに差別は緩やかになり、ユダヤ人はその勤勉さと才能によって政治、経済、学問、芸術、スポ−ツといった分野で台頭してきましたが、不幸なことにこれがヨーロッパ諸国において、ユダヤ人によって国が乗っ取られるのではないかという恐怖を生んだのです。

1933年1月、ヒトラーが政権を取ると4月にはユダヤ人排斥運動声明を行いユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家を締め出し、2年後にはニュルンベルク法によるドイツ市民権剥奪、と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策が打ち出されました。

ヒトラーは元々ユダヤ人嫌いのうえ、第一次世界大戦でドイツが敗北したのはユダヤ人が裏工作したからだと本気で信じていましたし、ユダヤ人排斥が始まるとドイツ周辺の国々はユダヤ人への差別意識から見て見ぬフリをしていたのでした。ドイツ以外の国もいわば同じ穴のムジナだったのです。

1938年3月急増するユダヤ人難民を救うため、アメリカではハル国務長官が国際委員会を組織する提案を行い、その第一回会議がフランスで開かれました。ところがアメリカ議会は自国の政府案を拒否。ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジルは移民受入れの余地なしと回答。カナダは協力の意思があるものの難民収容能力には限度があり、イギリスは農業移民ならアフリカのギニア植民地に収容できる、といかにも見えすいた事実上の拒否をしたのです。

1938年11月、ユダヤ系ポーランド人の少年がパリのドイツ大使館員を殺すと宣伝相ゲッベルスが報復を呼びかけます。その結果ドイツ全土のほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや打壊しにあい、7500のユダヤ人商店が破壊されます。

この夜、道路はガラスの破片で覆われて輝いたのでこの事件は『水晶の夜』と呼ばれています。その後ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めるのです。

この犯人の少年はいささか知的障害の傾向があったため、この事件はドイツ政府の陰謀だったという説もあります。

この後、私は日本陸軍軍人だった樋口季一郎のことを書きますが、樋口は、駐在武官としてヨーロッパに赴任していた時のこととして、こんなことを回想しています。

かつて私が、秦(彦三郎中将)と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チリフスに至った時、ある玩具屋の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、「私は日本天皇こそ、我等の待望するメッシアではないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聴いているから」というのである。

まあ、私に言わせれば日本人には人種的偏見は大いにありますが(戦前の日本人の中国、朝鮮人への態度を見ればよい)、キリスト教への宗教的偏見は明治以降は少なくなったとは思います。
それはともかく、この老人の話しは、当時のユダヤ人達がいかに差別と偏見にさらされていたかを物語るものではないでしょうか?


●一方日本では・・・・

1919年第一次世界大戦後のパリ会議の席上、日本は人種差別撤廃条項案を提出しました。
こんな内容です。

1. 主権の平等は国際連盟の設立において必須の要綱であり、国際連盟の締結国は一切の外国人に対して権利の平等と差別の撤廃を法律上、事実上共に設けることを約束する
2. この条項を拒否することは、すなわち連盟各国の平等が認められないことを示す

この案は16票中の11票が賛成を示し採決と思われましたが、議長であるアメリカのウィルソン大統領が『全会一致の賛成でなければ採択されない』と述べてこれを撤回してしまうのです。

このような提案の背景には、日本は軍事的な力をつけてきたとはいえ、国際的には人種差別に苦しむ有色人種として姿がありました。その後五族共和という理念が生まれましたが、これはパリ会議で否決されたことと無関係ではないでしょう。五族共和とは『日本人、朝鮮人、満州人、漢民族、蒙古族が共存共栄を図ろう』ということです。

日本は少なくともタテマエ上は人種差別反対の国ではありました。
しかし日本国内の実態はどうだったか。

口には人種差別撤廃を唱えつつ、朝鮮人や中国人への差別は公然と、あるいは秘密裡に行われていたのです。関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件はその表れであり、その差別意識は今日でも完全になくなったとはいえないでしょう。パリ会議での提案も勘ぐれば、白人社会において日本人だけは差別から除外してほしい、という訴えとも思えるのです。

●河豚計画

ヨーロッパの歴史や宗教に疎い日本人にはなぜヨーロッパ人が、とりわけドイツがあのようにユダヤ人を排斥するのか理解に苦しんだかも知れません。日本はタテマエとはいえ一応人種差別には反対していましたから、ユダヤ人を積極的に排斥することはありませんでした。むしろ彼らを『利用』しようとしていたのです。

その利用計画を河豚(ふぐ)計画と通称します。

1932年満州国が建国されるとヨーロッパ在住のユダヤ人の資本、技術力を満州国に投下しようとする計画が練られました。経済政策でしたが、国内に大勢のユダヤ人を抱えるアメリカとの関係悪化を少しでも和らげようとする目的もあったのです。発案者は犬塚惟重海軍大佐。計画策定に尽力したのが当時陸軍一のユダヤ通といわれた安江仙弘大佐(やすえのりひろ 1888〜1945)でした。

資本の投下、技術援助の反面、日本の植民地(満州国)内に多数のユダヤ人を居住させることは、一歩間違えれば植民地自身がユダヤ人に乗っ取られかねない危険性もあり、美味ではあるが毒も持つことから河豚計画と呼ばれました。(これを河豚計画と呼んだのは1935年に満州鉄道総裁となった松岡洋右だったようです)

計画によれば1934年には50000人のユダヤ人を招聘する予定でしたがヨーロッパの状況、とりわけドイツとの関係などから実現せず、日米開戦と共に消滅しました。このとき外務省から満州国に打電された「時局ニ伴フ猶太人ノ取扱ニ関スル件」によれば廃止の理由は『大東亜戦争勃発』によりユダヤ人利用による『外資導入』と『対米関係打開ノ必要』がなくなったためでした。

●猶太人対策要綱

1938年12月、第一次近衛内閣閣僚による五相会議が開かれました。
五相とは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣を指し、政治の基本方針を策定する当時の重要会議です。(当時の五相は近衛総理大臣、有田八郎外相、板垣征四郎陸相、米内光政海相、池田成彬蔵相兼商工相)

その時の策定項目に『猶太人(ユダヤ人)対策要綱』があります。これは同年1月に発令された関東軍による『現下ニ於ケル対猶太民族施策要領』の方針を追認したものです。

猶太人封策要綱 昭和13年12月6日

独伊両国ト親善関係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝國外交ノ極軸タルヲ以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝國ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ之ヲ独國ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ帝國ノ多年主張シ来タレル人種平等ノ精紳ニ合致セサルノミナラス現ニ帝國ノ直面セル非常時局ニ於テ戦争ノ遂行特ニ経済建設上外資ヲ導入スル必要ト封米開係ヲ悪化スルコトヲ避クヘキ観点ヨリ不利ナル結果ヲ招来スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之ヲ取扱フモノトス
 
  方 針

現在日、満、支ニ居住スル猶太人ニ封シテハ他國人ト固様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ
新ニ日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ封シテ一般ニ外國人入國取締規則ノ範園内ニ於テ公正ニ処置ス
猶太人ヲ積極的ニ日、満、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、担シ資本家、技術家ノ如キ特ニ利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス

カタカナ混じりのこういう文章は読むのが大変です。
わかりやすく書き直してみました。

ドイツ、イタリア両国と親善関係を緊密に保つことは現状における日本の外交上の重要事項であって同盟国ドイツが排斥するユダヤ人を積極的に保護するのは原則避けるが、ドイツのように極端に排斥することは、日本が長年主張してきた人種平等の精神に合わないだけでなく、現状日本が直面する非常時において戦争遂行、特に経済建設上外資を導入する必要性とアメリカとの関係を悪化させることを避けなくてはならない。

方針

現在日本、満州、中国に居住するユダヤ人に対しては他国人同様に公正に取り扱い、特別排斥するようなことがあってはならない
新たに日本、満州、中国に入国するユダヤ人に対しては一般に外国人入国規則の範囲内で公正に処置すること
ユダヤ人を積極的に日本、満州、中国に招致することは避ける。ただし資本家、技術者のような利用価値あるものはこの限りではない

この猶太人封策要綱にはユダヤ人を排除しない代わりに特別扱いもしないと書いてありますが、3.を読めばわかるように早い話が利用できれば利用しようとするもので、人種差別に反対するからではありませんでした。

河豚計画が日米開戦と同時に消滅したのは前記のとおりですが、この猶太人対策要綱も下記の外務省の訓電のように河豚計画同様にかけ声だけで具体的な国策にはならなかったのです。


1938年外務省による在外公館宛の訓電 

当省、内務及び陸海軍各省庁など協議の結果我盟邦(ドイツのこと)の排斥により外国に避難せんとするものの我が国において許容することは大局上面白からざるのみならず

現在事変下の我が国の実状は外国避難民を収容するの余地無きを以て此種の避難民の本邦内地並びに各植民地への入国は好ましからず(ただし通過は此の限りに在らず)とのことに意見の一致を見たるに付き

右御含の上是等避難民に対しては我が国の現行外国人入国令第一条に列記せる範囲内の理由の下に本邦渡来阻止方しかるべき御措置ありたし

(1) 此種無国籍避難民に対しては今後全て渡航証明書を発給せざること但し単に我が国を通過するに止まる者に対しては行き先国の入国手続きを了し居り且240円の呈示金を到着の際所持する者に限り通過渡航証明書の発給差し支えなし
(2) 我国と査証相互廃止国の取極ある国の国籍を有する此種避難民に対しては今後本邦入国に関し査証発行願出等ありたる際は査証を与えざるは勿論他等の証明書をも発給せず本邦への渡航を断念せしむる様説示方御取計ありたし
(3) 右以外国籍を有する此種無国籍避難民に対しては今後全て査証を与えざる様しかるべく御取計らいありたし。

尚本内訓は猶太(ユダヤ)人に対し特別の手段を講じたるものにあらず現行外国人入国令の範囲内に於いて措置するものにして外部に対し何等之の発表し居らずに付き左様御含みあいなりたし

盟邦(ドイツ)の排斥によって生まれた避難民を受入れする余地はなく、日本国内及び日本の植民地への入国は好ましくない。
ただし通過するだけなら行き先国の入国手続きが完了していて240円以上所持するものには通過ビザを発行しても良いということでした。杉原千畝のところで書いた8月16日の外務省からの電報はこれに基づいているのでしょう。


■樋口季一郎

杉原千畝を紹介したなら彼のビザ発行の2年前、当時の満州国にあってユダヤ人を救済した樋口季一郎陸軍少将(1888〜1970)のことも書かなくては片手落ちになります。外交官と軍人と立場は違いますが、大勢のユダヤ人を救ったのは杉原だけではないのです。

●オトポール駅

1938年(昭和13年)3月。杉原がビザを書く2年前のこと。
ソビエトと満州国の国境付近にあるオトポール駅では多数のユダヤ難民 (数千人とも、2万人とも言われています) が満州国に入れず足止めされていました。彼らのほとんどが着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出し、旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の人もいて悲惨な状況でした。

それ以前の満州国は決してユダヤ人の入国を拒否していたわけではなく、ハルピンにはユダヤ人街もあったほどです。しかし今回は難民の数があまりにも多く、ドイツへの思惑もあって満州国側は困惑し、その結果の入国拒否でした。このユダヤ難民を救ったのが当時ハルピンで特務機関長だった樋口季一郎なのです。

 

1889年兵庫県南淡町に生まれた樋口は18歳で岐阜県大垣市の樋口家の養子となり、1909年陸軍士官学校、1918年には陸軍大学校をそれぞれ卒業し、1937年8月に関東軍に特務機関長として赴任したのです。

その年の12月。樋口はハルピンの内科医でハルピンユダヤ人協会の会長だったカウフマン博士の訪問を受けました。博士の要件はナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催を許可してほしいとのことでした。樋口はハルピンの前はドイツに駐在していてユダヤ人の境遇に深く同情していたため、これを即決します。
12月26日、第一回極東ユダヤ人大会が開催され、ゲストとして招待された樋口は次のような演説を行い万雷の拍手を浴びたのです。

諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロムが行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきてある。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ

(注)ある一国とはもちろんドイツのことです

事件はそれから3ヵ月も経たないうちに起こりました。

●将軍の決断

さてオトポール駅での惨状を知った樋口は手記でこう回想しています。

満州国はピタッと門戸を閉鎖した。
ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。

もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。

しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか

当時日本政府は日独防共協定を結んでいましたがドイツはこれを拡大解釈し、ユダヤ人もその(防共の)対象としたのです。ですから下手なことをすればドイツを刺激し外交上の問題となることは明らかでした。しかし樋口はこれを政治上の問題ではなく人道上の問題ととらえ、満州国外交部の下村信貞と協議し必要な処置をとらせたのです。

さらに当時南満州鉄道の総裁だった松岡洋右は樋口に相談されると直ちに救援列車の出動を命じたのです。オトポールに近い南満州鉄道駅である満州里(マンチューリ)はハルピンから900Kmの彼方にあり、列車の本数は少く特別な臨時列車が必要でした。

3月12日、ハルピンに最初の列車が到着。ハルピン在住のユダヤ人も出迎えて同胞の救出をことのほか喜んだといわれています。こうして救われたユダヤ難民は上海に、あるいはアメリカへと旅立って行ったのです。


極東ユダヤ人大会でのドイツを非難する演説といい、ユダヤ人救出といい、これは当然ながら外交問題に発展しました。樋口は一市民ではなく、関東軍にあっては将軍なのです。
ドイツのリッべントロップ外相はオットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送って来ました。

今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。

然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。
請う。速やかに善処ありたし。

これに対して樋口は早速関東軍司令部に出頭し、参謀長だった東條英機を説得します。

私はドイツの国策が自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の間題を自国のみて解決し得ず、他国に迷感を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。

もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、ぞれは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策てある。そして日満面国がかかる非人道的ドイツ国策に協力すべきものてあるとすれぱ、これまた驚くべき間題である。

私は日独間の国交の親善を希望するが日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものてある

樋口はこう述べて満州国はいずれの属国ではなく独立国として主体的に行動すべきであると東條を説得し了解を得たのでした。東條の尽力だったのかどうかはわかりませんが、この事件はいつの間にかうやむやになりました。
後に樋口は東條の太平洋戦争開戦責任についてはこれを弾劾するものの、この事件の処理については敬意を表すると述懐しています。

その後樋口を待っていたのは処分どころか、参謀本部第二部長への栄転でした。
ハルピンを出発する日、駅はカウフマン博士をはじめ2000人のユダヤ人で埋め尽くされました。もちろんかつてのオトポール駅での難民です。中には数十キロの道のりを馬車に乗って駆けつけた人もいました。列車が発車すると彼らは涙を流し、「ヒグチ」、「ヒグチ」と叫んで別れを悲しんだといわれます。

樋口には後日談があります。
1943年北方軍司令官として札幌にいた樋口は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還させるべく大本営に談判したことでも知られます。このキスカ島守備隊の撤退は映画化もされてまるで小説のような面白さですが詳細はまた別の機会に。

1945年8月18日。無条件降伏の3日後。北海道占領を目的としてソ連軍が突然千島列島の占守島を攻撃してきました。その兵力約8000。同時にスターリンは千島列島と北海道北半分をソ連領とすることをアメリカに要求。

司令官樋口はすすめていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じたのです。8月22日まで続いた戦いの結果、ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退。1日で占守島を占領する予定でしたが思わぬ齟齬をきたしたのです。もしソ連軍が計画どおり千島列島から北海道に上陸したら・・・・・あるいは日本もドイツのように分断されたかもしれません。

 大損害を受けたソ連は樋口を戦犯として指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた世界ユダヤ人協会がアメリカ国防総省に働きかけ、アメリカはソ連の引渡し要求を拒否することになったのです。

エルサレムの丘にある本を広げた形をした高さ3mの黄金の碑。それはユダヤ民族に尽した人を称える記念碑です。この記念碑に樋口季一郎の名前がモーゼやアインシュタイン等と共に刻まれているそうです。

『偉大なる人道主義者、樋口将軍』 と。

その下には樋口の部下だった安江仙弘陸軍大佐の名前も刻まれています。安江は1938年大連特務機関長になりユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ系商社に対して金融を斡旋するなど当時極東におけるユダヤ人に援助をしてきたため、ユダヤ人たちから絶大な信頼を受けていたのです。戦後シベリアに抑留されその地で死去しました。


■おわりに

杉原千畝はしばしば「日本のシンドラー」と呼ばれますが、この呼び方は正しいのでしょうか?
私はむしろシンドラーの方こそ、『ドイツの杉原』と呼ぶべきと考えます。

杉原千畝のビザ発行は1940年でシンドラーより3年前だったこと。シンドラーは自分が経営する工場の労働力とするためにユダヤ人を助けたこと。杉原氏の方が助けた人数がずっと多いことがその理由です。

お断りしておきますが、私はシンドラーを貶めるつもりは全くありませんし、彼の行為は称賛すべきだと思っています。しかしそれでも純粋に人道上の立場から、危険を顧みずビザを発行した杉原千畝の方により次元の高い精神の尊さを感じるのです。

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杉原にしても樋口にしても松岡洋右(1880〜1946)の存在なしでは語れないでしょう。不思議な人ではあります。
杉原にビザを発行してはならないと指示した彼と、日本にやって来たユダヤ難民に便宜を図った彼とでは別人のようです。

この矛盾を無理に説明するなら当時の日本は三国同盟推進中であったため、政府の公式見解としてはユダヤ人保護を打ち出すのはまずいとの思惑があったのでしょう。松岡は外務大臣の要職にあったのですから。

しかし私人としての松岡は別に反ユダヤではなく普通の日本人の宗教感覚であり、ユダヤ人への差別意識はなかったのでしょう。だからこそオトポール駅でもユダヤ難民を救うため臨時列車を発車させたのでしょう。

さらに想像すれば杉原の解任は松岡が外務大臣を辞職した後に唐突におこっています。松岡自身は杉原の行為を内心認め、彼の在任中はひそかに擁護したのかもしれません。

杉原と外務省といえば入国を拒否した非情な外務省(悪)と、それに敢然と立ち向かった人道主義者杉原(善)といった単純構造でとらえられがちですが、当時の外務省とすればあのような立場をとらざるを得なかったでしょう。別に弁護するわけではありませんが外務省は日本の対外窓口であり、当時の日本政府は『あの道』を歩んでいたのですから。

杉原が解雇されてから1991年までの44年間、外務省が杉原を無視し続けたのは弁解の余地はありません。しかしようやく2000年、生誕100周年における河野外務大臣の謝罪により杉原の名誉は回復されたと思います。

戦前の日本には五族共和のスローガンや猶太人封策要綱のような方針はあったものの、事実上ユダヤ難民の入国、通過を拒否してきました。太平洋戦争がはじまると軍部の態度は変わり、上海のユダヤ人達は狭く不潔なゲットーに押し込められたのです。杉原の行為も、樋口の行為も決して国策に沿ったものではなく、あくまで個人としての行為であり、政治ではなく人道上の行為なのです。

あの暗い時代。自分の信念で多数のユダヤ人を救った杉原や樋口は日本人が永久に記憶すべき偉人ではないでしょうか?我々は旧日本軍の行為というと、とかく南京事件をはじめとする悲惨・残虐な事件を連想しがちですが、樋口のような軍人である以前に、人間として立派な人もいたのです。ところが近年になって杉原や樋口の行為を貶める発言をする人が出てきました。

当時の日本は八紘一宇、五族共和をスローガンとしていた。杉原や樋口の行為は国策に沿って行ったのだ。
なぜなら外務省は杉原には入国条件を満たしているユダヤ人にはビザを発行して良いと言っているし、樋口は猶太人封策要綱に従ったにすぎない。

これに対する私の考えはすでに書いています。杉原は河豚計画も猶太人対策要綱も知りませんでした、これは杉原だけではなく日本・満州以外の外交官も同様だったようです。知らせなかったのは策定の主導が軍部(関東軍)であり、外務省を軽るんじていたのかもしれません。河豚計画について幸子夫人は次のように述べています。

夫は全くそのこと(河豚計画のこと)を知らなかったのですが、日本政府のユダヤ人に対する政策が他国に比べて緩やかだったのはそうした背景があったことも影響していたのでしょう。もしも夫がこの計画のことを少しでも耳にしていたら、少しは気が楽だったかもしれません。(六千人の命のビザ)

もし杉原がこれを知っていたらビザ発行に際して幸子夫人に、日本ではこのような計画、施策があるから大丈夫だ、と必ず言うはずですし、杉原自身があれほど悩むことはなかったでしょう。

樋口のオトポール駅での行為は杉原のビザ発行と対になって語られることがしばしばあります。実際私もそうしています。しかし『同時に語る』人の中には樋口の行為を杉原の行為の価値を薄めるために必要以上に美化しようとする人もいます。いうまでもなく樋口が軍人だったことからユダヤ人救済は日本政府の意思だったと言いたいのです。

さて、杉原を誹謗する人たちはこんなバカバカしいことを言っています。

杉原は諜報(スパイ)活動をしていた

外交官の仕事とは赴任先国や周辺諸国の情報を収集し分析することです。簡単に言えば営業所に赴任した営業所長が営業活動をするようなもので、諜報活動は当然の業務なのです。なぜ今さらこんなわかりきったことを、誹謗中傷するように言うのか。

さらに前述した根も葉もない中傷になると

杉原は多数のユダヤ人を救う見返りに、多額の謝礼を受け取った

ただ一言。
人の精神の美しさを理解できないのは、おのれの精神が醜いためだ。私はそう思います。


●参考資料

6000人の命のビザ(杉原幸子)
自由への逃走 (中日新聞)
決断・命のビザ(渡辺勝正)
外務省と杉原千畝(杉原誠四郎)

リトアニア共和国ホームページ
岐阜県八百津町ホームページ
アッツ、キスカ軍司令官の回想(樋口季一郎)・・本が入手できず、南京事件資料館より抜粋しました

●海外での杉原千畝紹介サイト

http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/sugihara.html

http://motlc.wiesenthal.org/exhibits/visasforlife/

http://www.eagleman.com/sugihara/

http://www.iearn.org/hgp/aeti/aeti-1997/sempo-sugihara.html


●今年(2006年)の初秋。
この拙文を読んでくださった樋口季一郎の孫にあたるT氏から丁重なメールを受け取りました。その後何回かのメールのやり取りで、T氏から現在絶版になっている『アッツ、キスカ軍司令官の回想』をお借りすることができ、本文を多少修正しました。
同書を実際に読んで私は大変感動するとともに、この場を借りてT氏には厚く御礼申しあげます。私は杉原千畝、樋口季一郎両氏を心から尊敬します。

●愚かしい話
ウィキペディア(フリー百科辞典)で樋口を検索すると末尾にこのような記載があります。

ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、旧日本軍の軍人であったこともあって、表立って喧伝されたことがない。これに対しては、「旧軍の関係者であるから評価すべきではない」、「あれは河豚計画の一環だからこそ行われた」とする主張と、是々非々で評価すべきであるとする主張とが認められる。

現代の日本および周辺諸国では前者の意見が未だ見られるため、再評価にはまだ至っていないようである。

「旧軍の関係者であるから評価すべきではない」とは、なんという愚かな意見であることか。
旧軍の関係者であろうとなかろうと、立派な行為はそれ自体を評価すべきであって、属した組織とは何の関係もないと思うのです。(たとえ樋口が凶悪犯、極悪人であっても・・例え話なのでご容赦下さい・・この行為は賞賛すべきと考えます)


Index ティータイムの歴史話 その1