寺岡良信さんの文章への応答
寺岡さん、ありがとうございます。
寄せていただいた文章には、私たちが再度確認しておくべき大切なことがいくつもあると思いました。
まず、この問題に関わる誰しもが認識しておかなくてはならないのは、寺岡さんが言った次のことです。
「無償化とは生徒の学習権への援助なのであり、学校という組織を運営することへの助成ではないはずなのだ。」
そうです。私たちは、学習権と学校という組織を切り離して、議論することが出来なくてはなりません。そもそも無償化の目的とは、経済的な理由で学習権が奪われてはならない、という理念から出発していたはず。学習権という子供一人一人に与えられた権利を、学校組織に対する大人の思惑から、「認めない」とすることは、許されません。大人の汚いエゴの手で、子供の神聖な権利にふれるな、と言いたい。
それから次のこともあらためて確認しておく必要があると思いました。
「北朝鮮の政治体制や拉致問題をここに持ち出して学習権そのものを差別的に扱うことが、いかに不当なふるまいか。」
つまり北朝鮮と日本との関係の悪化が、朝鮮学校で民族教育を受ける学習権を剥奪する理由には、決してなってはならない、ということです。あたりまえじゃないですか。他の外国人学校だったらどうですか。ブラジルと何らかの理由で関係が悪化したら、ブラジル人学校を閉鎖するんですか。それじゃまるで日本は独裁国家でしょう? しかも朝鮮学校は、日本の植民地支配に奪われた言葉と文化を取り戻そうとして創られたんですよ。石川逸子さんがいうように、むしろ真っ先に無償化の対象とすべきでしょう?、
「自分の国籍の国を手放しでは称賛できない若者たち。金将軍の肖像に心底から崇敬を抱けない若者たち」
というところは、もし私が朝鮮学校生だったら、と想像してみます。するともう少しラフな感じになります。祖国への賛辞は習慣のおいのりに近かったり、肖像画は困ったときにちょっと手を合わせる仏像のよう? というのは失礼かもしれないですが、様々な矛盾を直面しつつも、子供は、たくましく柔軟に自分を立て直していくと思う。
肖像画は、国旗と同じく一種の象徴ですね。そしていくら日本で罵声を浴びせられようと、金主席や総書記の肖像画は、生徒達の心に、植民地支配に抵抗した朝鮮学校の存在意義をつねに触発し、励ますはずです。そして、統一された朝鮮半島の未来を、そこから思い描き、希望を持つことができるでしょう。朝鮮半島を統一するのは、その時手を握り合う北と南の二人の指導者なのだから。
指導者が悪罵されるならば、生徒達はむしろ、きっと自分が偉くなって、失った祖国の信用を取り戻してみせる、と心すると思います。肖像画にはそういう心理的な役割があります。
だから、肖像画に関しても日本人が口を挟む権利はないと私は思います。
「朝鮮学校の生徒に責任がないことは、あなたがたなら十分御承知のはずです。この問題で彼らに負い目を負わせ絶望に追い込むのは、憎しみと悲劇の連鎖にならないでしょうか」
拉致被害者の家族の方が、朝鮮学校無償化に反対しているときき、私もショックを受けました。自分の子供が拉致されて、その復讐の矛先を何の罪もない子供に向けるなんて。
愛する子供を拉致された悲しみははかりしれないでしょう。私もその事実に涙しました。しかし、その悲しみを朝鮮学校の子供にぶつけて、かれらの魂を抹殺することで、晴らそうというのは、まったくまちがいです。寺岡さんがいうように、負の連鎖がつづくだけです。
朝鮮学校を除外するという教育権の弾圧をすれば、拉致という人権弾圧を非難できる立場ではなくなります。そうではなく、朝鮮学校の無償化を毅然と実現することで、日本は人権を守る国だと、相手に知らしめて対抗すればいいのです。
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