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2010年9月 4日 (土)

そのハードルを越えるために  寺岡良信    

 寺岡良信さんから、以下の投稿がありましたので、アップいたします。この投稿は、私が送ったある手紙に対する応答として、書いてくれたものです。その手紙も後日掲載したいと思います。

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  そのハードルを越えるために       

                      ───朝鮮学校無償化をあらためて訴える

                                      寺岡良信

 朝鮮高級学校に授業料無償化を適用するかどうかの判断について、文部科学省専門委員の答申は、決定を政府・与党にゆだねるとしながらも、朝鮮高校が日本の高校に準じた教育課程を満たしているとの見方を示した。とくに注目されるのは、教科書の記述すなわち具体的な教育の内容については、「各外国人学校はそれぞれの方針や背景があって教育を進めており、それを部分的にとらえるのは妥当ではない」として、判断の基準にはしないという態度を明らかにしたことである。朝鮮高校の教育に関しては、心ない世論とメディア、それに一部の政治家から、金日成・金正日父子の肖像を掲げて個人崇拝を煽っている、教科書の叙述が反日的であるなどの執拗な攻撃がなされてきた。答申は、彼等が主張するそうした「部分」のみを拡大して朝鮮高校の教育全体の評価としないことを明確にした点において、妥当なものであると言えるだろう。

 そもそもこの問題の核心は何なのか。答申を受けた文科省の副大臣が記者会見でも述べたように、無償化とは生徒の学習権への援助なのであり、学校という組織を運営することへの助成ではないはずなのだ。

 朝鮮学校の場合、児童・生徒の学習権には当然、民族の歴史を知り民族の言葉を習得することを含んでいる。それは大日本帝国による三十六年間に及ぶ植民地支配の結果、心ならずも日本に渡ってきた人たちの子孫に対して、日本政府が誠心誠意保障しなければならぬ民族の尊厳にかかわる権利であり、マイノリティーがその文化的民族的自己同一性を守るための教育の保障は、日本も批准している国際条約の命ずるところでもあるのだ。北朝鮮の政治体制や拉致問題をここに持ち出して学習権そのものを差別的に扱うことが、いかに不当なふるまいか。それは日本国憲法から言っても、国際条約から言っても、先日菅首相が、私たちは朝鮮の人たちに強いた植民地支配と真摯に向き合わなければならないと語ったその政治談話から言っても、到底許されるものではない。

 ここでデリケートな問題に立ち入らせていただく。無償化に対する強硬な反対意見やあからさまな妨害を含む一連の動きを、いたたまれない気持ちで見守っているであろう朝鮮学校の生徒の心中の波立ちを、私なりに推し量ったものだが、無論恣意的な想像ではない。私には朝鮮籍の友人がいるし、朝鮮籍の教え子も少なからずいる。そうした人たちから話を聞いたうえで、次のことを申し上げる。

 民主主義国家である日本に居住している彼らは、発達したメディアにより、北朝鮮という国についての様々な情報が知らされている。そこでは理想化されて伝えられる祖国像と日本のメディアがあげつらう「独裁国家」像との間に、大きな隔たりがつくられ、その隔たりを彼らは幾度も幾度も自問しながら、その矛盾や背反を深く内向させて生きてゆかなければならないのである。日本でさんざん悪く言われている祖国への懐疑と愛着とが、それぞれの生徒において濃淡を異にしながら、複雑に、微妙に入り混じっている現実から、私たちは目を逸らしてはいけない。

 自分の国籍の国を手放しでは称賛できない若者たち。金将軍の肖像に心底から崇敬を抱けない若者たち。それでも自分たちは誇り高き朝鮮民族の裔であり、父祖たちが語り継ぎ語り継ぎしてきた物語の中に、さらには希望をもって謳われる未来への展望の中に、自己の魂の美しい祖国を思い描く若者たち。そして何よりも日本社会の一員として、根強い偏見に堪えながら、市民たることの責任と自己実現とを目指して、勉学にスポーツに勤しんでいる若者たち。こうした真摯でいたいけな若者たちが、「共生社会」を標榜する日本国の中で、今逆風に曝されていることに、私たち日本人はあらためて思いを致そうではないか。先に出版したリーフレットで、富哲世はいみじくも書いている。「高級学校組織を重要視するか、そこに暮らす若者の生きた今を重要視するかで、日本の政治の品格は決まる」。このことを今一度噛み締めようではないか。

 今回の問題で政府が一番神経をとがらせているのは、拉致被害者の家族の方々の感情であると聞く。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」は政府に無償化反対を申し入れていて、「犯罪をおこなって恥じない北朝鮮に甘いメッセージを送ることになる」というのがその理由であると、新聞は報じている。こうした家族の方々の気持ちは痛いほど理解できる、という口先だけの言い方が、白々しく空々しいものであることに、私はようやく気がついた。愛するわが子を突然攫われる、遺骨と称してデタラメな骨を臆面もなく送りつけてくる。拉致という一国家による明白な人権蹂躙に対して、どこか他人事のような態度で過ごしてきた自分自身を、私は一国民としても、一詩人としても、恥じなければなるまい。拉致問題を解決する方法は何か。弟の薫さんを拉致された蓮池透さんは、先日姫路文学館での講演で、それは制裁ではなく、粘り強い外交を通してしか実現できないと、言っておられた。このことにコメントする準備も資格も今の私にはないが、家族の方々の悲痛な叫びだけは心に刻もうと思う。そのうえで、あえて申し上げたい。

「朝鮮学校の生徒に責任がないことは、あなたがたなら十分御承知のはずです。この問題で彼らに負い目を負わせ絶望に追い込むのは、憎しみと悲劇の連鎖にならないでしょうか」ということを。

 文科省専門委員の出した答申にはいくつかの付帯事項が添えられている。たとえば授業料が確実に減額されているかを毎年提出させる収支報告書に基づいて検証することなどは、朝鮮学校を運営する立場の人たちにとっても、当の生徒諸君にとっても、不満と不快が残る注文だろう。しかし私は、悪意と中傷が吹き荒れる状況の中で、ごく普通の国民の間にさえ存在する不信と疑念にも斟酌した、ぎりぎり穏当な答申だと考える。要はこれを民主党代表選挙の取引材料や政争の具にさせないことである。川端達夫文科大臣を始めとして、良識派とされる人たちへの声援を私は惜しまない。川端大臣のホームページに、私は二度ばかり意見を寄せたが、こうしたささやかな行動でも大きく広がれば一定の力にはなるだろう。

「詩人たち有志による緊急アピール」ならびにリーフレット「言葉を紡ぐ者は訴えます」の事務局担当者として、「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」に詩文を寄せた一人として、さらには身を粉にし心血を注いで不条理と向き合っている詩人・河津聖恵の、黙々と「一人デモ」を敢行した詩人・金里博の伴走者として、私はこの拙文を綴った。それは緊迫した今の情勢の中で、この問題の本質を自分自身に問い直したかったからだが、同時に共鳴してくださる方が一人でも増えれば、幸いである。

                                                     2010年9月4日 
                             詩人・高校教師 寺岡良信

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