沼田の保守主義者の意見:身分について
先日このブログに「沼田人の精神発達段階」について意見を述べた保守主義者です。今日びあまり耳や眼にすることが減った言葉に「身分」というのがあります。民主主義の世の中になって身分は人はみな平等ということになったからでしょう。今日、身分を言い立てれば、よほどの時代錯誤の変人とされるでしょう。しかし、私は保守主義者ですから、昔の時代に厳然としてあった身分というものは必ずしも一概に否定されるべきものではなかった。と考えています。士農工商の四つの身分があり、さらにその下に穢多非人という不可触賎民がいました。この身分制度の残酷さは身分は生まれによって固定され、身分は容易には変えることができなかったことです。ただし、商人や工匠が破廉恥罪で処罰され非人の仲間入りをさせられるという上から下への移動はありました。しかし、身分が上に変わった例がなかったわけではありません。四民の一番下の身分の商人が旗本に出世した例として河村瑞賢という人がいます。
身分制度は必ずしも生まれだけで決るものではありませんでした。貧富の差も関係ありません。どんなに富んでいようと、生業が賎業であれば身分は最下等の賎民だったのです。亡八と言って仁義礼智信忠孝悌の八つの徳目を失うとされる職業の女郎屋の主人や博徒の親分などはどんなに裕福であろうと非人扱いされていました。歌舞伎役者も河原者と呼ばれ、どんなに人気のある名優であろうと身分は非人だったのです。
私のような保守主義者の目から見れば、今の世の中はすっかりあべこべになりました。平等になったのではありません。逆さまにひっくり返ったのです。
見て御覧なさい。河原者が選挙で知事や市長に選ばれ、役人の上に立ち、勝手な振る舞いをしています。昔の河原者は今はテレビの人気者です。お笑いが幅を利かせています。かつて「パンパカパーン」と禿げ頭を叩いて登場するお笑い芸人が大阪府の知事になったことがありました。こともあろうに、選挙運動を手伝いに来た若い娘に強制猥褻を働き裁判で敗訴しています。こんな亡八野郎でも知事になれるのは、身分制度がうまく働かなくなったためのように私には見えるのです。
昔なら、「身分を弁えろ!」と一喝されてこんなお笑い芸人は立候補などできなかったでしょう。
お笑い芸人ばかりが場違いなのではありません。沼田の市会議員を見てみても、身分と地位が不似合いな奴ばかりです。議会議長の布施辰二郎は、丁稚あがりの小商人で、店はすでに潰れてなく、議長の収入が一家を支えているのです。市長の言いなりで、議長の果たすべき職務などそっちのけ、なにもかも星野べったりです。星野の機嫌を損ねたら一家は食い上げになるのですから、それも仕方ないのでしょう。
市長だって同じこと。昔の殿様は武士でしたから、八つの徳目は無論のこと武士の徳目をまもれなければ切腹しなければなりませんでした。星野をごらんなさい!談合を仕切ったり、市民の知らぬところで陰富を積んだり、みなばれれば腹切もののでたらめ政治をやっています。
身分違いの賎民が市長になったからです。(沼田の一保守主義者)
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