夫婦桜《みょうとざくら》   屋敷に一本だけある桜の木は、今年の寒波に震えていた。  文政年間。ここは幕府要人の御用宿として、そして宿場町の筆頭として栄華を極めた。  忙しさが運んでくる、胸が躍るような嬉しさと喧騒。  そんな日の御車寄《おくるまよせ》では馬番たちが談笑し、次の間では難しい顔の侍たちも笑顔だった。  もちろん使用人には、振る舞い酒が余すところなくゆきわたっている。  煙をすこし含んだ空気。楽しげな街の灯り。  いくつもの季節のむこう側。  それは遠い遠い過去。 ――馬鹿なひと。  いま桜の向かい側には、梔子《くちなし》が植えられている。  妾《わたし》は足元からまだ暖かい灰をつまみ上げ、桜を見上げた。 ――貴方があんな情けない顔をするからじゃないの。  手のひらに乗せた灰を、風が優しく奪い取っていく。  さらさら。さらさら。  涙だって、もう乾いてしまった。   昭和三十五年 二月   本陣、というのは大名や旗本が移動のおりに使用する専用宿のことらしい。身分の高い人は普通の宿屋には宿泊しないのだそうだ。多くはその町の庄屋や名主の邸宅がそのまま使用される。武家の泊まる場所だからか、その姿は武家屋敷のように立派だった。  漆喰の白壁がいまなお眩しい。  御成門《おなりもん》と呼ばれる巨大な門を抜けるとすぐに『御車寄』という立て札と、不必要に大きな屋根つきの井戸が見えた。井戸端には馬をつなぐ場所が備え付けてあり、門は騎乗したまま通れると立て札の説明に書いてあった。  母屋の入り口も凄いことになっている。  まずお白州《しらす》がある。これをお白州といっていいのかどうかはわからないけれど、とにかく時代劇の奉行所のように玉砂利がしいてあり、そこに一メートル四方を頑丈な柵で囲まれた植え込みが二つあった。  向かって右が桜。  向かって左が梔子。  なんでも『夫婦桜』という伝説が残っているそうで、春になると夫婦円満を願って花見に来るひともいるという。  植え込みを通って玄関をあがり、六畳の部屋が三つこえて最後に八畳間に足を踏み入れる。そこは奥が一段高い四畳ほどのスペースに繋がっており、まるで巨大な床の間のようになっているのだった。  御簾の内側が高座の御殿。  まさに重要文化財に恥じない、お殿様の部屋だ。  なんとそこに、今日僕らは泊まるのだという。 「誠太郎君、いまは貸切りよぅ。お風呂は使えないみたいだけど」  情けない声でお絹ちゃんが入ってくるまで、僕はなんとなく正座を崩せないでいた。  赤いマフラーに白黒チェックのオーバーコート。おさげが良く似合う彼女は、風呂が使えないことがいたく不満だと漏らした。そばかすのある頬が膨れている。  おしゃれなはずのマフラーの端に「廿楽《つづら》絹」と大きく縫い付けてあるのがとても彼女らしいと僕は思った。  僕と同じ年であるにも関わらず、すぐに働きにでた彼女は、それ故か僕よりもずっとしっかりしていて、一人暮らしの僕はなにかと世話を焼かれることが多い。それについては我ながら不甲斐ないとは思っている。そんな具合なので彼女は僕のように『不幸があり実家に帰省する』などと嘘をついて学校を休む必要はない。僕の数少ない友人と呼べるその人は、流行の格好をいまは少しやぼったく着こなしていた。  防寒とファッションは相容れない。僕はそう思った。  いつも学生服の僕に言われたくはないだろうけど。 「炊事場もあんまり使えそうじゃなかったよね。お風呂も駄目かぁ」  僕はいった。  本当に寝る場所しかないのか。ここは。  いまこの本陣の客は数人しかいない。  こんな広い屋敷に、僕とお絹ちゃんと、それから―― 「客一号というわけだ。光栄な話だろう」  ナオさんだった。  紺の絣《かすり》に二重回しのとんびコートを着込み、奥の高座で「寒い寒い」と弱音を吐いている。いまだに普段着が着物というこの古風な人は、お絹ちゃんの職場の社長だ。久木|尚胤《なおたね》という非常にややこしい名前のため、僕とお絹ちゃんはナオさんと呼ぶことにしている。  高校生のころ玉音放送を聞いたというから、年齢は僕より十五は上だろう。ずいぶん間の抜けた声を出してはいるが、これでも立派な社長なのだった。  長めに切りそろえた色素の薄い髪が、ときおり眼を隠している。  ちゃんと浅草橋に自宅兼事務所を構えているので、正面から聞いたことはないが、それなりに生計はたっているのだろうと思う。  「下町骨董協会 理事」それから「江戸東京文化保存会 書記」という名刺をもらったことがあるが、これはいい加減な名刺でいずれも本職ではない。ナオさんの仕事はちょっと風変わりな不動産業で、一般的な分類にはあてはまらないのだ。僕が東京に行ったときにはお絹ちゃんの顔を見がてら事務所に寄るようにしており、そのため普段から気安くさせてもらっているのだった。 「光栄ですね。これは、たぶん、凄いことですよね」  一応、そう答えておく。  色々と腑におちない点もあったが、それでも個人でここに泊まるということは凄いことなのだろう。突然のことで準備は慌しかったが、来てよかったと僕は思った。  実家から横浜の下宿に戻っていた僕は、突然この二人に呼び出された。なんでも「一流の宿に泊めてやるから今すぐに来い」とのことだった。  この二人に呼び出されて、まともな用事だったことは一度もないのだが、数えるほどもいない友人のお誘いを無下にことわる程の甲斐性は僕にはなかった。  どうせな小碌《ころく》なことはなるまいという予感はあったのだけれど。  第一皇子が誕生したというニュース(皇室初の病院出産だそうだ)で湧き上がる街の中、そういう訳で僕は取るものも取りあえず自転車で国道を走ったのだった。 「ご無理をいって申し訳ありません」  僕らをここまで案内してくれた職員の瀬戸さんは、そういって細々とした屋敷の使用法を僕らに教えてくれた。炊事場(宿用に新たにあつらえてあった!)は使っても良いということや、お手水の場所や火の管理など。瀬戸さんは自宅が近いということでこの本陣の管理を任されていたらしい。恰幅のいいおばちゃんだった。  一流の宿は、予想に反してあまり使い勝手が良さそうではなかった。  第一、寝具がない。  布団も枕も持参なのだ。  そして宿といっても自炊。  電化製品が使えるというのが唯一の救いだった。  つまり寝泊りする場所をのぞけば、待遇は最下級の宿とかわらないのである。建物だけは一級品の木賃宿というわけだ。まぁ、市の重要文化財に寝泊りするということを考えると、その程度は我慢すべきなのかもしれない。なにせ江戸時代の建物なのだから。  屋敷の使用法はお絹ちゃんにまかせ、僕とナオさんは殿さまの部屋に火鉢と電気コタツを運んできた。文明の利器というものに縁がない僕らは、電気コタツを使用するのははじめてで、櫓《やぐら》のなかの赤い光に妙な興奮をおぼえる。これには普段感動の薄いナオさんもすこし嬉しそうだった。 「しかし、どうしてここに泊まるんですか? というか泊まっていいんですか?」 「いいんだよそんなことは誠太郎君。まぁくつろいでくれたまえ」  自分の家でもないのに、そういってナオさんは煙草に火をつけた。 「閉めろ閉めろ、冷えてかなわねえ」  そう独りごとをいいつつ襖を閉めるナオさんをよそに、僕は部屋を見回した。  上段の間、というのだそうだ。  一番高貴な人が泊まる部屋で、他の部屋とくらべて一段高く作られている。襖は狩野派の絵師によるものだそうで、白地に水墨画のような山。雲にかかる金箔はとても高そうだ。  ナオさんは不遜にもそんな部屋で寝煙草を決め込んでいる。  僕はどうもそわそわして、気もそぞろだった。  というか、どうしてこの部屋でくつろげるのか疑問だった。 「まだ宿泊用になってないんだよ。先に電気だけは通したらしい。改築後にはボイラー入れるって話だぞ」  ナオさんが寝転がりながら、そういった。重要文化財は火災などによる消失を避けるために、消火栓だけは完備しているのだそうだ。だから水道工事は手間ではなかったらしい。 「改築って、ここ重要文化財でしょ? 平気なんですかね」  僕の言葉でナオさんはぐるりと体をひねり、煙草の灰を火鉢に落としつつ、こういった。 「この本陣な。この度、重文から外された。だから泊まろうが改造しようが自由なのさ」 「外された? なんでまた」 「料亭兼宿屋として、オープンさせるらしい」  それからナオさんは今回のいきさつを教えてくれた。  いままでは市の管理のもと、見学料をとって開放されていた施設だったが、建物の管理や維持費には相当お金がかかるらしい。少ない集客人数から得られる利益では係員のお給料を払うので手一杯なのだそうだ。  そこで一つの打開策が講じられたそうだ。  商業施設として新規改造し、そこから得られる収益を文化財保護費に充てられないか、という案だ。改造をするならば、文化財保護の目的とは相反する、という意見が教育委員会などからでたそうだが、市の財政をかんがみた結果これは文化財と維持管理費の新しい共存法ではないかという意見が勝った。  その入札で勝ち名乗りを上げたのが名古屋のさる財閥の観光事業部だそうだ。  ちなみに電気コタツはその財閥からの支給だった。だるまストーブはさすがに畳の部屋に置けないということで。 「凄い話ですねぇ」 「そうだ。凄いんだよ。いっさいがっさい調度も含めて買い取ったそうだからな」  あるとこには金があるんだ。ナオさんはそういって起き上がった。 「でも、一つ問題があってな」  ナオさんは声を一段低くして、そういう。  くると思った。 「な、なんですか」 「でるのよぅ」  襖から出てきたのはお絹ちゃんで、片手には鎌を持っている。 「――やめてよ、お絹ちゃん。どっから鎌なんて持ってきたのさ」 「瀬戸さんずっと少人数で管理してたんだって。だから自分たちで雑草刈ってたらしいの。あと接待用の湯のみとやかんを借りた。必要なときは電話も食器も貸してくれるって」  そう言ってお盆に乗った湯のみを見せた。襖《ふすま》は器用に後ろ足で閉める。鎌は関係ないじゃないか。僕はひとまず鎌を受け取って、次にやかんを火鉢にのせた。 「ところで、でるっていうのは、その――」 「お化けよ。お化け」  お絹ちゃんは嬉々としてそういった。  やはり、碌《ろく》でもない。 「や――」 「騙してなどいないっ」  僕の言葉を遮るようにお絹ちゃんはいった。僕のほうにまっすぐ突き出された手は、なぜか蝋燭を握っている。これも借りてきたものか。僕はひとまずその蝋燭を受け取って、そしてため息をついた。  騙されてはいない。必要な情報が意図的に伏せられただけだった。 「仮にも宿泊施設で利用しようってんだから、マズイだろ? でたら。宿代が一人分多かったりしてな。それじゃあ困るだろ?」  くだらないことをいってナオさんはお茶を濁し、まだ沸いてない白湯を湯飲みにそそぐ。  これがナオさんの言わば本業の正体だった。 「それが組合で話題になったらしくてな。巡り巡って俺のところに話がきた」  日本に数多ある賃貸不動産がナオさんの飯のタネなのだ。  日々日々訪れる入居者は枚挙に暇がないほどで、戦後からこっちにかけて壊されていない建物も含めて相当数がまだ古いまま現存しているが、問題は古い物件について、である。  曰く付きの物件というのがやっぱりあるらしい。  不動産業者は必ずその物件を抱えているそうだ。  住めば祟《たた》る。憑《つ》く。患《わずら》う。  しかし手持ちの物件を浮いたまま放置しておくほど無駄なことはない。年ごとにあたり前のように税金はかかるし、壊せば壊したで費用がかさむ。手っ取り早く活用するためには|住める状態に戻すしかない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだ。あの手この手を尽くしてどうにかこうにか貸せる段階にまで回復させる。それがナオさんのお仕事なのだった。  いや。  だから大体予測はついていたのだ。呼ばれたときから。  しかし。  本当にでるのだろうか。 「それで、どんなお化けがでるんです? あの、危ないのは嫌なんですけど」 「それがな――」  ナオさんの説明は次のとおりだった。  そのお化け、人は襲わないのだそうだ。  ただ、夜中に声がする。  最初発見した職員さんの話だと、深夜になるとどこからともなく男の声がするそうだ。気味が悪いので黙っていると、次にもの凄い家鳴りがする。  それが毎日のことだという。  翌日、天井裏や床下を調べてみるが、なにも異常はない。 「それは確かに気味が悪いですけど、これといって危険はないんですね?」 「まぁ危険はいまのところないな。ただ銭とって人を泊めることはできん」  確かにそうだ。 「四谷じゃねえがここも東海道だ。ここはひとつ冬の怪談と洒落こもうって寸法だ」  いよっ、成駒屋《なりこまや》! そういったお絹ちゃんに、馬鹿野郎そりゃ女形《おやま》だとすかさず突っこみを入れ、ナオさんは新しい煙草をくわえた。 「まぁ、家鳴りくらいじゃたいして盛り上がらんが、重要文化財に泊り込むのは珍しいからな。そういうわけで呼んでさしあげたわけだよ誠太郎君」  ナオさんはいった。  僕にしてみればたいしたことだけど。  それから僕らは近所をまわり、貸し蒲団やさんから立派な蒲団を運んでもらうように手配した。街は相変わらず皇子出産のニュースであふれており、お絹ちゃんは果敢に号外をもらいに走っていった。彼女の場合は単純におのぼりさんだ。  いつまで滞在することになるかは不明だったが、必要なものはお絹ちゃんを筆頭に買ってそろえた。饅頭、みかん、お茶など。彼女の選択に異論はない。経費は件の財閥へ。  最後に銭湯に行ってから戻った僕らは、新品の電気コタツにあたりながら、夜を待った。  晩御飯はお絹ちゃんのお弁当だった。   一日目   夜おそく。  僕ら以外に誰もいない屋敷は異様なほど静かだ。  風の音すら、ない。 「そういうわけだから、これを用意した」  ナオさんがどこからともなく和蝋燭を取り出して僕に見せたそれは、お絹ちゃんが持っていた蝋燭と同じものだった。ちなみに僕らがいる上段の間には裸電球がぶら下がっており、昼間とまではいかないが暗くて困るようなことはない。 「どうしようっていうんですか?」 「決まっているじゃないか」  ナオさんはそういって、お絹ちゃんがやはりどこからともなく調達した燭台に蝋燭を乗せて火を灯した。よく出回っている蝋燭よりも炎が大きくて明るい。 「怪談に決まってるじゃないの、誠太郎君」  そういったのはお絹ちゃん。ひどく、うれしそうな声だ。そのまま彼女は勢いよく立ち上がって裸電球のつまみをギイとひねる。  当然、僕らがいる部屋は蝋燭の明かりだけになった。 「い、いけませんよ。そういうのは。お化けが出るってのに、これ以上怪談もなにも――」 「そうはいうがな、こっちは出てもらわないことには商売にならねえんだ。どうせなら気持ちよく出てもらおうじゃねえか」  そうしよう。そうしよう。と囃したてるお絹ちゃん。 「いくらなんでも不謹慎じゃあありませんか」 「どこが不謹慎なんだよ。こっちは大真面目だぞ」  どこが、と聞かれても困る。  正直なところお化けや幽霊には滅法弱いのだ。妙に湿り気を帯びた部屋のなか、一応働いている丸火鉢があるのが唯一の熱源で、そうでなくても障子の隙間からは冷気が漏れてくる。この上怪談など始められたら余計な熱まで持っていかれそうで御免蒙りたいところだったが、僕の抵抗もむなしくナオさんはぽつぽつと語り始めてしまった。  東海道|保土ヶ谷宿《ほどがやじゅく》。文化文政、町人文化の華やかなりし頃。宿場の本陣として使用されていた商家の醤油商、平野屋の主人喜兵衛が妻、お里が持病で臨終した。  それを悼んだ喜兵衛は、屋敷入り口に植えていた桜と橘《たちばな》のうち、橘を梔子に植え替えたという。  桜と梔子は妻お里が愛した花だった。  それからしばらく経った年の暮れ。喜兵衛は亡き妻の後を追うように、庭の桜で首を吊り自害。本陣は廃止となった。  そののち喜兵衛が植えた梔子は季節を過ぎても咲き誇り、桜は一度落雷で枯れてしまったが、やがて幹の中ほどから二股にわかれて花を咲かせたという。  いつしかその桜は夫婦《めおと》桜と名づけられた。 「美談じゃないですか。この屋敷の夫婦桜のことですよね?」  電気の灯りがない部屋は暗く、寒く、静かだ。蝋燭の火だけがナオさんとお絹ちゃんを照らしている。わずかな炎のゆらめきがそれぞれの影を揺らしていた。  僕は御簾で仕切られた高座に背を向けて座っている。向かい側にはナオさんが、右隣にはお絹ちゃんがそれぞれコタツをはさんで蝋燭と向かい合っていた。オレンジ色に照らされた襖は上に行くほど闇に呑まれ、やけに天井が高く感じられる。 「その夫婦桜はな、夫婦円満のご利益があるらしい。美談なんだよ」  美談だ。畏れていたほどの怪談はそこにはない。 「それでも、なにか未練があるのよねぇ」  饅頭の薄皮を熱心にむきながらお絹ちゃんが言う。確かに、話そのものにはそれほど因縁があるようには思えない。それでもこの屋敷にお化けがでる理由はどこかにあるに違いないのだ。ひょっとしたらまったく別の、一見無関係な所に因縁があるのかもしれない。 「そうなんだよ。ほっときゃ美談なのに、なんで化けちまったのか。喜兵衛のカミさんの死がきっかけになってるんじゃねぇかと、そう思うのは簡単なんだがなぁ」  言い伝えが本当だとしたらお里さんは病死らしい。それが引き金になって幽霊がでているのだろうか。  僕はまだ幽霊騒ぎ自体、半信半疑だったけれども。 「それでは、あたしのとっておきの話を」  そしてお絹ちゃんは『よく飛び回る生首』という怪談と『たまに飛ぶ生首』という怪談をはじめた。ふざけた題名のわりに二つとも、怖かった。  続いて僕がいわゆる学校の怪談というやつを少しと、ナオさんが寄生虫の話(怪談ではなかったが、これは本当に怖かった)をしたあたりからにわかに場が盛り上がってきた。 「本当にシマウマなのよぅ」 「いや、話の腰を折りたくはないけど、さすがにそれは無理があるよ」  お絹ちゃんの『怪奇、真っ黒なシマウマ』という話について、僕がそれはただの黒い馬じゃないかという疑問をはさんでいるのを見て、ナオさんはため息をついていた。 「しかし、でないな」 「いま、ナンドキですか?」  お絹ちゃんの問いに、ナオさんは丑三つは過ぎたと答えた。  草木も眠る丑三つ時。  この時間がお化けにとって最もでやすい時間なのだそうだ。幽霊だけあってやはりまっとうな生活習慣ではない。どうりで眠いはずだ。おまけに怪談のネタも尽きている。 「ちょいと休憩だ。厠《かわや》に行ってくる」  ナオさんは立ち上がって、電球をつけた。裸電球一つというか細いものだったけれど、突然の明かりに若干目が痛い。  それでもお互いの顔がはっきり見えることが僕には嬉しかった。  僕とお絹ちゃんはシマウマについて独自の理論を展開し、しばらくして戻ったナオさんとしばしお茶の時間をもうけた。饅頭の皮だけよこせ、というお絹ちゃんの申し出を快諾した僕は、皮むきをお絹ちゃんに任せて皆にお茶をついでまわることにする。  怪談の現場にいるということを除けばなんだか修学旅行のようで、僕はそれなりに状況を楽しんでいたのだった。 「今日は出ないのか……」  そう、ナオさんがいったとき。  不意に蝋燭の火が細くなり「ジッ」という音とともに消えてしまった。そしてそれに呼応するかのように、裸電球の明かりも消えた。  とたんに、部屋は真っ暗闇になる。  もう、誰の顔も見えなくなってしまった。 「あ、明かりを、誠太郎君、マッチ――」 「いや、そうじゃなくて電気を」  めずらしく動揺した声のお絹ちゃんを制し、僕は立ち上がる。 「おい、誠太郎――」  ナオさんの声。  暗い。  これでは何も視えない。 「誠太郎君っ」  ひどく緊張した声。  ナオさんの声は正面から、お絹ちゃんの声は右側から聞こえる。大丈夫。みんなちゃんと居るじゃないか。しかし僕の安堵はナオさんのひと言によってしぼんでいった。  まるで先ほどの蝋燭の火のように。 「誠太郎。お前――いま振り返っちゃあ、ならねえぞ」  どくり、と鼓動が耳の奥で聞こえた。  僕の後ろには、御簾で仕切られた例の高座がある。二人は、明らかにそこを見ていた。  いけない。 ――僕の後ろに、  なにが。  後ろから冷気が僕の背中をなでる。電球も蝋燭も消えたにもかかわらず、どうして二人の顔は見えているのか。それは、僕の背後になにかの光源があるからだ。さっきまでは絶対になかったなにかがあるからだ。  絶対に後ろを見てはならない。  立ち込める冷気と沈黙のなか、僕の後ろから声が響いた。 「馬か車か――大志はあるか」  そう、聞こえた。  か細い、しゃがれた男の声だった。  誰も声をだすことが出来ない。 「馬か車か――大志はあるか」  もう一度、今度は先ほどよりもやや強く。それは何かの謎かけのようだったが、どこか切実な、そして悲しげな声だった。  後ろからの冷気が増す。  吐く息は白く。  沈黙はしばらく続いたが、最初に口を開いたのはナオさんだった。 「わからない」  次の瞬間。 ――ドンッ 「ぎゃっ」  叫んだのはお絹ちゃん。ドンドンドンッ、激しく天井を叩く音はなおも強い。恥ずかしながら僕は声すら出なかった。そして、 ――ドドドドドドドドドッ!  天井からも床下からも。部屋を囲んだ襖という襖からも。いっせいに何者かがが叩いた。もう家鳴りどころではない。突然の暴力に見舞われたように縮こまるしかない。しばらくその音は鳴り響き、そしてはじまったときと同様、唐突にやんだ。  僕らは皆、放心状態だった。  再び明かりがついたとき、僕はようやくナオさんとお絹ちゃんの顔を見ることができた。  ナオさんは煙草をくわえたまま眉間にしわを寄せている。お絹ちゃんは、なんと僕の腕にしがみついていた。 「――ごめんあそばせ」  そういって僕の腕を放す。ナオさんの煙草の灰がポロリと落ちるのが見えた。   二日目  「誠太郎お前、大志はあるか?」  唐突にナオさんがいった。  昨日の深夜、僕らが体験した怪異のことだ。 「僕はあんまりないほうだと思いますけど」  青雲とか快活とか、そういう派手なものと僕は縁がない。 「どういうんだろうなぁ、そういうの」  そうつぶやいて、ナオさんはごろりと横になった。  上段の間。昨日の幽霊騒ぎのあと僕らはただただ静かに床に就いた。  みんな疲れていたのだった。  あのとき。  僕が後ろから冷気を感じていたとき、ナオさんたちは僕の背後に青白い人魂と、それに照らしだされた人影を見たのだという。  ゆらゆらと怪しげに。  暗闇のなかで二人の顔など僕に見えるはずがない。あれは人魂の明かりに照らされていたのだ。それを聞いて本当に振り返らなくてよかったと思う。あの空気のなか人魂なんかを見たら絶対に気絶していただろう。 「凄かったのよぅ。こう――ボッ、ボッ、ってみるみるうちに出てきてね」  手の動きを連動させながらお絹ちゃんが解説してくれる。あまり有り難くはなかったけれども。 「本当にあんなのがでるとはなぁ」  しみじみとナオさんはいう。やはり半信半疑だったのか。 「そんなことよりも、帰りましょうよ。ここ、家鳴りどころの騒ぎじゃないじゃないですか。今夜も泊まるのはちょっと」  とにかく抗議はしてみるのだが、ナオさんに仕事だバカヤロウと一蹴され(無論、僕にはまるで関係ない)相手にされない。せめて部屋を変えたらどうかという妥協案すら聞き入れられなかった。 「電気がまともにきてるのがここだけなんだよ。怪我人がでたわけでもなし、寝床と仕事場が一緒なんだ。便利だろうが」  僕の提案を一笑に付してナオさんは立ち上がる。楽しんでいるのだから始末に負えない。 「まず、わかるものから手を付けるか」  そのまま外へ向かった。僕とお絹ちゃんも後からついて行く。ナオさんが目指した先は、御成門脇にある御車寄だった。  巨大な屋根つきの井戸は瓦も立派なものがついていて、井戸の隣には神社のように手を清める場所がある。そこには柄杓《ひしゃく》が備え付けられていた。かつてはここに大名の馬が繋がれていた所で、別段見て面白いものではない。 「馬。あぁ、馬か車か、でしたよね」  馬か車か。  幽霊はそういったのだ。 「そうなんだが」  ナオさんは、どこか腑に落ちない表情をしていた。 「どうしたんですか?」  ふむ。とナオさんは顎をなでる。 「御車寄というのは、いまでいう玄関だ。平安時代の貴族なんかが、車を文字通り寄せて、建物に入りやすいように作られた、大振りの専用玄関のことだな」  車庫から直で母屋に入るようなものだろうか。いや、車庫をとんでもなく立派にしあげて無理やり玄関にしたということか。僕がそういうと、ナオさんはそんなもんだと答えた。 「ここの御車寄は、玄関からずいぶん離れてますね」  敷地のすみに設置されているので屋敷からは遠い。 「まぁな。貴族の邸宅に模して命名されたんだろうが、名前を借りただけだろう。本来の御車寄とは違っているが──ここはただ馬をつないでおく場所だろうな。水飲ませたり、餌やったり。大名もさすがに地面を歩いて入ったんだろう」  それでも玄関は見上げるほどに立派だ。 「車が、あるわけないんだよなぁ」 「え?」  ナオさんの言葉に、僕は思わず聞き返した。 「だから、車はここにあった筈がないんだよ」 「御車寄なのに、ですか?」 「御車寄ってのは平安時代の寝殿造りなんかにある様式だ。あと神社とかな。だから車ってのは牛車のことだよ。大名が乗る馬には車はつかない。貴人が乗る乗り物としては、馬じゃなけりゃ籠《かご》だろうな。大名行列に車は珍しい」  そういえばそうかもしれない。まさか大名が外国の馬車に乗って移動するわけはない。 「でもそれはナオさんがいったみたいに、名前を借りただけでしょ? だから御車寄に車がなくても致し方ない、としか――」  それはそうなんだがな、とナオさんはいった。 「しかしあの幽霊、間違いなく『馬か車か』といったじゃないか。これはヒントなんだ。重要な。ありもしないものを選ばせるなんてことは、しない」  そうか。  馬か、若しくは車か。はたまた大志か。その言葉の意味するところは不明だが、どれかを選ぶということは間違いないだろう。  選んでほしいのか。  そうだとすれば、ないものは選べない。 「だから、どこかに車があるはずなんだがなぁ」  ナオさんは先ほどからしきりに懐をさぐっている。 「ちょっと出るぞ。煙草を買いに行ってくる」  煙草、きれたのか。 「いいですけどぉ」  間延びした声を出すお絹ちゃんは今朝からあまり機嫌が麗しくない。意外なことに昨日の幽霊がこたえた様子で、本人いわく「ビックリ系は苦手なのよぅ」とのことだった。  大概のことに驚いてしまう僕には、その区別はわからない。お絹ちゃんは瀬戸さんのところで電話を借りてくるようにナオさんに頼み、何事か言付けた。  ナオさんが出ていったあと、残された僕らはこの屋敷で車にかかわるものを片っ端から集めてみた。とはいえ、もともと見学用に手入れされた屋敷なので余計な備品は殆どないのだが。 「しまらないわねぇ」  有力そうな井戸のつるべにある滑車を見上げながら、お絹ちゃんはそんな感想を述べた。  最終的に僕らは井戸のところでフキノトウを見つけ、誰に断わることもなく沢山とった。お絹ちゃんはあとで瀬戸さんのところへ持っていくのだという。それが唯一の収穫だった。勝手に取ってもよかったのだろうかとも思うが。  ともかく春が近い。  僕らはそんな話をした。  そして夜。 「ところで、なんだこれは」  コタツで一息ついていたナオさんがいった。  ナオさんは部屋の入り口で、襖を背にして座っている。  昨日僕が座っていた、例の御簾の部屋を背にする位置をナオさんは執拗に勧めるのだが、僕はこれを断固拒否した。 「なんだも手水鉢《ちょうずばち》もありません」  お絹ちゃんがぴしゃりという。  僕の右手の席にはナオさんが、そして僕はお絹ちゃんと一緒に座っている。故にコタツの四辺のうち、二辺があいている格好になった。  そのあいている二辺にはいま、招き猫と加藤清正の人形が行儀よく座っている。清正公は立っているけれども。 「猫とお侍です。魔を祓います」  お絹ちゃんが説明する。  人がいないのが嫌だ、ということで納戸の奥からご足労いただいたのだ。 「祓うなよ馬鹿、商売にならねえ。しかも猫は祓うんじゃなくて招くんだろうが」  余計なものまで招きそうだとナオさんは漏らした。 「市の資料を見せてもらってきたんだがな、この醤油蔵の屋敷は、江戸時代にも幽霊騒ぎがあったらしい」  招き猫の頭を小突きながら、ナオさんはいった。  昔から同じ幽霊がいるということか。僕がそういうと、 「たぶん違うな。奥さんの死に様があんまりにも急だったもんで、おしどり夫婦を妬んで誰かが呪い殺したんじゃないかと、そんな噂が流れたそうだ。それから坂を転げるように、商売が傾いた。だからこの場合は幽霊というよりも、生霊とか、そういうのかもしれん」  お里さんに嫉妬した遊女の生霊。  そんな噂もまことしやかに囁かれたそうだ。 「女の生霊だよ。怖いねこりゃ」  ナオさんがいった。 「ある意味では幽霊よりも怖そうな気がしますね」 「あたしなら生霊なんか飛ばす前に棒か何か持って走ってくわよ」  よっぽど怖い。 「それよか買い物行ってほしいわね」 「自分の生霊を買い物にやるなら、結局自分で行ってるのと同じじゃないか」  そんなどうでもいいことばかり思いつく。 「病気で死んだというからには、その……患っていた期間があるんじゃないですか? それなのに死に様が急ってことがありますかね?」  患ってからそんなに早く死ぬものだろうか。  突発的に死に至る病気というのは僕には心当たりがなかった。寝付いてすぐ他界するようならたしかに『死に様が急』だと言えるかもしれない。  ナオさんが仕入れてきた話のように、それが誰から見ても不自然な死だというなら、生霊にとり殺されたという噂が広まるのも頷ける。 「昨日のお化けは男の人だったわよね」  お絹ちゃんが言う。 「そ、そうだね。じゃあやっぱり喜兵衛さんがその生霊を、遊女を恨んで。いや、その遊女はとっくに死んでいるだろうから、いまさらなにを恨むでもないのか。生霊は関係ない。あれ?」  突発的な死。 「よくわからん。出たのが男の幽霊じゃあ生霊は絡んでこないんだろうなぁ」  ナオさんはぼんやりと煙草をくわえた。  一息ついたあと、僕らはまた銭湯(その銭湯は民宿も兼ねていて、正直こちらに泊まりたかったが、それは黙っていた)に行き、蕎麦屋で夕食をすませたあと再び時を待った。 ――ボッ  初めて人魂というものを見た。  電球と蝋燭の明かりが消えた暗闇に青白くゆらゆらと漂っている。部屋との境界にある御簾の向こう側で。その人魂に怪しく照らし出されて、静かに座っている人物が見えた。  経帷子というのだろうか。  白手甲に白足袋。首からは白い袋をさげ、髪はざんばらになっている。ひどく痩せているが、たしかに男の人のようだった。  こちらを見ることはない。ただ、じっと下を見ていた。 「馬か車か――」 「ちょっと待て」  ナオさんの言葉にその幽霊は待った。幽霊なのに待った。  実はいいひとなのかもしれない。そんなことを考えているとナオさんは続けた。 「お前さん心残りがあるんだろ? な? ホラ、知ってるよ。こっちも商売なんだから。しかしお前ぇ、そう陰気にでるのはいけねえよ。なぁ、こっちも話をきくって腹きめて来てんだ」  物凄い勢いで指差しつつまくし立てた。 「なんかこう、景気よくよ。ホラ、賑やかに出てこれねえかな? 火ぃつくんだろ? 一つ二つ飛ばしてもつまらねえじゃねぇか。十《とお》ばかりメラメラっと飛ばしてよ、女かなんかはべらして――」  無茶苦茶な人だなと僕は思った。 「馬か車か――大志はあるか」  お化けはそんなナオさんを無視して続ける。 「誠太郎君、あれ――」  お絹ちゃんがお化けのほうを指差す。  ナオさんの話が功を奏したのかどうかはわからないが、昨日とは様子が違っているようだ。幽霊が御簾の下から、白い紙のようなものを差し出してきていたのだ。人魂の明かりに照らされて、僕にもそれが幽《かす》かに見えた。  それは長方形の短冊のようなもので、なにやら書きこまれている。  こちらがそれを受け取るのを待っているかのように、長い沈黙が流れた。 「取って!」 「わっ」  お絹ちゃんに突き飛ばされ、僕はドタンバタンと御簾に近寄った。おっかなびっくり紙片を取ろうとすると、 ――バラバラバラッ! 「ぎゃっ」  なにかが天井から大量に落ちる音。叫んだのはお絹ちゃんで、僕はやはり声すらだせないほどに萎縮していた。  そしてまた唐突に明かりが回復したとき、僕は無数の板きれの中で呆然としていた。  それは、墓地によく刺さっている長細い板切れで、卒塔婆《そとば》というのだと、あとからナオさんは教えてくれた。経帷子に身を包んだ幽霊が最後に差し出した短冊には、 誰ならん いざこと問はむ くちなしの  くがね取るなり かけとりの頃  という歌が詠まれていた。   三日目    朝からどたばたと忙しなく歩く音がしている。あれはどこだこれはどうだという声が屋敷を飛び交っている。  例の財閥から、荷物が届いたのだ。  立派な漆器の御膳と、いくつかの調理器具。昨日、お絹ちゃんがナオさんに頼んだのだそうだ。それにしても迅速な対応である。 「オープン時に正式採用される予定の御膳だそうだ。まだ本決まりじゃないらしいが、三種類までしぼられている。だから高級品だぜ。なにかないかって聞いたら、ちょうど三種類あるからって言うもんだから持ってきて貰ったわけだ」  何故か得意げなナオさん。  艶のある黒漆に金の蒔絵がほどこしてある器はしっとりとしてよく手になじんだ。他には派手さはないが木の質感をいかした(これは鎌倉彫だろうか)器。どれも立派な御椀だった。値段を聞かれても僕にはよくわからないけれど。 「せっかく使ってもいいっていわれたんだから、使わなきゃ損じゃない」  お絹ちゃんはそういって炊事場を整えている。今日はここで温かいものを食べるのよと、今朝から意気込んでいた。七輪が悪いわけではないが、木賃宿とはいえ簡単なものしかないのでは味気ない。せっかく新品の炊事場があるのだから使おうという腹らしく、僕もお絹ちゃんを手伝おうと炊事場に向かったのだが、竈《かまど》に無造作にくべられている無数の卒塔婆を見て、いや、見なかったことにしてナオさんのもとへ戻ってきた。  ナオさんは相変わらず寝煙草を決め込んでいる。 「しかし、化けてでるってのは、どんな気分なんだろうなぁ。誠太郎。お前ならなんで化ける?」 「そ、そういわれてもですね。僕は――」  僕なら。 「僕は化けないと思います。恨みがあったとして、なんと言うか、そこまで大げさにはできないかなって」  何かしら悔やまれるような事態が発生したとして、その出来事の過程や結果を考えるときっと後悔するだろう。しかし恨み言をいって人のせいにするのはためらわれた。  色々な原因を全てひっくるめて、自分が背負ってしまったほうが余程ラクだろうと思う。一度死ぬと腹を決めたら後悔も無念も全部丸ごと飲み込んで、誰にも迷惑がかからないようにするのがいいじゃないか。きっとそれが一番らくなのだ。  僕はそう説明した。 「だから、誰も恨まないんだと思います」  誰かのせいで死ぬことになったとしても、その過程を作ったのは僕じゃないかと。  そういうと、お前にそんな大それたことは出来ないよな。とナオさんは笑い、ふむと頷いてまた話しはじめた。 「どこかに理由が、あるいは原因か。あるんだろうな。そして、それを伝えようとはしているのだろう。ただ、いまのところわからん。おそらくは、アレはここの主人だった喜兵衛に間違いなさそうだ。が――」  そういって湯飲みに口をつけた。  ナオさんが言い終わるのを待っていたかのように襖が開く。やはり足を器用に使いながら、お茶をもってお絹ちゃんが入ってきた。 「あの歌、やっぱりなにか伝えたいことがあるんですよねぇ」  今朝届いた妙に分厚いお盆には生菓子がのっていた。 「歌なぁ」 誰ならん いざこと問はむ くちなしの  くがね取るなり かけとりの頃  短冊にはそう詠んであった。  梔子というのは玄関前にある植え込みのことだろう。亡き妻を悼んであるじ喜兵衛が植えた。 「この歌、どういう意味なんですか?」  意味を理解していそうなのはナオさんだけなので聞いてみる。 「掛《かけ》とりっていうのはな、要するに借金取りだ。『掛売り』といって、昔はいわゆるツケで売ってる店がある。酒とか、醤油とか。で、溜まったツケを回収しに客の家をまわる。つまり『掛とり』にまわるわけだ。まぁ貧乏人の風物詩だな。といっても、昔はみんな貧乏だったわけだが」  ツケなんざあたり前の話だとナオさんは続ける。 「くがねは黄金。だから――掛とりでお金を取りに来るのは誰だろうか。梔子に聞いてみよう。と、こうなる」  借金取り。 「掛とりと聞くと年の瀬にまわるもんだという印象があるが、実か花か……」  なんだかよくわからないところでナオさんは悩んでいた。 「梔子がですか? 実と花とじゃ違うんですか?」 「違うよそりゃ。いや、季節まで限定できればいいんだが。掛け取りはそもそも月末や締めの日にまわるもんだから必ず年末とは言えない。季語で言えば冬になるんだろうが……くちなしの花なら夏の季語となるし、実なら秋だ。喜兵衛の妻がいつ死んだかははっきりとしないが、喜兵衛が年の瀬に死んだのなら、その少し前。秋口だとすると、ちょうど時期的にも合う。合いはするが──よくわからん歌だ」  貧相な歌だしなぁ。  ナオさんはそういった。 「梔子は喜兵衛の嬶《かか》ぁのお里が愛《め》でた花だろう?『今年は誰が借金とりにやって来るかねぇ』と、奥さんに聞くわけだよ。自分の財布気にかけながらな。こりゃ相当貧乏な家の話だぜ? とても宿場一の大店《おおだな》の主人の歌じゃねえよ」  年の瀬は、喜兵衛さんが首を括《くく》った季節で、梔子は喜兵衛さんの妻、お里さんが好きな花だった。やはり、喜兵衛さんに関係があると思えてならない。貧相だとしても。 「例の、大志がどうのっていうのは、どうなんです?」  お絹ちゃんが生菓子をほおばりながら話題を変えた。子供の頃に苦い経験でもあるのか、彼女は甘いものに対して独特の執着を見せる。裕福でもそうでなくても毎日食べるようなものではないが、お絹ちゃんなら毎日食べても飽きないだろう。 「そっちは手付かずだよ。どっちかの真意がわかれば残りもはやいかもしれんが」  ナオさんは入れたてのお茶を飲んだ。 「そういえば薪なんかはどこから都合したんだ?」  お絹ちゃんが炊事場で奮闘しているのが気になったのだろう。  でもそれは内緒。 「やっぱり奥さんが亡くなったっていうのが、喜兵衛さんの遺恨なんじゃないですかねぇ」  それはきっとそうなんだろう。  首吊りの年の瀬。  梔子。  歌のキーワードは奥さんの死を暗示しているように感じる。 「それが遺恨になっているとするのが一番考えやすいな」  僕は、昨晩から考えていたことを口にした。 「あのお化けですけど、たぶん喜兵衛さんですよね。そんなに悪い人じゃないっていうか、その、なんというか、どちらかというと気弱そうな感じがするんです。なんとなく──」  僕と似ているような。 「誠太郎。相手は幽霊だぞ。威勢のいい幽霊は珍しいだろ。というか幽霊に親近感を抱くなよ。危ないぞ、お前」  昨日は景気よくでて来いとかいっていたくせに。 「そ、それだけじゃなくて、もし仮に奥さんの死が遺恨になってるとしたら、それは病だけではなくて、やっぱりなにかあったんだと思うんです。本当にただの病気なら恨みもなにもないじゃないですか。でもなにか絶対に遺恨はあるわけで、でなきゃこうはならないでしょ? だから、仮に、もし仮にですけど、言い伝えどおりじゃなかったとしたら――」  病気ではなくて。 「ひょっとして喜兵衛さんが奥さん殺しちゃったとか! あっと驚く真相!?」  お絹ちゃんが嬉しそうにいう。話としてはそっちのほうが意外性がある。 「犯人は化けねえだろう」  ナオさんは腕を組んで低く呟いた。  そうだ。病気でも、犯人でもなくて、 「別の誰かに殺された、か」  僕は頷いた。誰かに殺されたのだとしたら。 「でも、だったらその奥さんのかたきに化けてでればいいじゃないの。せっかく化けて出てるんだから、それで犯人を祟っちゃえばこんなに面倒なことにならないわよ」  お絹ちゃんがいう。 「そう。だけど、それが出来なかったんじゃないかと思って」  お絹ちゃんは不思議そうにこちらを見ている。 「そうか。うーん。そういうこともあるかなぁ」  首をひねるナオさん。 「な、なによ誠太郎君。教えなさいよぅ」 「だから、ここは大名が泊まる宿だったんでしょ? 大名って、よくわからないけど、偉い人なんだよね? だから――」  訴えることはできなかった。  祟ることなど考えもしなかった。  そんな、だいそれたことは出来なかった……のではないか。僕はしどろもどろになりながらそう説明した。 「あぁ――」  お絹ちゃんは僕をじっとみてたあとこういった。 「誠太郎君ってさ、なんかそういう無意味な遠慮とかしちゃいそうよね」  さすが、僕のことを端的に表現できていると思う。  これは参考になるかわからんが、といってナオさんが話はじめた。 「参勤交代のとき尾張藩――こりゃ愛知の話だが、尾張を通過中の大名が子供を切り殺す事件があった。大名行列を子供が横切ったんだな。無礼千万、勘弁あい成らんというわけだ。子供は本陣に連行され、切り捨てられた。それを聞いた尾張藩主は相当に立腹してな、その大名の通行は今後許さんと、そうきた。大名といえども何をやっても許されるってわけじゃない。藩主が町民を守ったわけだな。重要な仕事である参勤交代なのに、通せんぼしてしまった」 「それじゃあ、その大名はその後どうしたんですか?」  まわり道でもしたのだろうか。 「結局農民や町民の格好で、こそこそ通り抜けるはめになった。難儀な話だ」  ここは保土ヶ谷宿。江戸へ入る手前の東海道筋だ。 「ここでその、理不尽な刃傷沙汰があったとしたら、どうなるんでしょうか。もし泊まった大名に後々不都合があるとしたら、内密にしたりして──」 「えぇっ、じゃあ喜兵衛さんは、奥さん殺した大名に気を使って黙ってたってことですか? そりゃあんまりですよぅ!」  僕の呟きを聞いてお絹ちゃんが大声を出す。 「ま、まぁこれは僕の思いつきだから」  疑問はもう一つある。  馬か車か――大志はあるか。  僕らは幽霊の残した言葉についてごろごろと寝転がりながら話した。結局のところなにも進展はしなかったが、唯一お絹ちゃんにもナオさんにも大志はないということだけを確認しあった。  そうしているうちに、お昼の時間が近づき、お絹ちゃんは昼食の仕度をするといって、立ち上がった。 「ゴミがあったら出してくださいな。一緒に炊きつけとして燃やしちゃいますから」  お絹ちゃんは蜜柑の皮を右手に、町でもらってきた号外を左手にもっている。  寝そべっていたナオさんは煙草の空き箱をお絹ちゃんに渡し、眠そうな眼でお絹ちゃんを見上げていたが、ふいに間延びした声を発した。 「おい、それちょっと見せろ」  所望しているのはお絹ちゃんが持っている号外だった。 「だらしないなぁ」  そういいながらも、渡してあげるお絹ちゃん。  号外を受け取って、寝たままの姿勢で眼を通していたナオさんだったが、しばらくしてやおら起き上がって一言呟いた。 「これは――号外じゃないか」  当たり前だ。  かと思うと今度はがばり立ち上がって、あたふたとコートを着込んだ。手に握り締めていた号外はもう既に放り投げられている。 「ナンですか突然っ」 「探し物だ!」  お絹ちゃんが驚いて声をかけるが、ナオさんの気迫にそれ以上の追求はできない。ナオさんはそのままドタバタと早足に玄関へ向かってしまった。  慌てて僕らが後を追うと、靴も満足にはかないような調子で外に出て外の寒さにすこし身を震わせた。 「しかし、見上げた馬鹿野郎だなぁ」  玄関前の桜を見上げながらそう呟き、号外を放り投げると華麗に出て行ってしまった。  昼間の日差しが降りそそぐ本陣の玄関。  僕とお絹ちゃんだけが呆然と残されたのだった。  ナオさんが放り投げた号外は、コタツのわきに転がっている。くしゃくしゃになってしまったそれを僕が丁寧に開くと、大げさに印刷された号外の見出しが目に入った。  皇太子妃、初の病院出産成功。  その見出しは、なんだかとても誇らしげだった。   長い夜    夕方、お絹ちゃんが炊事場での格闘を終える頃、ナオさんは一升瓶と紫の袱紗《ふくさ》に包まれた四角い箱を持って戻った。 「なんですか? それ」 「いいからちょっと見てみろよ」  ナオさんは大事そうにその包みをあけて見せてくれた。それは十センチ角ほどの木の箱で、かなりの年代モノのようだった。高級感のある白木の箱は小さいながらもどことなく気品が漂っている。 「将棋の駒だよ」  そういって箱の中身をコタツの上にあける。中からは使い込まれた将棋の駒がでてきた。手垢で黒ずみ、かどが取れて丸くなっているそれは紛れもなく将棋の駒だった。 「将棋の、駒ですね」 「ただの駒じゃない。よく見てごらん」  ナオさんがそういうので、僕とお絹ちゃんは互いに一から駒をならべてみることにする。 「あれ? 誠太郎君、これ――」  飛車二枚に角二枚を自陣に迎えたお絹ちゃんは、僕に奇妙な駒を見せた。  その駒には「醉象」と掘り込まれている。 「あ、なんだろうねこれ。見たことないや、そつぞう? と読むのかな?」  はじめてみる駒だった。将棋にこんなものはないはずだ。 「醉象《すいぞう》と読む。これはね、小将棋というんだ。将棋の一種だが、詳しいルールは失われてしまった。基本は普通の将棋だが、この――」  ナオさんは醉象をパチリと裏返した。 「太子《たいし》を一枚くわえるという点で違う。この言葉、どこかで聞いたことないか?」  その駒裏には太子と掘り込まれていた。  太子。  僕らはずっとそればかり考えてきた。 「馬か車か――大志はあるか。この太子だったんですか?」  お絹ちゃんは珍しそうにその駒をつまみ上げ、鳶色の瞳でしげしげと眺めている。  馬が角成りだとすれば、車は飛車のことだろうか。あのお化けは、将棋のことをずっといっていたのか。 「俺もうっかりしてたんだが、号外読んでずっこけた」  皇太子妃出産のニュース。確かに太子だ。 「それで慌てて出て行ったんですか」 「そう。知り合いから急いで借りてきた」  骨董協会は伊達じゃない。ナオさんはそういって、角の丸くなった駒をもてあそんだ。 「御車寄は無関係だったわけだ。すっかり騙された。最初から将棋だとわかってれば、事件の半分以上は見えたも同然だ」  ナオさんは煙草をくわえて嘯く。 「やっぱり、奥さんが関係しているんですか?」 「関係おおありだろうな。奥さん――お里さんはね、恐らくやってはいけないことをしてしまったんだ」  やってはいけないこと。 「な、なんですか」 「告げ口助言横槍」  ナオさんの言葉はまるで呪文のように辺りに響いた。 「岡目八目《おかめはちもく》ってのは碁の言葉だがこういう勝負事はな、横から見ている奴のほうが上手いようにできてんだ。喜兵衛はね。たぶんどこかの大名と将棋指してたんだよ」  そこで、お里さんが告げ口をしてしまったのか。  確かに横から対戦を眺めていると「あ、ここ指せばいいのに」なんていう考えがいとも簡単にでてくる。当事者ならこうはいかないのに。囲碁で八目の差があれば、格上の相手にだって勝てるかもしれない。 「だからな。真剣勝負の将棋では、横槍告げ口が一番の禁じ手だ。命とられても、文句は言えねえ、というのはいい過ぎだが」  そんなに、重要なことなのか。 「そ、そんなことで殺しますか!?」 「勝負事に熱くなる奴はどこにだっているんだよ。武士にもな。誠太郎、将棋盤の裏、見たことあるか?」 「あるような、ないような」 「あれな、凹んでんだよ。こう、えぐるような感じで」  そういえば、そんな凹みがあったかもしれない。 「あれ俗に『血溜まり』っていってな、横槍入れた野郎の首をはねて乗っけるためにあいてるんだと」  俗説だけどな。とナオさんはいった。 「物騒な話ですねぇ」 「それくらいに助言を戒めているということだよ。将棋盤の足はなんの形だと思う?」  わからなかった。 「あれは梔子なんだ。口出し無用の『口無し』というわけだ。聞き覚えがあるだろう?」  それはあの歌に詠まれていた。  いや、それだけではなかった。 「奥さんの死を悼んで、喜兵衛さんが植えたのが、たしか梔子でした」  お絹ちゃんがいう。  そうだ。だとすれば、最初から答えは見えていたのだ。  お里さんは口出し無用の禁をおかした。それを戒めたか、悲観したか。今はもうわからない。ただ、あるじ喜兵衛は植え込みの橘を梔子に植え替えた。 「たかが将棋で殺されるなんて――」  お絹ちゃんと同じことを僕は考えていた。どんなに真剣勝負だろうと、傍から見ればただの遊びだ。それが理由で殺されるなんて、くだらないにも程がある。 「いざこと問はん、だ。さっそく行ってみようじゃないか」  ナオさんはそういって表へ出て行く。手には湯飲みと一升瓶を持っていた。  目指す先は夫婦桜のある植え込み。春になれば綺麗な花でいっぱいになるのだろうその木はしかし、今はこの寒さで震えているようだった。桜の向かい側にある梔子の前へ僕らは立っている。こちらも同じく季節を過ぎて花も実もない。 「馬鹿な亭主と所帯を持つと苦労するな。まぁこん限りの頼みだ。ひとつ聞き届けてやっちゃくれねえか」  ナオさんはそういって、懐からマッチと幽霊の短冊を取り出し、梔子の根元で燃やしてしまった。そして今度は湯飲みに酒を満たして、同じく根元におく。  僕は奇妙な違和感をおぼえていた。 「誠太郎君――」  お絹ちゃんが小さく僕を呼んだ。僕は返事をする代わりに息をのんで彼女が指差すほうを見た。僕らが見ているその目の前で、燃え尽きた灰がするすると一つまみほど上に登っていったのだ。  するするとまるで誰かが摘み上げているかのように。  そしてその灰は風にかききえるように流れた。  物理的にありえない、不可思議な光景。  僕はそれに魅入られてしまったかのように、目をそらすことが出来なかった。それを見ていると心の隙間が埋まったような、そんな満ち足りた気分になるのだった。  あぁ、よかったなと、なぜだか僕はそう思った。  その夜、僕はいつになく期待した面持ちで幽霊を待った。  何かが起こる。そんな気がしたからだ。 「来るかしら」  お絹ちゃんはいつものように、饅頭の皮をむいている。すでに僕の饅頭は裸にされ、ナオさんの饅頭も寒そうになってしまっていた。 「あんまり来て欲しくもないけど。来たらどうするんですか?」 「どうするこうするもない。ただ聞いてみるだけだ」  ナオさんはそれから、黙ってしまった。  そして、いつもの時間。  丑三つ。 ――ボッ  はたして部屋の明かりは消え、かわりに人魂が浮かんだ。 ――ボッ  青白く寂しげに、御簾の内側から夜の闇を照らした。  白い経帷子は青く染まり、ざんばら髪を垂らした男が浮かび上がる。腰から下は闇に包まれ、僕らからは確認できない。頼りなく垂れ下がる御簾が僕らとこのお化けを分ける唯一の仕切りだった。  男はなにも語ることなく。  こちらを向き俯いている。 「馬か車か――大志はあるか」  小さく、ただそう問うた。 「将棋だな。お前さん、将棋で失敗したんだろう?」  ナオさんがいう。  幽霊は、黙したままだった。 「あ、あなた誰にも、何もいわずに逝っちゃったんでしょう? もう少しなにか喋ったらどうなのよっ。そりゃいまとなっては犯人捕まえるのは無理だけど、奥さんの──と、とにかく何かあるでしょう!」  痺れを切らしたお絹ちゃんが続ける。その「奥さん」という言葉をきいて、御簾のなかの幽霊は微かに身じろぎをしたように見えた。 「おおお、おお――」  嗚咽のような声。  大人が漏らす、悲しみとも後悔ともわからない声。  僕にはわからないけれど、きっとそれは大きな事件だったのだ。いくつになっても、たとえ誰であっても、やっぱり泣くときは泣くのだ。僕はそんなことを考えた。 「奥さん殺されて、いつまで黙ってるのよ。それじゃあ――」  あんまりじゃない。  お絹ちゃんは最後そう呟いて、少し鼻をすすり上げた。 「里は――」  喜兵衛の亡霊はぽつりぽつりと語り始めた。 「妻はよくできた女でした。所詮、私などには不釣合いな女だったのでございます。私を立て、店を立て、そして他人を立てるような女でした」  その声はかすれてとても小さかったのだけれど、十分すぎるほど僕らの耳に届いた。 「家人にはよく笑い、けして不満をもらさず、我が事よりもまず先に人さまのことを考える女でした。そんな妻を――」  私が殺めてしまった。  喜兵衛の亡霊はそういった。 「あの日、私はある高貴な方と賭け将棋に興じておりました。下らぬ趣味です。しかしどうしても、やめられなかった。負けがこんできたとき里が酒をもってきたのです。そのとき私は」  見てしまったのだそうだ。  負けそうだと。そういう目でお里さんを。  僕はそれを聞いて、この亡霊がとても気の毒になった。 「浅ましきは私の心根。妻は――賢い女でございましたから、私を放っておけなかったのでしょう」 ――ホラ、お前さん。金をとればいいのよ。  そう助言をした。 「妻に将棋を教えたのは私です。ですが、これは余興だ戯言だと教えてきた。賭け将棋に魅入られた馬鹿な私を、知られたくはなかった。妻はいつも日向におりましたから。日陰に居る私の下らぬ趣味を晒して、軽蔑されるのが怖かった」 ――何卒、これをお許しくださいっ。私の、私の不始末ゆえのこと、 ――ならぬっ、余《よ》の顔に泥をっ、この上は! ――あ、あなた、 ――里っ、 「子供じみた私の意地が、妻を殺しました」  あぁ。  やっぱりそうなのか。 「口無しの禁を破らせたのは、ひとえに私の不徳。穢れた性根のいたすところでございましょう。賭け将棋の相手、恨む所以《ゆえん》はございません。真剣勝負。助言加勢はご法度です。知らなかったとはいえ斬るは道理。こちらからお詫びして、その場はなかったことにしていただきました。ただ――」  己の妻には詫びることも叶いませなんだなぁ。  悲しそうに、そう呟いた。 「そんな道理があるもんですかっ、怒るどころか謝ったっていうの!?」  この人は、奥さんを目の前で斬り殺されて、その相手に詫びたのだ。 「身分の差というものがありますからそう簡単には怒れません。またこちらに非がないならば腹も立ちましょうが、非はこちらにある。勝負をふいにした罰。妻にそれをさせた咎《とが》」  結局、そういう人なのだ。この人は。 「でもそれじゃあ、あんまり理不尽じゃないの。お里さんだって――」 「里こそなんの罪もありません。そもそも賭け将棋などしなければ、否。私があんな情ない姿で里を振りむかなければ。これ程のことにはなっていないのです」  人魂がひときわ悲しそうに揺れた。 「私のほかに責任の所在はありません。恨む相手もおりません。全て私の失態。凄まじきは私の妄執。身体は土に還れども心根はこのように腐り、狂い、亡霊に身を窶《やつ》してなおこうして醜態を晒しておりますれば、やはり己に原因があったのだと、そう思っております」  このひとも僕と同じなんだ。  だとしたら。  昼間、梔子の前で抱いた奇妙な違和感。その正体に僕は気付いた。 「嘘つき! あ、あんたねぇ。そうやって全部、自分のせいにしちゃって、奥さんもいなくなって、自分もお化けになっちゃってさ、それでいいっていうの? 良くないから、毎日出てきてるんじゃないのよっ」  お絹ちゃんは僕の袖を握り締め、いつになく大きな声でそういった。俯いてしまって、最後は声になっていなかったけれど。 「それは――違うのです」 「え?」  お絹ちゃんは予期せぬ返答に驚いて、俯いていた顔をあげた。  だとしたらやはり、違うのだ。 「違うんだよ、お絹ちゃん」  僕はいった。 「たぶんこの人、お里さんが死んだり、自殺しちゃったりしたのは、もう自分で整理がついてるんだ。お絹ちゃん。だから――」  納得ずくで。 「だから、なんなのよっ」 「だから、この人、きっと別の理由でお化けになっちゃったんだよ。それ、僕わかる気がする」  僕だったら、起こったことがどれほど悲しくても、自分で背負い込むことができてしまったのなら後悔はない。恨みも、未練もない。否、自分が納得するためには自分ですべて抱え込むほかに道はない。  だってそれは、自分のせいじゃないか。  それがきっと、一番らくな生き方なのだ。  本当に後悔するのは、自分だけの責任ではすまないときだ。だから自殺という手段がいかに不遇に見えても、それで納得したのなら幽霊になどなりはしない。  成仏できないのならば、心残りは他にある。  あのとき、ナオさんは誰になにを「聞き届けてくれ」とお願いしたのか。それが僕の感じた違和感だった。  ナオさんが一瞬、苦笑いを浮かべる。  だから僕は続けた。 「この人、将棋が――どの駒で金を取れば勝てたのかって。それがわからなくて、心残りになっちゃったんじゃないかな」 誰ならん いざこと問はむ くちなしの  くがね取るなり かけとりの頃 「あの歌、借金取りの歌でもなんでもなくて、単純に次の一手を奥さんに聞きたかっただけなんじゃないかな」  ばさり。  いままで高座を仕切っていた御簾が音をたてて落ちた。  その向う側には勿論、経帷子の痩せた亡霊がいる。  青白い光を幾つか散らして、寂しげに座して頭を垂れて。世界を隔てていた御簾があがったいま、そこは僕らのいる世界と同じになった。 「然様《さよう》でございます」  そういって手をついて頭を下げた。 「ば――馬鹿にするなっ」  お絹ちゃんの投げた饅頭は、こちらに向いた亡霊の頭頂部にペチリとあたり、そのまま畳にころがった。 「しょぼくれてねえで、コタツにあたんなよ」  ナオさんは落ち着いている。  本当に、しょぼくれた幽霊だった。  身に付けているものは白い経帷子だけ。四十がらみのでざんばら髪のそのお化けは、ふらりふらりと頭を揺らしながらこちらにいざり寄った。 「お化けですからその、あったかいのはちょっと」  そういいつつ、するすると。 「そもそもコタツに入れる足がないじゃないですか」  腰から下が透けてるので、移動はなめらかだったが、なんともいえず頼りない姿だった。 「はいお茶」  お絹ちゃんがお茶をさしだす。  僕の向かいにお絹ちゃん。左隣にナオさん。そして右側には幽霊。 「あ、あたしが奥でよろしいんで?」 「まぁお前さんが主人だったんだから、そこへ座りなよ」  そんなどうでもいい押し問答のあと、席が決まったのだった。  僕はみかんをむいて、お茶を飲んでいる。  明かりはつけていない。 「おばけですから、明るいのはちょっと困りますな」  とのことだった。 「また脅かしたら承知しないわよ」  お絹ちゃんはそういって饅頭をほおばる。  どういうんだろう。こういうの。  ナオさんは人魂で煙草をつけようとして、うまくいかずにマッチで用をすませた。  人魂と蝋燭の明かりに紫煙がゆらめいくなか、しょぼくれた亡霊はお茶をすすっている。 「旦那。今宵は――なかなかいい晩でございますな」 「うるさいわよ」  お絹ちゃんに一蹴される幽霊。挨拶もそこそこに、ぽつぽつと語りだした。 「妻には惨いことをしました。ですが、あたし自身には恨みもなにもないんです。何度もいいますが、非はこちらにある。刃傷沙汰ですから、これは大事になるでしょ? それは困るというんでご内密にいたしました。妻の葬儀やら、身辺整理やらが終わって、その年の暮れにはあたしもなんだか疲れちゃいまして。もう妻もおりませんし、子供もありませんでしたから」  ほとほと疲れたのだそうだ。  それで桜の木で首をくくった。 「ちょうど死ぬ間際です。なんにも思い残すことなんてないと思ってましたから、そりゃ綺麗な死にざまがいいと思いまして、前日からなんにも腹にいれてません。準備万端でした。でもさぁ死ぬぞ、もう死ぬぞってときに、ふと思ったんです。これがいけなかった」 ――あぁ、あの金。どの駒で取ったものかなぁ。  そう、思ってしまったのだそうだ。 「それがいけませんでした。死ぬ一歩手前、ほんの一瞬思っただけなんですが、気がついたらこの有様でして。それから頃合をみて、来る人来る人に聞いてまわったんですが、その、皆さん怖がりますでしょ?」  そりゃそうだ。 「大概、あたしがでた瞬間に目をまわしちゃうんで」  そりゃそうだろう。 「頼みの綱の短冊を出ず前にはもう、コロッとひっくり返っちゃうもんですから──」 「お前さん、まともにでられないのかい? 始終火の玉と一緒はいけないよ。それから時間も悪い。旨いものかなんかと一緒に出たらいい」  ナオさんは無理難題をいう。 「あ、あたしも商売人ですから、なんぞ手土産がないかと、そりゃ考えました。酒でもあれば話もはずむかと」  僕にはどこまでも調子はずれな会話に聞こえるが、とにかく頑張ったのだそうだ。 「それでどうなったのよぅ」  お絹ちゃんが手土産に反応する。 「ここ一番はりこみましたら、でたのが卒塔婆でした」  饅頭がもの凄いはやさで飛んだ。腑抜けた音とともに幽霊の頭にあたる。  喜兵衛さんはさして痛がる様子もなく、饅頭をつまんで食べた。 「そりゃもう、でるわでるわ。凄いのなんのって、あたしが一番驚いたくらいですから」  それ以来、手土産はやめにしたらしい。 「じゃあなんで卒塔婆なんか降らすのよぅ」  お絹ちゃんが恨みがましそうにいった。 「あ、あれはですね。あんまり急に近寄られたんで、びっくりしちゃいまして――」 「もういいわよっ、板切れ以外は、でないのね?」  一応確認するお絹ちゃん。 「あとは人魂増やすくらいで」  どうにもならない。 「幽霊ってのも不便なもんでして、これがなかなか上手に話しができない。情念の塊ですから。妄執に囚われているうちはそれしかないんですな。ただひたすらに『誰ならん』と思うわけです。こんな話ができるのも今が初めてで……。あたしだけですかね。こんなの」  知らない。  御簾の内側にいるときは、どうやら化けて出た理由もうまく思い出せなかったらしい。死に際の妄執。それだけをずっと思い描いていたそうだ。  御簾からでたあとは性格もかわったような気がするのは、きっと僕だけではない。 「そうだ。お前さん酒はやるかい? しばらく飲んでねえだろう」 「へぇ、好きなほうでしたが」  それからナオさんと喜兵衛さんの幽霊は、酒をちびりちびりと飲んだ。  しばらくして炊事場にたったお絹ちゃんは、朝餉のために残してあったご飯でおにぎりをいくつかこしらえてきてくれた。おぼんには二人でとったフキノトウがふき味噌に化けて、おにぎりと一緒に乗っている。 「瀬戸さんからのお返しよぅ」  いつもながら、鮮やかなお手並みだった。  ナオさんと幽霊は味噌を酒のアテにして飲み、僕らはおにぎりに味噌をつけて食べた。  ほろ苦い味が春の兆しを運んでくる気がする。  状況はまったく春めいていないのだけれど。 「妻も、毎年ふき味噌を作ってくれました。出来すぎた女房でしたなぁ」 「出来すぎだよ馬鹿野郎」  そういわれた喜兵衛さんは少し照れているように見えた。 「お里はきっと、来世じゃあたしなんかじゃなくって、もっとましな――」  そのとき、ひらひらと上から何かが落ちてきた。  喜兵衛さんが歌を詠んだ短冊と同じくらいの短冊。  それは薄桃色の花弁のように。  ゆっくりと舞いながら、僕らの前に落ちた。  それを屈みこむように見ていた喜兵衛さんが息を飲む。 「里。お里――」  そこには将棋の棋譜が記してあった。  裏には歌が。 千代の松 こしかた過ぎぬ もつれ髪  君ならずして たれかゆふべき  うっすらと、本陣の主人は消えていく。 「そろそろ夜が明けますな」  身体はもう胸の辺りまで消えている。  お絹ちゃんは達者でねと声をかけた。  妙は具合だとは思いつつ、僕もお元気でと。  なんだか、羨ましいと思った。 「いい女だ」  ナオさんはいう。 「ええ。癖っ毛の、あたしには勿体無い女です」  恥ずかしそうに、少し笑った。  もう声もうっすらとしか聞こえない。 「しかしお前さん、あっちに逝ったらもう賭け将棋はやめときなよ」 「ええ、それについてはもう大丈夫なんです。なんせ――」 ――あたし、御銭《おあし》がありませんから。 「駄洒落かよっ」  お絹ちゃんが饅頭を投げたときには、もうそこには誰もいなかった。  夜明けの白さが障子を染めている。高座には饅頭だけがころがっていた。 「どうも縁起の悪い特技しかないやつだったなぁ」  ナオさんがいう。  人魂と卒塔婆。  幽霊だからしかたないのかもしれない。 「夜が明けますね」  僕はいった。  松は「待つ」にかかる言葉なのだそうだ。  常緑の松は黒髪に。  来《こ》し方は腰と肩に。 ――貴方を待って長い長い時間が過ぎてしまいました。癖のある私の髪は肩よりも腰よりも長くなっています。貴方以外の、いったい誰がこの髪を結ってくれるというのでしょう。  そんな意味だそうだ。  きっと、待っているのだろう。  そのあと僕らはすこし話をした。他愛もない話。今日は修学旅行の最後の日だった。  ナオさんとお絹ちゃんは午後には東京に帰る。そうするとまた寂しくなるだろう。 「そういえば、あの梔子のとこに湯のみ置きっぱなしだったよね」  食器を集めているお絹ちゃんにそういって、僕は玄関を出た。  春が近いとはいえ、寒さのいや増す朝の玄関へ向かう。  なぜだかふといい香りがした。 「あ――」  夫婦桜と呼ばれている桜。  お里さんが愛でたという梔子。  いずれも冬の植物ではない。  縁起の悪い特技しか持たないだって。  とんでもない。 「すごい」  気づけばお絹ちゃんが隣にいる。  僕らはしばし、その二つの木に目をうばわれた。  同時期にはけして咲くことのない花。  まして冬に咲くはずもない。  それがいまを盛りと満開に花弁をひろげている。  夫婦桜は吹く風に身をまかせ。  梔子に、届けよとばかり。  さらさら。さらさら――                                     了