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k99999five9 様のレスに対して私感をば。
>事の是非はともかく、歴史のIfを考察するのは、現在を生きる我々に善き示唆を
>与えてくれると思います。違った考えを持つ方とも語り合い、新たな知恵が
>生まれると良いですね。
人は、鏡を見て自分の姿を顧みます。
そして、人は人を見て自分を顧みます。
なんの史書の誰のセリフだったか、このような言葉を見て、
感銘を受けた事があります。
歴史は「過去、ある人間が、ある状況の際、このように考えて行動し、
ある結果となった」というものを見て、現在に生きる自分が、行動する際の
判断材料の一つになれば、というものを得る・残すために有るのだと考えています。
人の鏡となるために、ですね。
史家は、それを1つの責務として史書を残していると考えています。
これが私の歴史に対するスタンスですね。無論ベクトルもあります。
色んな説、論から入る、色んな人が居るので、仰る通り、違った考えの人の
話は見なければならないのは同意です^^
また、たまに感情や陰謀観が入る事があるのが、俗な言葉ですが、
これがネトウヨ属性ってやつなんでしょうw
その時はとてもごめんなさい、という事で。
次に、歴史のIfについて。確かに考察は重要。だが、我々は、そのIfが働かなかった
分岐の先の歴史を現在歩んでいます。そのため、Ifを考えると同時に、ここまで通ってきた
道を認識・理解・納得をしなければなりません。
これが現実を直視するという事ではないかと考えます。現実を直視して、Ifの考察に行かないと
正常な判断が出来なくなる恐れがあるのではないかと考える次第です。
当然、無知はあります。それは接する機会を作(れ)らなかったためで、知れば良いのです。
まずいのは、知って、蓋をかぶせてしまう事、間違って覚えてしまう事ではないかと
考えています。では、どうやったら(正しい)間違っているという「気付き」を得られるのでしょうか。
自分が得たものに対して、その他の多数の意見や事象を、見て、話して、比べて「違いを確認」し、
最後は「考えて」「決める」。こんな感じではないかと考えます。
自分が今気づいている事が、正しいか・間違っているかなんて、自分の狭い了見だけでは
中々判断出来ないものです。
そこで、最初に言った「人を鏡とする」という言葉が生きてくるのかなと。
■最後に
他人に対して、自分は鏡になります。
自分に対して集まってくる人も、鏡になります。
即ち、自分に対して集まってきた人には、自分が写ってます。
自分が、他人に写っている映像を見た時、どう感じますか?
これを、彼女に投げかけたいですね。文字のみの繋がりのインターネットにすら、
それはありますので。
・・・お洒落だって、身だしなみだって、文章だって、他人と交流するときだって、
歴史だって、人生だって、ちゃんと顧みないと、次が良くなりませんね。
ちゃんと顧みていますか?
自分を他人(即ち人)を歴史を
私ですか?
理解してますが、直せてません><
駄目ですねえ〜w
まーた長くなってしまいましたが、以上です。
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