08/10/31
皆さん、こんにちは。

今日で10月も終えます。長々と続けた「正平協・大阪大会」レポートも、今回で終えたいと思います。
一番のテーマであった谷司教講演の検討は前回で終わったことにします。
今回は書き残したことの二三を、とりとめなく書きます。
まず笠松健一弁護士の講演。
といっても講演内容についてではありません。

今回の「第2分科会」でのテーマは、主催者側によれば、下のようなものです。

【内 容】
自民党の「新憲法草案」は、9条改正問題とともに、現在の憲法が規定している「信教の自由と政教分離」(20条3項)を形骸化させ、信教の自由を侵害する恐れがあります。昨年5月の国民投票法案強行採決後、3年後の憲法改正発議が具体的に準備されていると見なければなりません。宗教者としてこの問題についてどのように取り組むのかを考える分科会シンポジュウム形式を行います。多くの方々のご参集を期待します。(→)

こういうテーマそのものが私には興味がなく、興味は、谷大二司教が“どのように話しするか”、ただそれだけでした。
つまり、「谷大二」という司教様に興味があったので、語ろうとする内容は“言い掛り”としか思えず、関心はありませんでした。
実際、谷司教の後に立った浄土真宗僧侶・山本浄邦さんも、自分の宗派はこの方面には熱心な宗派であるが、それでも20条問題は「公式に取り上げて呉れない」とおっしゃいました。ならば、まずご自分の教団内で主張を広めるのがスジでしょう。“その方面”ではかなり突っ張っていると思える浄土真宗も、そこまでは「気づいていない」と山本浄邦師は語りました。私からすれば単にそこまで**でない、というだけのことですが。まあ、正平協はそういう人たちの集結場(吹き溜まり)になっていますね。

と言う訳で、笠松健一弁護士の話の内容はほとんど憶えていません。内容には興味がなかった。
ただ途中で、ニューヨーク・ワールドトレードセンター(WTC)、いわゆる9.11テロも、「デッチ上げとの話しもある」というようなことをしゃべったので、私は“バカいうな!”と怒鳴ったのでした。私の仲間のN氏も、“何を根拠にそんなことを言うんや!”と、これは叫んだようです。
私は自分が怒鳴ったのでN氏の叫びはまったく耳に入りませんでした。それほど怒鳴りと叫びが同時発射された訳です。弁護士先生はひるんで、泣いてしまったんですね。私は若干目が近く、その時はメガネをしていなかったので顔は見えませんでした。そう言えば確かに声がつまり、前方の修道女が拍手で弁士を励ましていました。私は泣いたとあとで知りました。

叫んだN氏の状況は、ご本人の説明から引用させて頂きます。(要点のみピックアップします)

出典: http://6019.teacup.com/sdyosefu/bbs
投稿日:2008年10月20日(月)20時54分0秒

(「根拠のないことを言うな!」)
これを叫んだのは私です。
私は「911アメリカ陰謀説」なるものがどんなものか、よく知っています。(中略)
重要だったのは、あの弁護士が、あの場で、真実と確定もしていないことを「‥‥という説がある」とは断ってはいても、明らかに自分はそれを支持するような口調で、聴衆に対して、明らかに嫌米イメージを惹起させるために持ち出したこと。しかも司法に携わる身である者が、そのような不確定要素をあのような場で語ったこと。(弁護の姑息な技法としてはありなのか知らんが)
これが私の逆鱗に触れたのですよ。


私の怒鳴りには伏線がありました。
午前の基調講演会場に、9.11テロに関するチラシが置かれていました。

(→)
正平協として当然、この人たちの考えを支持し、広めようとしている訳です。
この催しのコーディネーターである「きくちゆみ」なる女性を、カトリック正義と平和協議会は、明らかに支援しています。

(2008年)8月9日(土)午後1時から3時半
四ツ谷麹町教会信徒会館(ヨゼフホール)
講師:きくちゆみ
テーマ「平和を実現する人々は幸い ── 環境・人権・平和」
主催:日本カトリック正義と平和協議会


私は民間団体が何を言おうと公序良俗に触れない限り、自由と思います。
しかし、「カトリック」の看板を背負って、関与しますかね?
正平協はどうして、こうクサイのを好きなんだろう。理由は一つだろうけれど。「類は友を呼ぶ」といいますな。

この種のことは今までにも色々ありました。
金正日が白状した後も、「拉致はデッチアゲである」と、党の公式サイトに載せていた政党もありました。

http://www.nomusan.com/~essay/syakaiminsyu-rachi.pdf
月刊社会民主7月号
「食糧援助拒否する日本政府」
社会科学研究所 日韓分析編集 北川広和

金正日が拉致を白状したのは平成14年7月17日です。私がこれをPDFファイルで保管したのはご覧になればお分かりのように平成14年10月4日です。首魁がゲロったものを、シンパはなお虚構だと言っていたのです。

大韓航空機爆破は韓国の自演だ、金賢姫などいない。無論、田口八重子など存在しない。
ラングーン、アウンサン廟爆破テロも、全斗煥の仕業だ。朝鮮戦争は李承晩が仕掛けたのだ。
色々ありました、私は朝鮮半島に興味を持っていますので半島関係で思い浮かべることが多いですが。
武者小路公秀とか田代菊雄などのパリパリの北朝鮮シンパ、チュチェ思想の宣教者を、正平協が崇めるのも分からない。
聖母マリアを冒涜する本田哲郎なる奇怪な人物を、重用するのも分からない。
要は「類は友を呼ぶ」のでしょう。

まあ、笠松健一弁護士の話しについては、途中で泣いたというのが、唯一の感動でした。
先生にとって初めての経験だったんですかね。反撃された経験がなかったんかな。


以上でほぼ終えます。
長くなり過ぎてまとめ方が分からなくなってきました。
今回のレポートは私も編集委員を務める「ヴァチカンの道」誌に、10頁にして掲載します。同時にそれを本サイトにアップしたいと思います。
その方がレポートとしては分かりやすいものになると思います。

終りに一つ、憲法九条と平和について書きます。

司教様方は、『憲法九条は世界の宝』といいます。
今回の「正平協・大阪大会」基調講演でも、スクリーンに憲法九条々文がアップされ、末尾に「アーメン」とありました。(報告一参照)
ある種の人たちにとって憲法九条は、単に法としての条文でなく、大切な「祈祷文」であることを示しています。

私たちも勿論、平和を願っています。
それは正常な者(つまりほとんど全人類)の願いでしょう。当たり前の前提です。自分と目的実現への考え方が違うから、好戦者と決めつける、そのことが「壁」なのです。

上に画像を置いた、ルワンダの女性イマキュレー・イリバギザさんの、『生かされて。』という本は、多くの方が読まれたと思います。悲惨な物語ですが、崇高なものがあります。第一級の書物と思います。
この地では1994年、100日間で100万人が虐殺されました。(後述する菊地功司教の本では、“50万人とも80万人とも言われる”と記されています。p.79)

『憲法九条は世界の宝』を言う方々は、“武器”を無くすれば平和が保たれると信じているのでしょう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「武力」とは、何をいうのでしょうか。「戦力」とは、どの程度をいうのでしょうか。
ルワンダでは、大鉈・ナイフで虐殺が行われたのです。

これはこの日曜日(10/26)、新潟の菊地功司教が大宮教会での講演での、PowerPoint資料です。
http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2008/10/post-3788.html

「今回は同じ間違いを犯すなよ。子供達も殺してしまえ」
これは現実にあったラジオ放送の録音が残っていて碑文とされていると、司教のご説明であったと思います。
同じ間違いを犯すなよ、の意味は、生半可な知識ですが、1959年の「革命」で多数の「ツチ」が難民として、ウガンダなど国外に脱出しました。その子供たちが“ルワンダ愛国戦線(RPF)”を結成し、祖国へ帰ろうとしていました。現政権(フツ)から見ればそれは「攻め入り」であり、復讐される恐怖でした。1959年に、皆殺ししなかったのが間違いだった、「一人残らず殺してしまえ。根絶やしにせよ」の意味はそこにあります。

イマキュレーは牧師(隠れ家)のラジオからこのような放送を聞いています。
「武装を怠るな。ツチの蛇野郎は草むらや藪に隠れている。いつでも大鉈を手に持って、見つけ次第半分にぶった切れるようにしておくことだ。銃を持っているなら撃ち殺せ。もし銃がなければ、政府はすぐに銃を届ける用意がある。もし、畑で働いている時にツチの女が赤ん坊に乳を飲ませているのに出っくわしたら、絶好のチャンスを見逃すな。銃を取って女を撃て。赤ん坊も殺すのを忘れるな。子どもでも蛇は蛇だ。一緒に殺すんだ」
政府の指導者たちは、ルワンダじゅうのラジオ局を死の宣伝マシーンに変えました、とイマキュレーは記しています(p.188-189)

この辺りの民族対立のいきさつは、菊地功司教が、『カリタスジャパンと世界−武力なき国際ネットワーク構築のために』の中で、簡潔に解説されています。

最近では、規模は違いますがインド東部で、「剣」「おの」による集団殺害が発生しています。


「大鉈」や「ナイフ」、「剣」「おの」、いわば“生活用具”です。殺人が目的の道具ではありません。しかし人を殺すことが出来ます。石ころで人を殺すこともできます。

憲法九条で制御される武力・戦力は、どこまでを言うのか分かりませんが、私は憲法九条は「平和の根拠」でも、「平和の保証」でもないと思います。憲法九条によって平和が担保されると宗教家が本当に信じているとすれば、人の心の浅い部分にしか語りかけることは出来ないでしょう。宗教家は人の心のもっと深くへ、仏教用語を使うなら『真我』に語りかける、それが求められていると思います。憲法の条文云々は、世俗の者が考えればいいのです。そのレベルのものです。

10月26日、大宮教会での説教で、菊地司教はスリランカにおける“政治から距離をおいた”各宗派・宗教者の対話について語りました。
http://www.caritas.jp/japan_news/current/01.html

私はこのような地道な努力こそ、平和に繋がると思います。宗教家には宗教家にしか出来ない役割、役目があると思います。正平協の司教様方の言動は、ご本人は真面目なのでしょうが、私には、真の努力を回避したお遊びとしか思えません。

http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2008/06/080620.html
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夙川教会カテキズム勉強会