08/10/24
皆さん、こんにちは。
正平協・大阪大会のレポートも10回目となりました。今回と、あと二度くらいで終えたいと思います。
谷司教のご講演を検討する過程で、私も勉強になりました。政教分離というのは、政治が宗教に関わってはならない、ということで、「宗教の政治への関与を否定するものではない」という谷司教の発言は、筋の通らぬ理屈だと思っていました。しかし念のために調べてみると、[第90回帝国議会]昭和21年07月16日、いわゆる「制憲議会」金森答弁以来、それが日本政府の“憲法解釈”であると知りました。“解釈”ですから、異なる意見も色々とあります。私の考えと同じ考えの先生方も大勢います。現に直近の国会でも創価学会を巡って、民主党の石井一議員が厳しい質問をしていました。しかしいずれにせよ谷司教の政教分離についての考えは、この点では、日本政府の見解に合致します。
ところで、カトリック教会の教えはどうかといいますと、
[現代世界憲章第四章76項(政冶共同体と教会)]
政冶共同体と教会との関係について、正しい見方をもつことは特に多元的社会において重要である。またキリスト信者個人または団体が、キリスト教的良心に基づいて一市民として行うことと、牧者とともに教会を代表して行うことを明確に区別することは重要である。教会の任務と権限から考えて、教会と政冶共同体とはけっして混同されるべきではなく、教会はどのような政冶体制にも拘束されてはならない。
[カトリック教会のカテキズム 2442]
政冶体制の構築や社会生活の組織づくりに直接介入することは、教会の司牧者の任務ではありません。この任務は信徒の召命の分野であり、信徒は他の一般市民と力を合わせながら自らの発意でそれを果たさなければなりません。
教皇も色んな場所で、この主旨のことを発言しておられます
。
教会憲章の中にもあります。[現代世界憲章][カトリック教会のカテキズム][教会憲章]、そして教皇の『回勅』、これらの公式文書が、福音書の主旨に沿わないと思えません。
谷司教や松浦補佐司教は常に、日本政府よりは福音に従う、とおっしゃいます。しかしこの点では見事に、教会の教えよりも日本政府の見解に従っています。珍妙と言えますね。教会の公式の教えより、日本政府の“憲法解釈”が福音に沿っているのでしょうか。
しかしまあ、勉強になりました。知らなかったことを知るのは、気分のいいものです。
今回一つの大きな発見をしました。それは松浦補佐司教と谷司教の、自己を否定(尊厳の否認)された場合の対応です。
9月13日の夜、私たちは松浦司教と語り合いました。私との話しの中で松浦司教はこのように語りました。
「イエス様は無抵抗にすべてを受け入れ、十字架にかかられた」
それに対して私は、
「司教様のおっしゃる非武装・無抵抗と言うことは、もし他国から攻められたら日本国民に、無抵抗に、死を、もしくは隷従を受け入れよ、ということですか?」
司教は確信を持って、
「そうです。それがなければ何のための信仰ですか。ガンジーも、キング牧師も、無抵抗でした」
そう話されました。私の仲間、少なくとも三人が、その話しを聞いています。詳細はここ↓にレポートしてあります。
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2008/09/080926bb.html
この発言は根本的なものですから、「正平協大阪大会」レポートを終えたら、再度松浦補佐司教へ確認の問い合わせをする積りです。
谷司教は翌日の講演で、
「人権や命、平和、人間らしく生きていくこと、このことはもしそれが侵害されるような事態があれば、私たちはそれを守るために戦っていかなければならない。教会の本来の使命として、そういうその人権、命、平和、この為に戦っていくという本来の使命がある」
と語られました。
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2008/10/081003bb-bp.tani.html
これは録音があるので確かです。
この場合の「戦う」は、何を意味するのでしょう。
言葉というものは、特に原理原則を語る場合、「ぎりぎり」「極限」の状況を想定して使わなければならない。
谷司教は「人権」「命」「平和」「人間らしく生きていくこと」を挙げました。
「命」「平和」という項目が特に分かりやすいでしょう。「命」「平和」が犯される状況というのは、口喧嘩のレベルではないですよ。物理的な闘争です。そして、それを奪いに来る者とは「戦う」とおっしゃる。
賛成です。
しかしこのことと松浦補佐司教の「無抵抗=戦わない」とは、どう整合するのでしょうか?
人それぞれの考えがあって、それぞれの考えが整合しないことは、本来、何の差し支えもないのです。しかしお二人とも「神」とか「福音」を根拠としておっしゃるので、不思議な訳です。神や福音に従って、お一人は戦わないといい、お一人は戦うとおっしゃる。神様はどっちを示しておられるのでしょうか。
更に又、
松浦司教の、殺されることも隷従も受け容れる絶対無抵抗は、それを政治的選択として言うなら、日本国憲法は改正しなければなりません。
隷従を許容し、むしろそれを要求する国民に、以下の条文の保証は不可能であり、無意味です。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。(後略) 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後略) 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、(後略) 第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。(後略) 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。(後略)
[第3章 国民の権利及び義務]
即ち憲法第10〜40条は、おおむね削除しなければなりません。
隷従を受け容れるとは、これらのすべてを放棄することです。「隷従」という言葉の意味は、そういうことです。
憲法20条がどうのこうのというような、お気楽な話しではないですよ。
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