2008/10/14
皆さん、こんにちは。

・ 政教分離に関係する国会資料
・ レモン・テストの要点
・ 公明党 冬柴鉄三氏の確認&90帝国議会における金森答弁

「正平協・大阪大会」報告の第八回です。
谷大二さいたま教区司教の「憲法20条」に関する講演検討、その(4)です。

今回は次のところを検討してみましょう。
谷司教は、「(憲法)20条も、世界から独立の条件として示された重要なものであると思います」と語られました。日本の独立が“条件付き”だったかどうかを検証する知識は、私にありません。“条件付き独立”というのも変な言葉と思いますが。「主権」が外国の制約下にあることになります。それは独立ではないですよね。

そして、「政教分離」という言葉をですね、どういう風に訳すか、ということが少し問題になったことがあります。
それは私たちが出した日本の司教団のメッセージ、それを訳するときにですね、英訳をどういう風につくるかという問題なんですね。
一番最初に出てきた訳は、Separation of Religion and State と訳した。そうしたら英語圏の宗教者たちが、これは何の訳だか分からないと言い出したんですね。Religion というのは「宗教」というよりもうちょっと何か違うニュアンスを持っているらしい。じゃあアメリカはどういう風に言うんですかと聞いたらですね、Separation of Church and State と言われているそうです。
これではっきりするわけですよ。
キリスト教中心のアメリカやヨーロッパでは、教会が一番ガンなんだと。そして国家と教会が結びつくことによって様々な問題が起こってきた。だから教会と国家、それをはっきりと区別して、その二つが結びつかないようにということが、政教分離の意味です。
国と特定の宗教団体が結びつかない、じゃあ日本で、どういう風に訳すのか。
これは戦前の歴史の反省から生まれてきた憲法20条ですから、
Separation of Shrine (Shinto) and State
まあ、こんな風になるんじゃないかと。
神道、国家神道と国家の分離。神道と国家の分離。これが日本における政教分離という言葉の、正確な訳ではないかと思っております。


今日は始めに私の無知をお知らせします。
『政教分離』について、

(a)政教分離」というのは、政治が宗教に関与してはならぬということで、宗教の政治関与を否定したものではない、(b)否、宗教はむしろ積極的に政治へ関与していかなければならない」
という谷司教や正平協の主張を、そんなバカな、と思っていました。
しかし調べてみると、前半の(a)部分は、これが日本政府の“統一見解”なんですね。(b)については勿論そんなことは言っておりません。言う筋合いのものでもありません。

[国会会議録検索システム]から、〈宗教 政治 分離〉をキーワードに検索しますと夥しい発言を知ることが出来ます。
     134 - 衆 - 宗教法人に関する特別委… - 8号
     平成07年11月10日
より、コピーしてみます。より詳しくは、また他の発言に興味ある発言は、こちら→をご覧下さい。

○石橋(一)委員 次に、総理はしばしば、宗教団体も政治活動をしてはならないということはないとの御答弁をなさっておられますが、この考え方、これはどこから出ておるんでございましょうか、お伺いをいたします。

○村山内閣総理大臣 憲法で定める政教分離の原則は、憲法第二十条第一項前段に規定する信教の自由の保障を実質的なものにするため、国及びその機関が国権行使の場面において宗教に介入しまたは関与することを排除する趣旨であり、それを超えて、宗教団体が政治活動をすることも排除した趣旨ではないというふうに私は解釈、理解をいたしております。
そうであるとするならば、宗教団体の政治的活動が憲法上許されないとすべきではなく、その政治的活動の自由は、憲法第二十一条第一項が集会、結社及び言論その他一切の表現の自由を保障している趣旨にかんがみましても、尊重されるべきものであると考えております。

○石橋(一)委員 ただいま二十一条の見解が総理から述べられたわけでありますが、二十一条は確かに、言論あるいは発表の自由、こんなものはありますが、積極的に政治活動をやってもよいというふうには私にはどうしても解釈ができないんですが、どうでしょう。長官どうぞ。

○大出政府委員(内閣法制局長官) 憲法二十一条の条文の文字の上におきましては、政治活動というような言葉は出てこないことはおっしゃるとおりであります。政治活動は、政治目的を達成するために、集会をしたり結社をすることにより、あるいは言論等によってみずからの思想を外部に表現すること等により行われるものでありますから、そのようなものである限り、政治活動の自由というのは、憲法第二十一条第一項が規定する「集会、結社及び言論、」途中を省略いたしますが、「その他一切の表現の自由」の保障に当然含まれるというふうに解されているところであります。


ここでの石橋一弥代議士と同じく、私も、「政治活動をやってもよいというふうには私にはどうしても解釈ができない」のですが、現在も内閣はこの憲法解釈を保持しているはずです。

しかし谷司教は大胆にも更にそれを推し進めます。日本における「政教分離」は、
Separation of Shrine (Shinto) and State
即ち、政治と神道の分離であると。
スゴイ結論ですね。神道一点敵視です。他の宗派はそもそも「政教分離」の埒外であると。

しかし、憲法のある条文が、ある特定の組織にのみ適用されるとは、そもそも「法の下の平等」から外れるのではないでしょうか。憲法の基本理念の自己否定ではないですか?

この結論であれば、神道以外のあらゆる宗派は、創価学会も本願寺も日蓮宗も、イスラムもキリスト教も、歯止めなく“政治活動”できることになります。それぞれの宗派は当然その教義によって動くハズですから、(そうでなければ宗教が政治に拘わることにならない)、これは宗教戦争になります。

別な角度から考えてみますと、聖職者というものは、「宣教」し、信徒を増やし、いずれ日本人の大部分を信者にしたいと思っているはずです。“「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16-15)”、宣教はイエス・キリストのお命じになったことです。いずれカトリック国にしたい、そう思っているはずです、聖職者は。
思っていなければ、おかしい。
10年は無理にしても100年先、500年先、日本人の多くをカトリック信徒にしたい、そう思い、努めているはずです。その為の、自分は一粒の麦であると。
そしてカトリックが日本のメジャーになった時、「政教分離」はどうなるのでしょうか?

自分は縛らない。ある特定の宗派を縛る。その為の条文が「信教の自由」というのは、マンガではないですか?
要は、神道を攻撃する武器として利用できると思っているのでしょう。その為の価値です。なぜなら自分たちはその条文の対象外なのですから。Separation of Church and State ではないのですから。


[資料]政教分離に関連する国会討論
・佐賀補選での創価学会の動き
・宗教法人法の一部改正法案「反対」
・宗教法人法の一部改正法案「賛成」
・創価学会、東村山市の出来事
・教団総帥(池田大作氏)の政治介入

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